政治の現象学 第4章 政治的意識の飛躍

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第四章 政治的意識の飛躍


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第四章 政治的意識の飛躍


第一節 政治的意識の経験史

一 私は 政治の経験史を私の集団的意識の経験史として追っていく

 反乱から革命への長い物語の中途にあって、いま私の政治的集団は、この遍歴において私の何が変っていくのか、という問いのまえにたっている。もしも革命が、たんにクーデタ式の権力奪取を意味するのでないとしたら、革命へのそれこそ「千里の径庭」を、この私の集団はどのようにしてたどっていくのか。
 ひとはたとえば「共産主義の原理」などから逆算して、この道程を、あたかも教育のごとくに考えることに慣れている。だがそれにしても――「共産党は、労働者階級の直接眼前の目的と利益とのために戦うものではあるが、しかしその現在の運動の中において、また運動の将来を代表するものである」(『共産党宣言』)とはいえ――、集団がこの道程を歩み切ることは、とうてい信じがたい、途方もないことのように思える。とりわけいまは、集団は日々その力を増強し、いつか未来に「決戦の日」を迎えるような過程ではなく、マルクスではないが、「二十年を一つに圧縮した数日」を経験しているのである。この「数日」に、さらに「労働者の解放は労働者階級自身の仕事でなければならぬ」という条件が加わるとしたら、それこそどういうことになろうか。
 もちろん私はここで、「二十年を一つに圧縮した数日」をまえにして、大衆のうちに蓄積されてきた力量など、どうでもいいといおうとしているのではない。しかし、こうした準備のいかんにかかわらず、事実として革命は、「圧縮された数日」にそれ自身の決着をつけられてきたのだ。人はいつも、この「数日」の外に放り出された後になって、一種唖然とした心持で革命の過程をふりかえる。
 だが他方、こうしてふりかえってみれば、革命の数日に大衆とその集団が、急激に目もくらむばかりの高みに押し上げられたこともまた、革命過程における途方もない事実だったと思いいたることだろう。すべての革命に値する革命では、「数日のうちに人類の全歴史が生みだしたものより多くのものを生みだした」ということがいわれてきたのだ。実際、大衆が自らを「ダイナミックに」変えていく有様こそ、いつの革命の場合にも、もっともめざましい光景となってきた。
 前節で私は、プリミティブな政治的経験の直接的帰結として、集団の結束強化、集団内の敵の排除、そして集団の内部分裂などを記述した。しかしその際にも、私は、これらの諸帰結が組織として展開されていく具体的形態に焦点を合わせたのではなく、これらを生みだしていく私たちの政治的共同性――政治的集団の共同意志――をこそ記述しようとしてきた。だからこの観点では反乱から革命にいたる集団の経験史は、なによりも集団意志の経験史として記述される。それはあくまで集団におけるこの私の意志と、その成果(制度的形態)との「たわむれ」として経験されねばならない。いいかえれば、「二十年を一つに圧縮した」革命の日々に、人びととその集団が急激に変っていくことを、私はなにより私の集団意志・集団的意識の変化、として追っていきたいと思う。

革命は教育する。しかも急速に教育する。ここにこそ革命の力があるのである。(1)

 このように、革命はさまざまな意味で「教育」という言葉を酷使してきた。いうまでもなく、これは個人の教育のことではない。集団における大衆の政治的意識が、革命過程で――急速に――変ることを、これは主張するものである。史上あらゆる革命は、それぞれにこのような証言をもつといっていいであろう。たとえば卑近な例をあげよう。

ひとびとも育つ
アカシヤや泰山木のように
あるとき急速に

一九六〇年の雨期
朝の食卓で 巷で 工場で 酒場の隅で
やりとりされた言葉たちの
なんと跳ねて躍っていたことか(2)

 たしかに、こうした証言のバリエーションは、大衆反乱の数だけ無数に見出すことができる。だが革命の過程で「ひとびとが育つ」ことは、それほどに自明のことだろうか。
 もしそうならば、「ひとびとも育つ」という証言とまさに正反対の発言が、やはり反乱の数に応じて無数に存在するという事実を、私たちはどのように理解するのか。いま引用した詩の一節は、一九六〇年の雨期における人びとの心を、成長する樹々の饒舌に重ねるという伝統的手続きを介して、「ひとびともたしかに育つ」ことを証言するものとなっていた。だがまったく同じようにして、水を含んだ樹々のイメージに人びとの心の重さを託する証言だって、当時、容易に見出すことができたに相違ない。次のような発言も、ただそのおかれた状況の切迫さのゆえに、目立つものとなっているにすぎないであろう。

専制者に向って、目も手もあげようとせぬ奴隷の民よ、好きにするがいい! 今日の反逆者は明日には平伏し、後悔のほぞを噛むだろう。君らの悲惨と隷従の境涯にそのままとどまるがいい! 鎖を断ち切ろうなどとせぬがよい! 君らに必要なのは、君らを結ぶ鎖をもう一度自らの手でしっかりとハンダづけし直すことだ。もう二度と革命など起さぬがいい。そうすれば、少なくとも膝まずいて許しを乞う恥辱は免れることができようから。(3)

 あるいはまた’

プロレタリアートは、かれらの指導者たちをではなく、かれら自身を裏切ったのだ。わたしは、つぎのような冷たいホゾをかむような結論に到達することを余儀なくされたのである。すなわち、プロレタリアートの独裁は、経済的にも、軍事的にも、政治的にも、うち破られてしまったのだ。たとえ、社会主義への移行が経済的および政治的に不可能だったとしても、もしも階級意識をもった革命的プロレタリアートがいたならば、プロレタリアートの独裁はこのようなやり方で崩壊することはなかっただろう。
できることなら、わたしはもっと別の結果を望みたかった。プロレタリアートがバリケードを築いて闘うのを見たかった。
プロレタリアートは、あらゆる種類のアジテーションにもかかわらず、かれら自身の工場のなかで「プロレタリア独裁を打倒せよ」と叫びつづけた。将来なんらかの別の政府ができれば、もっと失望するだろうにもかかわらず。
いまやわたしは、この国のプロレタリア大衆を、階級意識をもった革命家に教育しようというわれわれの実験が、失敗に終ったことを認めざるをえない。プロレタリアートが革命的となるためにはなお、もっと非人間的で残忍なブルジョアジーの独裁が必要なのだ。(4)

 以上の証言はいずれも、革命への道程の中途で潰えてしまった大衆の運動を、とりわけその政治的意識の問題、としてとらえている。「われわれの失敗」は、端的に、「プロレタリア大衆を階級的意識をもった革命家に教育」することの失敗である。ここでもまた「教育」だ。だから「奴隷の民」や「遅れたプロレタリアート」への呪詛は、「革命は教育する」ということの反対事例として、むしろかえって逆に、本物の革命が人びとを「育てる」事実の途方もなさをきわだたすのだとうけとることもできよう。
 一般的にいえば、いまみた「意識変革の失敗」の事例も、革命のある時点で人びとが――もときた方向へではあれ――その意識を変えたということにはちがいない。私の意識変化という問題は、その方向は別にしても、なお政治的問題たることをやめてはいないのだ。
 けれども、私たちの経験は、いまではもっと別のことを知っている。たとえばソルジェニツィンの「イワン・デニソヴィチの一日』が現われたときのことだ。自ら理由もわからずにラーゲリにつながれている農民イワンには、自分の境遇を、レーニンの国の理念に照して見るという意識がまるでない。「労働者・農民の国なのに……」という意識が、一瞬でもこの農民の心をかすめたならば、それは「労農独裁」の国家にとって、一瞬の救いとなったであろう。人びとのそこに、政治はつけいることができる。だが作者は、この農民にそうした意識や行動を与えようとはしない。ソ連社会が「社会主義社会」か否かという政治的議論のレベルは、ここではどのようにも見出しえない。トロツキズム以降の「ソ連論」も、ここにきわまったということができるであろう。
 こうしていまでは、政治的に人びとが変るという命題は、たんに自明でないばかりか、およそひとは政治的に変るものではないという、はるかに深い射程の否定命題を、暗い背景としてたてられている。革命の過程をなによりも大衆的意識変化をメルクマールとしてとらえようとする観点でいえば、これはまさに、およそ革命というものが、この世の深いところで失われていることの証左でなくてなんであろう。


