政治の現象学 第3章 政治的経験

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第三章 政治的経験


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第三章 政治的経験


第一節 敵の再発見


一 反乱世界に侵攻してくる敵との敵対を私は観念的に絶対化する

革命は来たるべき勝利の日には、今度こそ賢明に行動するであろうか? それとも、これまで常に敗北のなかからより恐ろしい姿になって立ち現われるのを革命が許してきた、あの悪霊にまたしても慈悲を与えてしまうだろうか?(1)

 史上、反乱の運命は、数日からたかだか数カ月のものにすぎない。この短い期間に、反乱はさまざまの深度で革命の問題に不可避的につきあたる。そして「来たるべき勝利の日」へむけた反乱の深度は、その持続期間の長さに比例しているわけではない。反乱において大衆が歴史にうがつ軌跡の深さはさまざまであり、いずれもたかだか数カ月で、急速におのおのの臨界にまで登りつめていくことに変りはない。レーニンがくりかえしたロベスピエールの次の言葉、つまり「現在の革命は数日のうちに人類のこれまでの全歴史が生みだしたものよりも多くのものを生みだした」ということが真実だとしたら、この短い加速期間に、反乱が歴史に切り込む深度のメルクマールを確定することが大切だ。
 私は、自分が書こうとしているものが、この革命の短い運命についての物語であることを意識している。そして、およそ革命なるものが、群集の狂躁によってたんに歴史の表層をひっかいて過ぎるものでしかないかどうかを、私の物語のうちに検証し確定したいと願っている。日常や生活過程における政治世界ではなく、「スペインの短い夏」に加速度的に臨界に達する政治の形成史だけが、いまは問題とされているのである。
 「革命は、今度こそ賢明に行動するであろうか?」――決起した民衆が街路を埋めつくした反乱の日々ののちに、ふたたびもどってきた日常の秩序のなかで、これまで幾度となくこのような問いが発せられた。前章で「内面への過度の逸脱」と呼ばれた反乱世界の論理からすれば、この世界の終焉などはいつも信じがたいような気がする。なぜならこの世界は、そもそも未来に向けて持続していくというような歴史的時間の論理をもたなかったからだ。ところがもちろん、歴史的現在は反乱世界の外でその歩みを止めたわけではない。だから、反乱の有頂天の日々に、ある日それは、ふいに横あいから、アジテーターたちの意識の切れ目に登場するのだ。
 反乱世界の時空構造に横あいから侵攻してくる歴史的現実は、直接的には、反乱世界にたいする外部の敵という姿で現われてくる。
 私の「敵」!――たしかにひるがえってみれば、私は具体的な敵の攻撃に迫られ挑発されたからこそ、反乱へと促されたのだった! 私の反乱集団に敵対する敵の集団は、私たちがまさに反乱世界を形成するさいの、否定的で偶然的な契機であった。けれどもあれから、反乱の自己形成へむけた私の過度の熱中は、私たちを最初の敵からずいぶんと遠くまで運んできてしまっている。だから反乱世界の内的生活では、敵の具体的存在はあたかも忘れられたみたいになっていた。ときたま念頭をよぎる敵の姿も、ほとんどいつも匿名のままである。たとえば――

敵はどこにいるか? この物語のなかではそれはいつも、ちらりと視野の片隅に顔を覗かせるにすぎない。窓辺でちらちら動く、機関銃の背後の黒点。バリケードの向こう側の影。事務室のなかの老人。ざんごうのなかのシルエット。ほとんどいつでも、敵は匿名のままである。(2)

 だがむろん、反乱世界はその敵を忘れてしまったのではない。「バリケードの向こう側の影」を通して、敵の存在は一つの不安の形をとって反乱世界をおびやかしている――というだけのことでもない。反乱は、まさに自らの世界思念に見合った敵の観念を、現に形象しているのである。ここで私の敵とは、端的に私の世界の「外の世界」である。前章の証言でも、反乱集団の外部に残っているものは「何かしら別世界にぞくするように」思われるのだった。この境界外の世界は、「いまやあらゆる色彩が混合して、ただ一つの灰色がかったピンクの保護色に化して」みえる。
 さらにまた次のような発言をみよう。

「俺は全くかんたんだと思うんだが――ところでしかし俺はいい教育をうけていないんだ。ただ二つの階級だけがあるように思うんだ。ただ二つの階級だけがあるように思うんだ。プロレタリアートとブルジョアジー――」
「君のばかげた公式がまたでてきた!」
「――ただ二つの階級だけが。で、一方の側にいない者はだれでもみんな別の側にいるわけなんだ……」(3)

 これは、ロシア革命における街頭の一会話である。敵としての「ブルジョアジー」はここではもはや、私たちの集団形成のたんなる偶然的契機とは考えられていない。私たちの集団が「プロレタリアート」の世界として思念されることに対応して、私たちの敵もまた、この世界外の存在――むしろ端的に世界の否定者――として観念されているのである。「一方の側にいないものはだれでもみんな別の側にいる」といわれているように、敵は反乱世界と宇宙を二分して、この世界に対立するものとなっている。
 考えてみればこの私は、目前の具体的な反乱行為を、同時に「世直しの神」の行為のごとくに観念的に肥大化させ、かくて私の集団を反乱世界とまで絶対視したのだった。だからこの過程はその否定として、敵の存在をも心的に絶対化するのである。私たちの行為の一つ一つにたいする具体的敵対は、たんに偶然的契機だったかにみなされ、いまや敵は私たちの共同観念の敵対者となることによって、反乱世界の絶対的否定と観念される。かつて「バリケードの腹の中」の世界が「悪魔の世界」にたいして聖化されたことを想起しよう。このような敵対関係の絶対化は、宗教的反乱などではまったくありふれたことだといってよい。いずれも、反乱世界の心性が自己を神話的・ユートピア的に絶対視することによってこそ生じる現象である。
 ことわっておくが、ここでいう敵の観念的絶対化とは、敵の力量の絶対的過大評価を意味するのではない。ただ私たちの世界の絶対的否定として敵をも絶対化するのであって、実際上は常に敵を重視するものだとはかぎらない。のちに例示するように、敵の絶対視は現実にはしばしば敵の絶対的軽視という形をとるのである。この場合にも、意気軒昂たる反乱集団が、自らの力量を絶対のものと思いこむ代償として敵の力量が――その実際には無頓着に――絶対的に軽蔑されているのである。
 こうして、反乱世界では、形成されたばかりの私の集団がただちに世界にまで逸脱されたように当初の敵集団の歴史的で具体的な姿も、かえって消える。私の敵は軍隊とか警察でなく、端的に敵の世界――「ブルジョアジー」等々だ。敵の存在が「ほとんどいつも匿名のまま」だというのも、まさにこのことである。
 だがもちろん、反乱の敵はいつまでも「匿名のまま」にとどまってはいない。現に敵は目に見える集団の形をとって、反撃と弾圧にのりだしてくる。アジテーターたちの意識の切れ目から、いまや敵の侵攻がはっきりと見えてくる。私の集団は、ふたたび集団として敵対的闘争の場面にたたねばならぬ。
 けれども、このようにして再発見された敵との闘争は、以前とはなんと様相を異にしていることだろう。反乱世界からひるがえってみれば、最初の戦闘は、くりかえすが、この世界形成の偶然的で否定的な契機にすぎなかった。だがいまや、目前の敵は私にとって絶対的な敵――私の絶対的他者――である。私の反乱世界の時空構造に対比すれば、敵の攻撃はまさに異次元の世界の侵攻のようにみえる。もしもこの闘争に勝利しなければ、端的に私の世界が滅ぶのだ。
 かくて、この私によって、新たな敵との闘争は、絶対視された二元的対立――相互の絶対的否定――の闘いとみなされる。「決定的な闘争」であり、「聖戦」である。ヘーゲル流にいえば、こうなる――「敵とはこのような異相であり、この異相は、互いに関連づければ、同時に諸対立の存在に対する反対物としてあり、敵の否定としてある。そして双方の側に同時に成り立つこの否定が、闘争の危険なのである。」
 このようにして、反乱の発端がどのように些細で偶然的な対立だったとしても――実際史上大衆の反乱はその必然性などをもたない――、この対立は私によって絶対化される。その後政治の世界を最後まで貫徹してやまない、一種マニ教的二元論は、ここにその発生の根拠をもっているのである。反乱の前史がそうであったように、たんにことが私たちの「利害の対立」に終始したのであれば、妥協や「政治的解決」によって「敵」と共存することだって充分ありえただろう。いや、むしろそれが日常の社会であり、政治世界というものだ。だが、敵対行為が心的にもこの世への反乱となった以上、私は自分のつくりだしたマニ教に自分で結着をつけねばならない。
 それゆえ、いまこの絶対的な闘争の場面ではじめて、私はただ反乱世界を生きるのではなく、生きつづけるために闘わねばならなくなる。異次元の敵世界の侵攻に抗して、自ら存続し、自らを拡大していく以外に、生きてはいけない自分を発見するのである。反乱などしでかしたことを、もはや悔いてもはじまらない。死を望まぬ以上、私はいま後もどり不可能な政治の遍歴に出立するのであり、この不可逆的な道程こそ、反乱集団が敵との闘争を通じて自らを再発見し、再形成していく長い道行きとなるであろう。
 ところで、ここにあらかじめ注意しておくべきことがある。私の政治的遍歴への出発は、私が自ら望んだことではないということだ。なぜなら、もともと反乱世界の時空構造には、自ら「存続し・拡大する」という論理はないからだ。政治的遍歴といえば、むろん歴史的な時空のなかを歩く以外にないが、反乱世界に生きることは、基本的にこの時空の外にあることだった。だからこそ、歴史的世界、異次元の世界が、敵の姿をとって、この私に侵攻してくるのだとさきにいわれたのである。
 それゆえ、反乱集団の政治的経験への出発は、自己を否定する敵を通じて、ただ「外」から促されるのだ。反乱世界はその内部にどのように「矛盾」をかかえていても、それによって「必然的」に政治へと促されるのではない。
 こうしたことは、やがてくりかえし明らかになるように、政治的形成の本来的な受動性を意味している。もしも、天文学的宇宙のように、その「外側」の世界との衝突という経験を本来まぬがれているものなら、反乱世界の自足も完璧なものとなるであろう。事実、神話的世界の表象が同時に政治秩序でもあった社会では、その孤立した存続も長きにわたったのである。


二 目前の敵と絶対化された敵とに私の敵のイメージは二極化する

 さて、ふたたび敵の再発見の現場にもどろう。私はいまや、絶対化された敵世界との敵対的闘争の場面にいる。しかし、政治的経験の冒頭で生起したこの敵の観念的絶対化は、その後の全経験史を通じて私につきまとってやまない、一個のパラドックスを反乱集団にもたらすことになる。それというのも、どのように敵を絶対視していても、私の実際の闘争場面では、敵は目前の卑近で具体的な集団の姿で現われる以外にはないからだ。敵は少しも匿名のものではない。反乱が局地的なものであればこの傾向は著しいであろうが、たとえ「全国的」な革命的騒擾といえども、事態は変らない。全国的にいえば、闘いは事実として「二大階級」の階級闘争として展開されていても、この私にとっての闘いは、あくまで工場の壁ぎわや谷あいでの戦闘の連鎖としてしか現象してこない。
 それゆえ、反乱世界に属する一人の私にとっては、絶対的他者たちはあくまで私の行動(身体)の否定として、具体的敵対行動の姿で、目前に現象してくる以外にない。たしかに、私は反乱世界の共同観念のなかでこれと同じレベルで或る絶対化された敵の形象をつくりあげていたであろう。たとえばそれは、醜悪な怪物として人格化されていたかも知れない。全人類の敵のごとく形象されていたかも知れない。けれども、全人類の敵なるものが、実体として存在するわけはないから、この形象が現実の敵の行動と重ならないのは当然である。

 おそれながら天朝様に敵対するから加勢しろ。(4)

