政治の現象学 第6章 政治権力

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第六章 政治権力
 

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第六章 政治権力

第一節 集団の制度

一 私は集団の心的な統一性に客観的な形を与え集団を制度化する

 さきに第四章で、集団の自己意識の飛躍が、組織の規約をめぐる集団討論を通じて進行するありさまが記述された。集団は、それまでに緊密に結合してきた「仲間」の分裂によって、自分とは誰かを以前にもましてはっきりと知るようになった。とりわけこの分裂が、さきの例では規約をめぐってひきおこされたことは象徴的なことである。なぜなら組織の規約とは、まさに自分が誰であるかを(形式的に)自己規定するものにほかならないからだ。
 集団の分裂と飛躍を通じて獲得されたこの集団の規約が、集団の制度の一例であることはいうまでもない。それゆえ、いまや集団の自己意識は、この集団独自の制度として組織内で形づけられるまでにいたったのだと、先の例を総括してよいであろう。
 さらにまた前章では、集団が分裂という形で外化した矛盾を再内面化して、集団は政治家=アジテーターと大衆の関係を、指導と被指導の関係として構造化するようになった。たとえば、規約が定める中央委員会と地方支部の関係のごとくに、指導関係を構造化するのである。だとすれば、さきの集団討論も、「中央集権的党組織か否か」をめぐってたたかわされたのであり、これも端的に集団内の指導のあり方を問うていたということもできる。指導の問題が、組織の自己意識の制度化(規約)に深くからんで提出されたことが、ここでもうかがわれるのだ。
 私の政治的経験史は、すでにこのように、集団の制度というものの一端にふれてきた。集団の制度化というこの段階で、レーニンも、組織することは規約を作成することだと端的に断定したのである。そこで私の経験史も、集団の制度化という経験に、いまや正面から出会うことになったのだ。
 制度といっても、一般に社会制度や政治制度と呼ばれているものだけが問題なのではない。むしろ、たとえばヴァレリーが制度(convention)の名のもとにあげた、「社会、言語、法律、道徳、芸術、政治」などを、制度的なものの現象形態としてイメージすることのほうが重要だ。なぜなら、私の経験史が見出すのは、既成の、日常的には自明の制度的諸形態の存在ではなく、むしろこうした諸形態を共同意志形成の具象化として自らつくりだしていくことにある。それゆえ、政治制度としての組織の規約にしても、その明文化された条項のあれこれが重要なのではなく、第四章でも規約はそのようには経験されなかった。総じて、論点は制度一般ではなく政治の制度に限定され、しかも、あれこれの政治制度の検討・比較ではなく、逆に制度的なものの生成をこの私が掌握することなのである。
 制度的なものの形成という観点から、これまで集団の諸経験をふりかえってみよう。第二章で反乱集団の内部構造が経験されたとき、集団の共同的行為のエネルギーや共同の観念は、アジテーターたちの「社会的身ぶり」において、すでに一定の形に具象化され表現されるものであった。アジテーターの身ぶりとは、いいかえれば集団のシンボル形成である。
 だが、集団のシンボル形式は、この場合にはなお、なんらか明文化され固定したものであることはできず、それはまったくのところ流動的なものであり、しばしば一つの行動の局面を越えて生きつづけることができなかった。だからむしろこの段階では、行動において登場しては消える各アジテーターの身ぶりや彼らのわめく片言隻語などが、全体として切れ切れに反乱の共同観念を表現しているのだとみなければならない。集団のシンボルが一人のカリスマに体現されている場合にも、このシンボルは、移ろいやすい彼の表情が付着したものにすぎず、それはなお制度的なものの定形化からはほど遠い。
 こうしてこの場合には、集団の共同意志はもっぱら内部の私たちにのみ感得されうるにすぎず、共同の熱狂が冷めてみれば、あるいは外部の観察者からみれば、私たちの共同性は一つの非合理のごとくにしかみえない。「社会科学」はこの共同性の解読に失敗する。総じてこの段階では、集団の貧しいシンボル形式を、共同行為の意味作用(意味生産)が過度に凌駕しているとみることができるだろ。
 政治における制度的なものにおいては、むしろ逆のことが起る。大層な制度、合理的な制度が、民衆の共同意志を僣称し、あるいは詐称することは、通常の政治のもっともありふれた姿である。体系化された記号が、意味作用の貧しさをおおい隠し、あるいは抑圧している。
 共同観念とそのシンボル形式の関係が、反乱の共同性と日常的政治諸形態とでこのように逆転することは、ただ政治的経験――すなわち敵対的闘争に直面して、集団が自己自身を決定的に対自化せねばならぬ経験――を契機としてはじめて生起するのである。
 ましていまや私たちの政治的経験は、そのもたらす諸帰結――敵に直面しての集団の結束と盟約、集団内の敵の排除、そのおもいがけぬ結果としての集団の分裂・諸集団の対立、さらに政治家=アジテーターと大衆との差異づけ――を、敵対的闘争のさまざまの局面でそれぞれに具体化してきているのである。このような経験の――すでに長い――道程は、集団の形成がもともとからかかえもっていた矛盾を、集団の解体によって解消するのではなく、各戦闘行為において集団(諸集団)内面に構造化することによって、集団が持続し疾駆していく過程であった。だからいまやこの段階で、集団の政治的制度化とは、集団がその意志に「客観的な」、それゆえなんらか恒久的な一定の形を与えることによって、闘争の矛盾を内面化し、そのシンボル形式の貧しさを克服していくことだと、一般的に考えることができるであろう。
 逆にいえば、集団の統一と私の政治的経験は、いまや集団のシンボルを介してたんに心的におこなわれるのではなく、不可避的に集団内の制度的なものを通じて現象する。制度の側からいえば、制度は私たちにむけて機能するのだ。集団内における――集団としての――私の行為が、かえって私の行為の「束縛」をつくりだす。シンボルを介した反乱集団の共同規範の形成が、政治的経験においてはっきりと規律という形をとったことを想起するまでもないだろう。通常の日常的集団における「手続き」や「ルール」のことも。
 制度を通じて機能する指導と被指導の関係も、以上の意味でそれ自体が制度的なものである。かつては、アジテーターの身ぶりというシンボル形式は、特定の指導者あるいはカリスマという形をもとりえたのだが、いまやカリスマも制度化される。あるいは、秩父反乱の田代栄助においてそうだったように、特定の指導者のなま身のうちに揺れる集団意志は、もはや人格的なものではなく、制度的なもの――或る客観的なもの――の影なのだ。
 いま、かかる制度化の具体的形態(法律的・社会的等々)を総括的に扱うことはできない。また、反乱の集団とその制度化を、なにか時間的順序の指定のごとくにとらえてはならない。実際には、制度的なものを無から形象することができないことは、言語形式一つをとってみても明らかである。ある党派集団の言語・組織を反乱の制度が採用するということも起りうる。さらにまた、集団の意志に制度的なものを「照応」させる作業の態様(階級等々の利害、歴史的限界などにもとづいた)についても、けっして一義的に規定することはできない。
 こうした事柄についてはいずれふれることになるであろうが、いまここでは、大衆の政治集団はその形式を、自らあたかも新たなもののごとくに産出するのである。従来、敵との闘いにそなえた集団の内的武装(「ボリシェヴィキ化」!)と比喩的にいわれてきた事柄は、そのイデオロギー的性格は別として、以上のような制度化の作業を示している。


二 私の生みだす制度は集団の客観的統一性として私に帰ってくる

 形成途上の政治的集団にとって、さしあたって制度的なものとは、端的に集団の言語体系と武装だと考えてよい。
 言語が制度的なものの一形態であることは、ソシュールをはじめとして多くの人びとが強調している。このように、言語の体系がそもそも制度的なものであってみれば、それを主要な媒介としてなされる集団意志の自己表現にとって、制度としての言語体系は基本的な形態となる。なるほどすでに述ベたように、当初反乱のコミュニケーションにおいては、既成の言語体系は多少とも寸断され、新たな言葉の意味が創造され、こうしたコードの混線状態すらもが、人びとの相互関係の新鮮な発見という事実を示すものとなる。人びとは、各人の相互関係を創造することによって、あたかも新たなもののように言葉を創出するということがいえるのであり、言葉は同時に各人において各人の内心の表出となっている。
 けれども、反乱における「言語の破壊と創造」などを軽々しくいうことはできない。意味の生産と記号体系の既成性との隔絶は、反乱の共同観念とその組織的制度化との径庭にも等しいことだ。反乱からは、文法の創出はもとより「新語」すら造語されることはすくなく、むしろ「外来語」が象徴的に生かされるという事実は、このことをぎりぎりに示している。私は(社会主義国を除いては)「プロレタリアート」という言葉が日常的に使われている国を知らない。マルクスの国でもこのようなことはないという。たとえば、この「プロレタリアート」という語のもつ非日常性のために、かえって逆に、反乱がこの語に独自の意味を付与して酷使するということが起るのだ。「外来語」は、新たに創造された集団意志の象徴的意味をこめるのに、いわば便利なのだ。秩父の農民によって、「盆地外」の自由党の言葉(「圧制政府転覆」など)が同じように使われている。
 こうした事例は数多くあるのだが、しかし、はじめて土着的に意味付与されたこのような外来語といえども、「外国」ではそれ特有の歴史(既成性)をもつのであり、この「外国」での既成性が、逆に土着の反乱の意味を撃つということにもなりかねない。私が、「プロレタリアート」という外来語に、どのように新しい意味をこめたとしても、この言葉にはもともと、西欧の近代的組織労働者という意味がぬきがたく付着している。だから、言葉のもつ制度としての客観性が、不意に向う側から帰ってきて、一つの言葉を象徴として生きる人びとを、また政治的言語としてこれを駆使しようとする者たちをも、等しく撃つということが起るのだ。たとえば――

