政治の現象学 第5章 政治集団の展開

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第五章 政治集団の展開


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第五章 政治集団の展開

第一節 政治結社から大衆政治同盟へ

一 反乱を準備する私の結社は一地方の大衆の政治同盟に土着する

 反乱から革命への長い遍歴の半ばで、集団が遭遇するいくつかの政治的事件が以上に経験された。それはとりわけ、激しい敵対的闘争を集団が内面化することによって、集団自身のうちに、意識と組織をめぐる否定の弁証法を展開せしめていくものであった。
 ことわるまでもなく、こうした集団の経験の記述は、現実の運動がたどる時間の順序に沿ってなされるものではなく、また実際の集団の展開がこの経験の順序にしたがって起ることを主張するものでもない。集団の経験が、革命の現実の日程に沿って深化することももちろんあるが、またしばしば、これは、総体としての大衆反乱内部の、同時的で重層的な構造としても展開されることになる。
 とりわけ、集団の意識からみた諸集団の分化・対立という現象は、一つの反乱内部のスペクトル分裂のごとき状態を呈するのが一般的である。大衆の日常的共同性は、いわば反乱というプリズムに投入されて、幾重ものスペクトル分裂をひきおこす。人びとは自らの集団形成を通じて、反乱内部に潜在していた多様性を政治的に経験するのである。だから大衆的日常性の分解は、たんに一つのカオスというにとどまらず、分解した諸傾向の集団的対立と相互闘争として現象する。このような大衆的分裂状況の深化は、とくに反乱の初期においては、反乱がどれほど大衆の日常性をとらえたかを測る現実的尺度となる。この尺度とは、反乱における諸集団の政治的スペクトル分析ともいいうることである。
 本章では、このような反乱の集団的スペクトル分析として、一つの政治集団の例、つまり、秩父事件(明治十七年)における自由党の運命について、具体的に記述することにしよう。ただあらかじめことわっておくが、自由党といってもここでいう「党」とは、レーニン以降の党(「政党」「前衛党」など)のことではない。後者のような「党」は記述のこの段階ではなお経験されてはいない。自由党というときの「党」とは、当時の用語法にしたがえばまさに、政治結社ということである。
 秩父事件は、このような政治結社としての自由党が、武装した大衆の反乱にきわめて深い深度をもって喰い入ったという点で、近代以降の日本の大衆運動のなかでは、きわだった位置を占めている。このとき秩父盆地の内部では、大衆の暴力と政治集団とが、のっぴきならない関係を切り結んだ実例が展開されたのであった。* 本章でとりあげる秩父自由党の運命は、だからこれまで前二章で記述されたことがらの例解であり、また「中間総括」を意味することになるであろう。そして同時に、大衆の「権力」や固有の意味での「党」という新しい経験が、秩父反乱の記述のなかで予感されるようになるであろう。

*この反乱のあらましについては、井上幸治『秩父事件』(中公新書)を参照することにして、とくにふれることはない。井上氏はそれまでのくだらない「歴史的位置づけ」論議の陰から、この反乱内部に息づいていた構造と論理を、私たちのまえにひきだしてみせてくれた。この本の出た一九六八年という年は、私たちにとって特別に記憶されている。なお引用史料については、とくにことわらないかぎり『秩父事件史料』(埼玉新聞社、全二巻)によった。また、秩父事件についての私の旧稿(「秩父事件のなかの党」――『情況』一九七二年十一月号)を、改稿のうえ本章に利用した。

 秩父事件では「幹部でもない農民が、おそろしいほど自由党のことばのパターンを使用している」ことは、すでに井上幸治氏が注意している点である。私はまえに(本書、第一章)、「我々ハ圧制政府ヲ転覆シテ世直シヲ為スノ企望ナレバ」という、農民のアジテーションを引きあいにだしたけれども、この「圧制政府ヲ転覆シ」云々がすでに、ときの自由党の言葉である。「吾ハ自由党ナリ」といった名乗りの言葉も数多く記録されている。「自由党屯所官川寅五郎」と墨書きした旗をかかげて行動する農民もおり、徴発品にたいしては「革命党本部」と記した受取証が発行される。
 このような「言葉としての」自由党は、この言葉によって意志を表示する農民大衆のなかでは、明らかに一つの世直しの神話である。決起した農民たちの一種混線した表現記号の背後で、この「自由党」は反乱世界を統一する象徴として機能している。
 たとえば、蜂起のさなかに農民の一人は、「今般自由党ノ者共総理板垣公ノ命ヲ受ケ、天下ノ政事ヲ直シ人民ヲ自由ナラシメント欲シ、諸民ノ為ニ兵ヲ起ス」という風にいっている。また、「実に一種恐るべき社会主義的の性質を帯べるを見る」と『自由党史』がいうように、「今般ノ一挙ハ専ラ天下泰平ノ基ニシテ、貧民ヲ助ケ家禄財産ヲモ平均スルノ目的ナレバ」云々の発言も聞くことができる。このように、反乱した農民の自己表現のうちに、神話としての党が息づいていた有様を、私たちは十分に認めることができる。そしてそれは、事件前に、「自由党総理板垣退介((ママ))世直シノ事ヲ起スノ風声アリ」と警察が探知していたように、蜂起のオルグ過程を通じて農民の言葉となっていったものにちがいない。この時期に農民たちのあいだで唄われた次のような俗謡は、彼らの内での党の息づき方をよく示している。
金ノナイノモ苦ニシヤサンスナ
今ニ御金モ自由党
 しかしもちろん、このような世直し神話は、百姓一揆の場合の「みろく世」などのように、たんに漠然とした風聞だったのではない。農民たちの切れ切れの言葉を一つの体系として構築した、板垣退助の自由党という政治結社が、現に存在したのであり、この結社の運動が「板垣ノ世直シ」神話として、峠を越えてこの盆地の内部にまで浸透してきたのであった。
 すでに全国政治結社としての板垣の自由党は、明治十三年の国会開設請願運動の大動員を経て翌年に結成され、十五年から十七年にかけて、いわゆる「激化諸事件」と称される地方党員の決起を経験してきている。秩父盆地の外側上州の各地で、散発的ながら自由党員と結びつきをもった農民の闘争が展開されたのも、十七年の秋にかけての時期であった。たしかに、「貧民ハ独リ埼玉県ニ止マラズ、何県ニ於テモ同様ノコト」として、秩父自由党員に映じたような事態は存在した。秩父事件関係の記録にも、「専制政府ヲ顚覆シ更ニ自由政府ヲ設立セント」して、秩父周辺の地に「革命ノ軍」を建設しようと奔走した、山梨県の一自由党壮士の自首書がまぎれこんでいる(太田義信自首本末書)。それゆえ、こうした状況からみても、秩父反乱が、自由党の自由民権運動の延長に位置していたことはまぎれもない歴史的事実である。
 けれども、それはそれだけのことにすぎない。秩父反乱のなかの自由党は、たんなる風聞ではなかったとともに、いかなる意味でも、一つの全国的政治結社が地方に天下ったものではなかった。この盆地では、自由党はなによりも、大衆運動の組織発想に支えられて農民たちのうちに根づいたという事実が、このことを端的に示している。いいかえれば、政治結社は秩父農民たちの「困民党」という大衆集団として、この地に「土着化」されたのだった。
 困民党は別に、借金党、貧民党、あるいは負債延期党などとも呼ばれていた。この党の組織化は、事件の年の八月頃には始まっている。いまこのオルグ過程を詳細に見ることは井上氏の著書にゆずるとして、いずれにしても、たとえば次のようなやりとりが、農民のなかで進行していったのである。「今度困民党トイフ党ガ出来タニ付、加入シテハ如何、左スレバ借金ハ暫ク延期ニナル」とオルグがもちかけ、オルグされた側は、「自分モ他借多分ニテ困却罷在折柄ニ付、加入スル事ニ依頼及ビタル処、然ラバ姓名ヲ差出ス様申スニ付、直ニ姓命ヲ((ママ))記シ実印ヲ押シ」てこれを差出したといった具合である。いずれも、負債延期という農民のさし迫った要求を軸にして、農民が農民をオルグしていったのである。
 この際注意すべきことは、困民党へのオルグ過程は、同時に、債主、警察または裁判所などを相手とする、負債延期の大衆的請願行動の組織化と重なっていたことである。幾度も戦術を変え幾重にもくりかえされたこの大衆動員は、蜂起決定のぎりぎりの段階まで合法性の枠を保っていた。請願は村ごとに総代をたて、負債農民は総代に委任状を書くという手続きをともなったが、これは同時に、困民党の動員名簿をオルグに集約するという意義をももったのである。それゆえ、通常の政治的な党への加盟というのと趣を異にしていて、困民党への加入は即運動参加を意味することであったろう。
 このように、運動組織という形をとって、困民党という一つの大衆的組織体ができあがっていく。蜂起前に一農民活動家が述べているのをとれば、秩父郡内で「困民党卜唱フルモノ凡ソ三千人程」ということであり、この程度が困民党の組織化=大衆動員可能の規模であった。井上氏はこの三千人のうちほぼ一〇〇~一三〇名が、在地オルグかつ戦闘的分子だと評価している。
 そしてほかならぬ自由党は、この盆地では、こうした困民党の中核であり、その大衆的運動を呼びかけ組織するものとして存在していたのである。実際、困民党の運動を最初に組織しはじめたのも、三人の公認の――『自由新聞』紙上に入党が発表された――自由党員の農民であった。その他公認非公認をあわせて、困民党の幹部団および地区オルグの中核はすべて自由党員が占めていたといってよい。