二 私はわが手を焼いてとびのくことによって火の扱いかたを学ぶ

 だが、それでもなお、政治的に「ひとびとも育つ」ということが了解しうるとしたら、それはどのようにしてか。
 いま私は、私の意識変化の問題を、通常の教育のごとく、日常的意識のレベルで扱っているのではない。日常意識の堅い岩盤が動揺し、人びとが一瞬の放埒沙汰におちいる反乱を事実上の出発点として、この私の政治的集団が激しく何者かに成ろうとしている過程での出来事に「教育」の問題も限定されている。だがそれにしても、この限定は、「ひとびとも育つ」ことの自明性に、いくらかでも近づく助けになるであろうか。
 「大衆の啓蒙」というレベルでの教育にくらべれば、たしかに革命の教育は、「急速」に成果をあげるといいうるかもしれない。だが「革命の教育学」には、もう一つやっかいな問題がつけ加わる。つまり、問題は終始「革命が」私を教育することであって、人びとの政治的意識を「変える」ことを仕事とする、党的集団が私を教育するのではないということである。
 たしかに実際上は、革命過程で私が「育つ」ことと、この私を「育てる」立場からする介入とは、けっして切り離しえぬ事柄である。両者の混淆は、レーニン以降の史上の大衆反乱において、例外のない事実だといってよい。しかし同時に、このレーニンの革命においてすら、すでに問題の二つのレベルが、はっきりと分離されてとらえられていたことも、明らかなことなのである。たとえば一九〇五年の次の発言をみよう。

古い幻想は、すべて革命によって容赦なく最終的に吹きちらされてしまうであろう。革命は、いろいろの階級にはじめて真の政治的洗礼をほどこすであろう。これらの階級は、そのイデオローグの綱領や戦術的スローガンに自分の本性をしめすだけでなく、大衆の公然たる政治的行動においてもその本性をしめして、明確な政治的相貌をそなえたものとなって、革命から出てくるであろう。
革命がわれわれを教育し、また人民大衆を教育することは疑いないが、しかし、闘争している政党にとっていま問題となっていることは、われわれが革命になにかをおしえこむことができるかどうかであり、またわれわれがわれわれの社会民主主義学説の正しさや、またただ一つの最後まで革命的な階級であるプロレタリアートとのわれわれの結びつきを利用して、革命にわれわれの刻印を押し、口さきではなく、実際に革命を真の決定的勝利に導き、民主主義的ブルジョアジーの動揺性と中途半端性と裏切りとを麻癖させることができるかどうか、ということである。(5)

 ここではほかに多くのことがいわれているけれども、いまはとりあえず、「革命になにかをおしえこむ」という率直な党の発言に注目しよう。するとこの意図は、「革命が人びとを教育する」という事実を前提としていることが、この発言の前半で同じく率直に認められていることがわかる。人びとは政党を通じて(政党に委託して)自己を表現するだけではない。私は自らの政治行動を通じて自らを政治的に表現し、このようにして革命をくぐりぬけ、革命からでてくるのだ、とレーニンはいっている。
 もちろんいうまでもなく、レーニンの主要な仕事は、終始、革命に「われわれの刻印をおす」ことだった。革命の日々のレーニンの文書は、こうしたものとしての文体の統一を示している。これにたいして、一九〇五年の革命でも一七年の革命でも、なによりも「革命が人びとを教育すること」、すなわち「大衆内部の意識変化」を基軸に事態をとらえようとしたのは、トロツキーであった。革命の大衆にむけて発せられたトロツキーの言葉と修辞学とは、レーニンの組織文書と対比して、なによりもこの点がきわだっている。

大衆は、われとわが手を焼いてとびのくことによって、はじめて革命の火をあつかうことを学ぶ。
ボリシェヴィキは、ただ大衆の教育過程を促進させることができただけである。(6)

 私たちはいまこの発言を、党の「意識性」にたいする、大衆の「経験主義」の強調として読んではならない。大衆運動自らが「革命の火をあつかうことを学ぶ」事実が、党の側からするこの過程への援助の前提として区別され、対比されているのである。さきにみたように、レーニンの場合もこの点でトロツキーと異なるところはなかった。両者の活動スタイルと文体とが力点を異にしていたとしても、それは卑俗な分業などではない。私が「育つ」ことと私を「育てる」ことの相関を通じて、かつて革命とは、事実こうしたものの全体であったのだ。
 私はいま、ロシア革命の証言を例として、「人びとが変る」という問題を、党の介入から理論的に区別してとりだそうとした。これはあたりまえのことだろうか。ここではまだ、党的集団の経験にとって、このことが何を意味するかについて記述する段階ではない。だが、もしこの区別があたりまえのことだとしたら、それだけ一層、政治において私の意識や行動スタイルが変るという命題が、自明性を奪われることは明らかである。私が「育つ」ということを、もはや理論上、党の思想や指導性の問題に仮託することができないからだ。
 それでは、革命過程での大衆意識の独自の論理は、そもそも、大衆の生活意識の大地と政治的党派の意識性という両極に対立しつつ、孤独な理論の尾根道での検証に耐えうるものだろうか。たしかにロシア革命の政治家たちは、この命題をはっきりと擁護した。たとえば――

われわれは、事件の背後に集団的意識の変化を明らかにしようとつとめる。われわれは、運動の「自然発生性」を大ざっぱに云々することを排撃する。なぜなら、かかる言及は、なに一つ説明しないし、なんびとをも教えるところがないからである。革命はある法則にしたがって起るものである。このことは、行動する大衆が革命の法則を知っているということを意味するのではない。反対に、大衆的意識の変化は偶然的なものではなくて、客観的必然性に従属しており、そしてこの客観的必然性は理論的説明を可能にし、したがってまた予言と指導を可能にするということを意味する。(7)

 だが、このような理論的主張が、革命後十年にして当のロシアに登場した、「大衆意識の下部構造決定論」にたいするポレミークとしてしかありえなかったように、「大衆意識の変化」という論理は、すでにあらゆる毀誉褒貶につつまれて出発せざるえなかったのだ。レーニンやトロツキーは、この論理に革命論の基軸をおくことによって、ロシア革命の「よき時代」のみならず、「大衆の革命」という見果てぬ夢を最大限に輝かせた。しかし同時にこうすることによって、彼らはこの夢を、鋭い理論の隘路に追いこむことにもなったのである。
 「革命の法則性」、「大衆的意識の変化の客観的必然性」とは、どのように検証しうるのか。「労働者の解放は労働者階級自身の事業だ」という命題は、どのように可能か。