 このように叫んだ農民アジテーターといえども、実際に何に「敵対」するのかといえば、彼らが日常的によく見知っている村内の高利貸にたいして、「負債の返却延期」を迫るという行動でしかないのである。
 このような事実は、反乱集団の敵がいま、絶対的に観念された敵――「天朝様」――と、現実の敵対行動を通じた目前の敵――「下吉田村の高利貸吉川宮次郎」――の存在とに、二極的に分裂した姿で現象していることを示している。これは反乱の集団にとって、滑稽にもゆゆしい問題である。
 政治を知っていると称する現代の人びとは、このように滑稽な場面を一笑にふすか、そうでなければなんとか知的につじつまを合せようとする。目前の敵を通じて絶対的な敵が現われているのだとか、あるいは目前の敵との「個別闘争」ではだめで、「全人民的な政治闘争」にとりくむべきだとかいうようにである。だが、いま私の闘争における「二つの敵」の存在は、パラドックスではあっても、なんら「意識の遅れ」でも錯誤なのでもない。
 ここで、反乱の共同観念の著しさを想起する必要がある。ひとは、なおこの観念として現実に(!)闘っているのだ。それが外部からみて文字どおりどんなにドン・キホーテに見えようとも、それが彼の現実なのであり、そこにはなんら牽強付会の類はない。ただ彼のうちでは、これらの二極が敵の権力構造総体のうちに、具体的に統一されていないというにすぎないのである。そしてこうした敵イメージの統一こそ、最終的に「二重権力状況」をつくりだすにいたるまで、私の経験史の長い歩みが自らつくりだしていかねばならぬことなのである。
 敵の姿が構造的に統一されては見えないことは、この段階では期せずして敵側の事情にも見合ったことだといってよい。私は敵を世界として表象しているけれども、実際に敵側が世界として統一されているかどうかは、いまの私にはわからないのだ。目前の敵集団は、確然たる「ブルジョア世界」のゲバルト部隊であるかもしれない。しかし逆に、反乱鎮圧に出動してくる敵が、しばしば民衆の嘲笑にあったり民衆側に寝返ったりする。だからひょっとすると、敵世界もまたわが方と同様の混乱に見舞われているのかもしれない。それこそが、私たちの反乱による「否定の迫力」が敵におよぼした効果ではないか。
 結局、せんじつめていえば、私の敵が実際に誰であるかを統一的に措定することは、客観的にみても不可能なのだ。私を鎮圧にくる敵たちが、私とは異なる性格や倫理をもった、「別の人間」かどうかも実際にはわからない。もちろん、たとえば十八、九世紀的意味でプロレタリアが別の生活世界のブルジョアを敵対者として発見するというように、最初から敵味方が截然と二分しうるということもありうる。しかし一般には、敵対者は、昨日まで共に生活していた隣人や肉親の一人であるかも知れない。再発見された敵は、当面、その存在性格・組織性格をなんら一つに、具体的に規定されてはいない。反乱世界の私自身、昨日反乱のただ中で、別の自己に再生し、別の自己を再発見したのであり、この再生にあずからない隣人を、今日は境界の向う側に発見したとしてもなんの不思議もない。実際――

ほとんどいつでも、敵は匿名のままである。と同時に、いつでも、どこにでもいる。それは妄想の産物ではない。革命と戦争とは違っている。軍事上の敵に勝つだけでなく、みずからが生きている社会を変革することを意志する人間にとっては、主戦場の戦線は、味方と敵とを截然と二分して見せる一線ではないのだ。(5)

 私の観念する「敵世界」のこうした内部事情が、反乱世界形成の途上におけるこの私の匿名性ということに、まさに対応した事柄であることはすでに明らかであろう。私自身が、自分とは「どういう人々であろうか」とたずねているように、敵が誰であるかは敵自身にとってもなおわからないのだ。
 だから、敵対者が当面軍隊といった画然たるゲバルト集団として登場する場合でも、それは事態の一角にすぎない。敵もまた、反乱世界に敵対されて、内部は権力秩序の混乱と再編の気運に満ちている。この気運こそが、敵世界の諸集団をも自覚的に構成させていくものとなる。逆説的にも、敵の諸集団も、反乱によって(反乱の集団を媒介にして)、自らをこの世の権力構造として、再発見するのだ。
 だから、敵の姿が構造的に統一されて見えないことは、この段階では反乱の知的盲目のせいなのではけっしてなく、敵自体が、反乱に挑発されて事実敵となるという過程を反映していることなのだ。反乱とその敵の世界が、それぞれに闘争を通じて、激しく揺らぎつつ自己自身に成っていく過程こそ、まさしく反乱が革命へと加速されていく事態の内的メルクマールなのである。すなわち、フランス革命の七月十四日、事態を「これは反乱だ」と見るルイ十六世にたいして、一重臣が進言したように、「いや、これは革命でございます」ということなのである。また、トロツキーの演説がいうように、「生起したことは反乱であって、陰謀ではない」ことのメルクマールが、ここにある。*

*こうしたことは、ヘーゲルではないが敵対関係の相互性からして当然といえば当然である。私は本書の記述を、従来の支配権力にたいする反乱からはじめたし、今後も主として革命に題材を選んでいくだろう。しかし、本章以降の政治的経験史の全記述は、けっして反乱や革命の経験にのみ限定されはしない。いくつかの実際上の留保をつければ、反乱の敵側における「この私」の政治的経験史としても、本書はまったく同様にたどっていくことができる。政治的経験史を「読む」立場――たとえば「読者」や「党」――にとっては、これから私の政治的経験のそのつど、私の敵側の事情をも念頭に浮べてみることは有益であろう。それに、本書全体は、革命を「軍隊の戦争」と考える、ぬきがたい傾向を崩す努力となっていくであろう。


三 私の敵を否定的な媒介として私は再び私たちの集団を発見する

 反乱集団のまえに出現する敵の集団は、それ自体を客観的に観察するならば、以上にみたような流動的な性格のものでしかない。けれどもいずれの場合にも、いま反乱世界の私によって再発見された敵は、私の絶対的否定者として観念されることに変りはない。目前の敵の姿をとって、絶対化された敵が出現し、同時に目前の卑近な敵は、反乱世界の共同観念のフィルターを通して絶対の色彩を帯びている。現実の敵もまた、反乱世界の内面的統一の絶対性によって、その否定として絶対化される。そして、このように再発見された敵が、いまや逆に、私たちの以前の共同世界にある根本的な変容をもたらすのだ。
 ふたたび、反乱世界に属するこの一人の私に注目しよう。かつて私は、反乱の行動へと決起するなかで、かたわらに同行者としての他者を発見した。そして彼との相互性の弁証法は、ついには私たちの集団=反乱世界を形成せしめたのだった。かくてこの一人の私は、いまでは反乱世界の一員――共同的個人――として存在しているのである。
 しかしこのような私が、こんどは私の面前に、私の敵対者としての他者を発見し、これに直面しているのである。敵はたとえば私たちの行動を弾圧しようとして出動してくる。

 暁のふところの中に機動隊が居た!(6)

 だから私が、バリケード世界の外の朝もやの中に出動してくる敵を発見することは、まさに私が、この敵対者=他者の行動において否定されるのを発見することなのだ。この発見はただちに逆に私自身に帰ってくる。すなわち、かつて私に同行する他者を通じて、他者と同等なものとしての私を発見したのと同じように、だがこんどは、私の敵対者における私の行動の否定を通じて、私は敵対者ならざるものとしての私を発見する。これはまさに否定の否定としての私の再発見である。以前ならば、他者におけるこの私の否定は、私を共同行動の否定としての孤独に突き落したであろう。しかしいまは、私は任意の一人の行動者なのではなく、すでに反乱世界の共同的個人として形成されている。
 それゆえ、敵対者によって否定されるのは一人の私の行動ではなく、反乱世界の私たちの行動の社会的スタイル、すなわち私たちの集団そのものなのである。だからこそ、否定の否定を通じて再発見されたのはじつはこの私ではなく、私たちなのだ。
 ここに、敵対者の存在が集団の再発見を媒介する独自の契機が明らかとなっている。私たちは、私たちの否定としての敵を再発見することによって、この否定を否定して、自分たちの集団を再発見するのである。私たちは味方という自己規定をうけとることになる。
 くりかえすけれども、反乱世界自体の媒介構造は、アジテーターの行動を中軸とした、あくまで世界内の弁証法であって、この弁証法そのものには、敵対的矛盾を媒介とする構造はみられなかった。反乱世界での共同性が集団ではあっても、内部秩序をもった組織ではなかった事実の根本的要因がここにある。一言でいって、反乱世界の集団は、なお本質的に対自的な集団=組織ではなかったのだ。前章の反乱世界の形成が前反省的なプロセスであり、したがって組織の形成を主題化しえなかったのはこの理由による。
 それゆえ、反乱世界による外敵の再発見は、私の共同性の対自化=組織化をもたらすものとしてこそ、まったく新しい出来事である。いいかえれば、この出来事の真の意味は、実は、敵の発見やそれとの闘争という点にあるのではなく、私たちの視線をいまやまともに私たち自身に向けさせる点にあるのだ。敵対者ならざる者としての私(たち)の対自化が、集団それ自体の自覚的反省をもたらす。
 このように、対敵存在として自己反省された反乱の集団を、私は政治的組織とも呼ぶことにしよう。そしていまから、対敵存在(味方)としての集団=組織の長い政治的経験の道行が開始されるのである。反乱への大衆的決起の一定段階で、アジテーターたちが次のように、自分たち自身への反省を促すということが起るのであり、これは彼らの政治的遍歴史において、今後も事あるたびに聞かれる言葉となろう。

いまやわれわれの闘いは、大きな岐路に、おおいなる試練の場に立とうとしている。もてる全理知と全情熱と全神経とを闘いのこの瞬間に集中せよ!
デモに参加すること白体に意義を見いだし、集会で発言することに喜びをひとしおにしてきた闘いの季節は、いままさに終ろうとしている。いままでの数倍も、いや数十倍も苦しく、しかし、それ故に無限の躍動と可能性をはらんだ季節が訪れようとしているのだ。(7)


第二節 政治的経験


一 私は敵対関係を集団的に内面化し私の政治的経験史を始動させる

 これまでにも私は、ときおり「政治」とか「政治的」とかいう言葉を使ってきたが、それはたんに便宜上のことにすぎなかった。アジテーターと大衆の分立や反乱世界それ自体は、私の考えでは固有の意味での「政治的なもの」には属さない。むしろそれらは反政治的なものとして、私たちが政治的なものを意識的に限定していく際の、土台をなすものと私は考えてきた。そこで、しかしいまや、闘争を介した現実的な敵の再発見、その帰結としての反乱の組織化、というこの段階で政治的なものの最初の定義(限定)を確保することが必要となっている。
 以前、別のところで、私は政治的経験について次のように書いた。「権力にたいする各人の体験が、ただちに〈政治〉の経験だといわれるわけではない。それは、この経験が個別的な生の体験の次元にとどまっているからなのではなく、経験がなお一般的意志(スローガン)と抽象的な名辞(階級)へと構成されていないからだ」* と。しかしこの定義については、個的経験が共同のスローガンと組織の経験へと構成される決定的契機として、現実の敵に直面してある、という事実が強調されねばならない。
*私の『結社と技術』、前掲
 第一章で述べたように、反乱での私の行動が、一定の行動スタイル・言葉を共有した集団となる過程そのものは、あくまで私たちの共同行動自身の所産であった。だがそれゆえにこそ、私の行動の意味を集団の共同性が超越し、私の行動が集団へ外化(他有化)する契機は、なんら決定的なものとはならないのであった。いわば私の集団は、一つの反乱の期間を超えて生き延びることはなかったのである。だが、反乱という反歴史的世界のただなかに、「持続し・拡大する」という、新たな歴史的時空を創出せねばならぬ集団=組織においてはじめて、組織が個的経験の意味を超越する契機は決定的となる。
 そこで、あらためて政治的経験の意味を次のように規定することから出発しよう。大衆反乱における私の経験が、反乱の敵対者から自らを区別し、味方としての共同の自己確認のもとに集団として構成・統合されていく過程を、私の政治的経験という。そしてこのように、敵前で自らの共同性を反省する集団を、ここで政治的組織とみなすことにしよう。
 いま私の記述は、その定義すらすべて論争の種となる、政治的用語のジャングルに足をつっこみかけている。しかし、足手まといをはらい、このジャングルに道をつけることは、たとえ可能だとしても、いつも有益だとはかぎらない。私は自分の道のつけ方が特殊なものであり、アリストテレス以来(?)の「政治学」の蓄積からみれば、恣意的なやり口とすらうつるかも知れないと思う。すでに政治的な経験の最初の定義の段階でこの点が問題とされうるだろう。
 けれども、既成の政治世界のありふれた現象と比較して、このプリミティブな私の政治的経験の規定を、あげつらうことはいまは必要でない。アジテーターの経験に現象する限りでの政治を、私はこれから記述していこうとしているのである。だからここでは、政治はなにか与えられたものでも受けとるものでもなく、私自らが創りだし、また自ら創りだした「成果」と「たわむれ」ていく経験の過程である。一言でいって、私たちの行為はある共同の相のもとで政治的なものとなっていくのだ。
 日常的に再生産される政治的諸形態や政治現象ではなく、政治的なるものの概念をただ生成(形成)するものとしてのみ考える立場は、カール・シュミットなど、一九二○年代の政治学者によってすでに表明されている。シュミットにとっては、社会的諸集団は、敵にたいして自己を味方として峻別する局面でのみ、政治的なものとなる。「マルクス主義的意味での『階級』さえも、それが、この決定的段階に到達するばあい、すなわちそれが階級『闘争』を真剣に行ない、相手階級を実際の敵として扱って、国家対国家であれ、一国家内部の内乱であれ、それと戦うばあいには、純粋に経済的なものであることをやめて政治的勢力となるのである。」*
 またシュミットのこの本と同じく、ヨーロッパ二○年代末に出たカール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』も、型通りに運ばれる国家生活、すなわち「行政」との対立において政治をとらえている。さらにここで政治は、行政的に処理しうる「合理化された領域」にではなく、「まだ合理化されない活動範囲が現われ、規則に定められていない状況が決断をせまる場合にはじめて考えられる」行為の領域でとらえられている。**
*カール・シュミット『政治的なるものの概念』(田中浩・原田武雄訳、未来社)
**マンハイム、前掲書
 しかしそれにしても、敵前での私の集団的経験を、とくに「政治的」と名づける理由はどこにあるだろうか。さきの政治的経験の規定そのものは、これまで私の記述してきたアジテーターの経験史にとくに新しい内容をつけ加えるものでなく、アジテーターの敵前における経験をたんに政治的と名づけたにすぎないように思われよう。だが、反乱世界における大衆の行動形態のカオスを、いわば振り切って反乱の集団が頭角を現わし、そうすることによって敵をも味方をも再発見する経験の局面で、この経験の帰結はまさに、通常の意味での政治的内容をただちに展開していくであろう。
 第一の帰結は、政治的経験の規定自体に含まれていることだが、敵前において、味方としての集団の結束を自覚的に強化することである。
 たとえば一つのシーンを想像してみよう。反乱は私たちの一定の勝利――ある地域の占拠等――をもって夜を迎える。敵は彼方の闇に沈んで見えず、私たちの共同存在はいまここに沸騰状態を呈している。自発的に部署の分担がなされ、私はバリケードの一角に歩哨に立つ。昼間の戦闘における敵の姿は消え、ただ敵は前方の闇を通じて不安の形で私に迫ってくる。しかし不安は、ただ前方の敵の存在からくるだけではない。私がこうしてここに立つ問、味方はどこにいるか。共同の戦闘行動が止んだいま、他者たちを私の同等者として保証するものは何か。どこか見えない所で、銃をかまえているもう一人の歩哨が、私を裏切ることはないか。
 だから、反乱は、集団が持続とともに拡散することを防止する手だてをもたねばならない。けれどもそれは、何か道具のごときを外から持ち込むことによってできるものではない。手だては私たちのこの集団そのものにしかない。こうして、反乱の夜の大衆集会が招集されることになる。実際、集団が軍隊のごとく制度化されてはいないこの段階で、集団そのものの対自的把握は、ただ各人が自己を味方として反省する過程を通じて以外にない。だから、夜は会議につぐ会議(「総括会議」!)、いいかえれば、言葉・言葉そしてまた言葉としてあるしかない。
 こうして、大革命のときはもちろん、一八三○年にも四八年にも、そして一八七○年にも、反乱直後から、さながら雨後の筍のように、パリで「民衆クラブ」が誕生する。* 夜毎開催されるクラブの一つは、今夜たとえばこんなふうだった――

