あとがき

本書は、私がこの十五年ほど、「政治」について考えてきたこと、書いてきたことの総決算のつもりである。とはいえ、この間の政治的経験の具体性には、直接はとらわれないスタイルで、本書は構成されている。私自身の決算報告が、どうしてこのような独立した政治論の形をとったかは、ここでは何もふれられていない。私の政治論の経験的動機ともいうべき点については、本書のための準備作業でもあった私の前著――『叛乱論』(一九六九年)と『結社と技術』(一九七一年)の参照を求めたい。
したがって、本書は、経験の具体性にとらわれた読み方以外に、独立の一書として、さまざまな読み方をされるものと、私は予想している。
たとえば、「政治」を主人公とした自己形成の遍歴物語として、これが読まれることである。というのも、個々の政治的概念の吟味とは別に、政治の主人公「アジテーター」の遍歴史というスタイルで、一つの政治論を構成しようと、私はかねてから思っていたからである。ただ本書では、形成途上の政治的概念を一つ一つ吟味し確定する仕事を並行してしなければならず、このため、遍歴史の「創作」というスタイルを徹底することが、しばしばさまたげられている。それにもかかわらず、この本が終始一つの「物語」として読まれることを、私は願っている。
もう一つは、いますこし政治的な関心で本書が読まれることも、当然私は予想している。つまり、一定の方法にもとづいた「革命の歴史」のアンソロジー、あるいは「革命の社会学」ないしある種の「革命理論」(階級形成論)という関心である。「政治論」である以上、本書が政治的な関心に耐えうることを願うのは、あたりまえであろう。
けれども、政治理論が本当の意味で「政治的関心に耐えうる」というのは、どういうことか。とりわけ、「革命」のような形成途上の政治的現象について、私が「書く」ということは――どのみち「主観的」な行為たるをまぬがれえないことだが――しかし、どのような方法上の根拠にもとづいているのか。私は本書で、こうした方法の問題をも、あわせて主張したいと思っている。
ともあれ、本書がどのような読まれ方をしようとも、そのさい、私の政治論の構成とそのもとになる方法論とが、ひとを納得させうるかどうか、読者の判断をまつ以外にない。
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それにしても、結局のところ私は気づくのだが、政治について終始私をとらえてきた思考のむかうところは、政治の「リアリズム」はどこに拠点をもつのか、ということだったと思う。「リアリズム」などという手垢のついた言葉をつかったけれども、いわゆるリアル・ポリティクス(現実政治)のことではない。むしろ、裏返していえば、政治の「イデアリズム」はどの点でリアリティをもつのか、という問いと等価のものとして、私はこの言葉を使う。リアリズムといいイデアリズムといい、こんなどうしようもなく紋切り型の言葉を、さしあたっては使わざるをえないところに、むしろ、政治というものの「歴史」のどうしようもなさがあらわれている。
政治的現象は、いつも当事者の「主観主義」と、政治技術や制度の「客観性」という両極端で人目をひいてきた。けれども、この両端は、いずれも私の共同行為のうちから析出・形成される一つの疎外態――「結果としての屍」――にすぎない。当事者の主観性と政治的形成の客観性とが、それを形成する私のうちで織りなす相関のダイナミックスにこそ、むしろ政治に固有の経験がある。政治のリアリティとは、この弁証法のリアリティなのであって、形成された主観性や制度自体の現実性にあるのではない。こうした弁証法は、肉体をもった人間の行為になくてそなわる構造だともいえようが、とりわけ政治的行為の場合に著しい。政治的形成は本来的に受動的なものであり、政治のダイナミックスは私にとっては「蒙られた弁証法」であるしかないが、しかしこのことは、政治的経験におけるこの私の主観性を否定するものではない。共同の行為による自己形成の営みを通じてこそ、政治力学の弁証法は各人の行為に帰ってくる。せんじつめていえば、政治的行為とは、自らが形成した諾形態との闘争――自らの成果とのたわむれである。
過日この国でも、各人の政治的形成への熱狂が、政治における「理想主義」を爆発的に開花させた。「政治の季節」の比喩でいえば、これはまさに「五月の革命」であった。古来、あらゆる民衆の革命は、政治的形成へむけた人びとの理想(主観)主義――「革命のロマンチシズム」というなつかしい言葉(!)――を全面的に解禁する。けれども、この饒舌な季節のうちでも、政治的形成の受動性、「政治のリアリズム」は死にたえるどころではない。美しい「五月の革命」のなかで、その「客観性」を問うべき政治的言語の立場もまた、かえってまぎれもなく成立する。