「ところで兄弟、君にゃわかってないんだ。二つの階級があるんだ。プロレタリアートとブルジョアジーだ。俺たちは――」
「ああ、僕にゃそんな馬鹿げた話はわかっているんだ! 君らのような無知な百姓の群は、誰かがちょっとした人気言葉をわめくのを聞くんだ。君らにゃその言葉の意味がわかっていないんだ。君らはまるでオウムみたいにそんな言葉をつかまえるんだ。」
「君は教育のある人間だ、そんなことはたやすくわかるよ、そして俺は馬鹿な人間にすぎんさ……。ところで、二つの階級があるんだ、ブルジョアジーとプロレタリアート……」
「君は馬鹿だねえ!……」(1)

 これは、ロシア革命の街頭に氾濫した、言葉の洪水の一断片である。一方は兵士、他方はマルクス主義を信奉する学生だ。この場合たしかに、兵士がオウムがえしにする「プロレタリアートとブルジョアジー」という言葉は、学生が噸笑するごとく、「その意味がわかってないんだ」などということはできない。学生のマルクス主義的教養が理解するのとは、意味を異にしているというにすぎないのである。だがもともとこれらの言葉は、ボリシェヴィキが兵士たちに植えつけた、異国の言葉であることに変りはない。実際、いまの例では、兵士はつまり「軍服を着た農民」である。だから、彼ら「百姓の群」が新しい意味をこめた「プロレタリアート」という自己規定の言葉は、この語の本来の意味――学生の理解する言葉の意味――を自ら裏切っている。
 この会話の場面は、たんなる街頭の一エピソードというより、ロシア革命全体にとって一種うっとうしくも象徴的なことであった。マルクス主義者ボリシェヴィキたちが、愚直にこの言葉本来の意味に固執しても、ヨーロッパで「もっとも小ブルジョア的な国」(レーニン)ロシアの現実は変らない。彼らはやがて、ロシアの厖大な農民たちによる、「言葉の意味」の裏切りに手痛く直面するようになるであろうし、この関係は、ボリシェヴィキにたいする農民たちにとってもまったく同様のこととなるであろう。
 かのドイツ第三帝国や、日本天皇制下の集団での言語経験をみても、形成された政治集団における言葉の制度的な性格ははっきりしている。たとえば――

第三帝国がみずから新しく作った言葉は極めて少なかった。おそらくは、いや充分考えられることであるが、それは皆無であった。ナチの言語は多くの点で外国に由来するものである。他の大部分はヒトラー時代以前のドイツ語から引き継いでいる。しかし、ナチの言語は語の価値や語の頻度を変え、昔はひとりの個人、もしくは小グループのものであった言葉を共有財産とする。また、以前は共有財産であったものをナチの言語は党のために徴発する。いずれの場合にも、言葉や言いまわしや文形に毒をしみこませ、言葉をその恐るべき機構に役立つものとし、言葉において、そのもっとも強力な、もっとも公然たる、もっとも内密な宣伝手段を手中におさめたのである。(2)

 さらに――

ぼくはこの間沖縄の人と話をしていて、これは生粋の沖縄弁をしゃべる人ですが、彼が京都を見にいったけれども、沖縄弁で聞いても全然向こうに通じなかったと。その人は軍隊に行ってた人なんです。そこで軍隊用語で聞いたら一発でわかったと。軍隊のことばって便利ですねといった。自分は恥しく思うであります、かわやへまいってよろしくありますか、と、これですね。軍隊用語というのも、考えてみれば、地方の方言でも標準語でもない第三の言語なんですね。民衆を統一するために言語というのは決定的なものですから。言語の形としては軍隊用語、共同幻想としての天皇制、この二つ明治以来の大発明であるというふうに考えますね。(3)

 ヒトラーの集団も天皇の軍隊も、革命過程を通じて形成された集団かどうかは別にしても、これらが日常的な政治世界に属するものでないことは、はっきりしているだろう。ナチは新たに形成されたその集団に、新しい言語の形を与えようと腐心しているが、文字どおりの「第三の言語」を無からでっちあげることはできない。だからそこでは、まさに外来語、古語などをもちだし、その意味や表情を換骨奪胎しようとする。天皇の軍隊でもこれはまったく同様であり、軍隊言葉は、古めかしい文語形を独特のいいまわしでつなぐものであった。
 日本の軍隊言葉の場合は、雑多な方言の人びとを統一するものとして「第三の言語」といわれたのだが、しかしそれはたんに、統治やコミュニケーションの技術なのではない。第三帝国も天皇の軍隊も、時代の動乱において新しく形成され、しかも異様に強力な内的結合力をもった集団であり、だからそれは、自らの集団意志にふさわしい(照応する)言語体系を、あたかも新たなもののごとくにつくりだそうとするのだ。そしてこの言語体系が独特のものであればこそ、逆に集団はこれを客観的な制度として、集団の「恐るべき機構に役立」たせることも可能となってくる。


三 制度化によって私の集団は他の集団にたいする公的な力となる

 集団が他集団との闘いを通じて存続し拡大しなければならないいま、言語による集団の制度化はとりわけ重大なものとなる。私の集団の意志は、不可避的に他の集団を区別し否定することを通じて、生きていく以外にはないのだ。この過程では、集団の自己表出はたんに内部的な私事であることをやめ自己の意志をますます公的――すなわち政治的――意志として、外部におしだしていかねばならない。集団の言語形成は、いわば組織の内外にたいする観念上の(イデオロギー的)闘いであり、比喩的に集団の内的武装と呼ぶのは、この意味で正当なのである。
 そしてこのような闘いを経て、言葉はあたかも客体的な「武器」のごとくに装備されることになる。言葉は「批判の武器」であり、だからこそまた、批判という武器は、文字どおりの武器による批判に遅滞なく転化していく――「批判の武器は武器の批判に代えられねばならない」というように。
 以上の指摘は、しかし、反乱の集団もまた既成の言語体系を使用しなければならないという点に、眼目があるのではけっしてない。たしかに反乱の政治は、たとえば外国語の体系を採用することはできない。フランス革命が荒唐無稽の暦と宗教をでっちあげたようなことは、けっしてレーニンのすることではなかったであろう。だが問題は、このような「現実政治」の主張ではない。媒介としての言語は、なにも文法や単語につきるものではないのであり、新しい文体に新しい思想をこめることに成功しえないような革命はその名に値しない。
 主題は、言語体系の制度としての性格の強調にある。集団が敵前で自己を政治的に組織化する過程は、反乱集団内部のいわば私事としてのコミュニケーションが、各人の意味作用を超出した一定の客観的な体系(集団意志の言語体系化)となることを意味している。「神話」あるいは「ユートピア」としての共同観念も、たんに大衆の断片的な発言から読みとるしかないようなものから、多少ともはっきりした言語体系として表現されるものとなる。そして言語がもともともつ制度としての既成性は、この表現の体系化にとって抵抗の大きい素材であることを意味するのだ。言語は、反乱の前言語的観念のうちからつねに新たなもののごとく産出されながら、しかも、まさしく歴史的に規定された客観的存在としての言語体系――その集団独自の内容・文体がどうであれ――を介してしか、言葉は定形化され伝達されえない。このような意味で、集団の発言の制度化こそ、集団が公的政治組織となり、敵側の制度をも含めた他の諸集団と、社会的に競合しうる一つの力となったことの証左なのである。
 制度的なものとしての集団の武装については、もはや多くを記述することは必要でない。武装にも、これまで言語について述べてきたすべての事柄があてはまる。いや、武器と暴力というその直接性のために、集団の武装には制度的なものの特質がより直戴にみてとることができるであろう。
 もともと、言葉とともに大衆の暴力は、既成世界のただ中に大衆が反乱の集団を創出するさいの、もっとも基本的な行動形態であった。またその後の私の全経験は、革命の過程、すなわち大衆の暴力が集団として展開される場面だけにかかわってきたのだから、暴力は大衆の反乱と政治的経験にとってもっとも基底的な定義に属することなのだ。それゆえ大衆の武装は――くりかえすが、言葉とまったく同様に――この暴力の表現形態であり、かっても言葉や女装などと同じシンボル形成のレベルで、武装にも言及されたのだった。武装は読んで字のごとく、制服や女装と同様、集団の社会的スタイルであり、蜂起した大衆の集団を劇的に彩るのは、いつも彼らの上に林立する「武器」である。
 したがって、ここでもまたシンボルの制度化――暴力の制度化――という生成がおこなわれる。すなわち、敵対関係における大衆の暴力は組織的に内面化され、制度的なものに形づけられていく。多くの大衆蜂起はこの蜂起の持続とともに、武器を手にして立ち上った大衆を、精粗さまざまの軍事に編成するべく努力するのである。だから盆地一円をまたたくまに制覇した秩父農民の大衆武装にたいしても、田代栄助はなお、「軍装も整はざる前」に不本意にも蜂起した「不幸」を嘆かねばならなかった。
 暴力の制度化は、もちろん、敵にたいする軍事力を強化するという必要から不可避となることだが、内面的には、大衆的カオスを客観的な形に編成する制度の宿命にもとづく。武装の端的なゲバルトとしての性格が、通常、この根拠をおおっているにすぎない。
 もちろん、ゲバルトとしての武装の性格からいえば、暴力の制度化は危うい運動である。制度的なものとしての武装は、力の実効性の観点から容易に技術化され、大衆武装は軍事に一面化される。闘いは戦争そのものとしての戦争となり、集団は軍隊として制度化される。ロシア革命の「労働者赤衛隊」から「赤軍」ヘ等々というように――