私はたまたま人民の友の集会に出ていました。劇場を思わせる狭い部屋に四、五百人以上の人がぎっしりつまっていました。国民公会議員の息子ブランキ氏がブルジョア階級を嘲罵する長い演説をしました。商店主たちは〈商店の権化〉ルイ=フィリップを国王に選んだが、それは自分の利益のためであって人民のためではない。人民は〈こんな下劣な簒奪者の共犯者ではないのだ〉と、力強い、清廉な、怒りに充ちた演説でした。
若い人も年寄りも、〈人民の友〉の部屋では、みんなまじめで堂々としていました。自分の力に自信のある人はいつでもそういう態度をとるものです。ただ、目だけはキラキラ光っていました。演説者がなにか言うと、聴衆は何度も〈そうだ、そうだ〉と叫ぶのでした。(8)

 そして今夜、長い演説をした「ブランキ氏」は、結論として、次のようにしめくくったかもしれない。

敵と直面した今、党派もなければ意見の相異もない。国民を裏切った権力への支持はありえない。一切の対立、一切の軋礫は、国民共通の救済の前に消え失せるべきである。
敵はただ一つ、プロシャ人とその共犯者、すなわちプロシャ人の銃剣によりパリに秩序を強制せんとした失墜せる王朝の護持者、それしかない。
われらの直面するこの至高なる時に、いかなるものであれ個人的感情を抱くことは許されぬ。(9)
*たとえば一八四八年の二月革命後の一カ月間に、二百五十ものクラブがパリで開かれ、この数がたちまち五百近くまで達した。ジェフロワ『幽閉者』(野沢協・加藤節子訳、現代思潮社)参照
 パリの民衆クラブでおこなわれたこの一アジテーターの発言には、敵を否定的鏡として味方の結束を求める意向がはっきりとでている。これは、プリミティブな政治的アジテーションの典型だといってよい。まず、目前の敵のさまざまな敵対行動が、「敵はただ一つ――プロシャ人とその共犯者」というように唯一的に指定され絶対視される。そして次に、このような「敵と直面した今」や、私たちは自己を味方として決定的に均一化しなければならないといわれる。反乱世界の内部は、私たちの履歴のみならず行動様式も個々に雑多なものだったが、いまや混乱は「一切の対立・一切の軋礫」とともに「消え失せるべきである」。しかもそれだけではない。反乱世界に.生きることにかまけていた各人は、もはや、「いかなるものであれ個人的感情を抱くことは許されない」。
 このように、敵対的闘争の経験は、端的に私の「共同的自己確認」として私たちに内面化される。この内面的な経験こそが、反乱世界をふたたび一つの集団(組織)へ、と強く収斂させるのであり、私の政治的経験がこのようにして動きはじめるのだ。


二 絶対的な敵に直面したいま私たちは集団へと絶対的に結束する

 味方としての私の「共同的自己確認」は、古来集団の盟約として敵前でとりおこなわれてきたことにほかならない――「球戯場の誓い」。のちに具体的にみるように、盟約は通常目前の敵にたいする共同行動の約定だが、個々人を味方として互いに確認する経験が、その基礎になっていることはいうまでもない。だから、最初の著しい政治的経験のレベルでは、盟約はたんなる行動の約定をはるかに超えて、しばしば私の全人格にまでおよぶことになる。

共和制の名において、私はすべての王、すべての貴族、すべての人類の抑圧者に対する限りなき憎悪を誓う。私は人民に対する絶対の忠誠を、貴族たちを除くすべての人々に対する友愛を誓い、裏切者を懲罰することを誓う。私はわが生命を捧げることを、わが犠牲が人民の主権と平等による支配を到来させるために必要とあらば、処刑台にのぼることをも誓約する。
もし私がこの誓いを破るならば、裏切者には死をもって罰せられ、この短刀で突き刺されんことを。もし私が、誰であれ、たとい近親者にもせよ、結社の一員でない者にいささかでも漏らしたとしたら、私は裏切者として扱われることに同意する。(10)

 明らかにこの誓約には、反乱集団が敵との敵対的闘争を絶対化するという事情が働いている。たんに闘いが「必要とする」盟約ならば、「必要な対策」としてたてることもできる。その場合は、日常の政治世界でしばしば観察されるように、私は私の敵に「限りなき憎悪」をまで抱く必要はない――戦争ですら、私は敵を殺すが敵を個人的に憎むとはかぎらない。けれども、ここ政治的経験では、敵は「人民にたいする絶対の忠誠を誓う」私の敵である。だからこそ、私の集団にたいする反省は、たんに行動や組織制度を整えることとしてではなく、はるかに心的に、絶対的に、私を私の集団へと収斂させるのだ。さきに、秘密結社の制度への偏執は心的にしか理解しえないといわれたことを、ここに想起しよう。いま引いた盟約の例は、まさに一つの秘密結社でとりおこなわれたものであった。
 反乱世界の共同規範性も、いまや政治的規範、すなわち規律として、以前とは性格を変えていく。私は以前のように心的に強くこの世界のものであるにとどまらず、一つの集団意志のもとに交わされた盟約は、行動の統一から私たちの行動様式全般の規制をももたらすようになる。反乱世界の規範がなによりも共同の観念の規範であり、民衆各人の行動形態は画一的なものの反対であったのに比べて、組織の盟約は形式的にも集団の内的秩序を確立していこうとする。集団が敵対的闘争を通じて、いわば名実ともに、味方としての結集を強化していく志向性が生れるのである。
 おそらく、政治的組織が秘密結社でしかありえなかった時代だけでなく、現代といえども、この集団的結束への志向は限度を知らないであろう。政治的経験の著しさがまさにここにある。
 かつてカール・シュミットが、組織体相互の敵味方の峻別という事実に、「政治的なもの」のメルクマールをおいたとき、彼の主要な帰結の一つは、敵に直面した組織の、政治的単位体としての決定的統一ということにあった。そしてこの『政治的なるものの概念』(一九二七年)においては、決定的統一体としての政治的単位は、なによりも国家であった。しかしその後、政治的なものの力点は、国家から革命の党派へと移されていく。「革命戦争において、革命的党派への帰属は、たんなる個別集団への所属ではなく人格のトータルな把握を意味している。それとは別の集団や団体、とくに今日の国家は、その成員や所属員を、革命的闘争を行なう党派がその活動的な闘争者を把握しているほどトータルに、全人格を把握することはできない。いわゆる全体国家についての彪大な議論において、今日、国家そのものではなく、革命的党派そのものが、固有の、実際唯一の全体主義的な組織であるという意識はまだ生じてこなかった」と。*
*カール・シュミット「パルチザンの理論」(新田邦夫訳、平凡社『政治的人間』に収録)
 さて、以上のような私の集団内的経験は、ただちにふたたび敵との敵対関係の現場に帰ってくる。――前にもまして敵対的関係は絶対化されるのだ。思いだすまでもなくアジテーターを媒介にした反乱集団の形成では、アジテーターとは集団各人の規格であった。だから、私の集団が形成されたこと自体はいわば偶然のことであった。いいかえれば、敵集団をも含めて一般に他の集団にたいして、反省的に自らの集団を定立するということは、そこでは起りようもなかったのである。
 だがいまや、「敵にたいする集団」という新たな媒介関係は、いうまでもなく、アジテーターと集団成員の媒介関係のごとく交換可換の関係ではありえない。関係は現実の闘争として敵味方の明確な二元的対立であり、この対立は、このままでは、相手の現実的抹殺(死)によってしか解決不可能である。アジテーターと大衆の死闘といったとき、この言葉(死闘)には、敵味方の死を賭した戦いという意味は当然のことながら何もない。しかし、反乱集団とその敵との死闘というときは、そこにもはや比喩的なものは何もない。「奴は敵だ、奴を殺せ」――シュミットのいうように、ここに政治的なもののもっとも恐るべき帰結がある。


三 私たちの団結が集団を分裂させ反乱世界は諸集団へと分化する

 敵前で味方の結束を強化するという私の政治的経験は、しかしその冒頭でただちに、一見まったく逆方向の事件に遭遇する。
 いままで私は、反乱世界に外部から侵攻してくる敵にたいして、反乱世界の共同性を、私の集団=組織として再内面化しようとしてきた。これは、敵を否定的鏡として、まともに私たちの共同性を直視することだったが、その結果、敵は私たちの内部にも存在することが発見される。私は味方に、敵と直面した今、「一切の対立、一切の軋礫は消えうせよ」と呼びかけたのだが、まさにこのことによって、なお個人的感情を抱き分派活動をやめない者たちを味方内部に発見するということが起る。
 こうして私の政治的経験は、その第二の帰結として、反乱世界内部の敵を発見し、これを排除するという直接的表現をとるようになる。
 とりわけ、敵が絶対化されているこの段階では、敵味方の峻別という二元的対立の激しさは、そのまま味方の集団内部にむけられる。このことは、危機的状況における城内平和の必要性から、国家が国民の一部にくだす「内敵宣言」として、史上しばしば激越なものとなったのであった。

フランス人民がその意志を表明した以上、それに反対の者はすべて主権外の存在であり、主権外にあるものはすべて敵である。人民とその敵との間には、もはや、剣以外になんの共通点もない。(11)

 けれども、反乱世界内部にむけられた私の「内敵排除」の努力は、結果として、以前にもまして強化された敵味方の関係――「剣以外になんの共通点もない」「人民とその敵」の二元的対立関係を再度構築することに成功するだろうか。たしかにこの私にとってはそのとおりであろう。だが、「人民内部の敵」として排除されたもう一人の私にとってはどうか。私がただちに外敵の側に寝返り、フランス人民の「主権外の存在」になるなどとはとうていいえないはずだ。この私にとっては、逆に私を排除した者たちこそ「人民内部の敵」にほかならない。
 こうして結局、敵から味方を絶対的に峻別しようとする私の努力が、「敵」と「味方」の一義的な意味づけ自体を崩してしまう。「人民」としての私たち自身が、自ら内部分裂をつくりだす! それは、私にとっての私の集団の分裂である。
 ここに、反乱内部での諸集団の分化という現象が、はじめて経験される。そして、各集団はそれぞれ他の集団を「人民内部の敵」に指定して分化したのだから、人民の諸集団は反乱内部にたんに併存するのではなく、相互に対立するものとして存在をはじめるのである。だから、一集団の団結は、もはやたんに外敵を媒介とするのみならず、内敵としての他の集団をも否定的媒介としてはかられることになる。この経験が、私の集団内部におよぼす決定的な影響は、やがて次章以下で全面的に露呈していくであろう。
 あるいはここでひとはいうかもしれない。反乱に決起した私たちの履歴がそもそも雑多だったのだから、たとえ集団の形成が可能だったとしても、その分裂もまた当然ではないか、と。古いマルクス主義の言葉でいえば、最初に大きな勝利をおさめた「人民」が、その後階級的に分化・対立するのは必然かもしれない。だがくりかえしいうように、このような「階級分裂」が、政治を形成する私にとってどのように経験されるかということだけが注目されているのである。だからこそ、反乱世界の諸集団への分裂は、敵味方の対立関係を、「剣以外になんの共通点もない」ものに純化しようとする私の努力が、かえって思いもかけずこの絶対的な二元論を崩してしまうパラドックスとして、私の政治的経験にとって本質的な事件なのだ。味方の結束の努力が失敗し、敵前で反乱世界が空中分解ないし雲散霧消してしまう結果も、むろんめずらしいことではない。だがこの結果として事実上諸集団が併存する場合に比べるとき、団結=分裂のパラドックスは、まさにこれからの私の政治的経験が、自ら解決しなければならない本来的な「矛盾」なのである。
 実際、私はいま、私の形成した反乱の集団が、新たな敵のまえで空中分解するかどうかの、いわば第二の岐路に立っている。この岐路を乗り切れるか否かは、私が私の集団の分裂という事件に耐えうるかどうかにかかっている。というより、のちに私の遍歴の最終段階で、宇宙を二分する二元的な対立の構図が、「二重権力」状況という形で現実に再構築されるにいたるまで、私の政治的経験は、味方の内部分裂という経験をついに逃れることはできないであろう。それゆえ、政治の経験史にかんする私の記述も、最後までこの内部分裂の諸段階を追っていかなければならないであろう。
 くりかえすが、大衆の反乱は軍隊の計画通りの蜂起ではまったくないのだから、闘争を通じて反乱内部に人民のスペクトル分裂が起ることは必然である。しかし、このスペクトル分裂が、人民内部の階級や社会的履歴の差異として浮彫りにされ、私たち自らが自分の階級的性格を再発見していくかどうかは、まったくのところ集団内面の私の経験に依存している。つまり、分裂という自然過程自体が政治的に経験されねばならない。このときにだけ、集団の分裂は敵の弾圧のせいでも、指導者の偏狭や作為のせいでもなく、この私のせいになる。そしてまたこのときには、反乱の敵対的関係をつきつめようとする闘いの結果として私たちは分裂するのだから、分裂の度合は、かえって私たちの反乱の深度を測るメルクマールとさえなるのだ。反乱は、敵集団に与えた深傷を自分もまた傷つくことで贖わねばならない。
 事実、たとえば初期の共産主義が、「革命的階級」としてプロレタリアートを発見したのも、革命における第三身分(人民)の分裂という事件の結果であった。

