政治の現象学 第7章 党

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第七章 党
 

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第七章 党
 
第一節 プロローグ――遠方から
 
一 政治的な遍歴の途上にある私のところへ遠方から党が帰還する
 
レーニンは、丸い帽子をかむり、顔を凍らせながら、贅沢な花束を両腕に抱えて、「皇帝の間」に、歩いてゆくというよりも、むしろ走りこんだ。部屋の真ん中まで走りこんだレーニンは、まるで予期しない障害物にぶつかったように、チヘイゼ〔ソヴェ卜指導者〕のまえにぴったり立ちどまった。そこでチヘイゼは、いままでの憂麓な表情をそのままに、精神と文句ばかりでなく、声音までも修身教師の容子を注意深くまねながら、つぎのような「歓迎の辞」をのべた、「同志レーニン、われわれは、ペトログラードソヴェト全革命の名において君をロシアにお迎えする……しかしながら、われわれは、現状の革命的デモクラシーの主要任務は、国内および国外からするあらゆる種類の攻撃にたいして、われわれの革命を擁護することであると信ずるものである。……われわれは君がこの目標にたいするわれわれの努力に協力されんことを希望してやまないしだいである」。チヘイゼは演説を終った。わたくしはことの意外に狼狽した。しかし、レーニンはこんなことの扱い方はすっかり心得ているように思われた。彼は、いま起ったことが自分にはまるで無関係であるかのように突ったったまま、ぐるっと周囲を一瞥し、取り囲んでいる公衆を見わたし、「皇帝の間」の天井をじろじろ眺めさえした。そして花束(彼の容子全体とは恐ろしく不調和な)を持ちかえ、それから〔ソヴェト〕執行委員会の代表連にもぐるっと背を向けて、こう答えた。(1)
 
 このようにして、革命に沸きたつロシアへレーニンが帰ってきた――「封印列車」に乗って「遠方から」。だがレーニンとともにやってきたのは、実は党というものだったのだから、党としての彼は本当はどこへ帰ってきたのか。また。ペトログラードの駅頭で党はだれに出会ったのだろうか。
 もちろん党=レーニンは、ここで革命に決起したロシアの大衆に出会ったのである。だがこの大衆とは、一九〇五年にロシアを離れて以来、レーニンにとってたんに紙上の存在にすぎなかった「革命的大衆」一般などではなく、現にソヴェトという集団のうちで激しく自らを政治的に形成しつつある大衆を意味していた。それゆえいま、スハノフが描くところの、有名なレーニン帰還の場面を象徴的に解するならば、ここで党はこのような大衆、いいかえれば、まさに政治的経験の途上にあるこの私のところにやってきたのであり、この私に出会ったのだとうけとってよいであろう。
 すでに前章までに、この私の政治的遍歴史は十分に記述されてきた。そこでは党という政治集団は姿すら現わさなかったのだが、実際にはもちろん、私はいたるところで党に遭遇していたのである。私の経験史のどのレベルで事実この出会いがおこなわれるかは、まったくのところ歴史的事情によるのだが、一般的にいえば、反乱以降、大衆の集団がさまざまに展開するその弁証法のなかへ、党はやってくるのだ。
 ロシアの革命に帰還した党=レーニンも、彼を迎えたロシアの民衆を、たんに「革命的人民」などと大ざっぱにみなしはしなかった。大衆は大衆一般ではなく、まさに「階級的矛盾」のうちにいるのであり、だからこそ大衆はいま革命の次の段階へ激しく自らを転成しつつあるのだと彼はいう――
 
巨大な小ブルジョア的な波が、あらゆるものをまきこみ、数のうえだけでなく、思想上でも、自覚したプロレタリアートを圧倒している。すなわち、きわめて広範囲の労働者に小ブルジョア的な政治的見解を感染させ、それにまきこんでいる。(2)
 
ロシアにおける現在の時期の特異性は、プロレタリアートの自覚と組織性とが不十分なために、権力をブルジョアジーにわたした革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力をわたさなければならない革命の第二の段階への過渡ということにある。(3)
 
 党が大衆的な反乱を創るのではなくこれに出くわすというのは、近代の大衆反乱にみられる著しい事実である。古来革命が「突然の雷撃」(ブランキ)や「暗夜の泥棒」(バクーニン)にたとえられてきたのはこのことを物語っている。どだい、もしも革命が、党の創出と指導とによる整合的な過程であることが大筋として事実ならば、私がこれまで長々と大衆集団の独自の遍歴を追跡してきたのも、たんにイデオロギー的意味しかもちえないであろう。だが事実は、「党はプロレタリアートの戦闘司令部だ」(スターリン)といった両者の整合的な把握こそが、これまでつねにイデオロギー的なことだったのだ。ペトログラード駅頭で、党=レーニンが反乱する大衆に出会う場面も、まさに両者出くわすという光景であった。彼を迎えたロシアの民衆は、「セント・ヘレナ」から帰還する「将軍」を、「司令部」に迎え入れる軍隊などではまったくなかったのである。それゆえレーニンは――ロシア革命を回顧して――こういわねばならないのだ。
 
一般に歴史は、とくに革命の歴史は、もっともすぐれた政党が、またもっともすすんだ階級のもっとも自覚した前衛が頭にえがいているよりも、いつも内容が豊かで多様で、多面的で、生き生きとしており、「油断ができない」ものである。これは当然のことでもある。なぜなら、どんなにすぐれた前衛でも、何万人かの意識、意志、情熱、空想をあらわすだけであるのに、革命は、もっとも激しい階級闘争でかきたてられる何千万人もの意識、意志、情熱、空想によって、人間のあらゆる能力が特別にたかまり、緊張する時機に、実現されるものだからである。(4)
 
 私はこれまで革命の歴史の「油断のなさ」を追ってきたつもりだが、このように「油断ならない」革命に党が出会うのであれば、その出会いは、つねに多少とも相互に「外的」な関係としてしかありえようもない。日本の地ではるかにレーニンに対抗しようとした一革命家もまたいっている――
 
何しろ革命と云ふ奴には計画がないのだからね。計画も何もなく、自然に突発するのだから、どんな人だってあわてるよ。(5)
 