この意味で、政治の「リアリズム」は、ただ民衆の「イデアリズム」の主観性のうちにのみ、その逆説的な根拠をもっている。そして、政治のリアリズムの立場は、民衆のイデアリズムの饒舌がもつ政治的リアリティを読みとることによって、逆に、自らの政治的立場の主観性をも自覚していくのである。
人びとの行為の主観性と、政治的形成の客観性とのこうした関係は、それ自体が不断に自らを変え、自らを再形成していくものとしてしかありようもない。そうでなければ、関係はスタティークでどうどうめぐりの循環におちいるほかないからだ。政治に根源的につきまとう二元論は、このようにして自らを展開していくのであり、革命という危うい尾根道に沿ってこの展開過程を記述することを、私は仮に「政治の現象学」と名づけたのである。
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政治がいまも主要な人間的事象の一つである以上、そのあらゆる領域に言葉がつきまとう。とりわけ大衆的叛乱の一時期には、政治の地平にあたかも突如として「言葉の領域」が出現するのをみる。かつて私自身も、この領域で政治について「書く」ことをしてきた者の一人だけれども、そのさい、さまざまなレベルでの政治的発言のなかで、私の「書くこと」はどのような位置にあるのか、当然のこと意識せざるをえなかった。
といっても、これは党派的立場やいわゆる「政治的立場」のことではない。政治的立場を否定すると称するありふれた政治的立場も含めて、政治における発言は、おしなべて「敵」と「味方」を二極とする強い磁場のなかに立たされるのだが、けれども、ある政治の言葉はどのような「客観的根拠」から形成され、他の言葉と分岐し対立するようになったものか。この「客観的根拠」とは、卑俗な「下部構造」などではなく、私たちの形成する政治的共同観念の客観性を意味するはずであり、政治的発言につきまとう倫理性を一枚一枚はぎとっていく先には、この客観性の故郷が姿をみせるにちがいない。
私という個人が、一つの政治的立場に別のそれを対置するというのではなく、しかも、まさに形成途上の政治について「書く」という場合、その方法的な拠点はただこのような客観性に据えるしかない。言葉をはじめとした私の政治的観念の諸形態を、その形成の根拠にまでわたって記述することを、くりかえすが、私は「政治の現象学」と名づけたのである。
かつて人びとは、叛乱の圏内で、無際限な言葉の励起に身をまかせていた。そんな事実はなかった、とはいわせない。「政治の季節」ののちになって、ひとはただ忘れたふりをしているだけなのだ。またいつか、なんの方法上のケジメもなしに言葉が散乱するにちがいない。
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さきに私は、「革命の歴史」のアンソロジーとして本書が読まれるかもしれない、と書いた。もとよりアンソロジーの仕方にもいろいろあるけれども、本書の編成は、期せずして、「マルクス-レーニン主義」のエッセンスを抽出した形になったと、私は感じている。政治の「リアリズム」をその「イデアリズム」と等価のところで扱うとも、さきに私は書いたが、「リアリズム=イデアリズム」という政治の見果てぬ夢は、かつてマルクスやレーニンの名と結びついて描かれたものであった。本書に記述した内容は、この夢の「最後のチャンス」だと、私は思っている。こんないい方をしても、傲岸な気持など私にはすこしもない。政治の現実はなおどのようにもなりうるだろうが、理論のうえでは今後とも、私の記述を崩すような政治的経験は現われないにちがいない。
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もともと本書の題名と構想だけは、『叛乱論』の直後から頭のなかにあった。原稿は、一九七四年の末にできあがっていたけれども、出版事情が悪く、二年以上、原稿は陽の目をみることができなかった。今回、田畑書店の石田明氏のおかげで、ようやく出版にこぎつけることができた。
出版にさいして、二年ぶりで旧稿を読み返し、最小限表現上の補正をほどこしたけれども、根本から削除したりつけ加えたりすべきことは、なにもみつからなかった。ただこの間、私にとっての「他者たち」は確実に遠ざかり、抽象化していった。私はこの事態を歓迎しないわけではない。著作にたいする「読者の反応」などという関係は、まるで想定することもできず、私はいま、一人よがりの加害の矢のように、本書を射かけるだけだ。ただ私の思念の凝りのなかで他者たちという抽象に本書がつきささる。
私は、この本で文字どおり終始、人びとの共同性だけに注意をはらっているけれども、これを書きながら、私自身はあらゆる共同性の夢からは遠いところにいた。私の自閉によって不義理をかけた人びとに、本書を捧げたい。
また最後に、本書の執筆を助けていただいた中央公論社の中井毬栄氏、出版の労をとっていただいた石田明氏に感謝したい。
一九七七年一月 長崎浩