二月革命はうるわしい革命、一般的共感の革命であった。なぜなら、この革命で王権に対抗してかがやいた諸対立は、なお未発達のままに、なかむつまじくならんでまどろんでいたから。この革命の背景となっていた〔人民内部の〕社会的闘争は、ただ架空的な存在、文句のうえの、ことばのうえの存在をかちえていただけだったから。六月革命はいとわしい革命、嫌悪すべき革命である。なぜなら、実体が文句にかわったから。(12)

 フランス革命以降、「敵と直面した今、党派もなければ意見の相異もない」という、まさに「うるわしい」二元的な対立が、その時々の指導的イデオローグによってたえまなく仮構されながら、このイデオロギー的努力自体が、逆に「人民内部の分裂」の深刻さを証明しつづけてきた。「万国のプロレタリアート団結せよ」というマルクスの呼びかけ以降、「統一と団結!」の叫びが消えることがなかったのも、このことを物語っている。
 こうして、反乱世界の諸集団への分裂という現象は、「内敵排除」の真剣な努力のどんでん返しとして、私の政治的経験の第三の帰結であり、政治的経験の、まさに「いとわしい」宿命となっていくであろう。
 たしかに、これはいとわしい宿命である。だが、以上の政治的現象も、けっして敵の強制やこちら側の対応策ではなく、この敵対を内面化してこそ、政治的経験の名に値する経験となることにくりかえし注意しよう。
 敵の存在はたんなる外からの強制としてではなく、私たち自身による共同性の反省という形で内面化されてはじめて、内敵排除も内部分裂もともに、私たちの統一への熱望の表現となる。私たちの自由が裏切りの自由を剥奪する。多くの盟約の核心にある「裏切り者には死を」という誓約は、このように外敵との絶対的闘争、その暴力を内面化したものとしてはじめて比喩以上のものとなる。政治的経験は、一般に外的強制でも技術的作為でもなく、私において一つの必然なのだ。
 ひとは、大衆の自発的(「自然発生的」)な形成物であるがゆえに政治的なものではない、あるいは逆に、政治的なものであるがゆえに自発的なものではない、という誤った考えを捨てねばならない。この考えは、政治的なものの政治的な把握の差異を表明しているにすぎない。実際、これまでの政治的経験の定義の範囲では、政治的なるものの概念に、自発的か強制的か、創意的かお仕着せかの区別は何も含まれていないのである。

 さて、以上のように政治的経験冒頭におけるいくつかの事件が、つぎつぎとこの私を政治というものの渦中にまきこんできた。しかし、これら私の政治的経験のもともとの動機とは何であったか。思い出すまでもなく、敵との現実的な敵対に促されて、私は反乱世界にまで肥大化した私の集団を、再度、集団=組織として集中しようとしたのである。だから当初の私の意識のなかでは、敵とわれわれとのきっぱりした二元的な対立が、ふたたび、しかし今度は政治的に、再建されるはずであった。だが、われわれを結束させるこの努力そのものが、反乱世界を再度一つの集団へ収斂させるのではなく、逆に、反乱集団の分裂を通じて、反乱世界を諸集団へと分化させてしまったのである。
 こうして、いま私は、ほとんど唖然たる気持で、旧反乱世界の内部に、私たちとともに他の諸集団が存在するのを発見するのである。だとすれば、私の政治的経験にとって、集団の結束等は文字どおり序の口であって、私はいまからさらに、反乱内部の諸集団の相互関係を展開していかねばならないのだ。私の政治的努力によって、反乱世界はその内部に充塡した矛盾を、諸集団の分化・対立として外化し、かくして、私の政治的経験のさらなる展開を促すのである。私の政治的経験のもともとのモチーフ、つまり、敵とわれわれとで世界を截然と二分するという構図は、ただこれからの私の長い政治的経験史を歩み切ることによってしか、再建されえないであろう(二重権力状況の再建)。
 かくして、私たちの諸集団の動的な相互関係の局面に、これから私はまきこまれていくのであり、これは次章で集団の力学、あるいは革命の動力学(ダイナミズム)と呼ばれることになるであろう。


第三節 政治家としてのアジテーター


一 私は政治的経験の主宰者となり集団内部をはじめて差異づける

 ところで、前節までに開示された政治的経験の諸帰結には、なお決定的な一つの帰結が欠けている。それは経験の主体としてのアジテーターの変容である。
 さきに私は、集団が敵前で自分自身を反省する仕方は、反乱の夜の会議につぐ会議、いいかえれば言葉・言葉そしてまた言葉としてあるしかない、と書いた。このような大衆集会で、味方としての自己確認を聴衆に迫る私=アジテーターの位置は、この集会の主宰者として、すでに聴衆=大衆の位置から分立して成立している。集団内部で、私は大衆との交換可能な関係性を断たれ、スローガンや特権的規格の身柄として、いまや大衆の面前に立っているのだ。ここに、集団が外敵との敵対を内面化することによって、集団内部に最初の差異づけをもたらした事実はまぎれもない。アジテーターと大衆の関係そのものに孕まれていた両者の分立の契機は、ここにはっきりと現実化するのである。
 もちろん、アジテーターの位置は、まだ集団の職能としてこの私だけに固定してはいないにちがいない。だが、政治的な経験が、もはや以前のように前反省的なプロセスではありえない以上、この経験は誰かが意識しておこなうものでしかありえない。敵前での集団の組織化は、端的に敵を名指しこれと闘うものとして集団に名前をつけること(「労働組合」→「安保粉砕国民会議」)だが、このように敵味方の匿名性が破れるとともに、アジテーターの本来的匿名性もまた破られねばならない。敵前での集団の盟約、規律の強化、「団結、分裂、そしてさらに団結……」等々の作業は、集団のうちの誰か――それはなお誰であってもよい――の意識的な作業である以外にはない。実際、私たちの政治的経験は、こうした作業を通して政治的なものとなるのだ。
 そしてまさにこの過程に対応して、私たちは政治的個人となるのである。アジテーターはいまや、プリミティブなレベルで、政治家としてのアジテーターとなる。*
*もちろん、この段階では、アジテーターがなんら組織の位階秩序に占める職能ではないことに対応して、政治家もまた職能としての政治家ではない。政治家はたんに政治的経験の主体の名前であって、実際にも大衆的盟約組織の主宰者たちに限定されている。私はのちになって、これとは大きく異なる政治家の相貌を示すことになるであろう。
 それゆえひるがえっていえば、前節のような政治的諸現象は、私の政治的経験としてまさにこの政治家=アジテーターにおいて経験される事柄にほかならない。あるいは最初の政治的経験の内容は、実際にはこの経験の主宰者アジテーターを通じて、各人において現実化されるのだといってもいい。だからまた政治家としてのアジテーターの変容は、前節でのべた三つの帰結がすべてここにおいて総括される、政治的経験の第四の帰結である。
 さて以上のようにして、ひとは政治的経験において政治家となる。しかしひとは自ら政治家になるのではない、政治家に仕立てあげられるのだ。なるほど、「商人にはむかない」というのと同じような意味で、「政治をやる人ではない」ということがよくとりざたされる。たしかに、疑いもなく世にいう政治家むきの資質というものはある。政治が合理化された技術的行為領域の対極に位置するのであれば、政治家その人の技能が組織を決め政治を決めるということが起る。それは、ひとが政治に足をつっこむ以前、家族関係などのいわば潜在的政治舞台で身につける喧嘩のうまさとか、人間関係に関するカンとかを指している。
 しかしこうしたことは要するに、ひとが実際に政治の舞台に登るにつれて、たんに自覚されてくる自分の性格というにすぎない。政治むきの資質が、ただちにひとを政治家にするのではない。むしろ、彼の個人的資質を挑発する外部からの特異な要因を、政治世界はもっている。ひとは生れてから社会的共同的個人につくりあげられていくように、アジテーターもまた、自らがつくり自らを超えでる政治的なものによって、政治家に仕立てられていく。
 この政治家への階梯の最初にあって、彼はなおアジテーターとしての政治家である。反乱の夜、彼は大衆的集会で演説する。彼も含めて、大衆の基本的共同性はすでに確かめられている。彼にとって聴衆は、市場を流れる群集でも、彼が特殊な利害関係をもつお客様たちでもない。各人は各人によって形成された共同体の一員として形象されている。だから、自分とは別の者としての他人性にたいする不安からは、アジテーターはまぬがれている。それゆえにこそ、彼は敵を否定的な鏡として、この集団の現実的結束の強化を大衆に呼びかけることができる。
 しかし、にもかかわらず彼は、すでに大衆ならざるものとして、アジテーターである。両者の関係は逆転不能のものとなり、ここにアジテーターの他者性への不安は、新たな性格を帯びて再生する。不安は他者たちが他人だからなのではなく、逆に両者の関係においては、他者たちは味方として以前にもまして知られているのであり、まさにこの味方として一様に(共同的に)規定された他者たちから、不安はやってくる。つまり、他者たちは政治的に一つに規定されており、敵前でこの規定性が強化されればされるほど、他者たちとの間には、味方という政治的規定性が壁のごとくにはりめぐらされ、この政治の壁にへだてられるごとく、個々の他者たちの生活や実存は、アジテーターには見えないものとなる。かつての反乱の熱い集団でのように、私たちが集団内の他者のうちに、各人の個的実存の自在な噴出を見る構造はうすれていくのだ。
 ここで、すでに引用された一アジテーターの述懐を、ふたたび想起してみよう。沸騰する大衆の面前に立つこのアジテーターは、その演説の頂点で、彼の発する言葉と自分自身の身柄との関連を、次のように述べていた。

このとき、演説者自身が、誰かがすぐ傍に立って演説しているのを聞くような、また、自分の想念を充分追って行くことができないような感じにかられるのだ。彼の唯一つ感じる不安は、その影の自分が、夢遊病者のように、彼の理窟っぽい声の響きで壇上から転げ落ちはしないかということだった。(13)