 だが、それでは、革命にたいする党の外的な関係は、たんに当初の偶然的で事実上のことにすぎないものだろうか。もしもそうなら、党という政治集団の経験の独自性も事実上のことにすぎず、遅から早かれ、党は大衆集団の政治的経験史のうちに「解消」されるべきものとみなしてよいであろう。
 しかしそれにしては、党=レーニンがロシアの反乱に出会う場面は、たんに遅れてやってきた党の姿というにはあまりに異様だ。むしろここには、もともと異質なもの同士の異質な触れ合いが象徴的に読み取れるではないか。――党に贈られた花束は、文字通りに、「彼の容子全体とは恐ろしく不調和な」ものだったのだ。実際、すでにこの何年も前に、レーニン自身が、党は大衆の集団とは「別種のもの」だといっていたのである。
 けれどもことわるまでもなく、大衆と党の出会いが異質なもの同士の出会いといっても、党は大衆と確かな関係を切り結ぶためにこそ「遠方から」帰還したのだから、党はたんに事実上の「外的」関係を打ち破っていくほかない。
 それゆえ、私の政治的経験史と党との出会いは、党にとって文字どおり、たんに始まりというにすぎないのだ。ここから、異質なもの同士の相関の歴史がはじまるのであり、この両者の関係の転変こそは、ペトログラード駅頭での出会いが、まさにこの言葉にふさわしいものであったかどうかを、逆に証明するであろう。主としてロシアの革命とレーニンの党を素材とする以下の記述は、レーニン帰還の場面――「遠方から」やってきた党と革命との出会い――が、まったくのところ象徴的な一瞬であったことに気づいていくであろう。
註 本書の記述は、ほとんどもっぱらロシア革命とレーニンの党を素材とするけれども、ただロシア革命論やレーニン論という性格をもつものではない。前章までの政治的経験史の記述は、その文脈中にさまざまの「文献」を例示してきたが、本章でのレーニンの引用もこの「文献」と同じく匿名のもの――党という主人公の発言――とうけとっていただきたい。そうはいってももちろん、ロシア革命論やレーニン論としても、本章は的をはずしていない。ただその「史実」が、意識して一面的に読まれているだけである。
 さらに、可能なかぎり誤解をふせぐためにあらかじめことわっておくが、本章は党論であって、特定の政治性格の党だけを扱うものではない。レーニンを素材としていても「前衛党論」などではなく、いわんやその組織論や組織の処方箋ではない。こうした組織論は、現に在る一つの党――君の党――が独自につくらねばならない性格のものであり、ただ本章の記述は、「革命党」のリアリティーに理論がぎりぎりに接近しうる一つの方法を主張するものである。
 
第二節 戦術の党
 
 
一 党の戦術的な介入をつうじて私は党に出会い党の呼び声を聞く
 
 さてそれでは、大衆的政治集団の矛盾を展開しつつあるこの私の経験と、党=レーニンとの出会いとかかわりの有様を記述することにとりかかろう。この記述は、これまでの私の経験史に対比して、これに意識的にかかわろうとする党の側の、経験の独自性を浮き彫りにしていくことであろう。
 党=レーニンの、ロシア革命にたいする、出会いとかかわりの仕方を根本で定めたのは、ひとも知る「四月テーゼ」であった。ただすでにことわったように、ここでは、一九一七年のロシア革命も、ただ私の政治的経験史の一事例としてとりあげられているのであり、したがってまた、これへのレーニンのかかわり方も、党的な政治経験の特異性をきわだたせるための事例なのである。以上の意味では、「四月テーゼ」とは何か。レーニン自らがこれを「戦術にかんするテーゼ」と呼んだように、これは、党の私にたいするかかわり方を、なによりも「戦術」としてとらえようとしている。党のこの私にたいする政治的働きかけが戦術である。そこでさしあたって、戦術を通じた両者の関係のうちで私にとって――そして党にとって――党というものがどのように現象してくるかをみることからはじめよう。
 
革命的民主主義派は、階級利益の諸矛盾をおおいかくしはするが、あばきだしはしない。ボリシェヴィキは、これらの矛盾の存在に労働者と農民の目をひらかせるべきであって、それらをあいまいにしてはならない。(6)
 
いま日程にのぼっているのは、もはや別の新しい任務である。すなわちこの独裁〔ソヴェト〕の内部のプロレタリア的分子と、小経営主的または小ブルジョア的分子とを分裂させる任務である。(7)
 
 「四月テーゼ」の中心をなすこのような党の発言は、あのペトログラードの駅頭で党が私たちに出会った場面――その「恐ろしく不調和な――光景の直接的帰結である。党はまったくあけすけに、私たちにたいする党の働きかけが、ソヴェトという反乱集団――その内部に分化しつつある大衆の政治的諸集団――の矛盾を「あばきだし」、この集団を階級的に「分裂」させることだといっている。いいかえれば、レーニンはすでに、私たちの反乱――その「油断のなさ」――につけ入るすべを心得ているのだと告げている。だがじつはこの私にしても、レーニンにおとらずあけっぴろげに「大衆的に」――だが、彼のように対象的認識のレベルでのいい草ではなくむしろ事実的に――、私の集団をたえまなく新たな政治的経験へと駆りたてる集団の「矛盾」を、これまでに露呈してきたのだった。それゆえ、党が私たちのここに目をつけ、これにつけ入ってくることは、当然といえば当然のことであろう。私にとって、およそ党というものが現象してくる直接の姿がここにある。
 
 実際、ロシアの革命では、二月にロマノフ王朝が崩壊して以来レーニンの到着にいたるまで、権力をにぎったはずの「ソヴェト」は、その内部の政治的諸傾向を諸集団の分化・対立として明確に展開することなく、なお一つの混乱のうちにあった。私はすでにこうした反乱集団の内面を、「革命はまだなに一つ儀式をもたなかった。……革命はすでに巨大だったが、なおナイーブであった」という証言をひいて記述したことがある。「巨大な小ブルジョア的な波が、あらゆるものをまきこんでいる」と、レーニンもまた指摘している。二月革命の「突然の雷撃」で政権がころがり込んできた、最初の「人民権力」にしても、たとえばこんなふうにして誕生したのだった――
 
小田原評定は果てしなくつづいた。民主主義的指導者たちは、熱心に決定をまちあぐんでいた。ついにミリューコフが姿をあらわし、ソヴェト代表にちかづいて、こう声明した――「決定をした。われわれは政権をとるであろう……。」
「われわれとはだれを意味するのか、わたくしは彼にたずねはしなかった」と、スハノフは有頂天になってのべている。
「それ以上、わたくしはなに一つたずねなかった。だが、わたくしは、腹の底からいわゆる新事態を切実に痛感した。わたくしは自然力の完全なきまぐれによって、あの数刻のスコール中に木の葉のようにもまれた革命船が、ついに帆をあげ、恐るべき嵐と動揺のさ中に、安定と規則的運動を獲得したことを感じた。」(8)
 
 けれども、最初の革命によって成立した反乱集団=ソヴェトの権力は、実際のところ、「安定と規則的運動を獲得した」どころではなかった。むしろまったく逆に、「革命船」はまさにたったいまから「恐るべき嵐と動揺のさ中に」船出していかねばならないのだ。そして革命船は、「われわれとはだれを意味するのか」を自らにたずねずにはすまぬであろう――すでに私が前章までに、この私とは「どういう人々であろうか」と自問しつづけてきたように、だ。
 だから、反乱の船出にあたって、あえて不問にふされた「われわれ」の意味はまた、ここにつけ入ってくる党によっても、その後不断に露呈させられていかずにはすまないであろう。現に党=レーニンは、ソヴェト第一回全ロシア大会にむかって、いきなり次のように問いただしたのだった。
 