 
第二節 階級の発見


一 集団の制度化は政治における客観的なものの宿命を露呈させる

 集団の制度化をめぐる本節の記述には、政治的経験における客観的なものの宿命が、いまや一斉に噴きだしてきている。たしかにこれまでにも、すでに政治的経験の諸帰結のうちで、客観的なものとしての集団はさまざまに経験されてきたにはちがいない。たとえば集団の分裂は、反乱世界内部に諸集団の「客観的連関」――集団の動力学――をつくりだしてきた。また、この分裂を克服しようとする集団の努力は、その内部に指導を機能させるような、大衆から離れた一つの機構を生みだしたのだった。
 けれども、集団がまぎれもなく客観的なもの――すなわち、私の個々の行為や観念から超出したもの――として経験されるのは、私たちが自ら集団内部に制度的なものを創りだすことにおいてなのである。なぜなら、制度は、もっぱら私たち個々人の心的投企によって形成されてきた集団の統一性に客観的な表現を与えることだったからだ。私は制度によって、集団の「主観的」統一性を克服し、組織を内外に伝達可能な「公的」機関たらしめようとする。かつて労働者たち個々人の結社として生れた労働組合が、いまでは規約を政府に登録し、法的な確認をうけるものとなっている事実などを想起しよう。
 しかし本来、私たちは意識的ないし習慣的な「計画」にもとづいて、集団の制度を創出するのではない。指導の形成について、私はこのことをすでに十分強調した。また前章ではロシアの党組織の規約をめぐる討論が、おもいもかけず組織の分裂を招き、規約という集団の制度はその後、まるでわざとのように、分裂した二集団のそれぞれの運命をきめた事実が例示された。これらの場合のように、制度としての集団は世のいわゆる制度のごとく、ひとがその利害や合理的意志にもとづいて制定したり改変したりする客体的なものではない。集団における私の意志が制度を創ると同時に、私はこの行為からすら分立された集団なるものを、逆にこうむることになるのである。したがっていまはなお、日常政治の物化された制度的諸形態は問題にならない。政治的経験のうちで激しく形成途上にある集団では、その意志と制度的なものとの矛盾は、ただ危うい運動のうちで展開されているのだからだ。集団における客観的なものとは、一つの「客観的精神」である。
 ひるがえってみれば、かつて反乱世界は政治的経験とともに、その敵を一つの歴史的世界として発見したのだった。そしてそれ以降、この世界との敵対的闘争の弁証法は、反乱の政治集団をもこの世の歴史的色彩で染めあげずにはいない。すでにたとえば言葉は、歴史的現実の産物として、私の集団の制度形成にとりこまれるのを私はみたのだ。だからいまや、集団は歴史的現実をただ敵世界にのみ限定し、自らはもっぱら「新たなもののごとく」に、自己実現にうつつをぬかしていることはできない。私たちが集団の制度化において経験するある客観的なものとは、私が自らの集団のうちに、おもいもかけず(再)発見した歴史である。
 私は、私個人がその歴史的限界を超ええないものかどうかは知らない。けれども、私はつねにさまざまな社会的共同性のうちでのみ私でありうるのであり、この私のうちに現象する社会的諸関係こそは、私がつくり私に投影された歴史的現実なのだ。反乱世界での歴史の忘却にもかかわらず、その後、敵との死闘を通じて、私たちの相互関係は、ますます歴史的に規定されたある物象化の形態をとって現象するようになる。
 集団の制度化が私たちの勝手な事業でなく言語や組織形態にしても、人類の経験――それは誕生の始めからまさに集団の経験だ――の蓄積をさまざまに反映するものであってみれば、ここには、制度化という共同事業と事業の当事者たちの、客観的位置や歴史的性格がさまざまに刻印されざるをえない。集団は自分の甲羅に似せて穴を掘ってしまう――早い話が、革命は「ブルジョア革命」か否か、集団は「プロレタリアートの階級」かどうか、などという問いがたてられる水準に、いま政治の経験史は到達しているのである。


二 私は集団の制度化において私の集団の階級的性格を再発見する

 私はこれまで、故意に反乱世界や政治集団の歴史的位置、あるいは階級的性格に言及することを避けてきた。これはほかでもない。反乱の強い共同観念で結ばれた人びとのカオスが、その内に制度的なものをさまざまな形で再建する――しかも他集団との激しい区別のうちで再建する――過程ではじめて、歴史的現実としての階級もこの私に発見されるものだからだ。いうまでもなく、この私はかつても歴史的現実あるいは階級的秩序の外にいたのではない。しかし、自分の階級的位置すらも、集団的経験において発見――再発見――されるべきものとして、この私に現象してくるのである。

兵士の人民側への移行は、軍隊の階級的および精神的=政治的不均等のゆえに、何よりもまず軍隊の二つの部分相互の闘争を意味するのである。(4)

 さらに――

革命の時期には、幾百万幾千万の人びとが、普通の、ねむったような生活の一年間にまなぶより多くの事がらを、一週間のうちにまなぶものである。なぜなら、全人民の生活が急激に転換するさいには、人民のどの階級がどういう目標を追求しているか、どのような力をもっているか、またどのような手段によって行動するかが、とくにはっきりとわかってくるからである。(5)

 いまあげた二つの証言は、政治的指導者による多少とも政治的な文体である。実際のこの私の経験からすれば、逆に集団内の「二つの部分相互の闘争」のゆえに、私は集団の「政治的不均等」と、他から区別されるべき私の「階級的および精神的」な性格を発見するのだ。またこの私は、他の集団との激しい区別の意識のなかで行動することによって、自分がどの階級のものなのかが「とくにはっきりとわかってくる」ということなのである。
 さきに私が秩父事件を記述したときには、まさにこの階級の発見のトバ口で、反乱そのものが挫折したのだった。この記述で「盆地」という言葉がいくぶん象徴的に使われたのも、ときの日本のグローパルな歴史的状況にたいする、秩父反乱の客観的位置という問題を捨象し、「盆地」の反乱を一つの世界――日常的世界における陥没地の光景――としてとらえようとしたからにほかならない。だから、盆地内の熱狂が「峠」を越えて外部世界に直面する瞬間こそ、秩父反乱が自らその歴史的位置と性格を自覚する一瞬であった。あるいは、この盆地に侵入する国家の暴力は、盆地の反乱のグローバルな位置を、すべての人びとに自覚させ強制せずにはいなかった。だがすでに見たように、現実の反乱は、まさにこの瞬間に瓦解を開始し、盆地の世界は潰えてしまう。
 それゆえ、やれ「ブルジョア民主主義革命」だの「民主革命軍」だのといった、歴史学者による秩父事件の「史的意義づけ」がそもそも無効なのも、彼らはまさに事件の終ったところから出発しようとするからなのだ。政治的経験の発見学的構造が彼らには見えない。
 たとえば、蜂起にむかう困民党の運動をめぐって、秩父自由党員たちが分岐するのも、また蜂起決定の大詰で困民党幹部団が内部対立を経験するのも、自由民権運動全体の歴史からみればたしかに、いわゆる豪農民権家が脱落する時期に重なるのであろう。だが、困民党の蜂起に動揺した秩父自由党員を「豪農層に属していたから」と説明するのでは、栄助や伝蔵の動揺が、かえって蜂起に本来的な政治の領域を開示した事実が抜けおちてしまう。ある階級に属していること自体は、およそ政治とは関係のない事柄である。政治闘争の場面で「階級」がいわれるとき、それはいわゆる階級利害を追求する主体=「階級」のことではない。このちがいは、経験上および理論としてもはっきりと把握されねばならないことだ。

経済的諸条件がまず第一に国民大衆を労働者に転化させたのであった。資本の支配がこの大衆のために、共通の一地位、共通の諸利害関係をつくりだした。かくして、この大衆は資本にたいしてはすでに一個の階級である。
しかし、まだ大衆自身のための(für sich selbst)階級ではない。〔政治〕闘争において、この大衆は結合する。階級対階級の闘争は一つの政治闘争である。(6)

 それゆえ、たとえば労働組合も、労働者の階級利害を体現するから階級の政治集団なのではない。近代ヨーロッパ資本主義の確立過程、つまりマルクスの青年時代に、労働者の集団がブルジョアジーの集団にたいして政治闘争(「普遍的な社会的強制力をもっている形態」での運動)をかまえるかぎり、労働組合は自己を「大衆自身にとっての」階級に形成するのだとマルクスは考えた。だからまた、成熟したマルクスの時期に、労資関係もまた「成熟」し、労働組合が主として経済的階級利害を追求する集団となったときに、不意にパリ・コミューンの出現にでくわしたマルクスは、おもわずこう叫ばずにはいられなかったのだ――

コミュンは本質的に労働者階級の政府であり、占有階級にたいする生産階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放が達成されうる、ついに(!)発見された政治形態であった(7)

 ひるがえってみればかつて私は、アジテーターの遍歴史のそもそもの出発点で、階級の概念や階級の秩序を、一度大衆的反乱のうちに溶解させたのだった。そのときから私と私の集団は、すでに長い遍歴をくりひろげてきたが、この過程とは、せんじつめればレーニンではないが、私たち――つまり「政治に突入してきた俗衆」――が、自分とはいったい「どのような人々であろうか?」と自問する過程であった。そしてこの過程では、私の集団は分裂や再統合をくりかえすことによって、おもいがけず内部の「政治的不均等」を発見し、逆に自らの集団の政治性格をより「純化」し、かくして自らが一つの「階級」であることを発見する。それゆえ、私にとって「階級」とは、敵対的闘争の長い道程で自らを再構成してきた、私たちの政治的集団の名辞にほかならない。だからアジテーターの遍歴史とは、「政治に突入してきた俗衆」たちが、自らを階級に形成する過程なのだと、いまでは断言することができるであろう。

革命の主要な原動力は、プロレタリアートであった。それとともに、革命はプロレタリアートに形態をあたえつつあった。これこそ、プロレタリアートが最も必要としていたものである。(8)

 またマルクスも、「プロレタリアートを階級に形成する」といっている。このように、かつて「革命的階級」としてのプロレタリアートとは、なによりも形成されるもの、形態をあたえられるものだったのであり、これこそ、この私にとっては、自己発見的な政治の形成史としてたどられることなのだ。すでに「政治的集団」の誕生のさいに、大衆政治同盟の「大衆」を私はプロレタリアートとも呼んだが、大衆政治同盟のその後の経験は、まさにこのプロレタリアート大衆が自らを階級に形成する道程なのである。