二 土着化した私の結社は大衆集団化しその矛盾をおしつけられる

 けれども、にもかかわらず、このような秩父自由党員たちを、自由党「本部」のなにか下部組織、あるいは地方組織とみなすことはけっしてできない。さらにまた、秩父自由党と困民党との関係も、なにか党とその大衆組織のごとく、手練れたのみこみ方をしてはならない。「党本部」との組織的関係――これはもちろん今様にいえば、ひどくルーズなものだったが――のいかんにかかわらず、自由党の困民党への土着化は、まさにそのことによって、旧来からの政治結社としての自由党(員)そのものに、まったく新しい経験を課さずにはすまない。なぜなら、政治結社が一地方の大衆政治同盟の闘いに根づく(土着化する)ことは、従来の結社の統一性に、大衆同盟の孕む矛盾をおしつけることになるからだ。
 実際、自由党の土着化は、農民のなかで「板垣の自由党」を端的に困民党化したのだった(「ブントの社学同化」)。困民党の運動を通じて自由党が大衆に根づいていく過程では、自由党が困民党運動のイメージにひきなおされて、農民のなかに定着していくのは当然であった。実際、農民大衆のレベルでは、自由党と困民党を鮮明に区別してとりだすことはできない。「自由党ノ主義トスル処ハ如何」と問われて、蜂起軍で「弾薬運搬方の頭取」をしたという農民は、警察に次のように答えている。「高利貸及ビ銀行等ガアリテ利息ヲ貧ル故金融ノ閉塞スルニ付、右等ヲ打段シ貧民ヲ救フトノ主義ナリ」。これなどは、のちに述べるように、由緒ある自由党員からすれば、「政事思想」を欠く兇徒にすぎずと排斥される類であったろう。
 このように、「党」が反乱大衆の内部で実現されていくレベルでみるとき、事件渦中の一記録者のいうように、自由党はまさしく「自由困民党」という形をとったのである。「〔自由党風の〕種々ノ盲言困民ノ心ヲ結ビ貧民党ニ混淆シ、板垣氏ノ内命卜偽称シ、遂ニ暴動ヲ起スノ一原因トハナリシ也」とか、「借金党過激党ノ二者相混ジタルモノナリ」などといわれるのも、このレベルのことを指している。
 たしかに、蜂起の準備過程で、自由党そのものへの入党勧誘もまたおこなわれたようである。たとえば、蜂起暴発の十月三十一日に逮捕された農民から押収された四十九通の自由党「入党申入之証」がある。これはある村の典型的な在地オルグが、自ら保証人となって、自村の農民たちに書かせたものである。しかし、この保証人の農民以外は、すべてまったく無名の者たちであり、したがって「自由党幹事御中」と入党申入書に記したとしても、農民たちの意識のなかでは、この党はもはや完全に借金党の運動として把握されていたにちがいない。盆地の外側から浸透してくる漠とした希望であることを別とすれば、党は反乱する農民たちにとって、目前の体制と衝突しつつ現に展開されている、一つの「狭い」闘いであった。
 かくして、いま「自由困民党」としての秩父自由党は端的に反乱大衆の政治集団――大衆の政治同盟――である。実際困民党における盟約の構造も、まさにこの同盟本来のもの(第三章第五節参照)にほかならなかった。
 蜂起に参加した農民たちの調書では、自らの行動の目的と形態とを、明快に述べている点はきわだった事実である。「目的ハ如何」――「戸長役場又ハ金貸方へ多人数武器ヲ携へ押寄公証割印簿ヲ焼キ捨テ、金貸方ノ証書ヲ強談ニテ取戻シ無済ニスルノ目的ナリ」。こうした問答は末端農民の取調べの一つのパターンにすらなっている。農民の負債延期という目的は、もちろん、自由困民党員たちによるオルグのポイントであったろうが、田代栄助によれば、九月七日の幹部の会合で次の四項目を設定したという。
一、高利貸ノ為メ身代ヲ傾ケ目下生計ニ因ルモノ多シ、因テ債主ニ迫り十ケ年据置キ四十ケ年賦ト延期ヲ乞フ事
一、学校費ヲ省ク為メ三ケ年間休校ヲ県庁へ迫ル事
一、雑収税ノ減少ヲ内務省ニ請願スル事
一、村費ノ減少ヲ村吏へ迫ル事
 これらの要求項目が、農民たちの内にスローガンのごとくゆきわたっていたことは、十分に史料が示している。これにたいして、反乱のさなかで唱えられていた「圧制政府転覆」云々の「自由党風」の政治的目的については、一般の農民の警察調書ではほとんどふれられていない。お上の手前口を閉ざしたということも十分考えられる。事実、幹部の一人落合寅市は、加波山事件の例もあることだから、「精神薄弱ノ民ニハ高利年賦返済運動而已(のみ)ニテ、専制政府顛覆云々ハ告ゲザル事」とあらかじめ幹部団で約定し、「高利貸ハ人道ニラザルヲ以テ表面」を飾った謀略だと書いている。けれども、これは、すでに寅市がすっかり壮士風になった後年に書かれたものであり、ここでいわれているようなマヌーバーの事実も、他の史料によって裏づけることはできないように思われる。自由党と借金党との目的が分かれていたことを証言する農民も、前記四項目のうちほぼ第一を借金党に、他を自由党の目的としているにすぎない。
このように、負債というさし迫った問題については、農民たちに行動の目的と手段とは明確に把握されていた。これに対応して、蜂起に先だつ過程での、農民相互の盟約関係もまた直接的なものである。さきにふれたように、困民党に加入することは、負債延期請願の委任状をつくるということで実質化する形のものであったろう(なかには連合盟約書に連判するという形もある)。たとえば、「来ル十一月一日ヲ期シテ郡中高利貸シ家屋ヲ悉ク打段シ貧民ヲ助クル」ともちかけられて、「全ク窮民ヲ助クルノ名法ナレパ如何ニモ承諾致シタリト其場ニ於テ同盟シタルニ相違ナシ」というような例がある。また、「何等ノ為メ脇差ヲ携へ押出セシヤ」と訊問され、「大野福松ヨリ借金ヲ年賦ニスル為メ、日野沢村へ武器ヲ携へ多人数集合スベキニ付、可罷出卜申聞ケタル煽動ニ応ジ、脇差ヲ携へ押出シタリ」といったやりとりが数多く記録されている。
 このレベルでの困民党メンバー相互の関係は、いわば「やるぞ」といわれ「よしやるぞ」と応えるような、運動体としての相互関係の確立だと思ってよい。困民党は大衆運動体としては、外部の者が「あの連中」とか「あの一党」とか呼ぶときの、党の語感に近いものであったろう。
 これにたいして、困民党の幹部自由党員のあいだには、明確な盟約関係が存在したとみなければならない。けれどもここでも、党の自由困民党化は、党員間の盟約関係を、自由党という政治結社のそれとは別のものとしている。蜂起軍の総理田代栄助は、困民党の自由党員の面々にかつぎだされたとき、前記四項目は「容易ナラザル事件ニシテ、何レモ生命ヲ捨テザルヲ得ザル事柄」だからと熟慮をうながしたが、面々はもとより承知とつめよるので、「諸君何レモ一命ヲ捨テ万民ヲ救フノ精神ナレバ速ニ尽力セン」と困民党に盟約したのだった。蜂起の二カ月ほど前のことである。こうした約定は、この時期に困民党の中心メンバーの問で同様にとりかわされたことがわかっている(たとえば小柏常次郎訊問書)。いずれも、自由党員としての「政事思想」上の盟約ではなく、「官ニ抗敵スル」に際して、「妻子家財ハ勿論身命ヲ捨テ為スノ所存」を相互に確認することが、事の眼目におかれている。
 けれども、秩父自由党の大衆運動へのこうした土着化は、この運動が秩父反乱として盆地の世界をおおったとき、自由党という政治結社を一種残酷なジレンマのなかに立たせることになった。
 すでに第三章でくわしく記したように、大衆の政治同盟は、具体的な目的集団としての盟約にもかかわらず、反乱世界のただなかではまったく身にあまるほどの肥大な共同観念を孕むものであった。これこそまさに、「板垣の自由党」が峠を越えてこの盆地にもたらしたあの世直し神話である。反乱農民の意識のうちでは、困民党という土着の一政治集団が、「圧制政府転覆」や「貧民ヲ助ケ家禄財産ヲモ平均スル」などという、恐ろしい目的をいだくもののように自ら思われていくのである。くりかえすまでもなく、これは「御上」や「天朝様」と村内の高利貸しという、二重の敵との敵対が大衆集団のうちに端的に内面化されたものにほかならない。これらの神話は、政治結社のイデオロギーが大衆運動(集団)のうちで受肉されていく最初の、不可避の形態である。
 結社の抽象化された言葉が、結社の卑近な土着化によって、かえって爆発的に大衆のものとなるというこの逆説は、秩父の反乱においてもそのとおりであった。ここでも、大衆の意識を変えるという「革命の教育学」が、段階を追った学習などではまったくないということが露呈している。
 たしかに、土着化した運動から神話化した希望にいたるまで、党が大衆のうちに実現された事実は、自由党――なかんずく秩父自由党――のまぎれもない光栄であり、自由民権運動史全体のなかでも稀有のことであった。だが、本来の政治結社にとって、これはたんに始まりにすぎない。いまや秩父自由党は、運動の土着化と神話化(言葉化)の両端を統一する地点に、一個の矛盾として立たされることになった。だからいまやこの矛盾は、秩父自由党とその党員たちをさまざまに動転させ、さまざまに引き裂かずにはいないであろう。


第二節 政治結社の分裂

一 大衆政治同盟の内部矛盾に耐ええない結社は反乱の圏外に去る

 秩父事件の警察側の記録には、「旧自由党員」誰々といった書き方が多くみられる。実際、この盆地の内部で、幅広いスペクトルをもって自由党が息づいていたまさにその時点で、中央の党、いわゆる「板垣の自由党」は解党を決定していたのである。
 自由党の解党は、結党三周年にあたる明治十七年十月二十九日の大阪大会においてであった。これにたいし、秩父民衆の暴発は十月三十一日、まさしく『自由党史』がいうように、「警報の東京に達せしは、十七年十月三十一日にして、自由党の解党と相距る僅に二日のみ」であった。事件関係の警察文書には、蜂起の頂点十一月四日の項に次の一文がある。「警視総監大迫貞清ヨリ本県令へ通知書ニ曰ク、当地自由党今般解党セシ旨届出タリトナリ」。蜂起のさなかに、「今般自由党ノ者共総理板垣公ノ命令ヲ受ケ」云々と農民たちが呼ばわっているのを聞いて、一記録者が、次のように皮肉をとばすのももっともというしかない――「板垣の自由党ハ解散ノ後ナルヲ如何。」
 それゆえ、秩父農民のシンボル「自由党」は、さながら、消えゆこうとする亡霊の足をひっぱるに似ていたことであろう。だが、政治的な象徴は、客観的にはその役柄が終りかかっている段階で、突然に最後の輝きをみせるものだ。最後の輝きとも知らずにこの象徴をかつぐ大衆たちは、しかしそのことによって、かえってこの象徴にカタをつける役目をはたすのだ。秩父における自由党の栄光は自由民権運動史の華であったが、これはまた民権史の最期を飾るという位置にあった。のみならず、明治維新後ほぼ二十年にわたる近代国家確立過程での動揺――自由民権運動もその一つのあらわれであった――に、秩父反乱の敗北は終止符を打つものであったろう。ちょうどこの同じ場面で、マルクスもいっているではないか――
「人間は自分自身の歴史をつくる。だが思うままにではなく、またみずからえらんだ環境のもとでもなく、すぐ目の前に見いだされ、与えられ、また過去から伝えられてきた環境のもとでその歴史をつくる。死に去った世代の伝統が、悪魔のように生ける者の頭脳にのしかかっている。そして人間が懸命になって自己と現状を変革し、一見、未だかつて存在しなかったものを作り出そうとしているかに見えるとき、まさにそうした革命的危機のときに、人間はおのれの用に奉仕させようとして、心おののきながら過去の亡霊を呼び起こし、その名前とスローガンと衣裳を借り、由緒ある扮装と借りもののせりふを使って、世界史の新しい場面を演じようとするのだ。」*

*マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』
なお、私の「大衆叛乱に強いられた政治的苦戦――秩父事件のなかの『地方』と『中央』――」(『東風』一九七四年十二月号)参照

 くりかえすが、秩父自由党の蜂起のさ中に、政治結社自由党の解党が告げられたことは、まったくのところ象徴的なことであった。けれどもこの極端な対比は、たんに盆地の内と外とのコントラストとして生起しただけではなかった。同じ構図は、なによりもこの盆地の内部で、秩父自由党員それ自体の分解として生みだされたのである。
 すなわち、秩父の初期党員たちのほとんどが、事件の圏外にいた。井上幸治氏の調査によれば、次のような事実がある。明治十六年五月、埼玉県警察本部作製の名簿では、県下自由党員は九十名、そのうち秩父の党員は、若林真十郎、若林哲三、中庭通処、福島敬三の四人だが、秩父事件とやや直接的関係を有するのは福島敬三だけだという。(もっとも、ある逮捕者リストには「罪ナラザルニ付放免」された者の一人として若林真十郎の名前もみえる。)
 また上州自由党の大立者、新井愧三郎の坂原村は秩父のすぐ隣だが、この村の二十九名の登録党員たちも困民を組織することなく、秩父事件に参加して群馬県警察に逮捕された者はわずかに二人のみである。
 したがって、秩父では自由党員たちがその中核となって困民の反乱を組織したといっても、これはあくまで秩父――あるいは上州――旧自由党員の一部のことを指していいうるにすぎない。ここから当然、固有な意味での板垣の自由党が、そもそも困民の闘いを組織しうる体質と思想とをもっていたか否かを、歴史的に点検することが可能となろう。そしてそこから、秩父における自由党の栄光を中央の党から切断されていたがゆえに起ったものであり、盆地内の地方的特殊性にもとづくものだと結論することもありうることであろう。
 だが、中央の政治結社の性格がどのようなものであれ、現場の党が反乱にでくわしたときには、結社の組織や思想のあらかじめの整合性などは、どのみち崩れるにきまっている。このとき「現場」は、一度は「中央」から切断されるのだ。だから私の記述では、蜂起にさいして、すでに中央の党が解党してしまっていた事実を、象徴的に受けとっておこう。つまり、党なきあとの秩父「旧自由党員」たちそれ自体が、ゆくりなくも大衆的反乱に直面して、自らの思想体質をあらわに露呈しつつ、それぞれに分岐していく有様を見ていくことにしよう。ここにこそ、秩父自由党の栄光の構造が見えるのであって、それは秩父盆地の地方的事情などに解消しえぬ事柄である。
 分岐は、まずなによりも、彼ら自由党員の党というものにたいする了解の差異にもとづいて露呈されていく。
 たとえば福島敬三、彼については、秩父の最初期の党員として先にふれた。当時三十歳、山間の初期党員の例にもれず、彼もまた村の名望家で役場の筆生を勤めている。同地の一農民は敬三のことを「大尽ニテ自分共卜日ヲ同スノモノニアラズ」と証言している。「坂本村ニテハ同人父子ガ屈指ノ人物ニテ、村民ハ之ニ左右セラルル有様ナレバ……暴徒ノ群ニ列セザレドモ該村ノ人民ヲ教唆煽動セシ者卜推測セリ」と、田代栄肋が述べているような人物である。坂本村は秩父盆地から峠を越え、関東の平野部に開いた山裾にあり、そのぶんだけ彼の交流範囲も盆地外に拡がっていたのであろう。
 蜂起四日目の十一月四日、盆地からあふれでた蜂起軍の一部は、落合寅市に率いられて峠を越え、坂本村に侵入する。自宅へ戻る途中、敬三はこれに遭遇して取り囲まれるが、敬三の知らない暴徒の一人から「福島氏ではありませぬか」と声をかけられ、「何分よろしく頼みます」と挨拶を受けている。秩父一円に名の知れた自由党員だったのである。
 こうしたわけで、「被告ハ旧自由党員ニシテ常々政治上幾分ノ不平ヲ抱懐スル者」だから、蜂起に関係ないはずがないと、敬三は警察の執勤な追及を受けるわけだが、結局「証拠不充分」で放免になっている。――事実、彼は何もやってはいなかったのである。
 この自由党員を、秩父反乱から遠ざけた思想的要因は、困民党幹部の新井周三郎との会話のなかに明らかになっている。周三郎は十月二日に敬三を訪ね、この時にはじめて会っている。敬三によれば、この会見で、両者の意見の違いはすぐに露呈した。周三郎の用件は、彼が自村でオルグした十三名の自由党入党志願者を、本部で公認してもらうために、自分の他に敬三の連署を求めることだったが、自由党の入党資格についてまず意見が対立した。周三郎の見解は、「仮令(たと)へ己レノ氏名ヲ記シ得ザル者卜錐モ、其志シサヘ慥(たしか)ナル以上ハ幾人ニテモ自由党へ加名セシムル」べきだというのだったが、敬三は「政事思想ヲ有セザルモノハ幾人アリトモ其用ヲ為サザル」ことを主張したのである。
 だから当然にも、困民党にたいする考え方もちがってくる。敬三は、周三郎が困民党であるとは知らずに、次のように論じたという。「君ハ秩父郡ヨリ来リシト聞ク、該地ニハ借金党ナル一種ノ党派起り、我党員モ亦之レニ応ジタリト、苟クモ自由ノ二字ヲ冠スル者借金党如キノ党派ニ瞞着セラルルハ我党ノ尤モ恥ヅベキ者ニアラズヤ、君苟クモ其意ヲ同ウセバ速力ニ懇親会ヲ開キ、我党員ノ借金党ニアラザル事ヲ新聞紙上ニ褐ゲ、其汚名ヲ雪メザルベカラズ」。周三郎は敬三の手前同感してみせたものの失望の色は隠せず、「談話互ニ熟セズシテ相別レタリ」という。*

*福島敬三という興味ある人物の反乱当時の行動については、史料が豊富である.私の「粥新田峠――秩父事件余聞」(『詩と思想』一九七四年三月号)を見ていただきたい。

 由緒ある秩父初期党員たちが皆同じであったかどうかはわからないが、福島敬三の例は、秩父自由党の一方の極を代表するものにちがいない。そしてこれは、秩父事件にたいする『自由党史』の次の評価につながっていく。「蝟集せる衆団は素之れ不平の農民、博徒、猟夫の類なるが故に、其勢を得て為す所、多くは官衙を毀ち、吏員を脅すの外、証書地券を焼棄し、高利貸、地主を征誅し、金品を掠奪分配し、平生直接の不平を洩(もら)すを先にするの傾あり」。また、前にも少しふれたが、秩父周辺の地に、革命軍建軍の旅をつづけてきた山梨県の一自由党員は、約四十名の「志士」を連れて秩父にくる。そこで秩父暴動に参加を求められたが、「博徒及ビ貧民ヲ以テ事ヲ拳ルハ策ノ得タル者ニアラズ」として、ただちに軍を解散してしまうというような例もある。
 このタイプの党員にとっては、自由党員であることが、かえってそれゆえに、彼を困民の運動から遠ざけることになっている。こうした古くからの党員は、中央の党がこの盆地に浸透してくる糸口のごとき位置にいたのだが、彼らを「党」に結びつけるそのぶんだけ、逆に、彼らを反乱農民から引き離していたのである。