どこにわれわれは出席しているのか――いま全ロシア大会をひらいているソヴェトとはなにか、革命的民主主義とはなにか。(9)
 
 このように、「恐るべき嵐と動揺のさ中に」激しく転成していく大衆集団――大衆権力――に働きかけ、この道程に影響を与えようとする戦術のうちで、いま私にとって党が現象してくる。「革命的民主主義」などというあいまいな集団の自己欺臓を「階級的に分裂」させようとする、党=レーニンの呼びかけが聞こえるのであり、くりかえすが、これはレーニン帰還の場面からの直接の帰結であった。
 私はすでにこの「帰還の場面」で、レーニンは彼を迎えた大衆を、「革命的大衆」などと大ざっぱにみなしはしなかったことに注意した。そして事実、レーニンに出会ったとき、ロシアの大衆がどのような政治的事態のうちにいたかを、私は以上にかいつまんでみてきたのだった。
 それゆえここに、党の呼びかけを聞きとり、これを通じておもいがけず党というものを発見する大衆――この私――とは、いったい誰なのかという一般的な問いかけが、ふたたび前面にでてきているのである。というのも、もしもこの私が、一瞬の暴動に決起して潰えるものであったり、あるいは逆に、予定された革命のコースを導かれていくものにすぎないのであれば、私は、私とは異質のものの呼びかけを本当の意味で聞きとることも発見することもないであろう。もちろんその場合も、党は存在するであろうが、日常の政治世界でみられるように、たんに事実上党がそこにいるにすぎないのである。異質なもの同士の新鮮な出会いと発見などは起りようもなく、このような大衆を前提とするかぎり、党的経験の独自性といっても、私には関係のないことをさすにすぎないであろう。だがロシアの例が示していたように、この私とは政治的経験の動転のさ中にあるものであり、そのかぎりでのみ、私は党の呼びかけを――それに反撥しようがひきつけられようが――、あたかも内心の声のように聞きとることができるのだ。
 大衆にかかわろうとする党の側からいっても、事態はまったくのところ同様である。
 もしも、日常的あるいはイデオロギー的に「大衆」一般が考えられたり、あるいは――「生活者」大衆は問題外として――闘う大衆の政治への登場が、たんなる暴動の水準にとどまるならば、党とこれら大衆とのかかわりは、文字どおり外在的で事実上の関係を超えることはできないであろう。歴史上、党が大衆にまき込まれ、「埋没」したり、また大衆を「代表」したり「代行」したり、あるいはたんなるセクトや宣伝サークルにとどまったりするありふれた事例は、客観的にいえば、党が出会う大衆集団の未分化という現実にもとづいているのである。革命過程での大衆的諸集団の弁証法が根源的に党を呼ぶということが、これでは起りようもないのである。
 たしかに、スターリン的マルクス主義の歴史が、党活動の前提たる「大衆」や「反乱」の問題をすっかり闇に葬ってしまったのだから、党の「活動舞台」を本来的に「大衆の反乱」にすえなおすことは、意味のないことではない。だがそれにしても、党が大衆を前提とするという自明の命題は、党的経験の独自性を把握する助けにはならないのである。
 こうしてひとは、党とは何かを問うまえに、党を党たらしめる革命や大衆が本当のところ何なのかを問いたださねばならないのである。スターリン主義も、またあらゆる「大衆主義」も、等しく類型的把握以上に問いつめることをしなかったのは、党ではなく、じつのところ「大衆」についてだったのだ。私が前章までに、反乱に決起した大衆――この私――とは「どのような人々であろうか」と問いつづけてきたのも、党との関連でいえば、党の呼びかけを聞きとり、これと呼応しうる大衆とは誰なのかを追跡することを意味していた。
 それゆえいまでは党と大衆との出会いというとき、この大衆とは、政治的遍歴の途上にある――潜在的にはこの全過程を内にはらむ――大衆のことだと了解しよう。
 いわゆる「党と大衆」という、安易な図式は捨てられねばならない。政治的経験のレベルにおいては、もともと「大衆」一般などは存在しない。反乱の渦中で、大衆がそれぞれに自己を諸集団に組織化していく加速度のうちにしか、大衆は――この私は――存在しない。このような意味での私――大衆――だけが、党との「出会い」をその言葉にふさわしい事件として経験することができるのだし、大衆とは「別種のもの」としての党経験の独自性をも根拠づけていくのである。また逆に、党が党より「もっと油断ならなど革命運動の歴史に、いわばつけ入っていき、革命過程に対応して党的経験の全射程を歩むことのできるのも、これら大衆の諸集団が展開する矛盾のゆえなのだ。
 ロシアの革命が、私たちにきわだった印象を与えるのも、ソヴェトという強力な大衆権力――二月革命から十月へ、武力は一貫してソヴェトの側にのみ存在した――が、「時間をかけて」、この内面の矛盾を展開しきった事実にもとづくのであり、党的政治経験もまたこれに対応して、もっとも深い射程を刻んだのである。
 このようにしていま、「恐るべき嵐と動揺のさ中」で、自分とは誰なのかを問いつづけるこの私に党の呼びかけが聞こえてくる。それは、戦術を通じて響いてくる「外から」の呼び声である。だから、党とこの私との戦術的出会いでは、ことわるまでもなく、党の位置が私の集団とはもともと別のところ――大衆集団の革命過程の「外」――にあることが前提となっている。
 むろん、「遅れてやってきた」党の位置は、事実上このようなものであるしかないであろう。だが党の戦術という観点からいえば、党は本来大衆集団そのものであってはならない。なぜなら、党の戦術が真の意味で大衆集団にたいする出会いと働きかけ――すなわち対象的実践――となりうるためには、定義上、対象が自らとは「別種のもの」として定立される必要がある。こうしてはじめて、党という集団が大衆の集団と実践的関係を結ぶことも可能となってくる。だから、党が大衆集団の「外」に位置するというのも、物理的な距離のことではなく、またむろん両者が無関係となるという意味ではなく、まさに両集団の関係が成り立つための前提なのである。ヘーゲルではないが、本来一なるものは結合しえぬからこそ、近親相姦は禁止されるのだ。レーニンもまたいっている。
 
こういう時機には大衆とともに「あろうとのぞむ」より、つまり、全般的な流行病に屈服するより、「大衆的」陶酔に抵抗する能力をもつほうが、国際主義者にふさわしいことではないだろうか?(10)
 
臨時政府はその手に権力も、大砲も、兵隊も、武装した人間の群ももたないでソヴェトをよりどころとしているのに、ソヴェトはいまのところ約束をあてにして、この約束を支持する政策をとっているという。二つの権力のこの特異な絡み合いについていえば、もし諸君がこのような遊戯に参加したいとおもうなら、諸君は破綻するほかないであろう。こういう遊戯に加わらないことが、われわれの任務である。われわれは、このような政策がまったく根拠のないものであることを、プロレタリアートに説明する活動をつづけよう。(11)
 