三 私は政治の経験史を階級形成と階級闘争の歴史として総括する

 階級とは、以上のような意味で、集団にとって発見された制度的なものの一事例である。現実の集団をおいて、政治における「階級」というものはない。集団は、他集団との死活の「客観的連関」を通じて独自の「形態をあたえ」られてきたのだが、この闘争史はその一定の段階――制度化の段階――で階級的集団を生みだすのである。
 それゆえ、いつも政治的経験にとって独特のアイロニーを意味するのだが、私は集団の階級的性格をもあたかも「新たなもののごとく」につくりだしたにもかかわらず、しかしおもいがけないことにこの私の階級集団には、以前私たちに属していた社会的諸関係の母斑がさまざまの度合で再現するのが発見されるのだ。かつて反乱は私に属した古い石化した社会的諸関係を清算したのだが、しかしもちろんこの清算の度合は、反乱の歴史的性格に応じてまさにさまざまのものであり、いずれにしても私は、過去を完全に清算して無から新しい自己を再建するなどということはありえようもない。けれども、私に属する歴史は、政治的経験の場面では、集団の経験が自らを制度化する段階ではじめて、この私に再発見されるものなのである。反乱での階級秩序の溶解を経過してはじめて、かつて日常的政治世界ではおおわれていた階級秩序が再発見され、再構成されるのである。
 私の集団の分裂と諸集団の対立という経験を、くりかえし想起しよう。これまで、私はこの分裂や対立をたんに形式的にしか定義しなかったが、いまやこの制度化の段階では、各集団は独自の制度をもつものとして、それぞれの「階級的性格」を自覚しつつ、互いに他を否定する闘争を展開しているのである。これこそ、まさに階級闘争と歴史的に呼ばれてきたことにほかならない。
 大衆闘争の長い歴史を総括して、マルクスは、歴史は階級闘争の歴史だといった。けれども、労働者の団結過程が、ほとんど直接に、政治的意味での階級形成と階級闘争を意味していた青年マルクスの時代から、政治はすでにずいぶん遠くまできた。私たちは、反乱から出立する政治的経験の諸帰結をへめぐってはじめて、階級闘争を自ら発見せねばならないのだ。階級利害の解放のためにも、階級闘争を「ついに」発見しなければならない! この段階にいたって、まさに歴史は階級闘争の歴史だと宣言されうるのだが、しかし同じマルクスが「かつて歴史はあったが、もはや歴史はない」と断定したように、階級闘争の発見は、私たちにとって文字どおり歴史の発見というに等しいことだ。
 それゆえ、私の政治的経験史は、反乱から出発したのであって、既成の「階級闘争」などからではなかったのである。事実の問題としても、人がかつて階級秩序に占めていた位置に直結して、階級だの階級闘争だのがいいうるものではない。早い話が、労働者階級――あるいは労働組合――と、階級としてのプロレタリアートとは、この際なんの関係もないことであり、「貧しい者」の神話は信ずるに足りない。レーニンは、革命期における人びとの行動パターンをそれぞれ階級と呼び、とくにそのうちの一つを「プロレタリアート」とか「革命的プロレタリアート」と名づけたけれども、それは革命渦中で分化形成される現実の政治的諸集団の一つにつけられた名称だった。だから、これにプロレタリアートという名前をつけるかどうかは、歴史的事情にもとづくたんに便宜的な問題にすぎなかった。これに反して、名前づけの根にあるレーニンの集団論こそは、便宜的な問題どころではなかったのだ。*
*ここでは私は、マルクス主義の歴史で酷使され、いまではすっかりすり切れてしまった「プロレタリアー卜」の概念や、あるいは、ことにスターリン以降抹殺されてかえりみられない「階級形成論」について、これ以上に主題とすることはできない。私の記述は、マルクス・レーニン主義の文脈でいう革命過程だけに、問題を限定するものではないからだ――。私は大衆的な「反革命」をも念願においている。ここで私が階級のことをとりあげたのも、くりかえすまでもなく、集団の制度化と政治における客観的なものの宿命の一事例としてであるにすぎない。
だが、マルクス主義的政治理論の観点からすれば、プロレタリアートやその階級形成論が、理論の要を占めることだけはここに指摘しておかねばならない。というのも問題は、党のマルクス主義的目的とその実現との径庭をどのように考えるかということにかかわるからだ。たとえば「プロレタリア党」の綱領にいう「近代プロレタリアートの歴史的使命」と現実の労働者階級とが必然的連関をもたないことは、いまではすべての人が認めている。たしかにマルクス以降、党は自分の組織内ではこの目的を意識化あるいは実現していると称することはできる。しかし、「プロレタリアートの解放はプロレタリアート自身の事業だ」とすれば、党は自己の目的をプロレタリアートの運動にどのように転化するか。この場合、「労働者階級の階級的本能」にゲタをあずけることはできない。この「本能」すらそれこそ物象化された相でしか現象しえないのが実情である。それゆえ、労働者階級における党綱領の啓蒙や僣称というありふれた現象を排したうえで、なおプロレタリアート自身の解放事業の実現をいいうるとしたら、それはどのようなことか。この問いは、マルクス主義の思想体系のうちでまさに党組織および階級形成の問題が要の位置にあることを示しているのであり、にもかかわらず(それゆえに)、問題がこの点で理論的にも実践的にも錯綜することは、周知の事柄である。過去に私自身もこの問題の錯綜から逃れることはできなかった。それゆえ、本書では一つの「階級形成論」を記述しているのだと、私は意識している。
なお私の『結社と技術』を参照のこと。また、マルクス自身の階級論――それはまとまったものではないが――の正確な摘要については、ダーレンドルフ『産業社会における階級および階級闘争』(富永健一訳、ダイヤモンド社)の第一章をみよ。


四 客観的なものの宿命に直面して私の闘いは悪戦の模様を呈する

 もしもマルクス流にいって政治的経験の歩みが、階級や国家――すなわち、政治における客観的なものの宿命――を最後的に廃棄する道として意味づけされるならば、この道筋がかえって不可避的に、客観的なものをあらわに定立するというのは、逆説的なことである。客観的なものの宿命の廃棄は、文字どおりに「揚棄」としてしかありえないのだ。もしも、革命にいたる政治対立が、はじめから客観的なもの同士の結着――戦争――を意味するのなら、たとえ両者で客観的なものの意味づけが異なるものであっても、政治は逆説的な宿命にもてあそばれるようなことはなかったであろう。だが実際には、反乱のいだく「無階級社会」への接近という夢にしても、かえってまったく逆に、人びとが階級的な対立の構図――階級闘争――をつくりだすことによってしか結着しえないのだ。
 歴史上、このような逆説は、理論的にも実際的にも、けっして自明であったことはない。それはいつも、私たちを政治の苛酷なあがきのなかにまきこんできた。なぜなら、政治の客観的な形成は、あくまでこの私の主観的な自由がつくりだしたものであるにもかかわらず、逆にこれは客観的なものの「宿命」として、この私の主観性を撃つからだ。かつても、反乱の共同性は共同規範性として私に帰ってきたが、これはなお強く心的な規制にすぎなかった。心的な呪縛がはずれてしまえば、私の逃亡もまた自由であった。だがいまや、政治の客観的形成物は、文字どおりの物神として私の行動を支配する。解放や自由の名による自由の抑圧――しかも物質力をともなった逃れがたい抑圧――を、私は予感するようになる。それゆえ、いまや政治における客観的なものの宿命に直面する私の政治的経験史は、このはるかな予感において、一つの悪戦の模様を呈してくるのである。
 たしかに、私の集団的行為における政治的なもの・客観的なものの超出といっても、このこと自体が、私の集団的意識にまさに「照応」した表現形態なのだと感じられる瞬間を、革命はいつもつくりだしてきた。たとえば「革命の軍隊」のよき時代を想起してみればよい――

革命戦争にはもうひとつ、それなしには勝利がありえない要因がある。これは革命の壮大なロマンティシズムの力だ。この力に助けられて人びとは、バリケードから直接に、軍隊組織という堅苦しい枠のなかへとびこんでいく――政治的デモンストレーションで身につけた軽快な小刻みの足どりを、また多年にわたる非合法の党活動で身につけた自立性と柔軟性を、失うこともなしに。(9)

 これまでの私の政治的経験史も、私の集団的観念と集団なるものとの合一を、さまざまな事件で経験してきたことは疑いのないところだ。歴史的にもかつてこのような瞬間はたしかに経験されたし、今後とてそうであろう。そのとき私たちは、私たちの共同観念の沸騰――「革命の壮大なロマンティシズム」――に、文字どおり「助けられて」いたからだ。ひとがたび重なる幻滅にもかかわらず、かくも長く政治の磁場にひき込まれてきたのも、一口にいってこのためだったのだ。
 しかしけれども、私たちが反乱以降身につけてきた「軽快な小刻みの足どり」や「自立性と柔軟性」が、いまや政治組織という「堅苦しい枠」と衝突する悪戦の歴史もまたはじまる。すでにマルクスの時代に、巨大な一人の「個人」が次のように心情を吐露している。

私は憲法と法律を信頼しない。というのは、最良の憲法さえも私を満足させることができないのではないかと思うからである。われわれは何か別のもの、すなわち、激情と生命と新しい法律のない世界、したがって自由な世界を必要としている。(10)

 けれども、制度的なものと私の「激情」との衝突は、客観的なものの宿命をめぐる問題として、けっして私の「個人的」な問題でもなければ、「個人」と「組織」との悪戦なのでもない。実際、これまでの革命史は、まさに一つの政治的現象として、この悪戦の模様の数々を記録してきたのだった。

共産主義者たちはなにかをやろうと思っている。君やアナキストの連中は、理由こそちがえなにかであろうとしている……それが今度のような革命につきものの悲劇なのだ。われわれの生を支えている神話は矛盾にみちている。平和主義と防衛の必要性、組織とキリスト教の神話、有効性と正義、等々。僕たちはそれらを整理し、僕たちの黙示録を軍隊に変えねばならない、さもなければ死あるのみだ。(11)