二 私の同盟への参加は結社の解消ではなくその再生の契機となる

 新井周三郎に代表されるグループは、この対極に位置する。周三郎自身、蜂起軍第一の行動隊長であり、彼の麾下にいたという農民の証言は実に多く、反乱全体の英雄ともいえる人物である。二十三歳、秩父の隣の郡出身で元教員、九月に秩父に教員の口を求めに来て蜂起の計画に参加することになる。「〔困民蜂起の〕企アルヲ了知シ大ニ之ヲ翼賛シ、是ニ於テ教員ノ念ヲ断チ、一ニ細民救助ニ尽力セン事ヲ決ス」と、彼の判決書は述べている。
 彼はさきにふれたように、自村の農民を自由党にオルグしたのだが、上州の新井愧三郎などとは異なり、それは困民党の運動に農民党員たちを合流させていく過程と同じことであった。同じ上州でも困民党幹部小柏常次郎の場合は、この年の春までに、地元で三、四十人の農民を入党させ、これを全部秩父暴動へ動員しているという(井上前掲書)。この新井周三郎や小柏常次郎のような党員には、「政事思想」の有無を党員資格の条件にすえる敬三などの系列とはちがって、なによりも志の確かさを基準にするという、大衆運動からする組織発想が根づいていたということができる。こうした党員のうちでは、党はそもそも自由困民党として把握されていたのであり、そのような党了解こそが彼らを秩父の困民に結びつける。
 秩父郡内の自由党員で困民党組織者となると、その土着した体質は一層明らかである。これら組織者の筆頭には、そもそも困民のオルグに初めて手をつけた三人の農民――高岸善吉、落合寅市、坂本宗作――がいる。彼らはいずれも明治十七年の入党発表組でそのうちの一人は、同年三月の浅草の党大会に秩父を代表して出席している。れっきとした自由党員だったわけである。
 けれども同時に、彼らはその耕地や仕事にちなんで、「紺屋の善吉」、「ハンネッコの寅市」、「かじやの宗作」などと呼ばれ、秩父の山地にへばりついて生活している者たちであった。だから彼らは、郡外から来た周三郎や常次郎ともまたちがった能力と役割とをもっていたはずである。実際、困民党幹部のなかで、彼らこそが、幹部と土着困民党大衆とを結びつける軸であった。九月に田代栄肋を中心にして幹部団が明瞭な形をとったとき、そこで、名実ともに、在地の運動を代表する地位に立ったのが彼らである。
 この三人につづいて、蜂起へむけた困民党活動の進展とともに、登録・非登録の秩父自由党員が集中して誕生していく。そして彼ら三人を頂点とするこれら自由党員の分布は、困民党とほとんど区別なしに「自由党入党申入之証」に署名した無名の農民に到るまで、それだけ「自由ノ二字ヲ冠スル」ところの政事思想から遠く、目前の一つの「狭い」闘いそのものに接近するスペクトルであったろう。
 たとえば一人の少年の例をあげよう。この引間元吉は十八歳で、この年の四月ごろ入党したといっている。そして蜂起の当日には、「今般自由党員ニ於テ暴徒((ママ))ヲ起ス積リナリ、就テハ即時椋宮神社へ集合セヨ」との通知をうけ、「自分モ素ヨリ自由党ノコトナレバ」と即刻馳せ参じている。彼は四日夜、蜂起軍の本陣が壊滅し、幹部団が逃亡したのちも、秩父事件最大の戦闘といわれる金屋村戦に参加し、鎮台兵と戦い負傷して捕えられた。この少年のような党員にとって、困民の蜂起に参加することと自由党員であることとは、まさに過不足なく重なっている。
 寅市ら三人を中軸に、新井周三郎から元吉少年にいたる困民党の中核的な自由党員たちの性格は、自由党が「自由困民党」として土着していく内面の構造を示すものである。それは、解党してしまった中央の「本部」から切断されて、一つの政治結社が、大衆政治同盟として再生していく過程である。そしてこの過程は同時に、福島敬三に代表される従来の自由党――あるいは秩父のうちの「中央」――から切断され、これと対立しつつ、一つの大衆的政治集団が誕生する過程であった。困民党の中核をなした自由党員たちが、「中央」の下部組織などではなく、それ自体が、前述のごとく、まさに広いスペクトル分布をもったことも、反乱を通じて再生してくる大衆の政治集団として、いわば当然のことであった。それこそ彼らは、福島敬三らの「死に去った世代の伝統」から、「その名前とスローガンと衣裳を借り、由緒ある扮装と借りもののせりふを使って」登場してくるのである。
 自由党本部の解党決定のこの時期にあっては、もはや秩父においても、自由党員相互の交通は途絶えていた。これは福島敬三も証言している。また「困民党卜唱フルモノ凡ソ三千人程」と証言した農民も、信州の自由党員に、郡内の党員は誰かと聞かれて、「村上泰治ガ間違ヒアリテ捕縛セラレタル已来ハ、火ノ消ヘタルガ如ク自由ヲ唱フルモノハナシ」と答えている。こうして、敬三のいう「懇親会」などの形をとった自由党員の活動が見えなくなるのと対照的に、秩父自由党の勢いは地下水のようにこの盆地に浸透していったのだった。それは、自由党を棚上げした困民党の勢力拡大なのではなくて、自由党内部の分解と断絶を通じた、秩父自由党の再形成の過程であった。
 しかしそれでは、一地方の大衆政治同盟への自由党(員)の土着化は、この政治結社が本来もっている政治性格のたんなる否定であろうか。じっはそうではなく、「自由の二字を冠する」この結社の「政事思想」にしても、世直し神話という形であれ爆発的に農民たちに「受容」されたことは、すでに述べたところである。また組織性格という点でも、困民党は旧自由党の単純な解消として大衆政治同盟なのではない。といっても、従来の板垣自由党の組織性格が、よきにつけ悪しきにつけ、困民党のうちにもひきつがれたという(歴史学的に)あたりまえのことを指しているわけではない。
 政治結社としての旧自由党(員)が、秩父蜂起のなかでどんな政治的位置に立たされたかを示す一例をあげよう。旧秩父自由党が激しい分解状況を呈しているこの盆地に、たまたま外からおりたったために蜂起が生れていく過程にまき込まれていった自由党員――すなわち、農民の暴発寸前に秩父にやってきた、二人の信州の党員――の例である。
 困民党のオルグは、山を越えて信州南佐久にまで伸びていたが、そこ北相木村の菊地貫平と井出為吉の二人は、十月二十八日に秩父に入る。為吉がいうには、二人は、「国会期限ヲ短縮スルノ請願」をするからという使いを受けて秩父に来たのだが、いざ田代栄助に会ってみると、「同人等ハ借金党ニテ、大尽ヨリ借り受ケタル金円ノ据付ヲ迫リ、場合ニヨレバ大家ヲ潰ス積リ」であることがわかったので、「左様ノ儀ナレバ自分等ハ帰国セン」と答えた。しかし、事ここに至っては、たとえ外部の人でも帰すわけにはまいらぬと栄助におしとどめられ、蜂起に参加することになったという。
 この井出為吉は、蜂起のため集まってきた三、四十名の武装農民をまえにして、「規則」と称する書面を読み上げているが、そこでも国会云々に触れている。これを聞いた者の証言によると、「其規則中ニ国会ヲ早ク開ク事ト、租税ノ減額スル事卜、金利拾五円壱分ヲ弐拾五円壱分ニスル事卜、其他皆ナ百姓ノ有リ難ク思フ事ノミガ規則ニアレドモ皆々記憶セズ」ということであった。為吉もまた戸長をつとめた村の名望家で、入党発表は明治十五年、「自由民権」の教養もあった。到着したばかりのこの自由党員の言葉使いは、秩父の因民たちにはやや奇異に聞えたのであろう。菊地貫平もまた、蜂起のなかで同じような言葉使いをしている。困民軍に捕えられた県の土木技師にたいして貫平がいうには、「今日撃スル如ク人民ノ蜂起セシハ、来ル二十三年ノ国会ヲ侍チ難クシテ、今十七年十一月一日全国悉ク蜂起シ現政府ヲ転覆シテ直チニ国会ヲ開ク革命ノ乱ナリ」、と。
 信州党員のこれらの言葉には、いうまでもなく、自由民権最大の全国的運動となった国会開設請願の方針が反映している。それゆえ、このときの貫平や為吉には、秩父の自由困民党の面々にくらべれば、よりむきだしの形で、政治結社本来の性格が現われていたということができる。象徴的にいえば、彼らとともに自由党というものが、この反乱する盆地におりたったのである。したがって、福島敬三などと異なり、彼らが蜂起に参加していったときには、彼ら自身のなかで、中央自由党の「政事思想」はそれこそ急転直下、在地困民の要求に折り重ねられねばならなかったのである。
 だが、反乱の現場で、大衆的運動に折り重ねられた政治結社の綱領的思想は、「現政府転覆」も「国会開設」も、もはやたんなる理念にとどまることをやめねばならない。とはいえ俗論がいうように理念を捨てて現場に入るということではない。理念と現実の運動との遠さが、運動の現場で自覚されることによって、期せずしてこれら党員たちは、この距離を埋めるというまさに政治的な指導の位置に立たされることになるのだ。とりわけ、秩父の蜂起を「全国悉く蜂起」する「大戦争」の一環としてとらえる政治的な視野の広さは――それが実際にはどのように非現実的なものであっても――、困民党活動家とは性格の異なる政治的位置を彼らに押しつけずにはすまないであろう。
 なぜなら、秩父自由党が困民党化することによって農民たちの運動に根をおろしたことは、逆に、本来政治結社がもつべき政治・軍事的視野と展望を、狭くすることにならざるをえない。大衆的で無際限の言葉の乱舞として、この結社の思想が大衆に受容されたとしても、目前の狭い闘いがそのままで政治的展望をもつようになるはずがない。次節に詳述するように、この「欠如」の意識は、生れたばかりの一つの大衆政治同盟内部で、ただちに頭をもたげてくるはずである。
 したがって、政治結社の大衆集団への実現は、一つの自己否定の運動だとはいえ、しかしこのことによって、かえって思いもかけず、新たな政治結社の位置が大衆政治同盟内部に再生する。旧結社の神話化と土着化の矛盾を埋めるべき意識的作業としてである。大衆政治同盟にとってこのことは、反乱のうちに形成された一つの大衆的政治集団が、その内部を政治的に構造化することによって、自らの政治性格を飛躍させねばならないぎりぎりの地点に、いまやたちいたったことを意味している。菊地貫平や井出為吉のうちに象徴的に読みとれた事態は、秩父困民党そのもののうちに具体的な表現を生みださねばならない。
 本来ならば、こうした展望を開く任にあたるべき固有の党は、すでに解党してしまったか、あるいは思想的に反乱の圏外に遠ざかっていた。それゆえ、秩父自由困民党はいわば自前で、この政治指導の任に耐えねばならない。しかもこの位置は、時の秩父自由党の二極的な分解状況のなかで、極度に不安定なものになっていくであろう。
 秩父困民党は、まさにこの位置に、二人の旧自由党員をもっていた。困民党幹部団の中心となった総理田代栄肋と会計長井上伝蔵である。
 井上伝蔵は、明治十七年春に村上泰治が捕えられて以降、秩父自由党の中心人物であった。村会議員や役場の筆生をも勤め、彼もまた村の名望家である。商用でたえず東京と秩父のあいだを往復しており、自由党本部にも出入し大井憲太郎などともつきあいがあった。それゆえ、どちらかといえばさきにふれた福島敬三のタイプの党員に属するのだろうが、家が困民党策源地の中心にあったこともあって、困民の運動と蜂起の計画に、はやくからいわばまきこまれていったのである。
 伝蔵は秩父の運動と自由困民党員たちとを、東京の自由党本部に具体的に結びつける地位にいる、いまや唯一の人物である。彼が九月二十日に党本部を訪ねたことが、すでに警察に探知されていたという。実際『自由党史』によれば、伝蔵らは村上泰治の妻を大井憲太郎のもとに派遣して挙兵を伝えたところ、大井は驚いてただちに部下の氏家直国を秩父にやり、「井上等に会し、大井の命を伝へ、暫らく満を持して発(はな)つ勿からんことを懇諭」させたという。「軽挙」を諌めるこのような使者の派遣が、党本部を秩父蜂起に具体的に結びつけた唯一の形であるが、ともかくも井上伝蔵は、中央の党と秩父の党をつなぐ点に位置した人物であった。のちに詳述するが、このことは蜂起の日時決定の際に、秩父自由党内に重大な対立をもちこむことになる。
 田代栄肋は、九月になって困民党の中心人物にかつぎ上げられる。彼はこの年の一月ごろ自由党に加盟したが、その際保証人に頼んだ若い村上泰拾に密偵かと疑われ、自由党の主義を訊ねても、「自由党ハ別ニ主義アル者ナシ」ととぼけられてしまった。このためその後も、「泰治ノ振舞ニ対シ情感ニ堪ヘズ、一旦ハ申込タル者ノ脱党シタキ心底」で、泰治をはじめとする自由党員たちと交流したこともなかったという。
 栄助は警察で、困民党と自由党本部との結びつきを追及されている。つまり、困民党の四項目要求は党本部からでたものかと訊問されるわけだが、栄助は、これがただ秩父郡中の自由党員がもくろんだものであることを明瞭に述べ、「本部ノ目的ハ他ニアラント思惟セリ」と答えている。そして、それでは本部の目的は何かと警察はたたみかけるのだが、栄助は、その点なら常に本部に出入している泰治や伝蔵に聞いてくれとつっぱねる。
 このように、田代栄肋は、泰治――伝蔵に結びつく系統の自由党員ではない。そしてそのぶんだけ、四項目要求実現をめざす困民党に結びついてはじめて、党員たる者として受肉したのである。しかしまた、彼は困民党の大衆オルグではなく、あくまで後者から大将として迎えられた存在である。この位置は、幾分この人物の成り立ちに由来するであろう。井上伝蔵の上に立って何故総理になったのかと問われて、栄助は、「自分ハ性来強ヲ挫キ弱ヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者便リ来ルトキハ附籍為致、其他人ノ困難ニ際シ中間ニ立チ仲裁等ヲ為ス事実ニ二十八年間、子分ト称スル者二百有余人」云々と述べている。
 ここには伝統的な百姓一揆の指導者のイメージがある。けれども、中央の党と在地の党員オルグとを両極にみたてた場合の、栄助のこの「中間」的な位置のために、反乱における政治の揺れは彼に集中して現われることになる。反乱における政治結社という観念は、この人物をまってはじめて、その最大限の幅を示すということができる。一人のカリスマを中心にして、求心的な構造をとりがちなこの種の大衆暴動であってみればなおのこと、反乱軍の「総理」としての地位がまた、栄助をこの地点に押しやったものであることはいうまでもない。