 大衆集団にたいする党の位置は、前衛党という名前が示すように、のちに「大衆の一歩先をいくもの」と規定されるようになった。レーニンの右の主張も、もちろんこうした意味をもっていないことはない。けれども、党の目的の実現が未来に想定されている以上、あらゆる党は自ら大衆の一歩先を行くものと主張しうるのであり、「前衛党」のニュアンスは、レーニンの党にのちにはりつけられたイデオロギーにすぎない。むしろレーニンは、「わが党が大多数の労働者代表ソヴェト内で少数派であること、しかもいまのところわずかの少数派であるという事実」を事実上承認するだけでなく、戦術的観点からして、「大衆とともにあろうとのぞ」んではならないと主張するのである。
 レーニンの党は、もちろん「革命をおしすすめる」ためにこうした戦術を行使するのだが、反対に革命の「粉砕」をめざす党であれ、おしなべて党の――私にとっての――特異性を規定するのは、党が私の――革命の――「外」から現象してくるという、その戦術の著しさなのである。大衆と結合するためには、「大衆とともにあろうと」のぞんではならないというのも、分離と結合のスコラ学などではまったくなく、革命は党にとって対象であり、党の実践が固有の意味で対象的な実践の性格をもつことを物語っているのだ。
 もとより事実をいえば、「大衆とともにあろうと」望んではならないというのも、レーニンにとってこの「大衆」が、政治的に望ましくない状態にあったためである。つまり、「大衆追従主義」を叱っているのだと受けとってもよい。だが、大衆の政治意識の変化は、いつもあれかこれか式の「採決」などできまるものではない。大衆の革命は根本的に自己形成(自己発見)史的な性格をもっており、意識された対象的実践の範疇には属さないのだ。だから、革命過程のこうした性格に対比したとき、「大衆とどもに」あってはならないという党の位置は、たんに大衆を党に獲得す政治技術という以上に、党にとって本来的なものなのだ。
 こうした事柄は、いまはなお党の戦術を通じて端緒的に経験されたにすぎないが、やがて全面的に明らかになっていくであろう。
 
 
二 私の政治的経験史の展開が唯一の党ではなく多くの党をまねく
 
 ところで私は、これまでもっぱらレーニンの党を素材としながら、「プロレタリア党の組織論」などではなく、およそ党なるものの独自性を明らかにする一事例として、レーニンをもとりあげるのだとことわってきた。それというのも、党をなによりもまず、革命にたいする対象的働きかけ――戦術――のレベルでとらえるかぎりは、党なるものが本来的に多党(諸党)の存在であることを了解しなければならないのである。いいかえれば、大衆権力を階級的に「分裂させる」レーニンの戦術は、革命過程の一定段階では、ただちにこれと別の戦術を不可避的に呼び起し、かくして他の諸党の存在をも挑発的に明るみにださざるをえない。そしてこれらの党もまた、形式上はレーニンの党とまったく同様に、それぞれの戦術的実践において自らを革命から「分離」する。
 ひるがえってみるまでもなく、革命は単一の性格をもってはじまり、その後も単線的なコースに沿って拡大するものではまったくなく、自らのうちに政治的・集団的差異を分化し、発見していくものであった。こうした革命の分裂的展開こそが、これにつけ入ってくる党の介入をよぶのだから、党とは革命との戦術的関係というその根源で、もともと多党としてあるしかないであろう。
 大衆権力内の矛盾の分化・展開は、こうして諸党の分化・抗争のレベルと不可避的に相関することとなる。逆にいえば、戦術を、それぞれに大衆権力のうちに実現することをめざす諸党の抗争関係が生れるのである。
 このような諸党の抗争――狭い意味での党派闘争――こそは、とりわけレーニンの党以降、あらゆる大衆反乱でみられる著しい歴史的事実にほかならない。私の革命過程にたいする党の戦術的介入は、たんに不可避的というにとどまらない。反乱集団内部の諸権力の分化が、おのおのの集団権力に基盤をもつ、諸党の党派闘争として現象するという歴史的事実のうちに、ほかならぬ党がほとんど宿命的な相貌をもって露呈されてきたのである。
 ロシアの革命の場合でも、一つの党の戦術的介入が、同時に諸党の抗争を呼び起こすという構図はまったくのところ事実であった。そして、諸党の抗争とは、たんにもともとの「敵」たる「ブルジョアジー」や「反革命」の党との二元的対立にとどまらず、すべて「人民」を代表すると称するあらゆる党のあいだの党派闘争であった。おもえば、反乱の政治集団の「敵」が、現実にはまさにこのように「多様」なものであったのだから、人民を代表する党が単一のものたりえないのも当然といえば当然のことなのだが、ロシアの革命こそは、歴史上はじめて文字どおりにのっぴきならない形で、この事実を暴露したのである。その後の革命の歴史は、すべてこうした宿命の外にあることはできないであろう。
 同じくマルクス主義的あるいは社会主義的綱領を標傍する党といえども、その組織性格・スタイルにおいてはまさにさまざまであり、どの党もいかなる「先験的」唯一性をも主張しえない。党をつくることが、すなわち最初の唯一の「共産党」を組織することを意味した時代が、基本的にはレーニンの時代、つまり「世界革命」がはじめて現実性をもった時代に、すでに終っていたのだ。このように、革命における党は、その出発点からしてすでに本来「多党」であり、多党間の闘争なのだ。
 
レーニンは革命的民主主義派のただ中に内乱の旗をおし立てた。(12)
 
 またさらに――
 
わたくしは、旧ボリシェヴィキ・レーニン主義者にぞくするものである。わたくしは、現在の特殊な瞬間においても、レーニン主義は断じて無用の長物と化してはいないと考える。そして、旧ボリシェヴィキが現在障害物となったという同志レーニンの言明に、驚愕を禁じえない。(13)
 