 かつてはまさに、この「影の自分」が発する「影の中から現われて来る」言葉こそ、演説者にも大衆にも属さず、しかも万人に遍在する私たちの集団であった。けれどもいまや、このアジテーターからみるならば、「影の自分」の「影の言葉」が、自分の身柄と大衆とをへだてているのが感得される。壇上で「理窟っぽい声の響き」をたてているこの自分とは、なんであろう。たしかに、私は「人間の身体で造られた熱い洞穴の底」で演説しているのであり、私が身振りをするたびに私の肉体は他者たちの身体に触れる。けれども、アジテーターたる私は、かたわらに立つ「影の自分」を通じてしか、もはや大衆に触れることはできない。私の身柄はすでに一人とり残されて、ただこの「影の自分」が挫折しないことを「唯一の不安」として、身振りし肉声を発している以外にない。大衆ならざるものとして、大衆の面前にたつアジテーター自身は、いままさに孤独である。「アジテーターの孤独」。
 味方「われわれ」を主語とするアジテーターの発言は、だから、他者の個的かつ非政治的存在を、最初から無視してかかる強さが必要とされる。たとえ、ふと言葉をとぎらせた瞬間に、彼の視線がゆくりなくも一つのうさんくさいまなざしを大衆の一人に認めたとしても、アジテーターはそこで演説を放棄してはならない。そうでなければ、彼はたちまち「壇上から転げ落ち」てしまうであろう。けれども、このまなざしの存在は獏とした不安として、壇を下りても彼の脳裡から去ることはなく、これが聴衆の面前とではうって変った、孤独と疲労の表情を彼に与えることになる。あの一個のまなざしは、政治家としての彼の存在を、一挙に崩すことができたかも知れない。
 その後、こうした不安をそれこそ棒のように呑み込むことに馴れたとき、彼は世にいう政治家に特有の振舞いを身につけることになる。彼はもはや不安な相手を相手にしないようになる。おきまりの言葉におきまりの拍手を送る者たち(「鳴りやまぬ長い拍手」)の外へ、不安にみちて大衆の面前に登場することをやめる。なぜなら大衆は、自分のつくりだした反乱の共同性のもとには呪縛されても、政治のはりめぐらす共同性の壁を行き来する自由はもつものだからだ。本来、政治にたいする無責任の自由は大衆に属することであり、壁の向うに行った大衆にたいする指導者の非難は、政治家失格を表明するものでしかない。このような大衆の「自由」のゆえに、アジテーターにとって大衆は本来的に不安な存在なのだ。
 だからまた逆に、大衆への不安は、政治家をして自分の言葉の外に存在する者たちを、強権をもって抹殺せしめることにもなるのである。この点で、仲間のうちに閉じこもった政治も、全体主義的恐怖政治も同根のものである。いずれも、他者たちとの共存を定義とする政治が、他者たちの存在を恐怖する政治にまで頽落した姿である.かつて埴谷雄高が、「孤独――それは政治のタブーである」といったが、このタブーが政治的権力者をかえって孤独にするという事実は、政治の独特なアイロニーとなっていくであろう。


第四節 政治的経験の諸契機


一 個々の敵相手では私の古い政治経験がなお私の集団を統制する

 『鴨の騒立(さわぎたち)』は三河の国加茂の百姓一揆の記録だが、幕末一揆の記録文書として抜群のものであろう。たんに加茂一揆の歴史資料としての価値をもつだけではない。杉浦明平氏が「滅びた文学的可能性」という表題のもとにとりあげた百姓一揆の記録文書のうちで、わずかに出色のものの一つとしたのが、この『鴨の騒立』であった。* 文章の精彩ということでもこれは抜きんでているのである。
 『鴨の騒立』のおもしろさの一半は、明らかにこの天保七年(一八三六年)の加茂一揆自体のおもしろさに由来している。この一揆での百姓たちの行動は、たんに民衆反乱の原初形態を示しているだけでなく、この反乱内部での大衆集団の発展の諸契機をも、初歩的な形で提示しているのである。私は政治の経験史のこの段階で、一揆内部の集団行動の展開を追い、これまでの記述を総括するとともに、集団の歴史の次の段階へ橋わたしをすることにしよう。**
*杉浦明平『維新前夜の文学』(岩波書店)
**『鴨の騒立』のテキストは『民衆運動の思想』(岩波日本思想体系58)に収録のもの(高橋磌一、塚本学校註)を使う。また、布川清司氏の詳細な文献批判(『農民騒擾の思想史的研究』未来社)をも参照した。
 三河国加茂の百姓一揆は、天保七年九月二十一日夜松平村に発し、周辺の村々をつぎつぎに練り歩き、同二十五日鎮圧されるまで、参加者二百四十カ村一万人を超える大きな一揆であった。参加者は最初は七十人ばかりだったが、村から村へと移っていくあいだに人数が拡大したものであり、行動様式も、商人・村役人宅を打ちこわしつつ地方の中心地へと「進撃」していくものであった。
 たとえば二十一日夜の最初の打ちこわしはこんな風におこなわれた。――其夜八つ時より、竹筒を吹ながら、松平数馬様御知行処滝脇村庄屋へ八九人走り来り、「申次ぎの廻状順達致せしや」と問ける。其を聞(きく)より、庄屋ブルブルとフルイ出し、「地頭役人、羽(は)明(あす)村河合庄兵衛へ伺の上、御挨拶仕る」と云ながらかけ出ける。跡に、一同時の声を発しければ、間もなく大勢欠付(かけつけ)、庄屋の家を微塵に打砕き、直(すぐ)様(さま)組頭弐軒を打砕く。此物音に近村驚き、我も我もと欠付、已(すで)に弐百余人となりける。
 このような行動パターンが次の村へ進むたびにくりかえされ、翌二十二日の夜中に一息つくまでには、参加者は二千五百人にふくれあがっていた。ここまでがこの百姓一揆の第一段階である。このような加茂一揆の行動パターンは、近世末期の他の大規模な百姓一揆とくらべて、ことさら特異な点は何もない。「螺(ほらがい)の代りに竹筒を吹き」鬨の声をあげながらよく見知った村々を移動し、これまた日常的によく知っている商人宅などを打ちこわしていく百姓たち――いずれも笠をかぶり、鎌や山刀などを携えている――の集団を、私たちは容易に想像することができる。
 それではこの集団は、どのような内部構造をもっていたのか。第一には、この集団内部の中核的な集団の存在があげられる。最初行動を思いたったのは大工の仙橘・繁美の兄弟だが、この者たちは「人柄も鄙(いや)しく知恵も薄ければ」ということで、頭取は別の村の松平辰蔵と柳助の二人に依頼した。辰蔵は、「初め大工を業とせしが、後は小相撲を取り博奕を好み、俗云(ぞくにいう)道楽者なり。然れども邪智ありて、小ざかしく口きく男子(おのこ)なり」と書かれている。実際、以前にも仙橘たちの村に騒動があったときも辰蔵が間に入って口をきき、鎮めたことがあったのであり、そうした「実績」は当時この地域で知られていたのである。こうして、一揆の前日には村々を代表する二、三十人の重立った者の会議がもたれる。ここに中核集団が盟約されるとともに、行動の戦術もまた決定されることになった。村々へ申しおくった「口上の趣」は次のようにいう。
今般八月大風にて麦米高直(こうじき)、大豆小豆類、又稗(ひえ)なども一升五拾弐三文と云。他国は知らず、国中一統難渋(なんじゅう)に付、露命(ろめい)もつなぎ難し。依(よっ)レ之(て)、今日一千余人相談の為、石御堂に相集り罷(まかり)在(あり)侯。拾五以上六十以下の男子、取急ぎもし罷(まかり)越(こし)、帳面に名を記すべし。若(もし)不承知の村は、一千人の者共押寄、家々不レ残打崩(うちくず)し可(もう)レ申(すべし)。若(もし)遅参の村は、真先(まっさき)に庄屋を打砕き候趣。申次ぎにて云送りける。
 八月(十三日)の暴風雨の影響で物価――とりわけ米――が高騰したことにたいする行動であることがここにうたわれている。また動員指令が明記され、これは各村の庄屋を通じて村ぐるみの参加をはかったものである。一揆の当初、この動員令に従わなかったという理由で庄屋の打ちこわしがおこなわれることになる。
 けれども行動の目標としては、なによりも米屋、酒屋(これは酒造用の米を買い占めて米価騰貴のもとになったとみなされていた)を中心とする、商家への諸物価値下げ要求である。発起人会議での頭取辰蔵の提案では、大衆的な騒ぎを圧力に、この要求の貫徹をはかろうとする戦術が、はっきりとだされている。
容易に整ひ難き筋に付、多人数集会いたし、村々のため騒動に及び、酒屋共恐怖いたし候に附込、酒造減の儀懸合に及び、右役場より制之家来出役これ有候節は、其場におゐて強く相願ひ候はば、夫々聞届これ有べし。*
*布川清司、前掲書一八三ページ。なお史料はやや読みやすく表記を改めてある。(同書からの引用史料については以下同様)
 せんじつめていえば、基本的に村落共同体を基盤とした中核集団が、地域内の商家などに「敵」を設定し、当時の封建体制が(原理的には)許容しうる範囲の「改良要求」を掲げて、この一揆は出発したということができる。二十二日までの段階では、地元領主たちもたんに自領内の警備につきはじめたにすぎず、積極的な鎮圧行動にはでていない。本来の「敵」はまだ文字どおりに「ちらりと視野の片隅に顔を覗かせるにすぎない。」
 中核集団の以上のような性格は、一揆の第一段階では、農民たちの行動様式にもはっきりと刻印されている。つまり、かねて申し合わせていたように、頭取を代表にして、諸要求を「米屋酒屋へも参り頼み廻」るという形式は、はっきりしていた。「徒党強訴」による打ちこわしという非合法の行動様式を彼らはとっていたが、この第一段階では、それはあくまで相手が交渉に応じない場合の手段という形を保っていたようである。だから、頭取との交渉がまとまれば、打ちこわしをまぬかれることは、当の商家自身も知っていた。こうした交渉の場面を、『鴨の騒立』は、たとえば次のように描いている。
爰(ここ)に真垣内(まながいと)村酒屋栄助儀、大勢来るに驚き、一生の智恵を奮(フルウ)ふは此時なりと工夫出し、辰蔵元来欲ふかき者なれば、此に賄(マヒナヒ)して取持(とりもち)をねがふこそ上ふんべつなると心得へ、酒代金弐両紙に包み、内々袖から入れて握らせ置き、夫(それ)より口上(こうじょう)に述(のぶ)るには、酒直段(ねだん)思召(おぼしめし)通り下直(げじ)き仕(つかまつる)べく候間、此上の御情に家を崩(くず)す事は御宥免(ごゆうめん)に預りたしとねがひければ、辰蔵うなづき、頭取仲間え申合(もうしあわせ)、一同勘(かん)弁(べん)の体(てい)にて鎮(しずま)り、次に宮口坂越(こえ)る頃は、弐千三百人とかや。
 第一段階の一揆集団の内部は、概略すれば以上のような構造であった。一言でいって、一揆を準備した中核集団がなお中核たりえている。封建制のタガがゆるんだ近世末期の村落で、いわば辰蔵などの身柄に蓄積された政治経験が、集団を統制するのに成功しているといってよい。
 だがこうしたなかでも、新しい政治的経験をうみだす契機は明らかにうかがうことができる。たとえばいま例示した代表交渉方式である。いうまでもなくこれは、大衆的な暴力を背景にすればこそその威力を発揮した。しかしこの暴力は、村落的規制によってであれなんであれ、組織され、統制された暴力かというと、そうはいいきれない要因がすでに解放されかかっている。つまり、暴力の担い手たるいわばこの私の社会的規定性――何々村の五反百姓――が一部で崩れはじめているのである。
 実際、のちに具体的にふれるように、一揆が打ちこわしという行動形態をもって村々を移動していくとき、中核集団の代表する村には属さない「他村の」百姓や、あるいはすでに村落共同体の規制から離れた「あぶれもの」(脱階級的大衆)たちが、大量に集団に加わってくる。これは当然避けることができない。
 だがこの加茂一揆のおもしろさは、こうした異色分子たちの暴力行為にたいしても、中核集団の方針に従った統制(「形づけ」)を強制しようと努力している点にある。二十二日夜に入ると、辰蔵など取頭衆との交渉がまとまりながら、後続する百姓たちがこのとり決めに従わずに、こんどは大衆交渉をやりなおし、当の商家をあらためて打ちこわすという出来事が発生するようになる。しかし、この商家のかけこみ訴えを受けて、辰蔵らははっきりした統制行動にでる。頭取柳助は、茅原村での模様ををのちに次のようにいっている。
甚兵衛宅より急ぎ申参り候は、只今同人宅打毀候間、私へ御頼早々罷越し取鎮め呉候様御願に付、甚兵衛様御持成候てうちん備用し走り付候処、三拾人余り押込み、乱妨におよび候間、見当り候棒を以振廻し、一両人は相伏申候に私申聞候は、先程も右の家へは無障持願入候間、聞入れながら相毀候儀難済と大声にて申候や三四拾人のもの追々逃行申候処へ、茅原村の者と辰蔵等参り、先程引合にて砕き不申様承知いたし後へ廻り、相毀候ては大勢へも不相済と、七人のもの縄にてしばり申候。*
*布川清司、前掲書一一九ページ
 柳助も辰蔵も、交渉とり決めに従うべきことを申し渡し、統制違反分子を棒で打ったり縄でしばったりして処罰している。とくに、統制違反を犯した者たちは、この一揆にあとから加わった「他村の者」だったのであり、これにたいして辰蔵らは、打ちこわしにあった商家甚兵衛と同村(茅原村)の者を従えてこの統制行動にでていることが注目される。
 しかし同時に、辰蔵ら指導者の意識では、暴力的統制処分の強制は、彼らの個人的利害や特定の村の利益との結びつきからきたのではなかったこともはっきりしている。あくまでもこれは、大衆的暴力のうちでの本来の政治的行為であった。まさに――「今ヤ出役既ニ在リ、願書正ニ容レラレントス。若シ尚ホ乱暴狼籍ヲ敢テスルモノアラバ或ハ交渉モ画餅ニ帰スベシ、何ゾ思ハザルノ甚ダシキヤ。」*
*布川清司、前掲書一一九ページ
 盗みの禁止など、百姓一揆でみられる民衆行動の規律についてはよく知られているけれども、このような倫理的比重の大きい規律とくらべて、指導的グループの集団意志を貫徹させようとする内部規律の強制は、まったく政治的性格のものであった。しかしそれだけではない。無定型な大衆的暴力を与件とすればこそ、辰蔵らの内部統制の政治性はめだってくるのであり、また逆に、この政治が「画餅に帰す」可能性も増大する。これこそ、政治とか指導とかいうものの本来的不安定性ではないか(本書、第五章参照)。だとすれば、事態を辰蔵のように暴力的統制で乗り切ることがますます困難となり、政治や指導をもう一度大衆の政治的経験のレベルから――一段階高いレベルで――再編成せずには、集団そのものが四散してしまうであろう。
 実際、一般に近世末期ともなれば、伝統的支配は末端でゆるんでくるのであり、指導集団の統制力が所期の「改良的」目的を成功させる事例もけっしてすくなくはなかった。しかし他面、近世末期の支配状況が、逆に、中核集団の政治的統制力を挫折させる要因ともなる。一揆を企て指導するこの中核集団からして、すでに庄屋・村役人を中心とする、伝統的な村落のリーダーからなるとはいえない。加茂一揆の場合にも――頭取辰蔵や柳助の性格にみられるように――事実このとおりであった。
 またとりわけ、打ちこわしという行動形態を通じて、「村落の共同体的規制からさえもすでに離脱した飢えた半プロレタリア階層が広汎に参加」してくるようになる。* こうなれば、一揆当初の集団の構造をそのまま維持することはますます困難となり、集団の構造自体を政治的に再編せねばならぬ要因が大きくなるであろう。
*安丸良夫、前掲論文参照