 私はここでは、以上に例示されたような悪戦の歴史にすこしでも深入りすることはできない。コムニズムやアナキズムといった特定の政治思想についても同様である。私が経験のこの段階でふれようとしたのは、ただこの悪戦の意味についてだけである。政治における客観的なものは、ほかならぬこの私の自由がつくりだした逆説なのだから、私は私の共同主観とこの客観的なものとの相剋に耐えていく以外にはないであろう。この相剋は、一つの矛盾として、すでにこれまでもさまざまに経験してきたことだったが、いまや文字どおりの悪戦の色彩で私の政治的経験を彩っていくのである。
 悪戦たることに耐ええず、また大衆自身にこの悪戦を強いる――「大衆を思い切って立ち上らせる」――ことを回避する政治は、従来客観的なものの宿命を一手にひきうける特殊な集団――党や軍隊――を生みだしてきた。スペインのアナキストすら、「戦争のために」――自らの権力の維持のために――「すべて」を、つまり彼らの教義も階級闘争をも「犠牲にした」と評されたのだった。だが、大衆が革命的混乱を通じて、自らの集団の内外につくりだした制度的なものをあらわに経験し、これとの苦戦をくぐりぬける以外に、どうして政治における客観的なものの宿命の廃棄などにむかえよう。秩父事件は総理田代栄助が動揺したから挫折したのではない。逆に、彼の動転ぶりにあらわれているものこそ、秩父反乱をあそこまで押し上げた力であった。またレーニン以降、すべての革命派は、既成の政治諸形態――たとえば国家――を「改革」するのではなく「破壊」せねばならないと考えたが、この命題は「国家論」ではなく、なによりも運動論の命題として正当なのである。否定的な対象として国家をかえってあらわに定立する闘争をみずからつくりだすことなしには、「破壊」すべきものとしての国家も大衆にはみえてこないからである。マルクス流にいえば、「無階級社会」へ接近する革命とて、階級と階級間の闘争を、かえって私の闘争がひきうけるという回路なしには考えることができないのだ。




 
第三節 集団の権力


一 制度化を介した集団の統一によって私の集団は権力を行使する

 政治的経験における客観的なものの露呈は、前節ではただ集団内におけるその宿命や、これとの悪戦として経験された。だがもちろんのこと、通常の政治的記述がもっぱら主題とするように、政治的諸形態相互の「客観的連関」こそが、こうした集団内的経験をも現実に規定するものであることはいうまでもない。逆にいえば、集団における制度的なものの形成は、その矛盾を集団外へ客観的なものとして外化するとき、集団はふたたび諸集団の対立・抗争の力学を発見するのである。
 すでに反乱世界での集団形成以降、こうした内面化と外化の弁証法は、集団の運動そのものとして経験されてきたのだが、いまや集団における客観的なものの超出は、私の集団を対象的な規定が可能な一つの歴史的存在たらしめているのである。だから前節で集団の制度化は、「集団が公的政治組織となり、敵側の制度をもふくめた他の諸集団と、社会的に競合しうる一つの力となったことの証左なのだ」と、記されたのだった。集団はいまやその制度を介して、「一つの力」として――すなわち権力として――発現する。

 権力とは「幾重にも屈折された生産力」だ、とマルクスがいっている(『ドイツ・イデオロギー』)。また、「最大の生産力は革命的階級そのものだ」ともいわれている(『哲学の貧困』)。それでは、たとえばこの「革命的階級」という政治集団に体現されている「生産力」――その「幾重にも屈折された」ものとしての集団の権力とはなんであろうか。
 比喩的にいえば、これまでの集団の政治的経験史は、集団がその内部エネルギーにさまざまの現象形態を与える努力であったが、通常集団の権力は、この内部エネルギーが外にむけた力として発揮される場面で考えられている。
 実際、これまでにも私は、反乱における大衆的共同性の熱度のことにしばしばふれてきたのだが、この熱い集団が発揮する既成の体制にたいする破壊力あるいは持続力の点で、当初その集団の能力が測られるのが通常である。民衆のエネルギーが組織化されず、自然発生的騒擾として散逸されてしまった――、こうしたいい方は、反乱の歴史記述にも政治文書にも最も普通に使われる比喩である。
 この場合、民衆のエネルギーといわれるのは、第一次的にはあくまで反乱内部のエネルギー、人びとをその共同体に結合している成員相互の相関エネルギーのことである。いいかえれば、反乱がシンボルを介して生みだす共同観念の熱度のさまざまの段階で、それぞれ集団の結集力の強さとして評価されるのが、この相関エネルギーである。そしてこのような集団内の結合エネルギーは、物理的にいえばポテンシャル・エネルギー、すなわちポテンツである。
 そしてついでに十九世紀の熱力学風の比喩をつかえば、この内部エネルギーの現象形態は、「仕事」と「熱」という形をとるものとみなしてよいであろう――エンゲルスは「民衆をエレキにかける」といういい方もしているけれども。またエネルギーの保存則からいえば、この両形態は量的には相反的、つまりエネルギーが熱として散逸されればそれだけ仕事の効率はおちる。民衆が反乱の熱に浮かされて果てしない大言壮語にはめをはずして(「祝祭としての反乱」)、エネルギーを消耗していくことにたいし、これを防止し、敵への武器を研ぐ必要が訴えられるのもこのことを示している。

仕事だ、仕事だ! 言いわけはやめてもっと仕事に近づきたまえ!(12)

 「仕事」というこの散文的な言葉を、革命のなかにもちこんだのは、とりわけレーニンだった。(だから、のちにスターリンがレーニン主義のスタイルを特徴づけて、「アメリカ的実務精神」(!)だともいったのである。)革命に「なにかを教えこむ」ことを自分の任務と考えたレーニンにとって、「仕事」とは、集団がそのありあまるエネルギーを、集団内の生活の組織化と闘争の組織化とにふりむけることを指していた。いいかえれば、集団の仕事は、その内外を問わず集団が現実に対象に働きかけ、対象を動かす能力のことであり、この能力とは端的に集団の権力である。*「仕事に近づきたまえ」というレーニンの呼びかけは、この私に、集団の権力を行使せよ、という勧めなのである。
*冒頭にふれたように、権力とは「幾量にも屈折された生産力」だとマルクスはいったが、ここで「生産力」とは、人びとの「協働」を「そのポテンツの相で概念化したもの」を意味している(廣松渉『唯物史観の原像』九八ページ)。それでは、政治的集団内の「協働」における「ポテンツの相」とは何か。比喩的にいえば、これは集団内のエネルギー、すなわちポテンシャル・エネルギー(潜勢力)にほかならない。そして、権力の「権」という字がもつ「秤の重り」という意を重さと解すれば、権力とはすなわち重力、つまりポテンシャルだ。こうして次のような解釈もまた生れてくる――「権」とはもともと、ある抽象的潜勢力(ポテンツ)が、何か他のものにおいて具象化されることである(真木悠介「現代社会の存立構造」『思想』一九七三年五月号)。私の文脈でいえば、ここにいう「何か他のもの」とは、まさに集団における制度的なものである。
 こうして、集団における大衆のエネルギーが、制度として形を与えられつつ、集団の力能として展開されることを、集団の権力と名づけることにしよう。民衆のエネルギーが同時に集団の能力として発揮されるとき、これをとくに権力と呼ぶのであり、この意味でいまや集団は一つの権力であるということができる。
 しかし集団が即権力なのではない。実際、ありあまるエネルギーをもちながら、政治的には無能な反乱集団というのはいくらでも存在する。現に私は、本章での制度的なものの把握をまつまでは、集団の能力や権力については、あらわにふれることを避けてきたのだった。
 だから、集団の大衆的エネルギーを集団の権力として具象化する媒介、すなわち制度的なものの意義が、ここで新たな重要性をもって再現する。集団の制度は、集団が権力として発現するさいの媒介である。制度は、集団の権力が集団内の各人に発揮される場合も、外部の敵を撃つ力として発揮されるさいにも、その媒介として機能する。逆に、集団において闘争と生活を組織化する制度的なものが権力だ、ということもできよう。そして制度が集団において形成されるものであったように、権力もまた形成されるべきものとしてある。いいかえれば、集団が政治的経験において制度化されるのをまって、はじめて集団の権力が展開される。そして問題は政治なのだから、この権力は第一次的に政治権力といわれねばならない。集団は敵前において権力として組織され権力機関となる。
それゆえまた、制度的なものの「客観性」といわれたことは、権力については一層あてはまる。普通、民衆がつくりだし、しかも民衆の上にたつ疎遠な力としての権力が問題にされるのは、このことをよく示している。民衆的共同性のポテンツの展開として、権力はこの民衆の生産的エネルギーに照応した力をもつとともに、逆に権力支配としてのこの同じ民衆に返ってくる。
 このように、集団の各人から疎遠な力として分立し、逆に集団意志の代行形態として物象化する権力――こうした倒錯から、通常の権力諸形態が導かれることは明らかである。ことに権力のこうした相ではじめて、集団の権力は集団の組織的能力を客観的に測る尺度となりうる。すなわち、権力の内部的支配力および外的打撃力の実効によって、集団はその組織的能力を測られるという現象が生れるのだ。あたかも近代技術の出発点が、エネルギーを熱として散逸させずに、効率よく力学的仕事に転換する努力(産業革命)にあったように、組織の働きを権力の実効によって評価するという政治技術の観点がここに成立するのである。
 技術的なものとしての政治といえども、このように、反政治的な反乱の共同性が、制度的なものを生みだしていく経験的な宿命のうちではじめて根拠づけられる。だから逆にいえば、権力の効率の観点から、制度的なものが意識的・無意識的に調整されるということが起るのだ。つまり民衆の潜勢力が熱として敗逸されるのを防止し、これをキャナライズして仕事にふりむけるために、有効な転換器として集団の制度が調整される。
 もちろん、ここでいう権力の効率という観点自体が、いつの場合にも政治的なものである。旧来の体制を破壊し改革するために集団の権力をかためるという観点が、唯一のものでないことはいうまでもない。むしろ政治の独特のアイロニーなのだが、革命の深化へとむかう人びとのエネルギーを有効に散逸させるためにも、集団の制度が利用される。たとえば、革命の停止あるいは反革命のスローガンとして、いつも法がもちだされてきたのであった。専制支配を倒したロシアの二月革命の後、「革命――法の勝利」という典型的なブルジョア革命の法思想が出現したが、これは同時にソヴェト勢力の「恣意と暴力」にたいして「革命は終った――いまや平和的な法的進化」がはじまっている、という主張でもあった。* また――