 前の引用は、「革命的民主主義派」中のレーニンの反対派による非難である。彼らにとってレーニンは「分裂の生きた化身」であり、彼の言明する戦術は「狂人のたわ言」や「青天の霹靂」のごとくにみなされたのだった。レーニンは反論しているが、彼の出現が、未分化な「革命的民主主義派」内部に「内乱」をもちこんだことは、比喩として当っていることにちがいない。
 だがこのような「内乱の旗」は、ほかならぬレーニンの党=ボリシェヴィキの内にも、もち込まれないわけにはいかなかった。レーニンの戦術は彼の同志――「旧ボリシェヴィキ・レーニン主義者」――の反対すら呼び起し、これにたいする闘争――党内闘争を避けることができなかった。実際、ペトログラードの駅頭からまっすぐに党の会議にのり込んで以来、レーニンは、その戦術を彼の党の戦術として定着させるのに、ほぼ一カ月の党内闘争を必要としたのだった。
 この場合、「旧レーニン主義者」たちの反対は、まさに「革命的民主主義派」を「分裂させる」ことへの反対――「われわれは合体しなければならない」(スターリン)――だったのであり、したがって文字どおり、「党の戦術」をめぐる論争をこれは意味していた。それゆえ、レーニン帰還以降の彼の党内闘争は、たんに「四月テーゼ」のスローガンを党に採用させるための闘争だったのではなく、それ以上に、およそ党にとって戦術とは何か――党的経験の固有性とは何か――を、党に知らしめる闘いを意味したのだった。
 もちろん、こうした戦術としての党を、なにか具体的な組織実体のごとくにとらえてはならない。いまは、大衆の政治的経験に解消しえない、党的経験の独自性だけが追跡されているのである。もとよりこれに対比して、「大衆とともに」あり、大衆と「合体」している党――大衆の党――は、組織として日常的に存在することはいうまでもない。私はのちに(本章第五節)この大衆政党の問題にもどるけれども、この党が、党の独自性という観点からいえば、基本的に興味の外にあることをあらかじめことわっておかねばならない。
 それに実際、あらゆる大衆の革命では、従来から大衆の「内」にあった党といえども、不可避的にそのうちに固有の党の経験を暴露せずにはすまないのだ。ロシアの革命でも、ソヴェトという人民の権力がその発端から成立することによって、ボリシェヴィキすら一時期、「革命的民主主義派」の一翼に合体するということが起った。けれども、このように美しい「大衆の党」の統一は、大衆権力の分化・対立を現実の契機として、どのみち崩れざるをえないのであり、このときには、「大衆の党」自体のうちから、ふたたび党がその固有の相貌をあらわにして現われてくるのである。
 それゆえ、「大衆とともにあろう」としていたボリシェヴィキのうちに、まさに「青天の霹靂」として固有の党=レーニンが帰ってき、大衆政党との相異をきわだたす一連の党内闘争が展開されたということは、ロシア革命のみならず、およそすべての大衆的な革命における党にとって、象徴的な出来事であった。
 もちろん、ここであらかじめことわっておくけれども、「大衆とともにあろうとのぞむ」大衆政党の存在が虚妄だとか、革命に先だって、一つの党が大衆のうちで革命を準備することなどどうでもいいとか、およそこうした事実上の問題を私はあげつらっているのではない。もしも、革命が現に一つの党――「大衆の党」――によって用意され、この党の「日々の増強」が革命の勝利をもたらすのであれば、革命の「外」にある党とその戦術などは、もともとどうでもいいことにすぎない。事実、通常、まさに党はすべてこのように主張しているのだ。もしもこのとおりであれば、党と大衆集団や革命との区別も、たんに量的・連続的なものにすぎず、結局、私が扱っているような固有の党の宿命などはないのである。
 おそらくこれは、政治にとって幸福なことにちがいない。だが実際には、大衆的革命の「雷撃」を喰らうやたちまちにして、このように美わしい人民の党は、いつも自分が度しがたく現状維持派であり、革命むきの党ではないことを証明するか、あるいはほとんどずたずたの内部分裂を経験するかしかないのが常であった。私がレーニンの党に注目する唯一の理由は、この党が、日常の「大衆政党」の自己欺瞞をひきはがし、革命の「外」にあって革命にかかわるという党の逆説を、党自身の経験を通じて告げているからなのだ。この逆説を党が身をもって知ることこそが、唯一「党の意識性」を意味することがやがて明らかになるであろう。
 けれどもことわるまでもなく、固有の党の位置が「大衆的陶酔」の「外」にあるといっても、党にとってこれは、大衆集団との実践的相関を通じて、ふたたび大衆と「結合」するためにほかならない。ここで「結合」とは、党の戦術が、反乱の大衆的諸集団――あるいは一定の段階では大衆権力――のうちに実現されることであり、党は将来の「結合」をめざして、大衆から自らを戦術的に分離する。だから、「大衆的陶酔に抵抗する能力」を党に要求するレーニンも、同時に、党の未来の果実について、次のように予言しなければならなかった。
 
われわれは〔われわれの戦術を〕プロレタリアートに説明する活動をつづけよう。そうすれば、われわれがどんなに正しいかを、実生活の一歩一歩がしめしてくれるであろう。いまはわれわれは少数派である。大衆はいまのところわれわれを信頼していない。われわれは待つすべを心得ている。政府が大衆のまえに正体を暴露するときには、大衆はわれわれの側へ移ってくるであろう。政府の動揺はおそらく大衆を反撥させ、彼らはわれわれのがわに殺到してくるであろう。そのときには、われわれは勢力の相互関係を考慮しながら、つぎのように言うであろう。われわれの時代がやってきた、と。(14)
 
 実際、レーニンが帰国した当の四月に彼が提起した党の戦術は、その後の十月革命の歴史のなかで、きわめて強い印象をもって実現されていく。とりわけレーニンの著作からロシア革命をみる者にとっては、これは過度に強い印象を与えるのだ。ソヴェトは全国的にレーニンの戦術とスローガンを採用し、同時に、彼の党はソヴェトの多数派を獲得していくことになる。党の戦術は大衆権力のうちに、実現されるのである。
 けれども、レーニンのロシア革命が後世の人びとに与える過度の印象から、この革命を――そしてまたおよそ革命なるものを――逆にもっぱら党による革命とみなすような倒錯が、法外の力をもって人びとをとらえていく。私の本章全体の記述は、ほかならぬ党=レーニンの経験の側から、こうした抜きがたい倒錯を壊す努力となるであろう。
 しかしひるがえってみれば、党に出会うにいたる私の長い政治的経験史こそは、ロシアの革命が与えた偏見を破壊し、この革命を私の側に奪還する努力を意味していたのだ。私はレーニンの成功を、党の戦術が「大衆権力のうちに実現された」ことだといま書いたけれども、逆にいえば、大衆集団の政治的経験の歩みが――つまりこの私が、党の戦術を実現するのである。というのも、反乱への大衆的決起から大衆の自己権力にいたる私の歩みは、実際上はその飛躍のためのあらゆるメルクマールで、党の提起する戦術に結着をつける過程でもあったのであり、ただ前章までの記述は、党の出現にふれる必要がなかっただけである。なぜなら、党がその戦術を実現すること自体は、なんら党的経験にとって独自のことではないのであり、逆に、それは大衆の権力が実現するものとして、まさしくこの私の政治的経験のレベルにこそ属するのである。私はこの実現のメルクマールを、一つずつ前章までに記述してきたのだった。
 それゆえ、前章までの私の政治的経験史は、党を必要としないとか、党なしでやるべきだだとかいった実際上の事柄を主張するものではないし、事実私は、そうした主張の片鱗も残してはこなかった。これにたいして本章では、大衆的集団自体の経験には解消することのでない、党経験の独自性だけがとりあげられているのである。党の戦術が革命過程の一つ一つで実現されることは、じつはそのつど固有の党的経験が解消される瞬間を意味しているのであり、こうした瞬間の連鎖としての革命は、党に固有のレベルには属さないのだ。レーニン到着の冒頭から、もっぱら大衆にたいする党の戦術だけがとりあげられているのも、革命を実現する大衆自身の事業のうちにではなく、かえって革命過程から意識して自らを「分離」する戦術行使のうちにこそ、党的経験の固有性が、その一端をゆくりなくも露呈しているからにほかならない。
 