二 最初の敵に直面し集団の反省は内部分裂と私の追放をもたらす

 実際、加茂一揆の場合にも、翌二十三日となると集団はその性格を基本的に変えていく。そしてこれは、一揆が代表交渉型の強訴から「惣百姓の世直し一揆」へ転移することに対応する事件であった。
 第一に、集団の行動範囲が拡大し、参加人員も二十三日早朝の段階で三千人を超える。決起の前日に集会した中核グループが代表する村々に限られず、対象村落・参加人員ともに範囲を拡大したことはいうまでもない。
 第二には、前もってねらいをつけた個々の商家との交渉ではなく、いまや全面的に地頭・代官所役人が前面にでてくる。
かゝる処え、一旦村端(むらはし)まで御出張りありし本多様の御役人、御出張りありて大声に呼(よん)で曰、「イカニ人、よつく聞け。今度願の趣あらば心置なく申達せ」とありければ、党者共、一同答て曰、「おそかった御役人。先刻其御挨拶あらば、ケ(か)様(よう)には崩すまい。夫(それ)はソウと、願之趣外(ほか)ではござりませぬ。米は八斗、酒は諸白(もろはく)拾一文、片白(かたはく)八文、三ケ月の間頼(たの)母子(もし)休会、是が願ひで御座る」といゝける。役人曰、「願之趣聞届けた。只今印(しるし)を見せん」とて、大札に右之趣を記し建(たて)られける。
 地頭連中の「出張り」は、一揆勢にとっては、いわば最初の統一された「敵」の発見であり、これらの敵をものともせず要求を貫徹することをくりかえしつつ、集団の行動と内面は急激に臨界点に昇りつめていく。すなわち第三には、他の多くの世直し一揆とまったく同様に、打ちこわしという行動も、目的実現の手段というより、あたかもそれ自体を目的とするかのごとく、集団的狂躁の模様を呈していく。『鴨の騒立』もまた「実(げ)に阿修羅(あしゅら)王の荒れたる如く、其恐しさは身の毛の逆立斗(ばか)りなり」といっている。こうした形容は、世直し一揆の百姓の行動を描写するさいに、かなり一般的にみられるものである。
 このようにして最後に、集団的観念の高揚と膨張が、この一揆を世直し一揆特有の農民反乱としていくことなる。
先(まず)第一宇頭村庄屋方へ推寄せ、「イカニ役人、此度申触(もうしふれ)たる世直(よなおし)の場処え、村方一同十五以上六十以下の男たる者は、はせ加(クハわ)るや否。不納得に於ては現罰を当(あて)る」といへども、村役人、騒がず静(しずか)に答(こたえて)曰、「御地頭様から厳敷(きびしき)御(お)触(ふれ)、決て一人もダサナヒガ、併(しかし)腹がへったらば弁当は炊(た)き出さん」といへば、党者共(とうのものども)、口を揃へて曰、「ナンダかさ高ナ、庄屋のつらが、世直様(よなおしさま)に入る物歟(か)。一人もダサナイとは言語同断なり。腹がへると、天から酒も弁当も自由自在に下さる。徒(ムダ)にタハ言(ごと)ぬかすな」といふや否、庄屋の内へ走り込み、戸障子・襖(ふすま)・小道具不(のこ)レ残(らず)打砕き、次に山蕨の庄屋の処へ宇頭村の通り申贈りけるが、返答同様なれば、是も同じく打崩しける。
 さきに私は、反乱集団における共同観念の膨張を述べるさいに、「今日只今、世直し神々来て現罰を当て給ふ」という農民の発言を引いたけれども、これは加茂一揆のこの段階で記録されたものであった。また、こうした「世直しの場処」の光景は、加茂一揆に特有のものでもなんでもないのだから、第二章の反乱世界の経験に、ここでつけ加えるべきことはなにもない。
 けれども、加茂の百姓一揆――また『鴨の騒立』――が本章でとりわけ興味をひくのは、前期集団から反乱世界への集団の飛翔の契機を、内面の一事件としてこれが記録しているからにほかならない。ふたたび二十二日夜半に場面をもどそう。「二十二日夜四つ半(十一時)頃、下河内村辰蔵宅へ、一揆共、物音静に着にける」と、『鴨の騒立』が書く以降の場面である。昨夜八時の決起以来、ぶっつづけの行動を経て、「一揆共」ははじめて休息し、ここで幹部連の評定がおこなわれることになった。そしてこのとき、頭取辰蔵とその他のメンバーとで、意見の対立がにわかに表面化したのである。
 『鴨の騒立』によれば、対立はまず当初の具体的で狭い要求を、より高次のものに改めることをめぐっておこなわれた。
暫(しばらく)休息の問に、種々評定の中(うち)より、川向の善四郎、林曽根(はやしぞね)の藤重、其余菅沼(すがぬま)等声をあげ、「ナン卜何(いず)れも是よりは、穀屋・酒屋を崩(くず)す斗(ばか)りが能ではない。世間難儀を救ふ今度の取極め。米は両に八斗替へ〔米八斗で一両の価格――註〕、諸白(もろはく)酒拾壱文位、頼(たの)母子(もし)三年休む仕方、其村の書付でもとり巡村致しては如何(いかが)。若(もし)差さぬ村は、打崩してはいかに」と間たれば、一同大音(だいおん)にて「然るべし」とぞ答へける。辰蔵曰、「八斗も如何、六斗位」と申出、誰有(あつ)て壱人答者もなし。
 ところがこの時、陣屋役人が辰蔵と交渉にきて、ところで今度の頭取は誰か知っているだろうと問うたところ、辰蔵はもちまえのハッタリから、「御不審御尤(ごもつとも)至極。頭取に御用が御座るなら、拙者より召捕て御渡可レ申哉」と「大丈夫の挨拶」をかませることになった。しかし、このやりとりに耳をすませていた者たちの間で、今夕からの辰蔵の振舞いにたいする不審が不満の叫びとなって一斉に噴きだしてしまう。
此時後ろの方より大音声(だいおんじょう)にて、「おのれ辰蔵、一味(いちみ)連判(れんぱん)の頭取を撰抜(えらびぬ)き渡すなどとはよくも抜(ぬか)した。但(ただし)大島・九牛杯(など)の竹ミツ檀那(だんな)、藁(わら)人形同前(どうぜん)のものがこはいか。握った品(シナ)玉のうまさに心を替(かえ)たか。且(かつ)は去る巳の年、九牛え出立た割木騒動の頭取となりて崩せくずせと勧(すす)め込(こん)で、二十弐ケ村、簑(みの)笠(かさ)きて崩しに来たを、又取扱(とりあつかつ)たも己(おのれ)が仕事、聞けば其時、相応の金銀・木綿などで礼にも預り、又翌年、強欲(ごうよく)無道の無理借(カリ)致し、人はあしかるとも己(ヲノレ)ばかりの甘(アマ)味(ミ)を貧(むざぼ)りて、今度も又握ったか。今朝(こんちょう)大津の平兵衛が袖と袖との付合(つきあわ)せ、トント合点が行(ゆか)なんだ。思へぱ思えば腹が立(たつ)ぞよ。辰蔵を今日(こんにち)迄は物の数にも先き立(だて)たり。只今にては其手は桑原(くわばら)。積(つも)る恨(うらみ)を晴(はら)さん」と、大音声にて呼(よば)はりければ、弐千五百人余、四方より〔辰蔵の家を――註〕崩しかゝる。
 辰蔵はここで、俺も今回の頭取をひき受けるに際しては命を賭けた男だと呼ばわって、刀を振りまわして打ちこわしを防ごうとしたが、多勢に無勢、百姓たちの投げる小石や割木に傷ついて、逃げ去ることになってしまった。さっきまでの仲間たちに、自分の家を打ちこわされただけでなく、逃亡したこの元頭取は、もはや以降の行動に加わることもなかった。『鴨の騒立』はいささか芝居がかつてこの段を描いているが、こうした顛末の政治的意味は、ことわるまでもなく非常に重要であった。
今夕、辰蔵があやしげな交渉で、数軒の商家の打ちこわしを見逃したことが、百姓たちの怒りをかった。とりわけ、辰蔵が自分の方針に従わなかった統制違反者を暴力的に処罰したので、彼にたいする民衆の恨みは倍加されたのであった。ことに、さきの統制違反者たちは、一揆を起した中核集団(の代表する村)には属さない者たちだった。そしてまさに辰蔵追放劇の主役こそ、彼ら統制違反者たちだったのである。
 彼らは、その後世直し一揆の頂点で、打ちこわしの中心になって活躍する。また、初期指導部では、彼らの圧力を受けた形で、辰蔵と同村の曽四郎などが新しく擡頭してくる。一揆集団の中核は、辰蔵追放を契機に大幅に入れ代ったものとみられるのである。そして彼らはまた、それぞれの村の代表というより、それこそ「半プロレタリア階層」の一人として、一揆に参加し、あるいはかかる参加者の圧力を背景にして、中心メンバーにのし上った者たちだったにちがいない。
このように辰蔵追放にともない、「世直しの場処」へでていった一揆は、集団の内的性格をも事実一変させていたのである。一言でいって、辰蔵追放劇は個人的な事件ではない。それは、集団の経験における一つの事件となった。
 『鴨の騒立』は、前頭取の辰蔵が捕縛され吟味される様子を生々と描いていて名高い。これをみると、辰蔵という男が、小役人など屁とも思わぬような胆の坐った男であり、ハッタリもきき、大衆の暴力的闘争の指導者にふさわしい性格の者であったことははっきりしている。当初彼のたてた戦術も、さきにふれたように、まさに実現可能の戦術としてたてられていた。また布川清司氏の調査によれば、彼の家系は、家康時代から松平姓を名乗る家柄であり、現に、彼の村の領主の親戚にあたるという。さらに、「俗に云ふ道楽者なり」と評されたが、実際には、村で一、二を争うほどの百姓であったという。* こうした事実からすれば、この男が、地域の数々の紛争を解決した実績をもち、また今回の一揆の頭取に推された理由も納得がいく。一揆の敗北後に、「義民」として伝承されることになったとしても、少しもおかしくはなかったであろう。
*布川清司、前掲書一九五。ヘージ以下参照
 ほかならぬ以上のような人物の辰蔵が、一揆半ばにして大衆的に放逐されたのである。一般に、百姓一揆の義民伝説の発生根拠は、郷党社会そのものにあるという。したがって、村落的地域的「共同体にひびを入れた世直し一揆からは、義民伝承が生まれなかった。」* こうした事情が辰蔵の場合にも、明らかに作用したにちがいない。いいかえれば、百姓たちの行動は、世直し一揆の段階ではじめて、大衆反乱の基本的な性格をおびるようになるのだ。この段階でまさに、将来の義民伝承の英雄松平辰蔵は転落する。転落することによって、逆に、政治的な何者かに激しく成っていかずには存続しえぬ、反乱世界の加速度を高めるのだ。
*芳賀登『百姓一揆』(潮出版社)
 いま、前章までの私の記述の文脈に、この集団的事件をおいてみよう。そのためには、加茂一揆が、世直し一揆として心的に膨張する段階を、逆に、基点として考える必要がある。そうすれば、一揆を現実に準備した中核集団は、世界としての大衆的反乱集団のうちにかえって解体され、しかもそのことによって、反乱世界が、新たに政治的に組織化される契機を生みだすという弁証法がみえてくる。たしかに実際の反乱では、最初の中核集団が、反乱世界の中軸ともなることは多いであろうが、その場合にも、この集団は、前とはまったく異なる政治的な位置に立たされるようになることに変りはない。
 とりわけ、加茂一揆の場合は、前期的な反乱集団が構造的にも人格的にも解体された事実は明らかである。頭取辰蔵の追放は、彼を中心とした初期集団の、現実的解体を象徴する事件であった。
ふりかえってみれば、辰蔵宅の会議こそ決定的な「夜の会議」であった。それまでの一揆の行動は、辰蔵のもくろんだとおりに進んできたかにみえたが、しかしいくつかの不安な兆候もまた感じられた。「他村」からの参加者が増え、統制違反をするようになったこともその一つだ。それにやはり「敵」の問題が辰蔵の頭をはなれぬ気がかりだ。商家を相手としているかぎりはいい。しかしまさにこの夜、陣屋役人たちが彼に直接交渉にやって来たことからみれば、明日からは彼らが前面にでるだろう。役人の出現は他村の暴れ者たちにたいするどんな挑発となるかしれはしない。それに辰蔵は一般の百姓とちがい、役人というものをすこしも過小評価してはいなかった。「今や出役既に在り。若し尚ほ乱暴狼籍を敢てするものあらば、あるいは交渉を画餅に帰すべし。何ぞ思はざるの甚だしきや」――辰蔵の政治判断はこのようにまさに的確だった。
 だからこそ、夜の会議は、「出役既に在り」という状況のなかで集団の反省――味方の再結束をかちとること――が必要であった。辰蔵が「願書まさに容れられんとす」というように闘争を終らせる方向であれ、あるいは別の仕方であれ。一同が熱に浮かされて「一両で米八斗」というスローガンをだしたのにたいして、「八斗は非現実的だ、六斗くらいでどうだろう」と、辰蔵が提起したのも、まさに彼なりの味方再結束の方針であった。
 しかし、ほかならぬ辰蔵のこの努力が、彼の集団の内部分裂をもたらした。だから、辰蔵の追放劇は、まさにこの集団における最初の政治的経験――集団の分裂――の結果であった。辰蔵とは、同時に多くの辰蔵たちでもあったであろう。次章の主題となることだが、いつも、このような仲間うちの亀裂を一事件として、大衆的な集団は、その組織性格と集団的意識を飛躍的に変えていく局面に立たされる。
 事実、『鴨の騒立』は、一揆集団の内部分裂が、集団の意志を飛躍させるに際して発生したことを、はっきりと書きとめている。打ちこわす「斗(ばか)りが能ではない。世間難儀を救う今度の取極め」というように、百姓たちは、辰蔵の反対を押し切って、自らの行動をより一般的でより政治的な観点で意識するようになる。この場面につづいて起る世直し意識の膨張も、打ちこわしにともなう自然な心理的過程というよりも、集団内部の「敵」の追放と集団意志の飛躍という、端的に政治的な経験の結果であった。この(後者の)過程を、片鱗といえども書きとめているところに、『鴨の騒立』が政治的記録としてもつ価値の高さを、私は感じる。
 さて以上のようにして、辰蔵追放劇によって新しく自己形成した一揆の集団は、網代笠の頭取らしき者を先頭にたてて、「世直しの場処」へと再出発していったわけである。だからいまでは、網代笠の下の顔が誰のものであろうと、それは辰蔵たちとは別の政治的相貌をしていたにちがいない。