第三節 幻の政治結社へ


一 闘いの戦略的課題を直視して私は集団を指導すべき位置に立つ

 秩父反乱の主役たちは以上でほぼ出そろった。いまや十月三十一日の蜂起の開始とともに、この主役たちのスペクトル分裂が今度は彼らの行動のスペクトルとして、それぞれに展開していくのを待つばかりである。けれども反乱の歴史を書いているのではない私の記述は、彼らの行動展開を追跡していくことは断念しなければならない。問題は集団、集団、終始集団だ。
 秩父困民党という大衆の集団は、前節でみたような秩父自由党員たちの政治的スペクトル分裂を、その内部にかかえたものとして、まさに誕生したばかりの大衆政治同盟である。スペクトル分裂は、なにか制度的なヒエラルキーのごとくに、この集団内部でまだ構造化されてはいない。したがって逆にいえば、この集団はいまや蜂起に直面して、自らの内部を変えることによって、集団の政治的な展開をも促されているのだといってよい。それは、困民党が内部に一つの指導的集団を析出し、かくて再度幻の「自由党」を発見していくような、大衆政治同盟の転成を予感させる。
 それでは大衆政治同盟の転成へむけたいくつかの契機を、秩父事件のなかで具体的にみていこう。このような契機は、まずなによりも、集団の敵対的闘争における戦略上の問題として浮び上ってくる。
 秩父暴動という一地方反乱にあっては、権力の問題まで含めたすべての戦略的課題が出そろったわけではない。けれどもそのうちのいくつかについては、困民党幹部団の激しい内部対立をともなったり、強い個性を通じて問題化したりすることによって、それが蜂起軍にとっての政治指導の課題(戦略問題)であることを明らかにしたのである。
 中心問題は、一盆地内の蜂起を、外部の闘いにどのように結びつけるかということにあった。なぜなら、田代栄肋がはっきりと見とおしていたように、「兵ヲ拳ゲタル上ハ警察官及ビ憲兵隊鎮台兵ノ抗撃ヲ受クルハ必然」であり、これに抗敵する方法は、秩父内部に限っては解決不可能とみなされたからである。ここから、栄助の全国一斉蜂起論と外部進出論とがでてくることになる。
 田代栄肋は困民党幹部に蜂起の延期を提案するに際して次のようにいう。「今三十日ノ猶予モアラバ、埼玉県ハ不及甲、群馬、山梨、神奈川ノ三県下一時ニ蜂起スルハ必然ナリ、然ルトキハ飽迄暴威ヲ逞フシ、減税ヲ政府へ強願スルモ容易ナラン。」
 こうした同時蜂起論は、前にもふれたように信州の二人組によっても展開されている。菊地貢平などは、自分たちが当地に来たのは、「十一月一日ヲ期シ日本国中何処トナク一起シテ、大戦争ガ始マル手筈」になっているからだといい、これを聞いた困民党の一人は、日本国中戦争とあらば「何国ニ居テモ到底難逃」と観念して蜂起に参加したと陳述している。(ついでながらこの人物は蜂起の後段になって、「日本国中ニ戦争ノ起リタル事一切風評モ非ラザル故、是レハ全ク井出菊地等ニ騙サレシ事卜発明シ」自首する気になったのだという。)さらにまた一自由党員は、以前村上泰治から聞いた話として、「全国中自由党員ヲ募り、大勢ヲ以テ地租減租セラレンコトヲ政府ニ強願スルノ見込ナリ」と述べている。
 したがって、一斉蜂起論は秩父蜂起からの戦略的必然性として構想されたものというより、井上幸治氏のいうように、一部自由党員の「革命的ロマン主義」として広く存在していたとみることもできよう。けれどもここでは、栄助の一斉蜂起論にどのような現実的なみこみがあったかは論の外においていい。栄助の軍事的みとおしが次の外部進出論に結びつくように一斉蜂起論もまた彼にとって、秩父挙兵の戦略的課題たる意義を失うものではない。
 外部進出論は栄助の場合、秩父は軍事的にいっても東京に近すぎるので、軍資金を奪って「直ニ信州へ引揚ゲ更ニ大兵ヲ拳グル」という形をとっている。けれども他の多くの者たちでは、それはむしろ東京進出である。たとえば典型的には次のようにいう。「先ヅ郡中ニテ軍用金ヲ整へ、諸方ノ勢ト合シテ埼玉県ヲ打破り、軍用金ヲ備へ且浦和ノ濫獄ヲ破り村上泰治ヲ援ヒ出シ、沿道ノ兵卜合シ東京ニ上リ、板垣公卜兵ヲ合シ官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変シテ良政ニ改メ」云々。この上京論のバリエーションはいくつもあるが、なかには借金党は役場を襲い、自由党は県庁へ進出する目的だといっている者もいる。
 こうした外部への軍事進出論が、蜂起の準備過程でどれだけ具体的に検討されていたかはわからない。けれども、盆地の外へ活路を開くことを考えるのは戦略的方針によらずとも自然のことであり、事実、反乱軍の一部は峠を越え、三方面にわたって外部進出を試みている。これらは敗走ではなくて明確に積極的な外部進出の試みであった。
 しかしこうしたなかで、栄助の外部進出論だけは、ある種の軍事戦略的視点からだされていることに気づくのである。さきの一斉蜂起論でもそうだが、他の者たちの考えは方針というよりも、勢いおもむくままの大言壮語に近い。これに反して栄助の場合は、秩父困民軍が警察・軍隊、つまり国家を敵にせねばならないという、途方もない事態にたいする怖れから発想されている。栄助に会った警察の密偵が伝える彼の東京進出論にしても、「東京ヨリ憲兵隊或ハ兵隊ノ来ルアルハ必然タリ、其留主(守)ノ空虚ヲ窺ヒ東京へ更ニ暴発スル」といういい方である。
 一斉蜂起論にしても外部進出論にしても、彼の立場は攻撃的であるよりははるかに防禦的であり受動的である。ここには、井上伝蔵を通じて入ってくる東京自由党の慎重論のひびきが明らかに聞きとれる。しかしそれは客観的にいえば、秩父蜂起自身の位置から由来するものであり、この一点を反映する者として田代栄助は秩父困民党のなかで無二の地位にある。蜂起のなかで彼だけが、(おそらく伝蔵も)ある意味で醒めているのである。
 固有の意味での軍事問題に関しても、栄助のこのような特色は発揮されている。因民軍の武装を武器という点でみると、その規模はおおよそ次のようなものであった。十一月三日、本陣のおかれた村の困民軍本隊を二千人と証言した農民は、その内訳として、先頭が鉄砲隊八十人、二番目に刀と槍の部隊が二百、あとは竹槍隊だといっている。また別の日の警察記録では、総数千五、六百のうち鉄砲は古流の猟銃が百四五十挺、木砲(農民が大砲と称していたもので花火用の松の木の大筒)が三ないし四門である。刀剣や槍は当時もっとも簡単な質草だったといい、大家や金貸しの蔵にはたいてい何本かはしまってあり、農民たちはこれを徴発したのである。警察は神経をとがらせたが、同年九月の加波山事件で使われた爆弾――爆裂弾――は、秩父では使われなかったらしい.
 こうした困民軍部隊が、それこそ「頗ル軍律ヲ真似、法則ヲ正シ、一組毎ニ旗ヲ立テ隊伍ヲ結ヒ、螺貝ヲ吹キ鯨浪声ヲ上ゲテ」繰り出していったのである。民衆蜂起の初期段階としては、武器や隊伍の点で、当時のぎりぎりの大衆武装を実現しえていたといってよいであろう。そしてこの大衆武装の範囲内で、蜂起当日まで反乱軍の動きを警察の目から隠しえたということもあずかって、またたくまに彼らは盆地一円を制圧しえたのである。まことに、当時の一記録者が、「十一月一日ヨリ四日マデ蹤ヲ郡中ニ駐ムル警部巡査一人ダモ有ル事ナシ」と嘆くような状況が出現した。
 たしかに、盆地内の高利貸や警察という目前の敵を相手とするかぎり、実際問題として農民たちの自然発生的な大衆武装で事は足りたであろう。だが、農民たちのうちで無際限に言葉化されていた敵――「圧制政府」――が、盆地の狭い入口から侵入してくる軍隊の形をとってにわかに現実のものとなるや、言葉を現実にひきもどすべき政治の位置もまた、軍事問題それ自体のうちに再生せざるをえない。実際、困民党幹部たちにとっては、すでに見たように、この「無政の郷」に国家の暴力装置が侵攻してくることは、早晩必至と予想されていたのである。
 これにたいしては、「中仙道ノ鉄道ヲ破壊シ電信機ヲ裁断シ」等のことがたしかに語られてはいた。また、「兵隊必ズ至ルベシ、至ラバ即兵士ニ説クベシ、自由党ノ兵ハ汝等ノ父汝等ノ兄ナリ、汝等父兄ニ対シテ発砲スルヤ、豈(あに)不孝不義ナラズヤ、同ク不孝不義ナランニハ天兵ニ向テ発砲セバ汝等亦自由ノ士タルベシト、如此説カンニ兵士等何ゾ吾兵ニ害ヲ加ベキ、然レバ隊兵敢テ恐ルルニ足ラズ」というようなアジも聞くことができる。しかしいうまでもなく、こうしたことは固有の軍事問題には入らない。技術的な意味での因民軍の軍事的能力といえば、部隊に初歩的な軍事訓練がほどこされている程度である。それは隊伍のとり方、槍衾の組み方や火縄銃隊の一斉射撃法といったところである。
 田代栄助は、敵方の軍事力を寝返らせることによって、この欠如を補おうと努力している。捕虜にした警官を大まじめでオルグしたりしている様子は、ややユーモアの過ぎる場面である。
 また、たまたま秩父に測量に来ていた陸軍省の士官が困民軍に捕えられ、民衆は士官の望遠鏡を奪うか殺すかすべきだと騒いだけれども、栄助は彼を丁重に招じ入れてもてなしている。そこで栄助は蜂起の主旨を委曲をつくして説明し、この企てに身を投ずることを求める。とりわけ、「吾党ニハ軍事ニ馴レタル人物ニ乏シク、差向キ先生ヲ推シテ総指揮役ニ置キ、万般ノ事大小トナク死ヲ取テ断決ラレタシ」というのであった。
 軍資金のことも栄助は心配している。十月の半ば、すでに加藤織平は弾薬の購入をはじめていたが、栄助は手取り早い方法は押し込み強盗しかないとして、自ら指揮して新井周三郎などに実行させている。成果は大きくはなかった(合計百円ほど)が、直接的にはこの件で栄助らは以後地下にもぐる形になるのである。
 たしかに、秩父盆地内での勝利のみならず、「圧制政府転覆」をめざす世直しの軍として盆地の外へあふれ出ていくことは、自由党が秩父の因民たちに与えた夢であった。だが峠を越えて東京に至る道のりが遠いように、外部進出の政治・軍事的展望もまた途方もなく遠いものに、田代栄助には思われたのだ。この現実の遠さ、政治の遠さを埋めるために、以上みたように蜂起の前もその最中も、栄助は数々の努力をしている。この仕事は、秩父反乱の客観的な位置が困民軍総理田代栄助に強いたものであったが、もちろんそれは栄助個人の問題ではない。秩父に土着して育った困民党が、自らを飛躍させることによってこそ応えうる課題であった。