第二節 集団の動力学


一 私の集団の再形成と諸集団の動力学の展開が私の意識を変える

 ところで、前章で形成された私の政治集団は、「革命への千里の径庭」をいまからたどっていくのだと予告された。そして、さきのロシア革命の証言は、この道程が偶然の行き当りばったりのものでなく、「ある法則性にしたがって」たどられるのだと主張している。このことは、「大衆」の一人たる私自身が、「革命の法則」を知っていることを意味するものではないが、だからといって、私の道行きを大ざっぱに「自然発生的」などといってはならない。私たち大衆の動きも「客観的必然性」に従属しているのであって、こうした客観的な革命の過程こそ、ロシア革命以降人口に膾炙されるようになった「革命のダイナミズム」にほかならない。
 それでは、「革命の法則」を知らないのだとされるこの私にとっては、革命のダイナミズムとは何か。ロシア革命の証言は、まさに、革命のダイミックな事件の「背後」に、私の「集団的意識の変化」があるのだと主張しているのである。だとすれば、政治の遍歴に出発しようとしている私の政治集団が、本章で、「集団意識の変化」という問題にぶつかったのは、文字どおり偶然でもなんでもない。私の集団が、革命への「千里の径庭」を展開していくことは、まさに、私の集的意識の変化として、この私にとって経験されるのだ。両者は、私の政治的経験史において、同じことなのである。
 そこでまず、「革命のダイナミズム」とは本当のところ何なのかを、調べることからはじめよう。その際、革命過程を一つの動力学として問題にするためにも、大衆の運動を大ざっぱに「自然発生的」などと片づけてはならない。なぜなら、もしも私がたんに「ひとびと」とか「大衆」の一人にすぎないのであれば、「革命の法則」といっても、「大衆」の運動を全体として問題にしうるにすぎないからだ。これでは、革命の動力学も、たかだか「大衆」と権力集団ないし党的集団との外面的な相関としてしか扱うことはできない。このかぎりでは、いわゆる政治力学のレベルをいくらも超えることはできないであろう。仮にも革命過程のダイナミズムをいいうるとしたら、このダイナミックスの展開は、なによりも大衆自身の内部の動力学的関係によって駆動されるものでなければならない。
 いいかえれば、大衆運動がその内部に異なる諸力の不安定な関係をもち、大衆が自らを変えることによってこの関係自体をも変えていく過程が、「革命の動力学」の展開といわれるのである。そしてここにいう「異なる諸力の不安定な関係」とは、すなわち端的に、革命過程における大衆的諸集団とその相互関係として、この私に経験される。通常このような大衆諸集団の展開過程が、種々の――「敵」であれ「味方」の側であれ――党的な集団(権力)の外的介入によるものとみなされる場合にも、大衆がその内部の矛盾を、諸集団として外化する動きがあってはじめて、党と大衆集団との関係もダイナミックな呼応の弁証法を生みだしうるのである。
 ひるがえってみれば、前章で私の政治的集団の形成が経験されたとき、この政治的経験が、敵前での緊張した過程であればそれだけ一層、味方を一つに結束する努力がかえって思いもかけず、唯一の集国でなく諸集団の対立を結果してしまう逆説が展開された。したがって、最初の政治集団としての大衆の政治同盟も、その集団的盟約と排他性の強さによって、かえっていくつもの大衆同盟として展開される契機を、自らのうちにもつものにほかならない。私は集団内面の矛盾を反乱世界に外化し、この世界を諸集団の対立として分化・構造化せしめるのだった。
 それゆえ、反乱世界の政治的な展開過程は、たんにそのつど、唯一の敵と唯一の味方との「戦争」としてでなく、同時に反乱世界内部における、私たち諸集団の多元的な相関として展開されていく。「革命の動力学」への伏線は、このように、反乱世界における私の政治的経験そのもののうちにすでに孕まれていた。
 けれども、くりかえすが、集団の経験史の記述は、諸集団の力学的関係とその展開を対象的に取扱うものではない。これまでにも大衆の集団形成の諸契機は、なによりも私の観念のレベルで経験されてきたのである。革命過程のそれぞれの段階で、私はその共同の観念(意識)に集団としての形を与えることをもって、現実の敵対的闘争を内面化する。そしてまた逆に、一定のシンボルとして形成された集団は、集団の各人を一つの共同的意志として形成するための、新たな媒介として機能する。各人による集団の形成=集団による各人の形成という弁証法が、私の集団を集団たらしめている根本の関係である。
 したがってここでは、集団の形成もその変化(解体を通じた再形成)も、なによりも成員の共同的意志の表現とその飛躍との関係で考えられるのである。だからこそ革命の動力学的展開もまた、そのつど敵対的闘争を内面化する、私の集団=意識の形成展開過程として意味づけられねばならないのだ。
 さて、このようにして、私の政治的経験史のレベルでは、人びとの政治的意識の変化という当面の問題は、なによりも、私の諸集団が相互闘争を通じて自らを変えていく過程として――すなわち、人びとの変化をその集団の変化として――追跡することができるであろう。逆にいえば、革命の動力学が諸集団の性格とその相互関係を変えていく過程は、ただこの関係の変化が集団の意志として内面化されることによってはじめて、この私の政治的経験として意味をもつようになるのだ。
 人びとの意識変化にたいする集団の「有効性」は、従来、別の観点から一般的に確認されてきた事柄である。「一人一人の個人の習慣を変更するよりも、集団の習慣を変える方が容易である」(レヴィン)と、すでに「集団力学」の創始者たちがいっている。ここから、人びとの習慣を変えるための集団形成と、その運営技術の開発がすすめられてきたわけである。そして、革命の証言が、おしなべて大衆的意識変化の「急激さ」に言及している事実は、明らかに、人びとの集団的形成によって、彼らの意識変化が加速されることを示している。
 革命過程で自らを形成する私の政治的集団の場合は、集団力学的な「人びとの習慣の変更」が、とりわけ「有利」であることは明らかである。ここでは、集団力学の命題を、あやふやな心理学的根拠で基礎づける必要は何もない。
 それというのも、政治的集団の形成と変化とは、現実の敵対的闘争の内面化として、いつも自己の存亡を賭けておこなわれるものだからだ。この集団は、啓蒙とか内部討論とかの、心理学的過程によって形成されるものではなく、いわんや外部からする人為的・形式的形成物――「集団力学」的観点でいっても拙劣な――などではない。敵集団にたいする死活の関係の内面化として私の集団は、現実の力に押されて自らを形成し再形成する。人びとの習慣の変更自体が広い意味で習慣的におこなわれる通常の集団とくらべて、政治的集団の特異性がここにある。従来の社会的集団が反乱し、反乱の集団として自らを再形成する場合のように、敵に直面して、それこそドラスティクな「集団の習慣の変更」がおこなわれる。反乱した人びとは、自らの死を防ぐために自らとその集団とを再形成し、かつまた、こうして形成された集団(意志)を媒介にして、集団の諸個人の意識と習慣とを強く急激に変えていく。互いに自らの存亡を賭けた、諸集団の動力学的関係のゆえに、その内面化としての私の意識=集団形成がドラスティクなものとなりうるのである。このような集団形成が、その成員の意識形成におよぼす内面の力の緊迫さは、容易に想定しうるであろう。
 それゆえ、「革命は教育する、しかも急速に教育する」という事実は、もともと、なんらかの「教育機関」による宣伝や煽動、あるいは制度的な革新の成果のごときものととらえることはできない。かつてレーニンは、「政治と教育学との混同について」という未完の論文を書き、この混同はデマゴギーだと批難した(全集第八巻、四五四ページ)。党による大衆の啓蒙・宣伝はいつの場合にも無条件で必要であり、この活動には「ある種の教育学の要素がある」。だがこの教育学を特別のスローガンに仕立てあげ、これを「政治」に対置させる者は、不可避的にデマゴギーに転落するのだとレーニンはいう。政治の独自の教育とは、現実の敵対的闘争のなかで、集団が死活をかけて自らを育てることだ。「実践による教育」とか「大衆の自己教育」とかいう修辞のレベルを脱して、「革命の教育学」を、明瞭にこの集団論にすえることが必要なのである。
実際、歴史上のあらゆる革命で、政治党派は、なんとしばしば革命の「自己教育」に依存しようとしたことか。それは彼らの党の負けおしみや任務放棄を意味したのではない。「革命」という彼らの夢が、根底で、「大衆が自らを変えること」に依存していたからなのだ。その後、党というものの宿命が、「革命は大衆自身の事業だ」という命題を、体裁のいいきまり文句に変えてしまったけれども、かつて党は、自らの革命のためにも、この命題の実現を文字どおり必要としていたのである。
 だから、革命渦中で、彼らの党はほとんど異口同音にいっている――

われわれの出す小冊子が彼ら〔ソヴェト〕に社会民主々義をおしえないとしても、わが革命が、彼らに社会民主々義をおしえるであろう。(8)

大衆は、権力を行使することによって、権力を行使することを学ぶ。ほかに学習の手段はない。幸いなことにわれわれは、プロレタリアートに社会主義教育を、というようなことがいわれた時期を、すでにあとにしている。(9)


二 味方の分裂で身を裂くことをつうじて私は古い身柄を脱皮する

 このようにしてはじめて私たちは、人びとの意識が変るだけではなく、これが不断に変るという問題をも展望することができる。「革命の動力学」という観点が示しているように、革命過程での集団の歴史は、諸集団の関係の歴史である。集団は新たな局面での新しい敵対関係を内面化することによって、そのつど相互に自らを変えていく。そしてすでに前章で経験されたように、この敵対的闘争はたんに民衆「外部の敵」との一致団結した闘争のみならず、民衆「内部の敵」との闘争であり、政治集団は後者の(近親憎悪の)敵対関係を、集団の分裂(分化)再形成として内面化するのである。
 このような大衆集団の内部分裂が私の意識におよぼす影響こそが、真に破壊的であり革命的である。この分裂は、「昨日までの味方」を敵対的媒介としておこなわれるのであり、それだけ一層あいまいさなしに新たな「味方」は自分を知り、自分を形成せざるをえない。多数者の「統一」たる「国民的」「民主主義的」合意は破られるからだ。私は、身を裂くことを通じて、古い身柄を脱皮していく。
 分裂を通じた集団意識の尖鋭化という以上の事柄は、歴史的にいえば、古くブランキ風の「永続革命」論のうちではじめて経験されたものにほかならない。たとえば――