三 戦闘にのぞんで敵の像は二極分解し私の政治的経験も四散する

 しかしいうまでもなく、加茂一摸の集団内部で明らかに熟していた政治的経験は、現実に組織的表現をとるにはいたらなかった。実際、この集団は、二十三日の行動を頂点として、翌二十四日には早くもあっけない潰走を開始するのである。こうした事態を予防するためには、集団はなによりも、意識的にも制度的にもその内面を組織化することが必要とされる。だが前節の主題だったように、この政治的経験の結実にとっては、「敵」集団との現実的で敵対的な闘争を媒介することが不可欠である。
 加茂の一揆集団が内面の亀裂を通じて、政治的経験の端緒を開いたのも、まさに「出役既に在り」という状況に対応したことだった。すでにみたように、在村の商家相手ならば、よく見知った相手でもあり、各村・各家ごとの対応が可能であった。実際、辰蔵が個別交渉をかけて上手に対応した。これはレーニン流にいっても(?)、それこそ「経済主義的」で「労働組合主義的」な闘争だったろう。
 だが、役人は商家とはちがう。村々を駆けめぐった一揆の行動は、まさに村々を超えて存在する役人というものを、挑発的に明るみにだしたのだ。潜在的には封建体制というものを暴露したのだといってよい。この発見はただちに、一揆集団の新たな内面的統一として、集団自身に帰ってくるべきことであった。事実、百姓たち個々人の意識がどうであれ、辰蔵宅の夜の評定では、この内面的再統一――すなわち政治の課題――は、まぎれもなく析出したのだった。そして翌日の世直し一揆の膨張こそは、統一された敵への事実上の解答であった。
 ここに析出した政治的なものを、百姓たちがうまく処理したとはいえないのを、役人たちがなお、「ちらりと視野の片隅に顔を覗かせたにすぎな」かったせいにすることもできる。「敵」の統一性はまだ潜在的なもので、辰蔵のようなリーダーにのみ見えたことかもしれない。
 事実、二十四日にいたるまで一揆集団はたいした戦闘を経験することもなかった。むしろ、個々の商家や地方役人を目前の敵とみたて、しかも彼らが、百姓たちの勢いの前にもろくも崩れていったとき、集団は度はずれに敵の存在を軽視する意識を解放した。『鴨の騒立』も、役人あるいは武士階級をものともしない、百姓たちの意気揚々たる言動をいくつも記録している。敵と味方を絶対的に区別する反乱集団の観念は、ここでは端的に、「弱くだらしないもの」と「強く堅固なもの」との区分として意識されている。たとえば次のような場面をみよう――
党者曰、「ナンダ、間抜け役人出しやばるな。八斗の米を六斗と間違(ききちご)ふたばかりで、無益に家を二三軒崩(くだ)かせた。畢竟(ひっきょう)うぬらがまご付(つく)から、無益な事を仕出しおる。おのれがやふな役人に、扶持(ふち)大小はいらぬ物。早く書付差出して引(ひき)籠(こ)んで居れ」と、松平村隆助はじめ皆々、同音にのゝしりける。両役人も、腹は立(たて)ども大勢なれば、詮方(せんかた)なく書付をぞ出しける。
 この場面は、それだけをとりだしてみれば、たんに威勢のいいタンカがきられたというにすぎない。けれども、「間抜け役人出しゃばるな」というタンカの背後には、すでに「世直しの場処」へと膨張した集団の観念が沸騰している。この絶対化された観念によってこそ、目前の役人は「間抜け役人」として、いわば絶対的に卑小化されているのである。
 実際的な目でみれば、彼らの面前の役人は、もちろん「間抜け役人」などであろうはずがない。役人どもの背後には藩の権力が、さらには、衰えたとはいえこの国の全封建体制がひかえていた。たしかに、藩権力のこの末端では、役人どもは事実無力であり、大勢の百姓をまえに「詮方なく書付を出す」しかない存在であったかもしれぬ。この意味では、自らの絶対化と敵の絶対的軽視とは、世直しの場所で共存することができた。だが、二十四日の早朝、一揆勢が挙母(ころも)藩二万石の城下町に攻め入ったとき、領主側の武装権力がにわかに彼らの面前にたちはだかることになった。敵は、いわば世直しの場所の侵攻にふさわしく自らを再形成して、この朝、一揆の前に現われたのだ。これは、百姓たちが自己を無際限に膨張させたことにたいする、当然の報いであった。
 だから、「間抜け役人」という敵のイメージは、新しい敵の姿を菫えにして、急遽修正されねばならぬ。この課題を集団の構造に内面化することこそ、まさに固有の政治的経験の飛躍を意味していた。勢ぞろいした敵の武装部隊にむかって、一揆勢が次のように叫んだとき、この飛躍を促す外部の契機は、すでにのっぴきならぬまでに熟していたのである。
勢ひするどき先手の者、其備へを見て笑って曰、「こざかしい、其竹鎗は何にするのジヤ。世直しの神に向っては、ヨモ働く事はなるまい。此方共は喧嘩口論、人を害するの所存かつてなし。願の筋叶(かな)へばよし。不承知なれば、其家に挨拶する斗(ばか)り也。世直の神を招待に出たか。もし防ぐ了簡ならば、現罰を与(アタヘ)ん」と、吾先きに進みける。
 この大演説もまた、字面は「間抜け役人……」というさきのタンカと同じようにみえる。事実、百姓たちはいまの瞬間にも、間抜け役人の延長上に敵をとらえていたであろう。だがもちろん、自ら「世直しの神」に化身したとしても、この者の胸板を敵の銃弾が射貫かないはずはない。事実、一斉射撃が開始される。そして、射貫かれて地に倒れるこの者の脳裡で、一瞬、さながら焦点がずれたように、古い敵の像がゆっくりと崩れ、したがってまた、一揆に決起して以降の自分自身の観念も壊れていったであろう。集団はにわかに潰走し、そして潰走しつづけることによって、集団の政治的経験もまた、その端緒において歩みを止めてしまう。


第五節 大衆の政治同盟


一 私の集団は一つの名前をもち他の集団に伍して運動へ出発する

 近世末期の百姓一揆は明確な政治的組織をその内部から生みだすことはまれであった。けれども前節でみたように、大規模な世直し一揆での百姓たちの行動は、随所で政治的な経験の諸契機を生みだしているのだった。大衆反乱の内部で、これら政治的経験の諸契機が、私の政治的組織として具体に展開されていく過程こそ、いわゆる大衆運動の展開過程にほかならない。前節まではこの過程はただ私の政治的経験の観点で記述されたのだが、反乱世界が現実に組織化されるか否かが、そこから政治の経験史を展開しうるための決定的な岐路なのである。個々の民衆の行動が反乱の集団と世界とを形成することが、革命の物語にとって第一の現実的岐路であったように、いまアジテーターたちの遍歴史は、第二の現実的岐路に直面したのである。この岐路において組織された私の政治的集団は、のちに国家権力という敵対集団に直面するにいたるまでは、本質的に同質の政治的経験を展開していくことになるであろう。私はこのような集団を一般的に、大衆の――すなわち私たちの――政治同盟と呼ぶことにしよう。
 大衆的政治同盟という政治組織は、私の政治的経験が展開される場所であり、またその具体的な表現形態である。私はこれからも、もっぱら私の経験の生成だけを追っていくだろう。しかしこの段階ですでに、私の集団は私の経験の成果として、他の諸集団に対立しつつ政治的地平で運動しはじめているのである。だからここに、私の組織表現のあり方についても、できる範囲で特定しておくことが必要である。反乱世界で形成された集団が、いわば「名前」を欠いていたのに比べるとき、私の政治的同盟組織は、いまやはっきりと目にみえるものとなっているのだ。
 では、大衆政治同盟というとき、まずこの「同盟」とは何か。私が集団として同盟する現場をみてみよう――