 
三 政治における客観的なものの宿命が戦術としての党に集中する
 
 さて以上のように、反乱世界の矛盾が大衆の諸集団の分化・対立として展開されていくゆえに、この過程に戦術的に介入してくる党も、必然的に複数の党であるしかなかった。人民の「唯一の党」とその「指導する」大衆という、美しいイデオロギーを破砕するためにもこのことの強調は必要であった。
 それでは、こうした形で私に現象してくる党――この党自身にとっく戦術的実践とは何か。
ここでソヴェトの階級的矛盾を「あばきだし」これを階級的に「分裂」させるという、レーニンの戦術をもう一度想起しよう。いまや、私たちはレーニンのいう「階級的」という言葉を、たんなる形容詞以上のものとして受けとらねばならない。なぜなら、すでに前章(第二節)で、大衆集団の「階級的性格」は、大衆の共同性が析出し発見するところの「政治における客観的なものとして経験されたのだった。
だからこの観点でいえば、ソヴェトの「大衆的陶酔」のうちにある各人には気づかれてはいないが、客観的にはまぎれもなく析出されている階級利害の対立にこそ、レーニンは目をつけ、ここに介入しようとしているのだといってよい。「大衆的陶酔に加わらない」ということの真の意味がここにあるのだ。レーニン自身は、「マルクス主義の科学的見地」にもとづくといっているが、むろん、マルクス主義は、この「客観的な階級利害の対立」から生れたのだといっても同じことである。
 してみれば、党の戦術的介入とは、革命過程における客観的なものの相に、なによりも目をむけるのだと考えてよい。大衆諸集団の分裂に戦術が根拠をもつといっても、たんに各党がそれぞれの集団を「代表」したり「反映」したりするにすぎないのであれば、この対応は革命過程と同じ意味で「自然過程」でしかない。つまり、固有の党などはない。
 ここに、プロレタリアートの「司令部」と称する党のことを、一つの極端としてちょっとでも考えてみるとよい。この「司令部」にたいして大衆の諸集団は当然「兵隊」であり、党の戦術とは「用兵」のことになる。かかる軍隊のモデルでいえば、大衆集団はまさに操作しうる客観的な物理力であり、司令部の仕事は、これを計量操作して目的に導くことだ。戦術は文字どおり軍隊用語と考えてよい。
 もちろん、いまはこうした「司令部」や「戦術」は問題にならない。それらは、ここでいうレーニン的な戦術の頽落形態ではあっても、その根拠ではないからだ。しかし、本来的にいっても、戦術が、大衆諸集団の競合が生みだす客観的な諸力の関係を、なによりも与件とすることは明白である。戦術概念が生れてくる母胎ともいうべき、一つのプリミティブな場面をみてみよう。つまり古来、党というものが、大衆の革命を「自然力」――「突然の雷撃」――にたとえ、これにたいして自らを「自然力の制御者」になぞらえることを、いかに好んできたかを、ここにおもいだしてみるとよい。たとえば――
 
真の革命の人民とは、その途上においてすべてを破壊し、根絶する、つねに気ままに、無意識的に行動する嵐のような自然力(スチヒーヤ)である。
意識ある少数派はもっぱらそれに意味ある、理性的な性格を付与することに努力し、ある目的に向かって導き、その粗野な感情的基礎を思想的原理に具象化するのである。(15)
 
 レーニンがこの発言の系譜上に位置したことは、歴史的かつ思想的な事実だが、いまは、「無意識的行動」と「意識ある少数派」の対立のことは主題ではない。「自然力」にたいして「理性的な性格を付与し」これを「目的に導く」のだと、この発言はいっているが、これこそまさに「近代技術者」の主張であることに私は注目するのである。してみれば、この「意識ある少数派」が現実に自然力を「目的にむかって導く」ことができるためには、自然力自体が「ある客観的法則性」を開示することが、不可欠の前提とならねばならない。この法則性を「知りうる」ということが、彼の目的実現を媒介しなければ、彼は無力な夢想家として「裸の自然」のまえに立ちつくすしかないのだ。*
*私の「レーニン――玄人の読み方」(『現代の眼』一九七四年四月号)参照
 私は、別に比喩の濫費をしているのではない。史上党的集団が、いかに自らを「工作音」や「教師」になぞらえてきたかをくりかえし考えるとよい。こうしたことは根拠なき比喩ではない。私はさきに党の戦術を、私の政治的形成にたぃする「対象的実践」だと書いたが、戦術は厳密な意味で「技術的実践」(武谷三男)なのである。
 戦術をとおしてこの私に現象してくる党が私と実践的関係を結びうるためには、「この私」とは誰か――、本節一と二はこうした問いを扱っていたが、いまや一転して、「この党」とは誰かと問われているのである。すなわち「工作者」、「革命の技術者」たる党の働きは、この私の政治的経験の弁証法が現実に展開され、理論的にも知りうるようになることを逆に前提とし根拠としているのだ。大衆の革命過程がある客観性や法則性を開示することがなければ、これを対象とする工作者の集団が可能となるはずがないからだ。両者の関係が対象的実践の関係となりうるためには、大衆反乱がたんに暴動の次元にとどまっていてはならないと、これまで再三いわれてきたのも、このためである。政治における客観的なものを一斉に噴出させるに到るまでたどられてきた、私の政治的経験史こそ、まさに期せずして、党集団の可能根拠を用意する。すでに大衆的諸集団のレベルで政治力学の地平の形成が経験され(第四章)、おもしろくもない言い方だが、トロツキーはこれを「革命は客観的法則性をもつ」と「定式化」したのだった。
 こうして、政治の経験史がますます深いレベルで政治の客観性を析出する過程は、まさに党という客観性の工作者の射程が、革命にたいして深度を増すことに対応する。私の政治的経験が自ら生みだす客観的なものの宿命は、その極北で党という集団を発見するのだといってもよい。のちにふれるが、工作者としての党のスタイルは、この宿命をひきうけようとする者が強制される相貌なのである。
 けれども、くりかえすまでもなく、革命過程は政治力学の展開に「つきる」ものではない。だからいいかえれば、ただ党の戦術だけが、この過程をあらわに力学として経験するのである。大衆諸集団の展開が析出する客観的なものを、党が意識的にひきうけるものだといってもよい。
 革命過程における複数の党の存在ということも、かくして、別な側面から光を当てられるようになる。すなわち、大衆諸集団の展開する政治力学のレベルに転移されるのである。本来各々の戦術の実現をめざしてしのぎをけずるはずの各党が、この政治力学のレベルで「他党派」に結着をつけようとするのだ。反対派の物理的・組織的抹殺のことはとりあげるまでもない。党の働きは、もっぱら諸党の力学的相関過程(力関係)の一要素として、位置づけられ、評価され、そして決済されるべきものとみなされるようになる。
 このような政治力学の地平は、大衆の政治的経験史からの二重の逸脱を意味している。革命内部の大衆諸集団相互の生きた――抗争あるいは連携の――関係は、一方ではまさに「党派間」の関係として「客観的」に表現される。いつの反乱でもくりかえされる「党派の主導権争い」という大衆の非難をおもいだすまでもないであろう。さらに他方、大衆の革命過程にたいする党の実践的関係も、党派間の力学的関係へと疎外される。これば、端的に、本来の戦術の否定である。
 もともと、戦術としての党の定義には、この党の「力量」いかんは何も含まれていなかった。党の戦術がまっとうなのものであり、したがって革命過程に実現されるかどうかは、この党組織が強大であるか一にぎりの勢力であるかには本来なんの関係もないのである。別に、私が勝手に戦術をそのように「定義」したせいではない。もし戦術の定義が党の力量に依存するのなら、一にぎりの勢力から出発するしかないレーニンのような過激な革命派が、どうして戦術を行使できよう。あるいは、もとをただせば、従来の巨大な権力をまえにして、私の集団がどうして勝利していくことができよう。
 ところが、戦術の本性が諸党の力関係へ疎外されるとき、党の戦術は党自らが実現するものとなり、したがってまさにその党の力いかんに依存することとなる。「力あるもの」のみが、その「正当性」を主張しうるようになるのだ。こうなれば革命過程、とりわけ諸党間の政治力学の地平は独断的に正当化され、本来政治における客観的なものの宿命に促されてきた党の戦術は、かえって客観性の名による主観主義へ転落していく。
 こうしたことは、いわゆる「現実政治」のシニシズムとして、よく知られていることだといってよいし、だから私の記述は、このレベルの政治を直接扱うことはしないと再三ことわってきたとおりである。しかし、ひるがえるまでもなく、政治力学も現実政治も、党というものの戦術行使の疎外態であって、それゆえに根拠のない作為なのではない。してみれば、逆に、レーニンのいう戦術は、見かけほど自明のものではまったくなく、まさに大衆の革命過程と同様に、一つの危うい運動なのだと得心される。だからまた、このような戦術の使い手としての党というものには、党が戦術の本性に欺瞞なく直面しているかぎり、革命過程の危うい力の衝迫がまともに集中することになる。
 戦術を通じて現象してくるかぎりでの党の姿が、さしあたって経験されたいま、次には、この党そのものの内部に、革命の衝迫力が何をもたらしているかを、つぶさにみることに移ろう。
 