俗流民主主義者は「圧制者」にたいする「人民」の、早期の、きっぱりと決定する勝利を予期していたが、われわれは「圧制者」を排除したのちの、まさにこの「人民」のなかに隠されている対立的要素のあいだの、長期の闘争を予期していた。(10)

 このような「人民内部の長期の闘争」は、たんに「圧制者」にたいする「人民」の「きっぱりとした勝利」――国民的な「美しい革命」にはとどまりえない、十七、八世紀ヨーロッパの革命の、まさに「いとわしい」実相にあったろう。歴史やあるいは「プロレタリア党」の戦術の観点から永続革命の問題をとりあげることは、いまは必要ではない。だが、ほかならぬ私の意識変革の問題として、その後ことあるたびに、このような「人民内部の闘争」が、論争のまととなってきた事実は消すことができない。
 実際、もしも最初から、「二大勢力」の二元的競争のごとき政治関係が破れないならば、真の意味で、集団=意識の革命的変化などとはいえない。ブルジョアジーとプロレタリアートの二大対立という概念も、これではついに啓蒙的な対立図式をぬけでることはないだろう。「プロレタリアート」は革命初期の民主主義的・国民的意識のままにとどまり、あとはこの力を「日々増強する」のだという話になる。しかし、たとえばレーニンは、革命が大衆を教育する事実に満足せず、この革命にさらになにかを教えこもうとした。この際レーニンは、「革命にわれわれの刻印をおす」ことを、なによりも、「ただ一つ最後まで革命的なプロレタリアート」により、「民主主義的ブルジョアジーの動揺性」を麻痺させることだととらえている。いいかえればレーニンは、「圧制者」にたいする国民的・民主主義的勢力といった幻想に、「革命の教育」を基礎づけることを排する。もしも革命の不断の前進ということがありうるとしたら、この「革命的民主主義」勢力の集団的分裂による尖鋭な意識対立を通じて、「革命的プロレタリアート」が、他の集団意識にたいして自らを否定的に形成していくことでしかない。初期の大衆集団がその分裂と再形成によって、不断にその意識を尖鋭なものとしていく過程が、レーニンにとって人びとが育つことであり、人びとを育てることであったろう。
 「革命の教育学」あるいは大衆の意識変化という難問が、真の意味ではじめて登場したのが、この「プロレタリアートの分裂」の時期であったことは、まったく特徴的な事柄である。第一次世界大戦後の革命期に、マルクスとエンゲルスの「社会民主党」が組織的に分裂し、相互に敵対するという事件が、全ヨーロッパ的に生起する。老エンゲルスが想定したような、労働者階級の「日々増強する部隊を決戦の日まで無傷のまま保っておくこと」などは、事実たんなる楽観的な幻想にすぎなかった。
 「ブルジョアジーとプロレタリアートの対立」を、二大集団が表現する(と称する)幸福な時代はここに終った。いわば革命の政治と教育学との蜜月(混同)が終ったのだった。
 このような事態が、実際上、「革命が人びとを教育する」という命題を、ほとんどぬきさしならぬ隘路において登場させたことは、容易に想像することができる。ありのままのプロレタリアート――通常それは社会民主党のような「大衆政党」に組織化されている――は、革命過程では不可避的に組織的な内部分裂を経験する。しかしそうであればこそ、プロレタリアートの既成集団の分裂による、革命派大衆の新たな集団形成が、大衆の「意識変革」とまさに呼応したものであるか否かが、枢要の問題として登場するであろう。ドイツ革命の経緯が示したように、マルクス―エンゲルスの組織のほとんどずたずたの分裂は、しかし結局、新たな共産党の結成と呼応する革命派大衆の権力形成として展開されはしなかった。「プロレタリアートのイデオロギー的危機」、「階級意識をもたないプロレタリアート」等々への呪詛が、ヨーロッパ共産党の指導者のうちに、一斉に生れたのはこの時のことだ。プロレタリアートの分裂を契機とする革命派の新たな集団形成が、たんにイデオロギー的・形式的にしかなされず、プロレタリアート自身は、工場のなかで、「プロレタリアート独裁を打倒せよ」と叫びつづけた。要するに「大衆がついてこなかった」という現実――その後ありふれたものとなる真実――がはじめて露呈した。
 しかし他方、ロシアの例がそうであったように、大衆集団の分裂的展開が、大衆意識の飛躍による組織の飛躍にとって、決定的な契機であり条件であることもまた真実である。毛沢東ではないが、革命過程は私の政治集団の「団結、分裂、さらに団結」としてあるしかないであろう。くりかえすけれども、私の政治的意識の飛躍は――もしありうるとしたら――自らの死活を賭けて革命過程に呼応する、大衆集団の脱皮を媒介にしてしかありえないからなのだ。これこそが「事件の背後の集団的意識の変化」ということである。ここで「事件」とは、くりかえすまでもなく「革命の動力学」、すなわち諸集団の力学的相関の展開である。
 トロツキーの歴史記述が、深くダイナミックであるのも、「革命の諸事件の直接的原因」を、「相争う階級の精神状態における変化」とみなす史観にもとづいているからである。レーニンがそのプロレタリアートを、ブランキ以降の永続革命論の脈絡で「ただ一つ最後まで革命的な階級」と名づけるのも、以上の点に関連している。レーニンにとってプロレタリアートとは、「革命の諸事件」、すなわち社会の集団的分裂と相剋の過程に耐え、この過程を永続させるべく、不断に自らを形成してきた、大衆の政治集団を指すのである。


第三節 「意識変革」


一 私にはひとの心はわからない――しかしひとびとの心はわかる

 革命過程での人びとの意識変化を、なによりもその集団の変化として経験しようとする前節の立場は、実は一つの方法的前提を踏まえている。それは、政治的経験における人びとの意識の変化などをいったいどのようにして知りうるか、という問題である。
 というのも、現実の政治的言語は、「ひとびとが育つ」こと、すなわち人びとの政治的意識を、しばしば一種の集団的擬人化によって表現し、こうすることによって意識の問題を神秘化してしまうのである。たとえば――

私たち労働者が日本国民として日本の政治に対して意志を表わすことに遠慮はないと考えます。(11)

 あるいは――

われわれは、プロレタリアートの階級的意識の覚醒を阻んでいる、既成の社会主義者に対する批判者として立ちあらわれるであろう。(12)