二 幹部団は戦略課題をめぐり激論し私の集団は戦闘へと結集する

 しかし一口に集団の政治的飛躍といっても、この課題がどのようなものであるかを、総理の田代栄肋とてはっきり知っていたわけではない。いいかえれば、栄助ら幹部団の「指導」によって、戦略的な課題の意識とその政策が、集団内部に定着されるといった具合にはいかないのだ。敵に直面し、また集団の内部分裂をぎりぎりに賭けて、彼らは自ら集団の飛躍とは何たるかを発見するしかない。
 それゆえ、秩父困民党もその大衆的運動の発展とともに、「自然に」蜂起へと政治的な展開をとげていったのではない。政治的展開とは、ここでも内面の事件――端的な政治的経験――としておこなわれる。これこそ蜂起期日の決定をめぐる困民党幹部団の一連の激論――集団の討論――であった。すでに田代栄助の言動から予想しうるように、集団の飛躍を賭けたこの討論は、遠く重大な敵の存在――その予兆――を重い背景としてくりひろげられる、一場のドラマとしてしかありえなかったであろう。そこにおける幹部党員グループの分解と収斂の有様は、妙ないい方だが「見事」というしかない。
 夏以降、盆地一円の大衆運動を展開し、また自前の幹部団をその中核として形成しえた秩父困民党は、十月も下旬になると、「平和的手段」から「腕力に訴え」る方向へ、集団の決定的な飛躍を迫られていく。ここで紹介することはしないが、なによりも、大ぴらで大規模な大衆運動そのものの自転の加速度によって、この飛躍は迫られてくるのである。とりわけ夏以降の請願運動もいくところまで登りつめ、十月半ばには逆襲に転じた債主方によって、負債農民の多数へ裁判所の召喚状が配布されることになる。ここに至って、「因民ニ於テ債主方掛合ヲ総代ニ依頼セシガ為メ却テ直ニ差紙ヲ受ル之様ニ相成、困難極マル事ニ付、如何様ニカ致シ呉レト否ヤ総代ニ迫ル」といった具合に、自由党員幹部にたいする大衆の圧力は直接的なものとなる。
 栄助はこの段階になっても、なお時間かせぎか、県庁請願の戦術を提起する一方、群馬方面の オルグを今一度念をおし、小柏常次郎をだめ押しの煽動に派遣している。このような盆地外部のオルグはよほど栄助の気になっていたらしく、もはやぎりぎりの段階、十月二十六日の幹部会議になって、彼が蜂起三十日延期を提案する際の基本的理由にもあげられるのである。これがさきにふれた「今三十日ノ猶予モアラバ……」という彼の一斉蜂起論であることはいうまでもない。
 もともと武装蜂起の決行は、すでに十月の十二日に決定をみている。この日、加藤織平および落合寅市らのトリオ、新井周三郎に小柏常次郎、それに井上伝蔵という幹部グループ全員が集合し、これまでの運動をいずれも不首尾と総括し、「此上〈無是非次第ニ付、我々一命ヲ拠テ腕力ニ訴へ」て事を決することにしたからと、栄助の同意をもとめたのである。栄助もまた「自分モ一旦同意ヲ表シタル上ハ一歩モ退カズ、飽マデ身命ヲ拠テ倶々尽力セン」と答えている。栄助はつき上げられた形だが、まずは全員一致の決定である。
 けれども、にもかかわらず、二十六日にいたって、栄助があらためて蜂起延期を提起するにいたるのは、たんに実現のみこみもない同時蜂起論にもとづくことではない。秩父挙兵への栄助のためらいには、この挙兵がはらむ政治・軍事戦略上の全問題が集中して表現されている。大衆的な暴力の過熱と党的な政治指導との矛盾が、集中しているのだといわねばならない。ことこの時に至っては、栄助の同時蜂起論は、この矛盾がまとった一つの衣裳であるにすぎない。
 このことをやや象徴的に示すのは、「暴発ノ事」を決定した十月十二日とこの日との間に、東京の党本部の介入があったという事実であろう。『自由党史』のいうように、使者は氏家直国であったかはわからぬが、小柏常次郎によれば、二十三日に伝蔵方にたしかに使者があったという。(井上幸治、前掲書)栄助が伝蔵の支持を得て、蜂起の延期をきりだすきっかけになった出来事にちがいない。
 十月三十一日の最後の幹部会議はさる山中で開かれたが、自然、近村の農民大勢が押しかけて圧力をかける形になった。そこで栄助と伝蔵の両人は、再度蜂起延期をこの大衆に直接訴えかけるが、もはや容れられないのである。「三十日間ノ猶予ヲ請ヒタルニ聴カズ、十五日間ノ延期ヲ請ヒタルモ聴入レズ、一週間モ聴入レザリシ」と栄助は述べている。両人の延期論にたいする他の幹部党員の反応は、「延期拒否」で一致している。「井上伝蔵強而(しいて)平和説ヲ唱ヘタレドモ」、織平などが「秩父郡中ノ高利貸ハ残ラズ放火又ハ打段シタル上、官ノ手配アラバ進ンデ抗敵スルノ外得策ナシ」と主張して押し切ったのだという。(井上、前掲書による)また寅市がのちに書いているところによると、加藤織平は大井憲太郎の使者氏家を斬り殺して旗揚げすると公言し、他の者も軍資金強盗の汚名を着て一生を終るよりはと賛成して、十一月一日決行論が勝ったのだという。
 けれども、栄助・伝蔵にもっとも強硬に詰め寄ったのは、郡外から来た小柏常次郎であった。彼も初期からの党員で屋根板職人、九月に秩父に乗り込んで以来、いわば根なし草の困民党職革(職業革命家)である。在地の党員とちがって、「他管下ニ来リ已ニ六十日ノ滞在」という焦りもある。彼にたいして栄助は、「前途ノ目的モ定マザルニ頻リニ村民ヲ煽動シタルヨリ、軍装モ整ハザル前不時多人数集合スルノ不幸(!)ニ遇ヘリ」と、同情ともなじるともつかぬことをいい、「哀レ常次郎ノ首ヲ斬リ屯集ノ大勢ニ猶予ヲ請ハン」と切り返していく。そこで思いあまって常次郎は、「全ク自分ノ不行届ヨリ引起シタルナレバ、衆ニ謝シ一週間ノ猶予ヲ請ハン」と集合した村民の所へ出かけていくがもはや相手にされない。この夜、常次郎は、生かしておいては外聞わるしと、栄助の寝所に抜刀でおしこみ、彼に明日の決行を約束させたという。(井上、前掲書)十一月一日、すでに武装集団が動き始めたとき彼がいっているように、「平和手段ハ到底行ハレ難キニ付、腕力ニ訴へ先ヅ秩父郡ヲ闇ニナシ、進デ政府ニ当ル」というのが、常次郎の性根であったろう。
 他方、新井周三郎については、以上の会議すべてに参加しているのだが、彼の発言は記録にないのではないか。ただ、すでに三十一日の夜には現場にとび、一日をまたずに暴発して、困民軍最初の打ちこわしをおこなった風布村の連中を指揮したのは周三郎であった。
 このようにして、大衆的運動の圧力を直接の背景に、蜂起への集団の飛躍が一つの事件として展開された。これはもちろん、蜂起という「容易ナラザル事件」「生命ヲ捨テザルヲ得ザル事柄」にむけた個人的決意が、集団の意志一致として実現される現実の過程であった。新井周三郎の先駆行動をはじめとして、栄助や伝蔵をも含め困民党幹部団は、このようにして一致して蜂起に身を投じていくことができた。