専制政治と全官僚制度とが崩壊したとき、われわれは、すべての民主主義が一時的に避難できる、バラックとして、ソヴェトを樹立した。いまや、バラックの代りに、われわれは新体制の永久的大建築を建てつつあるのだ。民衆がだんだんと、バラックを立ち去って、より快適な住居へゆくのは当然のことであろう。(13)
* 藤田勇『ソヴェト法理論史研究』(岩波書店)参照。

二 私の権力は集団内面を自ら組織化する能力と権威――自治である

 したがってここで、レーニンならば権力の「階級的性格」を問題とすることになるであろう。集団の制度化を通じて、私たちは自分の歴史的・「階級的」性格を期せずして再発見するのだったが、同じことは権力についてもいえる。集団権力の技術的運用や権謀術策といっても、けっしてたんに政治家たちの作為によるのではない。集団の行使する権力には、おもいもかけずこの集団の歴史的性格が投影されるのであり、技術とちがって、唯一の合理的権力の形態などは存在しえない。権力は、政治のうちに並びたつ他の集団との対立と区別において、はじめて権力たりうるのである。「ブルジョア権力」と「プチブルジョア権力」というように、だ。

政治的実現というものは、具体的なあるひとつのものとやはり具体的なもうひとつのもの、ひとつの可能性ともうひとつの可能性との比較のなかにしか存在しない。われわれの側かあるいはフランコか――ひとつの組織か、それとももうひとつの組織かという問題なのであってある欲望なり夢なり黙示録なりに対立する組織ということではないのだ。(14)

 だがこれまでは組織は、ほかならぬ大衆の「欲望や夢や黙示録」なりと「対立」しつつ自己を形成してきたのだった。そしてこの「対立」が、いまここにいたって、「ひとつの組織か、それとももうひとつの組織か」という客観的地平の力学へと外化されたのである。これまでにもむろん、集団の経験史が同時に集団の動力学を展開する契機は随所で指摘されてきたのだが、この集団の動力学は、いまやたんに自然的なものではなく、異なる権力間の闘争として、それは判然と権力闘争なのだ。集団に内面化されたアジテーターの遍歴史といえども、集団がこの権力闘争に打ち勝って、自らを存続させ拡大する現実の過程と切り離しては記述しえないことは、ことわるまでもないであろう。
 けれどもくりかえしいうように、政治的経験史はこのような権力闘争そのものを主題とするのではない。集団の権力といえども、革命の過程で私がつくりだし私がこうむるものとして、この私において経験されるかぎりで主題となっているのである。だから、私が自分を集団内外にむけた力として組織することは、依然として、他の権力諸形態に対抗して新しい権力の形を創出する努力を意味している。既成の諸権力が、既成の制度的形をおしつけてくる「反革命」の努力に抗して、自己自身の力に新たな形を与えるべく闘っているのである。それはなお、自己のエネルギーに、過不足なく制度的なものを「照応」させる闘いとみなしてよいであろう。
 ひるがえってみれば、私の集団はこれまでつねに、反乱の肥大化した観念や目的と実際の卑近な闘いとを、自らのうちに一つの矛盾としてかかえもってきたのだった。この矛盾を他の集団に外化したり自らに内面化したりする長い道程をたどって、私の集団は「存続し拡大して」きたのである。だからこそこの道程は、たんに集団の権力を外にむけてより強力にし、その制度をより合理的にしつつ存続する、進化の過程ではけっしてなかったのだ。
 私の集団とその闘争は、私が一時的にあるいは日常生活のかたてまに「参加」するものから、ますます私の生活そのものを深くとらえるようになってきている。たしかにかつて私は、「すべてを投げうって」反乱の行動に身を投じたのだが、もしもこれが、一瞬、反乱世界の光芒を私の脳裡にうえつけるだけで潰えたのなら、反乱に参加した「俗衆」の一人として、私は黙って日常の生活にもどればよい。だが反乱は、私にとって出発点というにすぎなかった。その後私には無限とも思える長い闘争――実際にはそれはわずかに数日のことであったかもしれない――をへめぐって私は自らを再形成してきたのであり、ひょっとしてこの私は、いまや集団の指導者であるかもしれないのだ。私が、後もどり不可能な非可逆的政治の道程に出発したことなど、かつての私がどうして予測しえよう。
 だからいまや、「日常性」から「非日常性への飛躍」などという、便利な言葉ですましているわけにはいかない。むしろ私の生活自体を、かつて絶対化された反乱世界の観念にそくして、新しい生活へと不断に組みかえていかねばならない。いわば身近な一つの闘争を、反乱の世界意識に名実ともに近づけていかねばならないのだ。集団が存在し拡大するといっても、この場合は軍隊の領土拡大とはわけがちがう。
 集団の制度化も権力も、それゆえ、集団の勢力範囲拡大のための物理的手段というのとは、根本的に異なるものとして私に経験される。それは集団を自ら組織化する能力と権威なのであり、私にとって権力、とは、端的に自治なのだ。
 レーニンが「もっと仕事に近づきたまえ!」と呼びかけたときも、次節にみるように、これは「能率」の要求などではなかった。新しい闘争と新しい生活の組織化とを、私自身がとりしきることを彼は促しているのである。このような集団内面の過程を通じて行使される権力こそ、同時に私の――私にとっての――権威なのであり、それはとくに大衆の自己権力と呼ばれる。
 私の集団は、いまや、かのコミューンに近づいていくであろう。


 
第四節 コミューンと二重権力


一 コミューンで私は反乱世界を政治的に再建し自治を開花させる

なんとすばらしい日であろう!
砲口を金色に輝かすこのあたたかくて明るい太陽、花束のこのにおい、旗のはためき、青い小川のように静かに美しくすぎていくこの革命のつぶやき。この身ぶるい、この輝き、銅のこの楽器、青銅のこの反映、希望のこの炎、名誉のこの香り、ここには共和制の輝かしい軍隊を、誇りと歓びで酔わすに足るだけのものが十分にととのっている。
ああ、偉大なパリよ!
革命の露営地よ!(15)

 明らかにいま、ここコミューンで、私の政治的遍歴史は、出発点へのある回帰を経験している。つまりコミューンは、あの反乱世界の色彩を再発見するのだ。パリのもっとも美しい季節――芽 月(ジェルミナール)、花 月(フロレアール)、そして草 月(プレーリアル)――に生きたパリ・コミューンも、樹々や花々の輝きと香りにみちていた。「革命の露営地」のこの輝きは、なによりもここの人びとの解放感の輝きであった。
 しかしもちろん、コミューンの解放は、私の経験史における反乱世界への単純な回帰ではない。それというのも、ここにいたるまでの私の閲歴は、まさに政治的経験のほとんど全内容を展開する過程だったのだ。身近な闘いにおける反乱世界の心的な逸脱は、なによりも政治的集団――大衆の政治同盟――の組織化によって一つの求心的運動をつくりださねばならなかったのだが、これとてたんに政治的経験のはじまりというにすぎなかった。その後、集団の力学は、他者=敵の姿を、観念的にも実際的にも一つのものと設定しようとする、一連の敵対的闘争を展開したのであり、私の集団は、この闘争をなによりも集団内面の諸事件として経験してきたのだった。この内面の経験こそは、私の政治的遍歴史と呼ばれてきたのであり、文字どおりに政治の狭い尾根道をたどる危うい運動の連鎖であった。実際私の直面した事件のたびごとに、政治における「弁証法の疲労」に耐ええずに――集団の解消か政治的堕落かの形をとって――、この細い尾根道からころげ落ちていく集団もまた経験されてきたのだった。このような政治のつばぜりあいに耐ええたからこそ、私の集団は、いまここにコミューンという画期をつくりだしたのである。
 もちろん、人びとの心と行動におけるこの解放への道筋を、なにか時間的な順序のように考えてはならない。実際上は、反乱の個々の大衆集団が、急速に相互に同質化しつつ連合し、コミューンという自己権力をつくりだす場合があると同様に、武装した大衆の反乱が一挙的にコミューンを構成することだってあるだろう。しかし、実際上はどのように突発的な事件にみえようとも、コミューンのうちには、これまでの政治的経験の全段階が――時間的に区別されていようと折り重なっていようと――記憶されていることに変りはない。
 パリ・コミューンも三月十八日の事件で突発したのではなく、普仏戦争の開始以降の一連の諸事件に結着をつけるものだったのであり、さらにいえばフランス革命から一八三〇年、四八年を経てきた百年の記憶が、コミューンには折り重なっていたのである。パリ・コミューンにいたるこの道筋は、かつて一人の徹底した政治革命主義者がいったように、政治的には一つの危うくつらい経験だったにちがいない――

一四年来、君らはなにをしてきたか。変節だ。一八三一年には、私は君らとともに戦った。一八三九年には君らなしに戦った。一八四八年には、今や君らと戦っているのだ。(16)

 だから、それゆえにこそ、コミューンにおける解放は、たんに私の政治的経験の出発点にすぎなかった反乱世界での生にくらべれば、はるかに深く政治的な解放なのだ。私の解放感はたんに心的なものではなく、むしろ端的に自己権力への私の解放なのである。たとえば。パリでコミューンが宣言された日(共和歴芽 月(ジェルミナール)七日)の光景――

武装した人の波、畑の麦の穂のように林立した銃剣、空をつんざくラッパ響、太鼓の鈍い響、なかでもまぎれもないモンマルトルの二つの大太鼓を打ちならす音。
今度は警鐘は黙していた。重々しい砲声が、規則的な間隔で革命を祝していた。銃剣が赤旗の前に傾けられた。赤旗は束ねられて、共和国の女神の像の上半身をとりかこんでいた。
モンマルトル、ベルヴィル、ラ・シャペルの大隊は、自分たちの旗を、自由をあらわすフリジア帽の上になびかせていた。彼らの隊伍には、パリに残っているあらゆる武器をもった兵士たちが加わっていた。
なおいっそうふえてきた銃剣はまわりの通りにあふれ、広場はいっぱいだった。それはまさに麦畑のようだった。(17)