 ここでいう「プロレタリアートの階級意識」や「国民の意志」なるものが、なにか実体として存在するわけもないのだから、こうした言葉は一つの抽象であり、いつもなにがしか「僣称」を意味している。だがここでは、私が前に政治的言語の機能としてふれた、「意味の詐称」(第一章第四節)ということに問題を解消してはならない。つまり、政治言語がそもそも多少とも手前味噌だとしても、しかし、政治発言がもし完全に恣意的なものであれば、そこにおよそ政治というものが存在しえぬことになる。文字どおり「勝手気まま」な発言は、政治発言のカテゴリーには入らないのである。それゆえ、一個人の発言といえども政治発言であるかぎりは、人びとに知りうること――政治的な伝達の可能性――が、どこかで保証されていなければならない。しかし、自分の発言がどのように「客観的法則性にのっとっている」と正当化したところで、こうくりかえせばくりかえすほど、この発言自体が政治的・イデオロギー的発言であることを、ますます証明するものでしかない。
 だとすれば、「国民」という実体が存在しない以上、私はこの「意志」をどのようにして知りうるのか。国民の一人一人の意識をたとえ調査しえたとしても、それで「国民」の擬人化が破れるものではない。だから、さきのような政治的言語のうちにも、ひとはひとの意識を知りうるかという、一般的でやっかいな問題が基底に横たわっている。ひかえめにいっても、私たちの政治的経験において、「政治的意識を知る」というのはどういうことなのか。
 前節では、政治的経験における人びとの意識は、私たちの集団の意識として経験されることが主張された。だから、もしもイデオロギー的擬人化を避けて「ひとびとが育つ」ことを把握しようとすれば、それは、現実の諸集団の関係とその変化とを指標として読まれる以外にはない――、という態度が、そこでは暗黙のうちに前提にされていた。私たちが政治的な事件として人びとの意識(変化)を確かに把握しうる根拠は、この私の集団にしかないのだ、と。
 ひとの意識を知るうえでのこのような態度は、それ自体が根源的に政治的な性格のものである。政治的経験における知の性格として、このことを了解することは重要なことだ。なぜなら、人びとの意識が集団の意志を媒介にして読まれるかぎり、それは諸個人の意識からすれば、政治的に「詐称」され、「搾取」されやすいなにかだからだ。
 しかし、すでに第一章で述べたように、この詐称や搾取は、集団外の諸勢力(権力や党)による作為だとはかぎらない。集団がその共同的意志の表現を、言葉にしろ行動スタイルにしろ、社会的流通手段を介しておこなわざるをえないところに、この現象は根本的に根拠をもつのだから、それは一つの政治的な宿命である。トロツキーは、大衆的意識変化が偶然的なものではなく、「客観的必然性」に従属しており、この法則性のゆえに、大衆的意識の変化は「理論的説明を可能にする」のだと強調したが、この可能性の根拠も以上のことのうちにある。そして、「革命の動力学」という彼の観点の根底にあったものも、大衆の意識変化は――意識した諸個人の相互作用によって生ずるにもかかわらず、これら諸個人の意識のうちにではなく――全体として諸個人から独立した、一つの「客観的連関」(マルクス)のうちにこそ現われるのだという考えであったろう。この「客観的連関」こそ、端的に革命過程における諸集団の連関である。
 それゆえ、政治において諸個人の意識が、集団のスタイルを介して、その集団の意志として読まれることは、各個人の想いを越えた一つの客観的形成物を、政治の知が対象としていることを意味している。
 このように諸個人は、その意識を集団(意志)の形成として外化し、表現することによってはじめて、政治的に知りうるものとなる。危急存亡の革命過程で、私たちがその共同観念に、集団意識として形を与えるそのかぎりで、逆に私たちは集団を通じて私たちの共同観念を読むのである。だからまたそのかぎりで、大衆的集団の変化という諸事件こそが、大衆意識の変化を読みとりうる指標なのだと前節ではいわれたのであった。
 しかしそれでは、革命渦中で人びとの意識変化を経験するこの私は、その実、「革命の法則性」を把握する対象的な理論の立場にすでに移転してしまっているのだろうか。別のいいかたをすれば、集団の意志とは、その内で行動する諸個人にとってはしょせん一つの抽象、一つの客観的形成物にすぎないのだから、集団の変化を人びとが変ることとみなすのは、この私からすればやはり集団を神秘化することだろうか。
 だがまた他方、私が革命渦中の集団でこそ「他者たち」を知る、という事実も変らぬ真実である。私に「ひとの心」などわからない。革命過程といえども、とくにこれがわかりよくなるはずはない。だがたしかに、すくなくとも「ひとびとの心」はわかるのだと納得する一時期を革命はもつ。このとき、たんに理論の立場のみならず、この一時期を生きる個々人が、他者たちとの共生を通じて他者を知る。「革命の記憶」がこれを証言している――

この事件に参加したひとびとはひとりのこらず、のちになって、革命を背景としてはっきりと輝いているあの単純で驚嘆すべき日をふりかえってみた。あの霊感にうたれたような人間洪水のイメージは、それを見たひとびとの記憶に永久にきざみつけられている。(13)

 私の記述は、終始このような場所――アジテーターの経験史の場――でおこなわれている。そのかぎり、この私と他者たち集団との分断――通常集団の疎外現象といわれるような――は、あくまで一つの政治的な結果であるにすぎない。だがそれにしても、この私、いまの証言にあったような「ひとびと」のうちの一人の私とは誰か。
 いまここで、この私(個人)が、いわゆる「個体」の観念とは別のものであり、また「およそひととは政治的に変るものではない」というときの「ひと」のことではないことに注意するのは、大切なことである。あくまで、政治の「霊感にうたれた」者、レーニンが「政治に突入してきた大衆」と呼んだ者たちの一人が想定されているのである。そして実際、革命過程で集団をつくる者たちはこのような諸個人である。
 集団の物神化におちいらないためには、私たちは集団を人びとの構想力の所産ととらえねばならない。しかし逆にこのためには、ここでいう「ひとびと」が、そもそもの理論の出発点から、集団をつくる諸個人――共同的個人――として把握されていなければならない。これはけっしてどうどうめぐりの矛盾ではない。
 このようにしていま、私の記述における第二の方法的前提がはっきりと表明されることになった。集団の意識は共同的個人としてのこの私の経験である。政治的な諸現象は、観察や対象的理論の立場ではなく、かかる私の政治的行為がつくりだし私がこうむるものとして経験される。そのかぎりで、私は私と他者たちの(政治的)意識をも知ることができる。意識もまた経験に属するものだからだ。


二 私は私の自己変革の問題を倫理から政治のレベルへと奪還する

 これまでにも私は、革命の「過程」とか「動力学」とかいう言葉をつかってきた。これらの言葉を支える根本的概念は、もちろん「時間」である。もしも私たちが、クーデタや「日々増強する部隊の決戦の日」によっては「革命」をイメージしないとすれば、ダイナミカルな問題の(物理的な)定義に属するこの「時間」を、あらわに問題とせねばならない。「われわれは待つすべを心得ている」とレーニンもいった。時間の命令にしたがうことは、革命の場合にも、政治の定義に属することであろう。そしてこれはまた、政治的形成の根本的に受動的な性格をも示すものである。
 政治の経験史、あるいはアジテーターの政治的遍歴史という言葉が使われているのも、このような文脈においてである。政治的経験のなかのひと(集団的自己意識)は、革命過程の敵対的闘争のうちでそのつど新たに自己を形成し、同時にこれを集団として表現していく。革命における諸集団の動力学的展開は、このように集団的自己意識の経験史として内面化される。内面化されてはじめて、革命の過程は「ひとびとが育つ」過程として了解しうるのだ。もちろんこの過程は単線的な進化の過程ではない。人は自らの集団の分裂に身を裂きつつ、事態そのものの「力に押されて」新たに変容していく。これは彼の集団に敵対する集団においてもまったく同様であり、敵に深傷を与えようと欲すれば、彼自らも身を裂く痛手を避けることはできない。こうした変容の過程に耐ええなくなったとき、アジテーター、すなわち集団的自己意識は潰える。彼の古い集団だけがなおイデオロギー的・形式的に残るということはあるだろう。だがその時点で「革命」はすでに終っているのである。
 明らかにこのような政治の経験史は、「意識の経験史」や、あるいは、魂の遍歴を表現として形づけていく、あのビルドゥングス・ロマン(教養小説)の形式をおもいおこさせる。だが、出発点から根本的に異質なのは物語の主人公の性格である。政治の遍歴史では、彼は最初から集団としての自己(意識)であって、自己としての政治集団が潰えた瞬間に、この遍歴史は現実的に終りを告げる。私は永久に「意識」や「魂」をもって生きねばならない。だが、私は、つねに政治的自己でありつづけねばならないということはないのである。
 以上のような意味で、革命により「ひとびとも育つ」という命題は、基底的に政治的私の経験である。しかし、「ひとびと」の意識をその集団の意志として読むといっても、もしも既成の抽象化された集団意志(「われわれ」)や「階級意識」などから出発するのであれば、この意識を神秘化し、物神化することを根本で回避しえぬであろう。いわんや組織としての集団とそのメンバーから出発してはならない。政治的私は、革命過程の時間に沿って、自らをそのつどわれわれとして形成していく(形成される)者だ。
 「あるとき」このような私は、事実たしかに存在した。ひとびとが急速に育つといいうるのは、このような「あるとき」のことだ。
 けれども、従来、政治的意識の問題は、こうした集団的自己意識の問題として十分に考えられてきただろうか。一方では、政治意識の集団的擬人化は、たえず私の政治的自己意識を物神化する――。マルクス主義における「プロレタリアートの階級意識」論のていたらくを思いだすとよい。もとより、経済的階級や近代組織労働者としての「プロレタリアート」の存在に、階級意識の物神化も「物質的」な根拠をもっている。
 だが、問題は終始観念のレベルのことであって、プロレタリアートは、革命過程で集団として自己を変えていく射程の、もっとも深い者たちとして措定されるべきものだからだ。私はさきに、「階級意識をもった革命的プロレタリアートがいたなら」というベラ・クンの発言を引用したが、若いルカーチも、おそらくベラ・クンと同席して、彼のこの敗北宣言を聞いたであろう。その後、プロレタリアートの階級意識について問いをたてたルカーチの現場は、このようなものだった。
 だが、ルカーチのプロレタリアートも、もっぱらその意識を問題としながら、自らの集団との相互作用を通じて、自己を変え集団を変えていく、独自の主体としては考えられていない。このことは、プロレタリアートの意識の問題を「党」のレベルから切りはなし、独自の「革命の法則」として問う視点がルカーチに欠けていることに、端的にあらわれている。「階級意識」、すなわち「近代プロレタリアートの歴史的使命」という党のイデオロギーが最初から前提とされ、これとの対比で、現実のプロレタリアートの「イデオロギー的危機」が問題とされているにすぎない。
 しかし他方、政治的意識の物神化の反面で集団的自己意識の問題は、いわゆる「組織の中の個人」のマゾヒズムに解消される。ことに、物神化のはなはだしさは、本来端的に政治の問題としてたてられたはずの、いわゆる政治的「意識変革」とか「自己変革」の問題を、たえず「個人の問題」のレベルに追いやってきた。そのようにして、「ひとびとも育つ」ことは神秘化され、それだけ政治の固有のレベルを離れてしまうのだ。たとえば――