三 戦略的な課題が指導部を再形成しえたとき私の集団は飛躍する

 集団の行動への決起が、「指導者」の整合的な準備と指令にもとづいておこなわれるのではなく、それ自体がこの集団内面の事件としてはじめて可能となったことは、秩父自由党の栄光の核心である。
 だが同時に、蜂起へむけた意志一致の過程は、田代栄助と井上伝蔵に代表される重大な異論を、強引にねじふせていく過程でもあった。もしも、たんにことが盆地内ですむものであったならば、集団は栄助の異論を日和見主義の反面教師とみたてて、決起にむけた自らの意志をいやがうえにも固めることでよかったであろう。事実、蜂起へとなだれこんでいく十月三十一日のドラマは、加藤織平ら土着自由党幹部にとってはそのようなものとして演じられたであろう。そしてまた実際、困民軍の蜂起が盆地一円を制覇した十一月二日までは、自由党員幹部団の意志一致が孕んでいた脆さは、現実に露呈されることをまぬがれていた。この盆地内部であの驚嘆すべき反乱の光景が展開された事実の内面の意味がここにあった。
 だがいうまでもなく、蜂起決定をめぐる討論に提出された栄助の異論は、彼の個人的資質や「革命的ロマン主義」などによるものではなかった。集団討論が栄助の動揺をねじふせたとき、盆地外へと横溢する反乱の政治的展望と、集団内の政治指導の位置もまたねじふせられ、棚上げにされたのである。だからこの問題は、一つの不安として反乱の渦中にもちこまれ、反乱のある段階で、かならずや再び頭をもたげ、その解決を要求せずにはすまないであろう。
 十一月二日、大宮(秩父市)をなんなく占領した有頂天の蜂起軍は、その数一万にもふくれ上り、「参謀長」菊地貫平の勧めがあって「革命党本部」を秩父神社から郡庁に移す。まさにのちに一農民が、「望ハ達シテ高利貸ヲ斃シ貧民ヲ救助シタ」と述懐しているように、困民党の固有の目的はこの段階で達せられている。だから郡庁では、「役員ノ暴徒等席ヲ陳ネ、田代栄助秩父大将卜称シ、今日ヨリ郡中ノ政則ヲ出ス事大将ノ権ニ在り、各其意ヲ体セヨト酒肴ヲ設ケテ開衙ノ祝宴ヲ為シ」といつた有様であったが、権力をにぎったこの「大将」の脳裡から、不安は去らなかったはずである。
 本来ならば、困民党の集団としての飛躍は、栄助の動転をまさに政治的指導の動揺として、集団の内面に構造化することが必要とされた。戦略的な次元の政治は、もともと反乱集団全体の課題として自覚されることはありえないのだから、栄助ら幹部が意識してこの政治の位置をひきうけることによって、集団内部に本来の指導と被指導の関係を構造化しなければならない。これは、旧自由党の崩壊を通じて形成された彼ら幹部団が、新たな大衆政治同盟、困民党の「指導部」として、名実ともに再形成されることだ。具体的にいえば、「先ヅ秩父郡ヲ闇ニナシ、進デ政府ニ当ル」という決意の、この「政府ニ当ル」ための政治・軍事上の方策が、自由党幹部団あるいは百名ほどの活動分子の間で、集団として意志一致され、準備されることが必要とされたのである。この努力が現実に集団の組織的分裂をまねくかどうかはまったくの別問題としても、困民党幹部団の激論のなかには、かかる政治的構造化への契機はまぎれもなく現出していたのだ。
 もちろんいうまでもなく、こうした契機の具体化のためには、事前の討論でこと足りるはずもない。現実の敵対的闘争――とりわけ侵入してくる国家権力の暴力装置との対決――を通じてこそ、事前の集団意志の脆さを再度試練にかけ、困民党は秩父の土着集団からより高度な政治集団――一つの大衆権力――へと、自らを変えていかねばならなかったであろう。だが秩父困民党は一揆の集団から蜂起の政治集団へと自己を内面的に再構成することなく、短い蜂起の秋をあっというまに駆け抜けていってしまった。集団の飛躍における政治(的意志)の揺れは、ただ総理栄助の動転という人格的表現のなかにのみ露呈するしかなかったのである。
蜂起した因民軍が東京の憲兵隊や高崎鎮台兵――自由党年来の敵――と対時するにいたる時点で幹部団の指揮がにわかに乱れ、困民軍本陣があまりにもあっけなく崩壊していく事実は、こうした問題の帰結であった。そしてこのような困民党――秩父自由党――の崩壊過程はまたしても田代栄肋のうちに人格的な表現をみせて進行するのである。*

*困民軍本陣崩壊後に無名の指導者のもとにおこなわれたいくつかの戦闘、および菊地貫平らによる信州への転戦については、ここではふれることができない。

 実際、栄助のかねて予期したごとく、国家の軍事力がこの盆地の入口に迫ってくる事態に直面するや、蜂起軍の主力がこれとまだ一戦も交えぬうちに、この「秩父大将」の背筋を、強大な病魔のごとくに「弱気」がとらえてしまう。十一月の三日から四日にかけて進行する彼の「精神的虚脱状態」については、井上氏の著書が的確に述べているところである。
 こうして栄助は、種々の軍事的悲観材料をとりあげたうえ、次のようにきりだして本陣から姿を消す――「斯ク八方敵ヲ受ケタル上ハ討死スルノ外ナシ併シ一時寺尾村へ引揚ゲ山中ニ潜ミ、運命ヲ俟タン。」

 「田代栄助のような人物が存在したということは、混乱のさ中の彼の無能ぶりをも含めて、敗北した秩父反乱にとって一つの慰めなのだと私は思うことがある」――別のところで私はこのように書いたことがあった。しかしここでは、他の秩父自由党員たちについてと同様、彼についても反乱のなかの人物論を書くことは私の意図ではなかった。私は栄助の言動のなかに、ある政治結社の観念をみてきたにすぎない。栄助は、一方では井上伝蔵を通じて入ってくる「板垣ノ自由党」の有形無形の影響にさらされ、他方では、彼を担ぎだした秩父困民党員たちの衝迫力をまともに受けねばならぬ地位にあった。この地位は、まさに大衆的反乱のなかの政治的指導(集団)の位置にほかならない。
 そして秩父事件では、主としてただ田代栄助の動揺という人格的表現のうちで政治のこの固有な位置が露呈するしかなかったということは、本来政治や組織なるものの定義に反することだ。そこでは、集団は内部対立を通じて指導と被指導の関係を構造化しえず、集団の矛盾は栄助に集中し、栄助の崩壊=集団の分解・離散として結着する。
こうしたことは、秩父暴動という暴力的な大衆闘争が、「官ニ抗敵スル」大衆の自己権力の確立――一種幻の「自由党」の再形成――へと進みえなかった事実の、内部的な証明というしかない。この盆地の党員グループは、さっさと解党してしまった「党」からも、また彼らが一場の夢を与えた広汎な反乱農民たちからも、まさしく正当な代償をこうむってあのように動転したのである。


第四節 政治指導の発想


一 分裂は集団の内部矛盾の外化であり指導はその再内面化である

 政治的な指導という観念――「リーダーシップ」――は、日常の政治世界ではほとんど自明のように使われている。問題はただ、「いかに指導するか」という方法や技術につきるかのように考えられている。ここでいう指導とは、いうまでもなく指導者(部)の位置と性格を多少とも前提として、その対象――人びととその集団――をこの前提にまで近づけることを意味している。かの「前衛党」のごとく、政治過程あるいは意識の前後関係として、指導と被指導がとらえられている例を想起するとよい。したがってまた、被指導とは「従う」という文字どおりに受動的な観念である。
 けれども、これまで私が秩父事件の分析でくりかえし政治指導という観念を使ったとき、それはたんに前後関係を指す言葉などではなかった。一つの集団における政治指導の位置――あるいは指導と被指導の構造――は、なによりもこの集団の政治的な矛盾を根拠として生みだされてくるものだった。
 すでに第三章でみたように、私の政治的集団がかの「二つの敵」との敵対を内面化するとき、私の集団は、卑近な目前の闘いと遠大な夢との矛盾をかかえもつ。秩父で自由党が、土着化と神話化の二極的矛盾の形をとって、困民党という大衆政治同盟に根づいたとき、この矛盾はまさに困民党の運動そのものにほかならなかった。それゆえ、私の政治集団の形成そのものともいえるこの矛盾は、その後の敵対的闘争の現実的展開を通じて、さまざまな形で集団内部に顕在化し、その解決を要求せざるをえないであろう。私の政治的な経験史とは、それゆえ、集団に内面化された矛盾を、そのつど克服し、解決していく努力の連鎖なのだといってもよい。
 このような私の努力の道程で目前の狭い闘いに集団が没入していくことへの不安と、また他方、集団の目的が大衆的熱狂のなかで無際限にコトバ化していくことへの苛だちが、くりかえし集団の意識に生じてくる。しかし秩父困民党と田代栄助の例がそうであったように、この意識は一挙に新しい集団意志に結実するものではない。当初は、それはこの私の関心(ゾルゲ)であって、集団内の他の私の意識にはのぼらぬことであるかもしれない。だから、この私の関心によって、集団の共同観念はすでに内部分化の契機を生みだすのである。
それゆえまた、集団の未来にむけた私の憂慮は、そのままでは私の集団の解体と分裂につながるかもしれない。これもまた、私に意識された集団の矛盾の、ある種の解決策にはちがいない。けれどもこれを避け、私が自らの意識した集団の矛盾を、集団の未来へむけて克服せんと努力するとき、これは原初的な意味ですでに指導である。
 ひるがえってみれば、政治家としてのアジテーターが、敵前で味方の結束と飛躍を促すとき、ここに集団の内面を差異づけ構造化する最初の契機が生みだされたのだった。だがこの段階では、私の政治的集団はなお出発点に位置していたにすぎず、アジテーター=私の努力にとって、この集団の矛盾はなお途方もない姿を現実に露呈してはいなかったのだ。だからその後、私の努力が、集団の分裂と対立をもたらすというおもいがけない事件に遭遇するまで、この矛盾は私の意識に明瞭な形を刻むことはなかったのだと、いくぶん比喩的にいってもよい。
 集団の分裂という事件は――すでに詳述したように――矛盾の一つの解決形態であった。形成された集団は諸集団への分化によって、反乱世界内部を最初に構造化するのである。たとえば、目前の「狭い」――それ自体は「改良的」な――闘いや成果に満足する集団と、もっと先まで進もうとする部分とが、一つの反乱世界内部に分化・対立するようになる。けれどもいまや、集団はその矛盾の第二の解決形態ともいうべき経験を、こんどは集団の分裂ではなくその集団内部に発見するのだ。これがつまりは集団における政治的指導の形成である。指導は――さきの例でいえば――目前の闘いに満足する部分ともっと先へ進もうとする部分と童異なる集団への分化としてではなく集団自体のうちに構造化し、これを指導と被指導の集団内的弁証法の関係にもたらそうとする.分裂は集団の矛盾の外化であったが、指導はこの分裂の――再度の――内面化である。「団結、分裂、さらに団結」というとき、この「さらに団結」は、「一枚岩の団結」という比喩に反して、まさに指導の構造をもつものでしかないであろう。
 秩父自由党が困民の運動へむけて最初に結束したとき、それは同時に由緒ある旧自由党の分解を確認することでもあった。通常「日和見分子を切って団結を強化する」などといわれるように、秩父自由党も、政治結社が同時に大衆運動体である矛盾を、運動の圏外に去った福島敬三らにいわば外化したのである。そして、このようにして困民の蜂起にむかっていった彼らだったが、しかしこれではすまないという意識が、くりかえし田代栄助には宿ったのだった。「冷静に」判断すれば、蜂起の困難をみとおしていた栄助は運動そのものから去るしかない。事実、彼の意識していた困難があまりに早く現実化した――と彼には思われたのだが――とき、あっけなく栄助は脱落してしまう.
 その後、近代的な政治は、栄助の身柄に宿ったような憂慮を、指導部ないし指導集団の機能として形づける。制度として固定していようといまいと、指導と被指導の関係として集団内面は構造化されるのである。私の集団の均一なあるいは混沌とした内面は、明確に政治的に差異づけられる。私の集団は、かくてもはや「共同体」ではない。この点こそ、指導という経験を、集団の分裂の経験から分かつ重要なポイントである。集団の分裂の場合は、それぞれに均一な二つの「共同体」へ分裂することもありうるからである。