 こうして、ここコミューンにいたって、かつては心的に構成された反乱世界が、ふたたび――しかし今度は同時に現実的に――創造されようとしているのだということができる。観念的に絶対視された敵の世界に対比して、神話的ユートピア的世界を生きるのではなく、人びとはいまや敵の否定を、旧来の世界とはラジカルに別な新しい生活世界の建設として内面化する。
 ひるがえってみれば、かつて反乱のうちで経験された世界思念は、政治的経験において、かえって逆に著しい求心力をもつ政治集団へと収斂せしめられたのだった。一見するところこの集団の内面史は、大ざっぱで混線した共同観念の表現を、より制度的なものに形づけ限定していく過程のようにみえた。また外面的にも、集団は反乱集団内部に混濁していた歴史的で階級的な諸要素を、組織の分裂や内敵の排除を通じて他の集団へ外化し、自らを自己権力へ純化していくものであった。一言でいって、集団の経験史は、反乱世界の政治的否定の運動としてたどられたのだ。
 けれども、この反乱世界の否定の運動は、他方では、集団が存続・拡大し、大衆の権力として強力となる現実の過程を内面化したものにほかならなかった。したがってすでに前節でみたように、集団が一連の権力闘争に打ち勝って二重権力状況を展望しうるようになることが、いうまでもなくコミューンの解放を保証する現実の前提となっていた。そしてまた内面的にいえば、この権力闘争の展開は、集団がその内部から古い生活の痕跡を追いだし、新しい生活を組織化していくものにほかならなかった。
 それゆえ、反乱世界の政治的否定の運動といっても、むろん機械的な意味ではない。それが証拠に、ここコミューンでは、政治的経験史の成果として獲得された大衆の自己権力が、全面的な開花をみせるのである。いいかえれば、自己権力の内面的な指標であるあの「人民の自治」が、爆発的な熱狂のもとに推進されるのだ。かつてレーニンがコミューンのことを、「自治を自分の裁量で実現する」と評したように、いまや「集産化」、「人民管理」、そして「社会化」に、人びとの仕事は熱中していくのである。


二 私はコミューンの自治を新しい国家のモデルとまでおもいこむ

このコミューンの散髪屋は集産化精神のみごとな実例である。そこでは散髪は無料である。これまで農民は、髭を剃ったりする習慣がなかった。いまではほとんどすべての農民の顔はきれいに手入れされている。誰でも週に二回髭を剃ることができるのである。(18)

 さらに――

これからは五千人の武装民兵が市内の革命的秩序を銃剣下におく! 略奪や文化破壊行為を犯すものは、全負ただちに射殺されるであろう。法吏をもって任ずる者は、いかなる党派に属していようと、われわれの正義の重大さを自覚している。銃剣パトロール隊は情容赦なく任務を遂行するよう厳命を受けている。(19)

 スペイン・アナキストによる「自治」の例として、どうしていつも「床屋の集産化」がでてくるのか、――その事情は私にはよくわからない。だがここにも、卑近な「新しい生活の組織化」の実例がある! 「髭を剃ったりする習慣がなかった」農民たちの習慣が、それこそ新たに集団的に変更される。そろって髭をあたった農民たちにとって、コミューンが変えたものは、たしかにたんに顔つきだけではなかったであろう。右の第二の引例にみられるように、人びとはいまや集団内の全面的に新たな秩序の組織化にのりだしたのである。
 パリのコミューンでも、ロシアのソヴェトでも、またカタロニアの農村でも、民衆による新しい生活の創出の努力は、いつの革命でも、愚直にも精彩ある光景を呈してきた。これらコミューンの記録も歴史上無数にあるといっていいであろう。
 それゆえ、コミューンで人びとが、「髭を剃ったりする習慣」などに熱中する政治的無邪気さを、たんなる錯誤と嘲笑することはできない。かつて反乱世界での観念上の逸脱が錯誤でなかったのと同様である。
 ちょうど反乱世界でのユートピア的現実超脱が、その後の長い政治的遍歴にとって不可欠の前提であったように、いまコミューンでの現実的な「内面への逸脱」も、革命への政治的遍歴に結着をつけるために避けて通ることのできない事件なのである。政治的経験史のぎりぎりの段になってかえって再燃するこの集団の逸脱は、私がただ新しい政権を立てるためにだけ反乱に身を投じたのではないことを雄弁に物語っており、コミューンの解放にとってまぎれもない栄光を意味する。この逸脱によってはじめて、従来の社会秩序の解体を通じた「新しい生活」、「革命的秩序」の建設も展望しうるからだ。革命があらゆる意味でクーデタ式の権力交代ではなく、大衆自身の事業だとしたら、革命運動はこうしたコミューンの画期をつくりださねばならない。
 いまなお、注目に値する政治思想が、ことごとく、このコミューンの存在にとらわれてきたことも、以上のような事情にもとづいている。暴力的な社会革命のイデーにとりつかれた、アナキズムやアナルコ・サンディカリズムの運動はいうまでもない。彼らは、コミューンの自己権力が、国家なき共産主義社会の実験であり、「社会革命の手段である」と同時に未来社会の原基形態であると主張してやまなかった。
 けれども、コミューンに関するこのような考えは、マルクス主義者たちの政治理論にまで、ほとんど連続してつながっているということができる。たとえばイタリアのグラムシは、労働者の自己権力――「工場評議会」――を「プロレタリア国家のモデル」とし、かかる国家モデルを中央的に結集することをもって、全国的なプロレタリア独裁に接近する道を提起する。
 このようなコミューンをめぐる政治理論については、ここではたんにちょっと思いだすことしかできないけれども、「未来社会」と「プロレタリア国家」というモデルの相違はあれ、アナキストもマルキストも、ともに、コミューンという「革命的秩序」の創出に賭けた夢に変りはない、と断言することができる。
 この点は、ブランキ以降のもっとも徹底した政治革命論者だったレーニンにも、明らかにみてとれることだ。一九一七年のロシアに族生したソヴェトは、レーニンにとって、たんに大衆の自己権力のみならず、革命の全期間を通じて「まったく新しい型の国家」「もう一つの政府」「農民プロレタリアの民主共和国」とまで考えられたのだった。革命のロシアに帰国した直後(四月九日)に、彼は次のように書いている――

この政府〔ソヴェト〕の政治的性格はどういうものか?それは革命的独裁である。すなわち、中央集権的な国家権力によって発布された法律に基礎をおくのではなくて、革命的奪取に、下からの人民大衆の直接の発意に、直接に基礎をおく権力である。それは、これまで普通であった、ヨーロッパとアメリカの先進諸国で支配的となっている型の、議会制ブルジョア民主主義国に一般に存在している権力とは、まったくちがった種類の権力である。この権力は一八七一年のパリ・コミューンと同じ型の権力である。(20)

 ここでもまたパリのコミューンだ。コミューンにおける新しい生活の組織化――かつてマルクスによって与えられたコミューンの指標――を、レーニンもくりかえし現実のソヴェトのうちに認めている。(1)「権力の源泉」が法律ではなく人民の直接の「奪取」にある。(2)警察と常備軍を廃止し「全人民の直接の武装」に代えられる。(3)官僚も、人民自身の直接の権力に代えられるか、すくなくともその特別の監督のもとにおかれる。選挙制と俸給の平等、等々というように。
 もちろんレーニンは、ソヴェト=コミューンが「未来社会の原基形態」だとか、ソヴェトの連合がプロレタリアの国家独裁だとかいうような便利ないい方は、革命の全期間にわたって用いていない。コミューンは彼の党にとってはたんに与件というにすぎないものであった。だから、レーニンのソヴェト評価には、のちに詳述するように、国家権力の奪取へとむかう彼の党の戦術的な観点が本来的に入り込んでいる。コミューンにおける新しい生活世界の組織化が徹底されることこそが、彼の党の政治スローガンの浸透――「革命をおしすすめること」――にとって、有利な力なのだとレーニンは考える。この考えは、ことに地方ソヴェトによる奪権のすすめ――それこそ「大衆を思い切り立ち上らせる」ためのアジテーション――のうちに、明瞭にあらわれていた。

コミューンは農民には完全に適している。コミューンは、完全な自治を意味しており、上からのどういう監視もないことを意味している。
革命をおしすすめるということは、自治を自分の裁量で実現するということを意味している。(21)

 このようにレーニンは、コミューンを新しい国家のモデルとまで考えながら、同時にこの大衆権力を彼の党にとっての与件の位置においた。アナキストからマルキスト・グラムシにいたるコミューン論の系譜上に、このレーニンの見解をおいたとき、そこにはある微妙なズレが存在する。これはむろん政治思想上の相異として論じられるべきことだが、しかしなによりも当のコミューン自身が、かりそめに忘却していたこの微妙なズレに、ある日唐突に気づくことになるであろう。私はここで再度、私の政治的経験史の道筋にもどってみなければならない。