必要な歴史哲学的意識〔マルクス主義的意識〕が個人のなかで正しい政治行動にまで、すなわちひとつの集団的な意志の構成部分にまでなって、めざめ、さらにこの行動をも決定することができるようになる、そういう決断を、個人のなかによびおこすのは、どんな倫理的思慮なのか。(14)

 いま私たちはこのような設問のうちに、梅本克己氏など戦後主体性派の問いと、きわめて類縁の意識を見出すことは容易である。一見するところこうした問いは、政治集団の物神化を排し、「集団的な意志」や「政治行動」と「個人」の問題とを結びつける努力にみえる。だが実際には、このような論理は、いつも――通常はもっと粗野な表現をとって――個人の倫理的問題への政治の不当な越境を許し、政治による「個人」の倫理的な抑圧の論理として使われる。なぜならこの論理では、「正しい政治行動」=「革命的プロレタリアートの政治」が、すでに倫理的に――すなわち絶対的に――前提されている。個人が正しい政治に「めざめる」ことが、この前提のゆえに、逆に倫理的問題だと予断されているのである。「自己変革」の問題を倫理的問題の方におしやることによって、この論理は「政治と個人」や「組織と個人」という俗論――結局は「個人」か「組織」かの神秘化におちいる――をいつまでも野放しにする。「正しい政治行動」の問題が、あくまで政治の問題であるのとまったく同様に、政治のなかで個人がこの「正しい政治行動」にまでめざめ決断する問題も、終始固有の政治間題なのだ。
 ことわるまでもなく、「個人の問題を無視する政治の論理」を擁護するために、このようにいうのではない。個人の「自己変革」や「決断」の領域を政治的経験から分断することによって、かえってこの領域を倫理的に支配しようとすることこそ、本来の政治の堕落である。のちにふれるように、こうした「政治外的強制」の誘惑にうちかつことが、政治の最低のモラルなのである。
 くりかえすけれども以上の意味で――その意味でのみ――革命の道程は「ひとびと」および「ひと」の変容する(「めざめる」)過程である。そして、ここまでが、政治的経験史がかかわりうるぎりぎりの線である。なるほどこの先でなお、「およそ政治的にひとは変るものではない」というときの、「ひと」の領域を確保することはできる。政治的な共同的個人とは別の、「倫理的個人」の「倫理的思慮」の問題を問うことはできよう。だがここにいたって、なお、かかる「ひと」の問題にまで越境することは政治には許されない。このときはじめて、問題は固有の政治的領域を離れるのだ。
 私は「ひと」の政治的経験史を記述する本書の終章で、このような境界の領域へ回帰していくであろう。


第四節 集団討論


一 集団の討論を通じて私は集団意志飛躍の内面的過程を経験する

〔ロシア革命の〕弁舌。これにくらべると、カーライルの「フランスの演説洪水」も、ちっぽけな小川であった。劇場、興行場、学校、クラブ、ソヴェトの集会場、組合本部、兵営、などでの講演、討論、演説。……戦線の塹壕内、村の辻広場、工場、などでの集会。……社会民主党、無政府主義者、その他だれが何をいおうとも、その語る間は傾聴しようとして、プチロフ工場がその四万人を吐きだすありさまは、何というおどろくべき光景であろうか! 何カ月もの間、ペトログラードでは、そしてまたロシア中のいたる所で、あらゆる街角が公共の演壇であった。汽車や市内電車のなかでは、即席の討論がいつも所かまわずにほとばしりでた。……(15)

 このようなロシアの「演説洪水」こそ、そこで人びとが政治的意識を変えていく真の現場であった。最終的にはソヴェトの公式決議に集約される集団意志も、「所かまわずにほとばしりでる」無数の大衆討論の一つの成果であったことはいうまでもない。
 そこで、前節をうけて、人びとがその政治意識を飛躍させる内面の過程を追体験するために、「演説洪水」のうちの一つの討論に焦点を合せてみよう。もっとも、一般的な演説会や街頭を彩る人びとの際限もない自己表出ではなく、こうしたものをいわば背後で構造化している諸集団のうちの、一つの集団の内部討論をとりあげるのである。ここでも、私がさきに書いたように、「夜は会議につぐ会議、いいかえれば言葉・言葉そしてまた言葉」という状態に変りはない。
 いま、この私の集団では、新たな闘争に直面して、一場の内部討論が開かれようとしている。私は、この局面で、集団にとっての喫緊で新しい課題を感じとっている。けれども、まだ誰も集団の全員を統一するようには、この課題をいい表わしえてはいない。もちろん、確かに昨日の時点では、一つの集団意志が明言されていた。しかし私の集団は政治的形成の途上にあるのだから、昨日の意志が「綱領」に成文化されたわけではない。というより、昨日の自分はすでに今日の自分としては不十分となり、再度集団成員相互の意志一致がはかられるべき局面に、いま私の集団は立っているのである。闘争の展開に沿って、集団が自己自身に成っていく過程は、集団が反乱の大衆集団であるかぎり、このようなものでしかありえない。
 ともかくもこうして、新たな闘争のたびごとに、いま、集団の内部討論、いわば車座の寄合が始められる。
 こうした討論においては、一定のアジテーター(主宰者)のリーダーシップが、最初から貫徹する場合も実際には少なくはない。集団成員の自己確認と集団「われわれ」の意志とが、この場合にはアジテーターの発言のうちに表現され、彼の発言を媒介として集団は自己を確認する。この構造は、そもそも集団を集団たらしめた媒介構造と同じものであり、ただ革命過程においては、不断に、しかも幾重にも、この構造が積み重ねられるというにすぎない。これはつまり、集団がその意識を変えていく過程の一こまである。
 けれども一般的にいえば、集団内の討論は、それ自体があたかも自然過程のように、一つの確率過程をとることは顕著な事実である。各人の発言はゆらぎつつ一定の集団表象に近づいていく。最初、幾人かの発言者が課題の周辺をゆきつもどりつ長々としゃべる。これらは「的を射ていない」という漠然とした、だが鋭い苛だちを各人すべてに呼び起し、この苛だちは発言者自身に痛いほどはね返る(ように見える)。いわばこのような発言者は、その発言のあいまいさによって、逆に課題自体の喫緊さをきわだたすという働きをする。的はまだ射られていない、だが、射られるべき的の鋭い収斂性は充分に(むしろ過度に)全員の意識にのぼる。
 こうして次の発言者は、いきなり問題の核心にラジカルに身を投ずる。すなわち――

最初の演説である同志エゴーロフの演説は、つぎのような点で興味があるにすぎない。すなわち、彼の態度(私にはまだはっきりしない、どこに真実があるのか、私はまだ知らない)は、このほんとうに新しくかなり複雑で細部にわたった問題の意味を、なかなかのみこめなかった多くの代議員の態度を非常によくしめしている。
つぎの同志アクセリロードの演説は、はやくも問題をいきなり原則的に提起した。それは、同志アクセリロードがこの大会で行った最初の原則的な演説、総じて〔大会〕最初の演説であった。(16)