 
第三節 固有の党
 
 
一 党は形成されるものではなく私の反乱の以前にすでに存在する
 
 さて以上のようにして、戦術を通じた大衆集団との出会いと相関のなかで、私にとって最初に党――革命過程での党――が経験された。そして、ペトログラード駅頭で両者が出会って以降、ロシアの一連の出来事が示したように、党は反乱大衆に出会い、これと関係を結ぶことによって、かえってこの両者が本来的に「別種のもの」であることを暴露するのであった。くりかえすけれども、これは、いつも「突然の雷撃」として革命を喰らう党が、事実上大衆的経験の外にあることを指すのではなく、後者に対比するかぎりでの党的経験の独自性を物語っているのである。
 それゆえ、党=レーニンにとっては、駅頭での革命との気まずい出会いは、けっして意外のことでも偶然のことでもなかっただろう――文字どおり「レーニンはこんなことの扱い方はすっかり心得ているように思われた」のだった。それというのも、この出会いに先だつ十年以上も前から、反乱大衆にたいする党組織の独自性をくりかえし強調し、そのようなものとして自分の党を形成しようと苦心してきたのは、ほかならぬレーニンだったからだ。彼の党組織論は、まさにあけすけに、党組織の独自性を内外に公表することをもってきわだっていた。すでにみたように、戦術の現実的場面での彼の同様な率直さも、彼の年来の組織思想の帰結にほかならなかったのだ。
 けれども私は、反乱の経験のうちではじめて、党という政治形態を発見するにいたったのだから、むろんかような「党の歴史」は知るよしもない。なぜなら、私自身はあくまでいま・ここにおける経験の連鎖として、私の反乱と政治的私とを形成してきたにすぎないのであり、これにくらべるなら、党はつねに反乱にとってすでに在る存在だからだ。そこでいましばらくのあいだ、この私の経験とは本来関係のない党の「前史」をふりかえり、反乱現場での私にとっての――したがって党自身にとっての――党的経験の独自性を、より徹底して理解することにしよう。いいかえれば、戦術の場ですでにその一端が露呈された党と反乱の関係ではなく、党組織という集団内面での政治的経験をたどっていくことにしよう。(「党形成」を促す現場の一例は、第五章の自由党の運命にみられる。)
 党、たとえばレーニンの党にとって、その「歴史」というべきものが始まるのは、今世紀の変り目の頃のことだった。その後ロシア革命で「革命的民主主義派」と総称される者たちの大部分を包含したロシアの党――「社会民主労働党」――の創立されたのは一八九八年だが、実質的な創立大会といわれるのは、一九○三年の第二回大会であった。しかし、この党の誰もが原則として容認していたマルクス主義の脈絡からいえば、レーニンの党の歴史も、マルクス以来の「プロレタリア党」の伝統の上にあったことはいうまでもない。近代では、いかなる党も、このような広い意味での党の歴史から自由であることはできないであろう。
 もちろん、党といえども政治の集団であり、もとをただせば反乱の一集団として形成されたものだった。私が前章までに記述した集団論は、すべて党的集団の形成についても成り立っている。けれども、一つの党組織の形成は、当然その時代と社会ごとに異なる具体的形態をとるとしても、この党は世界的にみれば、意識すると否とにかかわらず、一定の政治党派の伝統上に位置することが明らかとなるであろう。レーニンの党が「プロレタリア党」の伝統のうえに形成されたように、その後のいかなる「革命党」も、マルクス・レーニンの党の経験から完全に自由であることはできない。また、あらゆる革命にたいする保守的反動は、すべて「ブルジョアジー」の党や政権とみなされるというようにだ。あるいはまた、ある党がどのように普遍的な「国民政党」と自称しようと、ブルジョア革命、改良派社会主義あるいは民族主義的反革命のいずれであるかは別としても、ここにもまた他党派にたいして自らの政治性を隠蔽しようとする、ありふれた政治性が露呈されることになるのだ。
 要するに、ある一つの党は、近代の政治的経験の全史を特定の仕方で蓄積したものとして存在する以外にはない。ちょうど前章では、私の政治的経験がその一定の段階で、私の集団の「階級的」性格をおもいもかけず発見したのだが、このような発見が歴史的に蓄積されることによって、いまでは政治世界はどこであろうと、「プロレタリア党」「ブルジョアジーの党」等々の大まかな(階級的)分類を、党に強制せずにはいないのである。私の集団の経験史が、とりわけその制度化のレベルで、諸党の介入と実際上は混淆して現われる以外にないのもこのためである。そしてまた、党が私の集団とは異なり、一つの反乱のうちで形成されるものではなく、事実上はいつも、その反乱がおもいもかけず出会い、発見すべきものとして、「すでに在る」のだといわれたのも、以上の事柄をさしている。
 ところでレーニンがはじめて党を組織する時期は、ロシアにおいて、労働者を中心とした新しい大衆運動が高揚しはじめる時期に重なっていた。この意味でも、社会民主労働党は、ロシアではじめての「プロレタリア党」であった。けれどもすでにこの時期に、レーニンは、高揚しつつある大衆運動にともないこのうちから党が形成されるものだとは考えない。西ヨーロッパの「プロレタリア党」の伝統と歴史にのっとって、党はときの大衆運動にとって「すでに在る」べき何かなのだ、とレーニンは主張する。新しい運動と新しい党の創世期に、「何からはじめるべきか」という問いへの答は、彼にとっては明瞭であった――
 