時ニ九月七日午後六時頃ナリ。高岸善吉、井上伝三主ト為リ、同家ニ於テ左ノ四件ヲ議シタリ。
一、 高利貸ノ為メ身代ヲ傾ケ目下生計ニ困ルモノ多シ。因テ債主ニ迫リ十ケ年据置キ四十ケ年賦卜延期ヲ乞フ事
一、 学校費ヲ省ク為メ三ケ年間休校ヲ県庁へ迫ル事
一、 雑収税ノ減少ヲ内務省ニ請願スル事
一、 村費ノ減少ヲ村吏ヘ迫ル事
前議スル所ノ如キハ容易ナラザル事件ニシテ、何レモ生命ヲ捨テザルヲ得ザル事柄ニ付、熟考スル方可ナラント述ベタル処、貧民ヲ救フガ為メ素ヨリ一命ヲ拠テ企ツル者ナレバ宜シク賛成アレト、善吉外六人言ヲ揃ヘテ申聞ケタリ。尚ホ小柏常次郎自分ヲ励シテ申ニハ、貧民ハ独リ埼玉県ニ止ラズ、何県ニテモ同様ノ事ナレバ、速ニ同意ヲ表シ貧民ヲ救フニ尽力セラレヨト。因テ自分決意ノ上、諸君何レモ一命ヲ棄テ万民ヲ救フノ精神ナレバ、速ニ尽力セント答へタリ。(14)
 ここ「秩父困民党」の場合にも、「党」はこのようにして各人の同盟から生れたのである。ここで同盟とは盟約であった。そして盟約とは、すでに経験したように、敵前における私たちの端的な政治的経験である。私たちは「一命を拠て」味方としての共同的自己確認をおこない、これを基礎として私たちの行動様式を確定統一するのである。古くは政治の秘密結社において、こうした盟約は、いわゆる加入儀礼として明確に儀式化されていたことはまえにふれた。
 けれども、私たちの盟約の事実は、通常私たちの政治同盟の外観からうかがえるとはかぎらない。古来秘密結社では、この盟約だけが本当の意味で秘密とされていたことが思いだされる。それにむろん、私たちの同志としてその盟約が、いつも明文化されていたり儀式化されているわけではない。
 しかしこれはたいした問題ではない。敵前においてこれと闘う集団の成員相互の関係に、以上の構造が読みとれることが重要である。実際、盟約が成員相互でとりたてておこなわれることがない場合でも、その組織の名前がすでに盟約性を表現している。たとえば「――反対同盟」というような大衆組織の名称は、自分たちの敵に反対する同盟であり、また同時に、民衆のうちでかならずしもこれに反対しない者たちから自らを区別するものとなっている。「貧民ヲ救フガ為メ」の「困民党」の盟約も、富者たちの世界にたいする激しい二元的な対立の意識を表明している。こうしたことは、盟約がそれ自体としておこなわれるのではなくまさに現実の敵対関係の内面化――すなわち、私の政治的経験――としておこなわれることの証左である。
 このように、内部で盟約した私の集団は、いまや一つの名前をもち、多少とも持続すべき組織として活動を開始する。「困民党」にしても、ここで「党」とは、集団外部の人びとが「あの一党」とか、「党の者ども」とか名指す際の語感に近いものだったろう。
 私の政治同盟がかかげる行動目標やスローガンにしても、私たちはこれを、たんに理念でなくはっきりと特定しようとする。内外の敵との敵対的闘争に勝ちぬいて目標を実現するのだから、集団のスローガンは、排他的であっても一般的な宣伝文句なのではない。実際、組織のスローガンは、この集団が目前の敵に促されて組織化されるさいの、直接的な契機を表現しているのだ。さきにあげた集団の例でも、「四項目要求」がはっきり特定され、逆に集団は「この目標をかかげる組織」として外部からみなされることになる。困民党は別名「借金延期党」である。集団内部の私たちの盟約が外部にあらわに見えることはまれなのだから、私の政治同盟の外的協定は端的に、目的集団である。反乱世界の集団に対比して、政治的集団が組織と名づけられたのもこのためである。
 けれども、大衆の政治同盟をたんなる目的集団とみなすことはまちがっている。政治的組織は、反乱世界の共同観念の経験を経てこそ、いま現に私の政治的同盟なのだ。だから、集団の卑近な行動目的の議定は、内部に多少とも度はずれに肥大化した観念の志向を常にかかえもっている。政治的経験にとって本質的契機となる敵の存在が、絶対化された敵と目前の敵とに二重化していた事情を想起するまでもないであろう。米の値下げ要求を軸に形成された集団が、「日本窮民為救」などと叫ぶ大衆たちの「世直しの場処」で生きていることを考えてみればよい。「七項目要求」は大衆組織の性格を外的に規定するが、このスローガンは、容易に「反大学」や「反権力」という集団観念と同居する。
 いまの段階では、性格のまるで異なる集団目的――「七項目要求」と「反大学」と――が、同一の政治的同盟に共存することは、私の政治同盟に独特の内部矛盾である以外にない。これは私の群集心理的な錯誤でもなければ、他方、「独リ埼玉県ヲ救フガ為メ」という目的と「四項目要求」とを、あたかも「綱領」と「戦術」のごとくに、私がつじつまを合わせているのでもない。政治的経験にとっての「二重の敵」がこの経験の内的矛盾であったように、私の政治的組織の二様のスローガンは、まさにこの二重の敵との敵対を内面化したものとして一つの矛盾なのである。もしもこの矛盾を看過し、この集団をたんなる集団とみなすならば、集団の成員が卑近な目的のために「一命ヲ棄テ」という盟約が、たんなる比喩しか意味しないことになってしまう。
 むしろ逆である。目的集団がそのうちにはらむ自己矛盾のゆえに、私の集団は、この矛盾の決着へとかりたてられていく。大衆の政治同盟の存在は、すなわち大衆の運動であり、逆に大衆運動は大衆的組織の自己運動であるという一つの過程が、ここにはじまるのだ。くりかえすけれども、この大衆組織の運動過程は、のちに二重権力の対立という形で、その内部の矛盾を外化しおおせるまでは、自ら止むことはないであろう。
 組織をその目的に従って分類する、通常の組織論の整理学が、政治上の組織については虚しいのも以上の理由による。また同様に、組織の政治的性格をそのスローガンの内容で判読する政治的判断も、多くの場合に錯誤となる。たとえば困民党の「四項目要求」そのものは、卑近な土着的経済要求であり、「体制内的」なものですらある。さきに引用した(本書一二〇ページ)ブランキの党の盟約が、「王制・貴族専制」にたいする「共和制」の確立というように、はっきり政治制度の変革にまで意識化されていることと比べるならば、この事実は対照的である。だが、史上高度に政治的な目的を掲げた結社で、しかも実際は、それこそ「世の中と関係ない」組織である例は多い。また、政治目的を掲げても、実際上政治的組織に似て非なる経営体は、日常の政治世界ではいくらでもある。
 これに反し、ここでの盟約集団は、反乱が激しく何ものかに成っていく、政治的経験の途上に位置していることが十分に強調されねばならない。経済的・倫理的等々の利害関係のもとに組織された集団でも、この状況のもとに政治に登場し、まさに政治的組織となるのだ。
 実際、私がここで「大衆の政治同盟」というとき、その「政治」なるゆえんは、もっぱらこの組織内部の私の政治的経験にもとづいている。だから、現実の敵対的闘争のなかで、激しい自他の区別のもとに展開される私の政治的経験の深度は、組織のスローガンに表われた「政治的意識」の高低と、直接の関係はもたない。政治的経験が、それこそ「容易ナラザル事件」、「生命ヲ捨テザルヲ得ザル事柄」をめぐって展開される度合こそが、私の組織の政治的性格を決める。
このように、大衆的政治同盟の政治性は、組織として外に表現された目的によっては、一義的にきめることはできない。一つの状況において何が端的に政治的であるかは、まさに時代と状況に左右され、超歴史的定型などはないのだから、これはあたりまえのことだといってもよい。まただからといって、このことは、一つの状況において、政治的なものの相対的定型を求める努力が無駄だということではない。しかし現在でも、革命にまで至った典型的政治の事例を教条的に定型化し、この定型に準拠して大衆組織の性格を分類する思考が跡を断たない。早い話が、政治闘争と経済闘争の紋切り型の区別だてだ。「ベトナム反戦」をスローガンとしないから「右翼学園主義」、「物取り主義」だというように。
 しかし実際は、闘争が個別的・経済的要求をめぐっておこなわれるゆえに、非政治的なのではない。具体的目的で開始された集団の闘いが、時代の権力関係・階級関係の敵対のうちに投入される度合が、集団とその闘いの政治性を決める。一地方の土着的困民党の闘いが、全国的農民闘争のうちに客観的位置を占め、また全国的政治結社たる自由党を彼らなりに了解し、綱領としても組織としてもこれを受け入れる根拠が、このときに形成される。


二 私は以前の大衆ではないがまだ階級的な名前を発見していない

 さて最後に、「大衆政治同盟」の「大衆」、すなわちこの私とは、いまの段階で「どのような人々であろうか」。私はこれまでにも、「大衆」という呼び名を、漠然とは、また便宜的には使ってはこなかった。それは、反乱の共同性に投入されて「アジテーター」との関係を析出する――すなわち集団を形成する――私たち各人の規格だった。けれども、この私たちがいまや自らを政治的集団に組織化した以上、この組織の構成員たる私たちの名前をも、もうすこし限定しうるにちがいない。
 たしかに実際上は、一定の階層や階級の人びとを主として同盟が組まれることは多い。それは組織の名前やスローガンにも明瞭にあらわれる。「――農民同盟」とか「学生の処分撤回要求」とかいうように。けれども、この組織のかかげる目的が、集団のトータルな性格をきめるものでないことを、私はすでにくりかえし強調してきた。自己の古い履歴を清算して反乱の共同性に身を投じたこの私こそが、現に集団を政治同盟たらしめているのであり、また他方、生れたばかりのこの政治集団にあっては、私が自らの階級的性格を再発見する経験は、まだ可能になっていない。要するに、私の政治同盟は誕生の秘密からしてそもそも階層集団ではなく、かつ階級の形成をなおとげてはいないのである。
 実際の革命の歴史でも、当初、現実はまさにこのとおりである。そこでは、集団の事実上の階層構成が、一義的にその政治的性格をきめるなどということはない。「労働者の」組織だから「革命的」だといえないことは、彼らがその階級組織(運動)の枠を破れないなどと断定できないのと、まったく同様である。なぜなら、労働者の組織(労働組合等々)も、反乱以前は日常的経営として、実際上、経済的・文化的等々の性格のものだったのであり、反乱を通じたその政治への登場が組織の内実を変え、旧来の階層的枠組が成員の新たな同盟のもとに破られてはじめて、彼らの集団は革命の「大衆政治同盟」となるからだ。だから、あらゆる革命は次の証言にあるような事実を、つねに発見することになるであろう。

労働者は、革命期には単なる普通の組織でない、まったく別な組織が、自分たちに必要だということを、自己の階級的本能によって理解した。(15)

 革命期に私たちがいま形成した、この「まったく別な組織」こそ、まさに私の「大衆政治同盟」なのである。
 もしも、いまの段階でプロレタリアートという言葉を使うとしたら、その出身階級の別なく、新たな同盟組織を自己表現として政治に登場する大衆に、私はプロレタリアートの名を与えることにしよう。この命名は、一方では「近代組織労働者の階級」(エンゲルス)という経済的ないし階層的なカテゴリーから、また他方では、近代資本主義社会の全否定といった哲学的理念から、プロレタリアートの規定を解放する。しかしプロレタリアートのこの定義は、それをたんに反乱の行動に励起した無定形の群集として、「ルンプロ化」するものではない。政治的であることと集団であることとは、すでにプロレタリアートの定義に属することなのだ。プロレタリアートとは、ここでは、反乱における私の政治的集団である。だから前章までの私の記述は、プロレタリアートに類する概念を登場させることができなかったのだ。しかしいまやこれ以降、私の政治的経験史は、かかるプロレタリアート=集団の政治的経験として、意義づけていくことができるであろう。
 プロレタリアートをこのように考えるならば、それは反乱世界の政治表現主体というに等しいことだ。反乱世界の共同性が私の共同的再生として経験されたように、行動する大衆が、自ら政治的同盟に盟約することは、大衆にとっては政治的に再生することの確認なのである。反乱において、私たちは共同の事業として、自己を新たに形成するものであったように、反乱の組織化は、この自己形成を同時に政治的形成として確認するものなのだ。すべての政治組織形成の主体的秘密がここにあり、プロレタリアート大衆が自己を階級に形成する、現実的端緒がここに発見される。*
*党の任務は「プロレタリアートを階級に形成することである」(マルクろ。くわしくは『結社と技術』参照。なお「階級」については、のちあらためて詳述される(本書、第五章第一節)。
 さてこのように、私の政治的経験が「大衆政治同盟」という組織表現をとってはじめて、反乱世界は革命の運動過程へと現実的な歩みをはじめる。もとより、政治的に組織されることなく潰える反乱の事例は、実際にはいくらでもある。しかし、およそすべての革命は、以上のような大衆の政治的自己組織化なしには、考えることすらできない。
 いうまでもなく、私たちの自己組織化から革命権力へは、なお千里の径庭があるにちがいない。私はなお、そのことに充分気づいてもいない。「いままでの数倍も、いや数十倍も苦しく、しかし、それ故に、無限の躍動と可能性をはらんだ季節が訪れようとしているのだ」――こういうアジテーションを発しながら、はじめたばかりの政治的経験に私は熱中しているのである。
しかし、この段階ですでに、ひとは私にあげつらおうとする。革命権力を獲得した典型的な組織の事例――「組織されたプロレタリアートとその党」――などと対比して、私の最初の組織を判断しようとする性急な人びとのことだ。私のスローガンは「政治的意識の低い」身のまわり要求だとか、私たちの集団は雑多なプチブルの寄せ集めにすぎな意、等々と。

プロレタリアートの前衛部隊としての自己の役割を自覚し、大衆をプロレタリアートの階級的利益の水準にまでひきあげうる党のみが――しかり、ただかような党のみがI労働者階級を労働組合主義の道からひきはなして、これを独自的な政治的勢力に転化しうるのである。党は労働者階級の政治的指導者である。(16)

 だが、政治理論がとりくまねばならないのは、大衆組織の「自然発生性」に対比して、「党が必要である」という命題を論証することなどではない。大衆組織の「意識の低さ」などをとりあげることは、すでに党の定義そのものに含まれている事柄を反復しているにすぎないことだ。理論の最初にして最後の仕事は、党と大衆の対比ではなくて、両者の間を埋めること、つまり反乱から革命権力への「千里の径庭」をたどっていく、運動の力学を追跡することにある。これは、マルクス主義の文脈でいえば、「階級形成論」にほかならないのだが、奇怪なことにマルクス主義的政治理論は、この基軸をなす理論問題に深入りすることをいつも避けてきた。たとえば闘争集団の内部分裂の問題一つをとっても、これが事実上不可避的な事柄であるにもかかわらず、階級形成論がこの問題を理論の俎上にあげたことがこれまであっただろうか。
 私は以上に、大衆の政治的経験や政治的組織の性格について記述してきたけれども、ことわるまでもなく、これらを党の性格などと対比することが目的だったのではない。最初の政治的組織をして、政治の「千里の径庭」の遍歴へと出立させることが、本章での私の記述の眼目となっている。実際、ここから、大衆の政治的問題は、敵対的闘争のなかで否定の弁証法的運動を構築する道程に出発しなければならないのだ。
 それゆえ私は、自らの政治的経験を展開していくことは、もっぱら私自身の仕事――「プロレタリアートの解放はプロレタリアート自らの事業である」――と知らねばならない。本章の政治的経験も、まさにこのような意味で私の経験であったが、今後も事あるたびに、私はこの自らの事業に固執していくであろう。それは私の根源的な党派性――大衆の党派性――である。



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