 けれども、この「最初の演説」の原則主義は(右むきであろうと左むきであろうと)、集団各人の過度の苛だちへの反応として、しばしば極端な主張となる。これは過度に主観的な言辞や極端な事例をもちだすことによって、なお定形を固めていない集団の内部を激しく一方へ揺さぶり、こうして集団の全員を自己表出へと挑発する。討論はこれによっていわばはずみがつき、集団の意識は一時的に鋭く二分される。一方ではこの発言を鏡として、この発言において自分が発言していると感じ、他方ではこの発言が否定的媒介となり、各人は否定的な自己表出へと導かれる。そして後者は、さきの発言者に反対して逆方向の極端を主張する演説者を、自分たちの代表として次に迎えることになる。
 集団の通常の討論では、このような討論の振幅はいくつかの方向に偏向しながら重ねられ、一定の集団意識へ収斂していく。討論をこのようにまとめていくことをリーダーの技術といいうるならば、最初に討論を挑発することもまた彼の能力ということになろう。そして、討論の振幅が最後まで収斂せず、各人の疲労のなかへ散逸してしまい、集団の意志一致が偏差の大きい平均値としてしか獲得されない場合も実際にはしばしばあろう。
 けれども討論といっても、ここでは、闘争中の集団の存亡を賭けて、一つの切迫さをもってそれがおこなわれる場面が想起されねばならない。それに、集団はいま、大衆の政治組織として第一次的な意志の同質性を獲得しているとはいえ、それはなお、敵との闘争という現実に直接に規定されているのであり、あらためてゆすってみれば、集団各人の(社会的)性格・履歴の差異が俄然表面化しうる段階にある。それゆえ、討論において互いに他者の発言に自己を映すことによって、集団的自己が集団内で再確保される過程は、切迫した後もどり不可能の一つの事件となるのだ。反乱の政治集団は、その組織過程で、一度はこの内部的事件を経験するのだといってよい。
 そのとき、集団の討論のいわば実践性は、集団成員の激しい相互対立を通じて、鋭く一定の集団意志への収斂を生みだす。それはかならずしも、その集団各成員の(性格や履歴の)同質性を結果として証明することは意味しない。むしろ集団の切迫した自己表現が、各人の個的多様性を、敵対的闘争の一点で政治的に集約する必然性を示すのだといってもよい。政治的経験の定義(本書、第三章第二節)が、各人の行為をスローガンと組織の集団的経験へと再統合するものであったことが、ここに内在的に経験される。
 しかしながら逆にいえば、このような討論は、その切迫した自己表出性のゆえにその振幅の激しさを収斂させえず、一つの集団内におもいがけず新たな敵対関係を生みだすということが起るのだ。内部討論を通じて、集団は新たな対立関係をそれ自体のうちに生みだす。ある場合にはこれは集団の分裂すら結果することになる。だからこの段階での討論の切迫性とは、たんに敵前での切迫性ということではなく、集団が政治的意識を変えていく道程が、集団の組織的分裂の可能性を背にしてたどられるということを意味している。
 集団の組織的分裂は、討論に先だって予感されていたとしても、予想され、あるいは予定されてはいなかった。それというのも、集団としてのある意志一致は、討論の前提であり、出発点だったのであり、組織分裂はあくまで、この集団が敵前で以前の意識を変えていく過程での、おもいがけない事件なのだ。
 私は以下に、このようなおもいがけない事件として、集団の内部討論の例をあげよう。有名な党大会におけるレーニンの党の分裂のことだが、これはさまざまな意味で象徴的な事件だった。
 いうまでもなく、歴史的には、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂が、この大会を契機に起る。それゆえこの大会は、ロシアの党の将来にとって、一種宿命的な伏線となっていくのである。
 しかしもとより、この場合は集団といっても「党」のことであり、これはまだ私の経験には現われてこないカテゴリーである。けれども、のちに第七章でみるように、およそ革命にとって「すでに存在する」集団たる党が、もともとはどのように形成されたのかを、以下の例はよく物語っており、かくてはるかにのちの党経験の伏線にもなっていく。
 だが、レーニンの党形成を、この段階で、集団の自己形成の例としてひきあいにだす根本的な理由は別にある。つまり、討論を通じた集団の分裂が、ここでは、ほかならぬ集団の「規約」をめぐって起ったということだ。
 一般に集団の規約とは何か。政治集団が集団的自己表現の過程に耐え、そのつど一定の集団意志を形成していくとき、そのある段階で、集団は自らの意志を組織の規約として形式的に明文化する。前章との関連では、闘争の一定段階で、盟約集団はその盟約を規約として表現するといってよい。レーニンも、ロシアにおける数十年の社会主義運動の蓄積を経て、党組織を結成しようとするにあたって、端的にこう述べた。
 「組織するということは――なによりもまず規約を作成することを意味する。」*
*以下、本節の引用はとくにことわらないかぎり、レーニンの『一歩前進二歩後退(わが党内の危機)』(邦訳、全集第七巻)からのものである。
 実際、レーニンにとって規約が問題となったのも、彼自身の組織(「ロシア社会民主労働党」)の事実上の結成大会(第二回大会)においてであった。ボリシェヴィキとメンシェヴイキとが分裂したことをもって名高いこの大会は、一九〇三年七月三十日から八月二十三日まで(!)、五十名ほどの代表をもって、全部で三十七回の会議をロシア国外でおこなった。そして、党結成が逆に分裂を結果したそもそものきっかけが、党の規約、その第一条をめぐる問題であった。「規約第一条」はまさに組織の自己規定、つまり「自分は誰であって他の誰ではないか」の形式的規定を意味するのだが、大会で争点となったのは次の二つの案文である。
「党の綱領を承認し、物質的手段によっても、党組織の一つにみずから参加することによっても、党を支持するものは、すべてロシア社会民主労働党員とみなされる。」(レーニン案)
「党の綱領を承認し、物質的手段によって党を支持し党組織の一つの指導のもとに党に規則的な個人的協力を行うものは、すべてロシア社会民主労働党員とみなされる。」(大会で採択されたマルトフ案)
 これらの案文を字義どおりに見れば、党組織に加盟しない者を党員と認めるという奇妙なマルトフ案は、レーニン案とは大きく相異しているように思える。だが、レーニンたちにとっては当初、この相違は党を割るほどのこととはけっしてみなされていなかった。レーニンはマルトフ案に反対しつつもなお、大会でくりかえし次のように発言している。(全集第七巻、二六二ページ)
 「私は、われわれの意見の相違〔第一条にかんする〕を党の生死を左右するほど重大なものとは全然考えない。規約の条項がまずいくらいでは、われわれはまだほろびたりしない!」
 実際、レーニンはこれまで、党機関紙『イスクラ』を通じて党の組織計画を提示し、「また三年のあいだこの計画を系統的に、たゆみなく実行してきた」のだし、大会は、この「特定の組織上の思想を党全体が承認し、それを正式に確認する」任務を、党規約の採択によって「完了」させねばならなかった(二四八ページ)。そして、大会代議員の圧倒的多数派を構成するこの「イスクラ派」の事前討論においても、規約第一条はとりたてた争点ともならなかったのだという。また、ローザ・ルクセンブルクの批判(「ロシア社会民主党の組織問題」)に答える論文で、レーニンがいうところでは、「ロシアの警察支配のもとでは、党組織に所属することと、たんにこの種の組織の統制のもとで活動することのあいだに非常に大きな相違がある」五一七ページ)という考えも誤っているとされる。
 こうして、第一条をめぐる「小さな意見の相異」は、たんに「われわれの壷にはいった小さなひび割れであって、この壷を固むすびの紐で(連盟の大会のときにヒステリーに近い状態にあったマルトフにそう聞きとれたような、首くくりの縄ではなく)、なるべくかたくむすびつけることもできた」(二六三ページ)と、レーニンはいう。
 けれども実際には、一条をめぐる小さな割れ目は、大会の討論を通じて党を分裂させるところまでいく「巨大な意義」をもつようになった。小さな意見の相違はあくまで固執され、意見の相違の根と枝葉とがあらいざらいさがしもとめられていく。討論における意見の振幅は、一つの組織的結集の幅を振り切るまでに大きくなり、当事者のすべての予想に反し、組織の内部討論は、もはや討論それ自体のものではない力によって、組織の分裂にまで自己回転していったのである。