三 コミューンの自治は対岸に最後の敵として国家権力を発見する

 コミューンの解放は、政治のつばぜり合いの長い道程のすえに、私の政治的経験史が開花させた成果である。私はさきにこのように書いた。たしかにコミューンは、政治にとって大きな報いであり、そうざらにはないアジテーターの「好運」を意味している。だがそれにしても、政治的であると同時に「社会的」「人間的」な解放であるコミューンのあの熱狂ぶりは、私がたどってきた狭い政治の尾根道にくらべるとき、ほとんど唖然たる逆説のように思えるのだ。人びとは、コミューンという集団の内面に、ふたたび、過度に逸脱している。
 だから、コミューンの熱狂の日々にも、この私からは、ある政治的な不安が去ることはない。不安は、私のたどってきた政治の尾根道が、大衆的熱狂のなかに見失われてしまったことからくるのかもしれぬ。いや、実はもっと根源的に、コミューンがあたかも結着をつけ終ったかのように、政治のつばぜり合いの経過を忘れ去っているところから、私の不安はやってくる。早い話が、人びとは「髭を剃ったりする習慣」などに、どうしてうつつをぬかしているのか。
 結局私の不安は、コミューンが、敵対的闘争のぎりぎりの局面にいたって、逆に集団内面への爆発的な逸脱を示すことを、一つの巨大な政治的背理として感じとっている。それというのも、自治への熱狂という形をとった集団内面への過度の逸脱は、同時に、固有な政治的経験からの逸脱をも意味するからである。私の政治的経験史の文脈では、反乱世界の形成とそこに生きることとが固有の政治的経験に属さなかったように、いまコミューンにいたって、この世界が現実に再建されたとしても、それは政治にとっては一つの逆説というにすぎないのだ。
 そもそも、私の経験史は、反乱世界の生のうちから、集団としての私――政治的私――を構成するところから出発したのだった。この私の集団的経験をたどって、私がいま、俄然新しい生活の広野に踊りでたことは、たしかに政治的私という私における一個の抽象を破壊し、私をふたたび生活へ――「人間」へすら――近づけるものだといわねばならない。私がいつの時点かですでに気づいたように、私の生活にとって政治はしょせん一つの衣裳にすぎないからだ。歴史的にいえばアナキストの見果てぬ夢のうちにくりかえし宿ったように、コミューンの生活世界が文字どおりに「未来社会」や「新しい型の国家」への門口を意味するのなら、コミューンの過剰な生の拡大や徹底化が、ついには政治的経験それ自体を速かに無に帰していくことができたであろう。
 だが実際には、反乱世界以降の政治的経験の道程は、コミューンでの生活の熱狂のうちにかりそめに忘却されているにすぎない。しかも、この忘却された政治的経験とは、もはや、たんに無料で髭を剃る習慣に対比されるようなプリミティブな政治ではない。いまや、それはまさに典型的な政治的形態としての国家権力なのだ。
 実際、パリのコミューンとても、その短い生涯の間に、終始、あたかも飲み下すには重い不安のごとくに、パリの至近距離に居坐った一人の小男のことを忘れることはできなかった。彼は、コミューンに政治の宿命を納得させずにはいなかったはずのブランキを手もとに捕えて放さずに、「三月十九日からパリの奪還の日まで毎晩」、自ら文字どおりにデマゴギーで充満した『官報』を書いて、地方へ――すなわち「しらふのフランス」へ――送りつづけていた。この小男とは、つまり、フランスの「国家権力」であった。

フランスのあらゆる部分が、議会と政府の周りに結集した三月三十三日。
否、フランスは、フランスを血の海に溺れさせようと欲している貧乏人どもが、その胎内で勝利を収めるのを許さないであろう――同二十七日。
本日は蜂起の運命にとって決定的となる――四月三日。
叛徒は今日決定的な敗北を喫した――同四日。
本日は決定的である――同七日。
叛徒に対して敵し難い手段が用意されている――同十一日。
叛徒は一目散に敗走した。決定的な瞬間が期待される――同一二日。
わが方は決定的な攻撃を試みることにより、この内乱に終止符を打たんとしている――同一五日。……等々。(22)

 このように酷使された「決定的」云々は、にもかかわらず生き続けたパリのコミューンにとっては、まさにデマゴギー以外のものではなかったろう。しかし、パリとフランスの国家――「酔ったパリ」と「しらふのフランス」――の対立は、コミューンにとっても文字どおりに「決定的」たる意義を失わないものであった。この執拗な敵、国家権力は、ある日あたかも不意に、コミューンの生活世界にむけて全面的に進撃してくるであろう。ちょうどこれは、反乱世界にとっての敵の再発見に似ている!
 しかし、反乱世界とちがい、国家権力という敵は不意にコミューンの面前に出現するのではない。すでに以前にふれたように、私の政治的経験史は、同時に私の敵の政治的な形成をも促すのであり、まさにこの彼我の敵対的弁証法が、私の経験を終始外面的に条件づけてきたのである。最初の敵の面前で形成された私の集団が、さまざまの内部的事件を経て大衆の権力へと至る道筋は、一つの敵対的闘争の関係を内面化する経験であったとともに、この経験をふたたび別の敵対的闘争へと外化していく過程であった。
 とりわけ、当初私の集団がかかえていた敵のイメージの著しい矛盾を想起しよう。そこでは、実際の闘いが目前の――谷あいや工場の壁ぎわでの――「狭い」戦闘であるにもかかわらず、目前の敵は私たちの集団意志のうちで絶対化され、敵の世界としてイメージされたのだった。だからその後、私の闘いが持続し拡大するにともない、目前の敵自体がその奥深さを露呈してくるとともに、観念の上で絶対化された敵も、ますます現実的な肉づけを与えられるようになる。
 たとえば、反乱の持続・拡大が、大衆の諸集団を政治的にも地域的にも均質化し、一つの大衆権力へ統合していく過程を、私たちは現実に想定することができる。この過程は、外面的には、目前の敵を撃ち破ってはそのつどより強大な敵を挑発し発見することだった。こうした過程を経て、私の目前の敵もいわば私たちの大衆権力にふさわしい敵・権力になっていく。それは、かつて私が観念のうえで絶対化した敵のイメージにまで、現実の敵を追いたて近づけていく過程といってよい。
 かつて私たちの把握した敵の二極分解が、このように心的にも現実的にも克服されていく過程こそ、まさに私たちが自らを大衆権力・コミューンに統合していく過程の裏面史である。コミューンにおいて、反乱の世界思念に自己権力としての現実的肉づけが与えられたことは、その否定としての敵についてもまったく同様なのだ。
 ひるがえってみれば、私の政治的経験のそもそものはじめから、敵前で味方を結束する私の努力は、私の集団から内部の敵を排除し、集団を純化する結果をももたらしたのだった。敵対的関係を内面化する努力が、かえって集団の矛盾を外化するものとして、この経験は集団の分裂と再団結とのはてしない運動をつくりだしてきた。この意味からすれば、コミューンにおける自己権力の組織化は、集団がその内面を純化する努力の極北として、まさに革命の名に値した。
 だがだからこそ逆に、この大衆権力の敵も、私の集団が内面の矛盾をついに最終的に外化しえたことのあらわれとして、いまや心的にも現実的にもコミューンと世界を二分する政治権力――国家権力なのだ。集団が大衆権力へと自己の内面を形成していく過程は、あたかもこの否定的鏡像のごとくに、敵の形成を挑発し、国家をもあらわに――階級的な――権力として定立する過程なのである。これはいわば、革命の敵、国家権力の側における「階級的形成」を意味する。(絶対的敵の再建!)
 このようにして、コミューンの置かれた客観的位置は、「未来社会の原基形態」とか「まったく新しい型の国家」といった内面の性格にもかかわらず――あるいはそれゆえに――、相互に形成され発見されてきた二つの権力のまさに極北にあるのであり、この位置こそはいわゆる二重権力の状況である。
 すでにふれたように、私の政治的遍歴がくぐりぬけてきた政治の尾根道での危うい運動にくらべるならば、その成果としてのコミューンは、逆説的にも、民衆の新しい生活への熱狂のなかに政治の尾根道のゆくえを見失ったかにみえる。だが実際は、コミューンという成果は、それにいたる道程のゆえにかえっておもいもかけず、国家権力という途方もない政治を対岸に発見するのである。政治的経験の歩みが、たとえば領土を二分する軍隊同士の「決戦」――関ヶ原や天王山――のごとき闘いによって結着するのではまったくなく、むしろコミューンという逸脱こそがこの決戦を招くということは、革命過程の政治的経験に固有の逆説なのだ。政治集団とその闘争の展開は、古典的な戦争のごとくに、たんに外面的な進退の過程ではなく、なによりもこの闘いを内面化し、これを集団の矛盾として経験していくものであることが、ここにも一種悲劇的な色彩を帯びて露呈されるのである。
 それゆえ、コミューンの内で跡たえたかにみえた政治的経験の道筋は、しかしいまやここにいたって、かえってまぎれもない政治の相貌をもってコミニーンの内部に再現する――。

こういう「絡(から)み合い」が長つづきできないことは、すこしも疑う余地はない。一つの国家に二つの権力は存在しえない。そのうちの一つは消滅しなければならない。
そして、ロシアのブルジョアジー全体は、兵士・労働者代表ソヴェトをとりのぞき、無力にし、消滅させるために、ブルジョアジーの単独の権力をつくりだすために、すでに全力をあげて、あらゆる方法でいたるところで活動している。(23)

 歴史上すべてのコミューンは、新しい生活の最中に響く、このような、いまや純粋に力学的な政治の発言を記録してきたといってよいであろう。だが、政治的経験において、客観的なものの極北で響くかかる呼びかけは、コミューンの生活にとってはなじみやすいものではない。生活は、すでに政治的世界とは別種の客観性を獲得したかに、人びとは思いこんでいるのだからだ。だから、二重権力の「からみ合い」を、コミューンはいつも純粋の力学としてとらえ結着をつけることはできない。実際、「最後の決戦」におけるコミューンの脆さを、歴史はしばしば経験してきたところなのだ。
 ここでもまた、政治における客観的なものの宿命は、コミューンにとってこの瞬間に、客観的なもの同士の戦争のうちに解消されるどころか、残酷にもかえってぎりぎりの政治的悪戦として、当のコミューンのうちに露呈される。
 けれども、私はもはや、コミューンという大衆権力における、なにか新しい経験のごとくに、この悪戦の模様を記述することはできない。むしろ、反乱からコミューンにいたる、これまでの長い物語をさまざまに特徴づけてきた大衆的政治集団の矛盾は、ここコミューンにいたってぎりぎりの展開をみせることによって、はからずも、大衆の集団とはまったく性格を異にする新しい政治集団の登場を促すのである。
 この政治集団は、いままでも私の政治的経験の全過程に、分かち難くからみあっていたのだが、私の物語は、故意にこの集団の登場をおさえてきたのだった。けれども、もはやここにいたっては、たんに二重権力状況の現実的結着ばかりではなく、大衆的集団の政治的遍歴史もまた、新たな政治集団の経験をぬきにしては総括することができない。大衆的な政治集団がアジテーターたちの長い遍歴を通じて内面化し、あるいは外化してきた集団の矛盾を、そのぎりぎりの段階でひきうけようとするこの政治集団は、党である。
 私はいまや、党における政治的経験の記述にとりかかることにしよう。