二 指導とは制度ではない――集団の将来にたぃする私の憂慮である

 さてこうして、田代栄肋にくりかえし宿ったような憂慮は、実は政治的指導というものの宿命であった。指導という政治のカテゴリーが、栄助の身柄において自己を主張していたのである。
 しかし通常の政治世界では、指導はつねに指導と被指導とに実体化されて理解され、また指導の問題とは両者の関係の問題だとされている。誰も、指導というカテゴリーの宿命などは問わない。
 たしかに、通常指導ということが、指導される部分との政治的前後関係の文脈で理解されるのも、理由のないことではない。集団の経験は、現実の革命過程を――「過去」から「未来」へ――たどるものでしかありえないのだから、集団は内にひきずる「過去」と出すぎた「未来」とに不断に折り合いをつけねばならない。指導とは、革命過程における集団の過去と未来を、現時点でこの集団内部に構造化しようとする意識である。このことから、指導の問題は、「進んだ部分」と「遅れた部分」の関係という表現をとりやすいのである。
 だが、本来指導という概念には、集団の「未来」が指導で「過去」が被指導だなどという関係はまったくない。たとえば、革命過程を「未来」にむけて指導することも、「過去」にひきもどす反革命の指導も、ともに指導には変りないのである。また、革命集団の場合に、出すぎた「未来」――いわゆるはね上り分子――をどう処理するかは、内にひきずる「過去」――意識の遅れた部分――にどう対処するかとまったく同様な指導の課題である。「前衛党」の指導などといっても、実際問題としては、もっぱら「出すぎた未来」に対処することである例など、別にめずらしいことではない。集団や運動内の意識に宿るこうした憂慮そのもののうちに、指導の宿命があるのだ。
 それゆえ、いまの段階で、指導の宿命を政治的意識の前後関係のうちに固定化してはならない。指導は、集団の敵対関係が集団内面に強制する矛盾によって促される、ある本来的に不安定な意識である。なぜなら、私の憂慮が集団全員に認められ、かくて集団が新しい集団意志のもとに結束し、飛躍するとき、これは私の指導の実現であるとともに、同時に、指導というものの否定(解消)ともなるからだ。* また逆に、指導の実現をめざす私の努力が、集団そのものの分裂をもたらし、指導というものを挫折させるかもしれない。いずれにしても、通常のみかけに反し、指導とは、制度的なヒエラルキーのうちにはどうしても閉じこめることのできない何かである。

*指導の実現と解消については、『叛乱論』が「アジテーターと大衆の死闘」として詳述している。また、党の「指導」については、本書第七章を参照のこと。

 秩父困民党で、田代栄肋において経験された政治指導も、まさに以上のようなものであった。指導は、彼がいみじくもいったように、「軍装モ整ハザル前ニ」反乱に遭遇した「不幸」だったのだ。だがもともと、大衆運動の組織者とは、彼の一生でそうざらにはない好運として、このしんどい事態をひきうけたいと願望する以外の者ではないのだから、彼にとって「不幸」といい「好運」といってもそれはまったく同じことを意味している。
 彼の集団が、従前から、この事態に対応する方策を練りあげていたとしても、どのみちそんなものは、反乱のうちで混乱と分解を避けることはできない。そしてまさに、田代栄助がそうであったように、大衆運動組織者たちの「不幸」にして「好運」な動転ぶりを通じて、逆に固有の意味での指導という発想と指導という領域が、大衆の集団内部にまぎれもなく現われてくるのだ。だからこそ、このようにして形成される指導の揺れのうちで、逆に、大衆反乱における集団のスペクトルの全域が照射され、見えるものとなってくる。反乱の革命的な混乱のさ中で発揮される指導者の透視の深さも、整合的な制度的ピラミッドの頂点で確保されるのではなく、指導に最大限集中する集団の矛盾の激成がかえってこれを可能とするものなのである。
 指導ということが、それをほとんど自明の前提とする日常的政治世界でではなく、いつも反乱から革命への道程でこそ問題化するのも、まったく指導の由来のためなのである。革命過程では、たんに「いかに指導するか」だけではなく、およそ指導というもののあり方自体が問いなおされるのだ。たとえばアナキストたちは、指導というものの跋扈する革命過程で、これを受け入れることも行使することも、ともに拒否するたてまえに固執した。
 しかし、現実の政治指導のあり方にたいする告発として、それがどのように真実であり、まただから、将来にわたってもアナキストの主張が根拠を欠くような反乱は実際にはありえないということが真実だとしても、にもかかわらず、指導はもともとひとが採用したり、行使することを拒否したりするようなものではない。もしも反乱が、私たちの意識や好みに直接的に従って諸集団に分化・細分化し、結局反乱自体の生命にとどめを刺すようになることを防止したいと願うかぎり、そこではおよそ政治指導という経験を避けることができない。反乱の生をまっとうしたいという私たちの願望が、おもいもかけずこの政治の形を創りだす。集団の矛盾を、私たち内部の弁証法的運動にもたらそうとする努力が、指導という集団の内部構造をも生みだすのだ。
 実際、史上多くのアナキストは、反乱の運動の持続とともに、政治や指導をめぐる悲喜劇的な動揺に陥ってきた。政治や指導を、既成の政治形態やあるいは国家レベルの問題に限定して排除しようとした彼らの努力は、しかしほかならぬこの努力のうちに、自らの政治や指導を発見するという始末にアナキストを追いこんだのだった。アナキストとて、集団の運動を拒否しないかぎり、その集団が「大衆」のものであろうとなかろうと、自ら指導を拒否することはできない。通常、アナキストの悲劇的動揺は、政治の実際と自分の教義との間の揺れだと彼ら自身も考えているけれども、このような個人的動揺も、じつはまったく政治的性格のものなのだ。アナキストの動揺は、形はちがっていても、田代栄助の動転ぶりとそんなに遠く離れているのではないのである。
 さてこのように、指導というカテゴリーの位置は、本来不安定できわどい。この位置に立たされた私は、自らがつくりだした指導の弁証法をこうむって動転するのであり、それは文字どおり肉体的な疲労として私には感受される。だから私は、強大な病魔にとりつかれて虚脱した田代栄助のように、この弁証法の疲労から逃れたいと願う。けれども栄助の場合のように、この私の逃亡が集団そのものを瓦壊させないためには、集団は指導の不安定な位置になんらかの確かな形を与え、集団の内部構造としてこれを定着することを迫られる。これは、原初的な意味で、集団の制度化である。集団は組織の制度を介して、政治指導が機能するように集団の内面を変えていく。激しい転生の途上にある政治的集団――そこにおける指導の経験は、かくて次に、制度の経験へとつながれていく。
 あらかじめことわっておくが、指導の制度化という経験は、集団が「さらに団結」するための努力の表現であるにもかかわらず、かならずしも一集団の内面を整備することにはとどまりえない。いいかえれば、もっぱら指導をこととする集団(指導部、指導的集団)が、私の集団から析出され分立するということが起るのだ。指導はたんに一つの集団の内面構造であるだけでなく、大衆集団から別の指導者集団を分化させる形で、集団の内面は再度外化されるのである。そしてこの結果、大衆諸集団相互の横断的な力学は、指導集団と大衆集団という、いわば縦軸上の力学をも生みだしていく。これこそ、「党」という政治集団が形成される歴史的由来である。
 そしてこの弁証法の極北に、集団の経験史は、ついには大衆への指導機関たることを意識的に拒否する逆説的な党――レーニン的な党――にまで、遭遇することになるであろう。*

*第七章で詳述することだが、「党」とは本来いかなる意味でも大衆を「指導する」ものではない。本章での政治結社・秩父自由党の運命は、確かに一面では「党の形成史」として読めるけれども、そこで顕在化した指導ということは、あくまで大衆集団(大衆権力)内部の、自前の、課題なのである。したがって、本章での「政治結社」の運命とは、一方では固有の党を生みだし、他方では大衆政治同盟の指導部――「大衆の党」――を形成するという二重の政治方向を含むものである。「幻の政治結社」とは、「党」と「指導」との分岐を予感するものとして、二重の意味で「幻の……」といわれたのである。(第七章参照)




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