二 私の発言は組織内部の異相を挑発し集団意志の分裂を発見する

 さて、この大会の討論を通じて、規約第一条をめぐる「小さな相異」は、おもいがけず「巨大な意義」をもつようになったのだが、本章の文脈にひきつけてみれば、まさに問題は、集団の自己確認という集団意志形成の根幹にかかわっていたということができる。それゆえ、この問題で泥試合を演じたロシアの党の、愚直な誠実さは疑いえない。たしかにレーニンにしてみれば、「わが集団とは何者か」という点での意志一致は、機関紙を通じた彼の努力によって、すでに十分かちとれていたはずだった。この点こそが、集団形成の根本だからだ。けれども、何かを宣伝したり教えこんだりすることとは別のこととして、まさに集団討論が経験される。とりわけ政治では、どんな立派な意見でも、討論を経たものでなければ立派とはいえないという不文律が支配している。
 かくて、私たちが一定の集団意志を形成するために、各自の実践的立場をさらけだして交渉する政治集団の討論では、一つの思想のうちに隠されていた異相が、いきなり表面にでてくるということが起る。最初のあいまいな発言がつくりだす私たちの苛だちは、さきに述べたように、「問題をいきなり原則的に提起する」演説を誘発し、この原則主義が期せずして異相を挑発するのである。レーニンの集団では、「同志アクセリロード」の演説がまさにこれだった。
 アクセリロードは、「組織には所属しないが、なんらかの形でその組織を援助し、党員とみとめられていた多くの人々」をひきあいにだした。この発言はただちに、「自分は社会民主主義者であると考え、そう声明する一教授」から「中学生たち」や「革命的青年」、はては「どのストライキ参加者、どのデモ参加者も自分の行動に責任を負って、自分は党員であると声明することができる……」といったように、党員資格の事例の果てしない拡散をまねいていく。大会において規約第一条のマルトフ案を擁護した者たちも、レーニン的な意味での厳密な党組織を否定したわけではない。しかしにもかかわらず、集団的討論のなかで彼らは、「党員という名称が広範にひろまればひろまるほどよい」というまでにいたる。そしてここから、次のような一種混乱した主張にまでいきついていくのである――「直接に組織に加入させることはできないが、それにもかかわらず党員である一部の人」、このような人びとの組織を「党にいれ、しかもそうしたからとて党組織にはしない、というふうにすることができる。」(マルトフ)
 逆にレーニンの側からしてみれば、彼も、厳密な党組織以外の、広範な組織にたいする影響力や指導を否定するわけではなく、事実『何をなすべきか』以来の主張をひきあいにだして彼はこの点を強調する。だがしかしレーニンは、「党に同調する」諸個人(諸組織)にまで党(員)の名称を与えることにかたくなに反対する。
 こうして、論争はまさに党(員)の名前、党の定義いかんということになる。定義の問題にすぎない、ということもできよう。当時のロシアの党組織の実態からいえば、規約第一条草案のどちらを採用しようが、この実態は影響を受けない。その意味で相違は小さなものだとみなされ、マルトフ派からも討議の途中で「とりひき」が提案されもしたのであろう。だから、規約をめぐる討論は、そもそも混乱した概念を前提にした混乱せる論争、愚直な一場の喜劇のごとくに思えるのである。とりわけ当時のロシア国内の党員たちが、問題をのみこむには骨が折れたにちがいない。
 だが、そもそもこの討論においては、くりかえすが、一つの組織が自分は誰なのかと自らに問いかけているのである。だからこそ、反乱の集団がその意志を形成(再形成)していく過程では、ある時点でこの問いが純然たる作文やたんなる討論の問題ではなく、内部の一事件となるということが起るのだ。極端な「賛成」「反対」の討論を通じて、思いもかけずここでそれぞれの組織が成員たちによって再発見される。
 実際、マルトフ派(メンシェヴィキ)にとっては、党組織とその影響下にある広範な組織と諸個人の総和、その集合態が党(あるいは党員)と名づけられる。討論を通じて、彼らはこのような自分たちの定義を極端に鮮明にしつつ発見する。だから、「レーニンの定式化した第一条は、プロレタリアートの社会民主党の本質そのもの、その諸任務と、まつこうから原則的に矛盾している」(アクセリロード)とまで主張されるのである。他方、レーニン派(ボリシェヴィキ)は――私はのちに第七章でこの点にくわしくふれるつもりだ――この集合態から党の定義を峻別することに固執する。党はその依拠する階級とその運動から厳格に区別されねばならない。この区別を抹消し、党員であると「声明する」者をみな党員と認めるメンシェヴィキは、「プロレタリア的な組織と規律」に敵対し、「ブルジョア・インテリゲンッィア的個人主義に味方」する者なのだ、と。(全集第七巻、二七六~七ページ)
 こうなれば、揺れ動きつつ一つの集団的意志の形成へむかっていくという討論の弁証法は破綻し、集団討論はあの典型的な泥試合の様相を呈してくる。極端な発言は、その極端さのゆえに討論を集団の分裂(分解)へ導く――などということはもちろんいえない。だが後になってみれば、レーニンたちの集団討論は、革命における党とは何かという根本的な問題を、その集団にまさに自覚させたのだということができる。この自覚は集団の分裂をもたらしてしまったが、しかしその後の歴史は、この分裂が偶然のものでも討論のはずみによるものでもなく、革命における党の異なる二つのタイプをそれぞれに表現するものだったことを示したのだった。
 たしかにレーニンは、大会後もなお、「ある期間わが党内の基本的な区分となる運命を負った多数派と少数派」というように、この分裂を過小評価した(第七巻、三五六ページ)。事実、大会の分裂は、その後も、「わが党内」の長い党内闘争として尾を引いた。けれどもその後の歴史は、この「党内の基本的な区分」が「ある期間の運命」ではなく、永久のものであることを証明したのだ。そしてロシアの党経験の独特なアイロニーは、この大会討論における区分図がまるでわざとのように、そっくり十月革命において再現されたという点にある。蜂起の成功をまって開催された全露ソヴエト大会の冒頭でメンシェヴィキが退場していく有名な場面を想起しよう――

彼ら〔メンシェヴィキ〕がマルトフとアブラモヴィチにひきいられて、ぞろぞろ退場していくのを見まもるトロツキーの心には、一九〇三年の第二回党大会の光景がひらめいたかもしれない。……ある意味で、この二つの情景は、なんとよく似ていたことだろう。指導的人物は、「軟派」も「硬派」もおんなじだった。一九〇三年の泥試合のほとんど全部が、マルトフがたったいまおこなった〔退場〕宣言のうちにこだましていた。(17)

 こうして、「規約の条項がまずいくらいで、われわれはまだほろびたりはしない!」というレーニンの確信は裏切られた。レーニンをはじめとして、討論参加者のすべてが、あらかじめこうした結果を予定していなかったことに、再三注意する必要がある。その後のレーニンとボリシェヴィキの成功から逆算して、あたかも『何をなすべきか』(一九〇二年)以来のレーニンの組織思想がロシア革命を導いたかのように、一つの便利な神話がつくられる。いうまでもなく、これはまるきり誤りというわけではない。だがそこから、ひとはこの一九〇三年の党分裂を、「思想の違いを組織上の違いとして表現する」組織論の勝利のごとくに考えてしまう。しかしこれは、引用するためにレーニンを読む者たちにとって『何をなすべきか』が便利だ、というにすぎないことだ。
 これにくらべれば、『一歩前進二歩後退』は、教科書とするにはあまりに長たらしく混雑をきわめている。気のきいた引用文をみつけるには骨が折れるだろう。けれども、啓蒙的・借り物的色彩の強い『何をなすべきか』などよりは、この大会議事録註解は、はるかにヴィヴィドにレーニンの組織思想を伝えている。なぜならこのとき、ロシアの党は、あの運命的な集団意志の形成へ出発しはじめたからだ。いつも、問題にするに値する組織思想とは、集団的な一つの事件・一つのドラマとして展開される。
 くりかえすけれども、組織の規約の表現がどうであれ、言葉はやはり言葉にすぎない。言葉自体が運命の神を宿しているわけではない。だが言葉が、転成途上の集団意志における一事件の表現となるとき、それは一つの「神」――かの「客観的精神」――にとりつかれる。このとき、言葉はたんなる「言葉にすぎない」もの、ヘーゲル流にいう「結果としての屍」ではありえない。集団の規約は、もはや、レーニンあるいはマルトフの作文でもなければ、多くのレーニンたちの意識の総和でもない。まさに激しい生成(転成)途上の共同性の成果であるがゆえに、「規約の数行」が、いわば物神のごとくに、集団の各人から超出し、分立するということが起るのだ。集団としての人びとは、期せずして 、規約の数行の精神が命ずるままに動いていく。それはまさに「客観的精神」、共同性の幻想として逆に人びとの行為をとらえる。あたかも、客観的な、各人にとって疎遠な力として、各人を駆動していくのだ。集団の意識は、このようにして自らを変えていくのであり、その行動様式も、他の集団から社会的歴史的に区別され、また外からも知りうる一定の「法則性」をおびるようになる。




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