もしわれわれが強固な革命家の組織をしっかりと打ちたてることからはじめるなら、運動全体に確固さを保証し、社会民主主義的な目的をも、本来の組合主義的な目的をも、そのどちらをも実現することができるであろう。(16)
 
 もちろん、これは、革命家がとりかかるべき手順を主張しているのではない。この党組織――革命家の組織――は、まさに勃興しつつある広範な大衆的諸組織とは「別種のもの」たることが、同じくレーニンによって明白に強調されているのである。次のような彼の主張を、「経済闘争」という、その後紋切り型に理解されるようになった言葉にとらわれずに読むならば、ロシア革命における党的経験の独自性は、すでにここに充分に予感されていたことがわかるであろう。
 
革命的社会民主党の組織は、どうしても経済闘争のための労働者の組織とは別種のものでなければならない。(17)
 
 レーニンのこの悪名高い組織思想——「何をなすべきか」(一九〇二年)——は、これまでに正当に読まれてきたであろうか。いつもひとは、これを反乱の経験史の文脈に置くことを忘れている。こうはいってもしかし、ときの「ロシア的現実」の産物としてこの組織論を理解せよ、というのではまったくない。レーニンの歴史的な相対化は、逆に、この組織思想を手引書として読む立場と同様に、党において何が経験されるのかという問いに役立たない。
 もちろん、レーニンがその党組織論を、なによりも大衆的闘争と大衆的組織からの区別という文脈で論じたことを、ひとは知らないのではない。しかしこの対比は、例の「社会主義的意識性」にたいする大衆の「自然発生性」という対立構図のうちで、すっかりめちゃくちゃにされてしまったのが実情である。その結果、『何をなすべきか』のもう一つの柱である「社会主義的意識の外部注入論」のうちに、レーニンの組織思想そのものが解消されてしまうのだ。「外部注入論」などは――のちにふれることだが――実際はなにほどのこともない啓蒙主義的組織論・前衛党論にすぎない。
 これにくらべるならば、党組織を革命過程での他の集団から、厳しく「分離」し「限定」しようとする努力こそが、レーニンの組織思想の核だと私は思う。この思想には、のちの「前衛党」にまつわるニュアンスとはまったく異なり、「地の民」にたいするかの「パリサイ人」の啓蒙主義や倫理主義の発想は本来何もないのだ。党が党であるゆえに、大衆組織とは「別種のもの」なのではない。ちょうど、私が「党」を嫌う「大衆主義者」だから、私の政治的経験史を展開してきたのではないのと同様である。
 それゆえ、党が大衆組織とは「別種のもの」というのも、本当はこの私とは別種のものだという主張を意味している。逆に、政治的遍歴途上のこの私は、私にとって「別種のもの」としての党に出会うのだ。党は、「社会主義的意識性」をもつから独自なのではない。これまでに記述されてきた大衆集団の経験史こそ、これに対比したかぎりでの党の独自性を意味づけるのだ。
 
 
二 党とは私の政治的経験史にたいする「組織された不信」である
 
 だがそれにしても、党は、私の政治的形成史に対比して自らをどのように「別種のもの」だと考えるのか。ふたたびレーニンの党にもどれば、『何をなすべきか』は要約して次のようにいっている。
 
そこで私はこう主張する。(一)確固たる、継承性をもった指導者の組織がないなら、どんな革命運動も恒久的なものとはなりえない。(二)自然発生的に闘争に引きいれられて、運動の土台を構成し、運動に参加してくる大衆が広範になればなるほど、こういう組織の必要はいよいよ緊急となり、またこの組織はいよいよ恒久的でなければならない(なぜなら、そのときにはあらゆる種類のデマゴーグが大衆の未熟な層をまどわすことがいよいよ容易になるからである)。(三)この組織は、職業的に革命活動にしたがう人々から主としてなりたたなければならない。(四)専制国では、職業的に革命活動にしたがい、政治警察と闘争する技術について職業的訓練をうけた人々だけを参加させるようにして、この組織の範囲を狭くすればするほど、この組織を「とらえつくす」ことは、ますます困難になり、また、(五)労働者階級の出身であると、その他の社会階級の出身であるとを問わず、運動に参加し、そのなかで積極的に活動できる人々の範囲が、ますます広くなるであろう。(18)
 
 「自然発生的に闘争に引きいれられる」広範な大衆に対比して、そのかぎりで、党組織の「必要性」が強調されていることは、一見して明らかである。自然発生的に「政治に突入してくる」大衆の存在は、すでにこの段階で、党にとっての与件とみなされている。彼らの運動が驚嘆すべきエネルギーと破壊力を発揮することは、ロシアの党の伝統にとっても自明であった。しかし同時に、この大衆は、「あらゆる種類のデマゴーグが大衆の未熟な層をまどわす」ような大衆として、党に特有な不信の目でみつめられてもいるのである。
 それゆえ、まずなによりもこのような大衆(運動)への不信感が、「確固たる、継承性をもった指導者の組織」の必要性を党に主張させる。「二度と革命など起さぬがよい」と、かつてブランキは大衆を呪ったけれども、同じ政治主義者の系譜が、ここレーニンの党にもはっきりと顔をだしている。その後、いわゆる「自然発生性と目的意識性」の対比として、人口に膾炙するようになったのがこれである。(「俗衆」の自然発生性にたいする不信については、私の『結社と技術』を参照)
 たしかに、こうした大衆観は、レーニンにあっても、たんにけっして「もっとも小ブルジョア的な国」ロシアに特有のことではなく、もっと一般的な観点だったということができる。だが、紋切り型の「自然発生性と目的意識性」の区別などから党の独自性をとらえることは、いまはまったく問題にならない。なぜなら、「俗衆」たる私が反乱の「政治に突入して」きたのは、この私にとって、政治的経験へのたんに出発点にすぎなかったのだ。いまや私は、ソヴェト(大衆権力)の形をとって激しく自らを展開しつつある集団なのだ。
 それでは、大衆の政治的形成史を前提にしたとき、大衆の「自然発生性」は消え、したがって党の意識性も解消されるのか。しかし実はまったく逆に、大衆の政治的形成を与件として、これに戦術を行使するものとしての党こそが、その固有の組織性格を必要とされる。もう一度、レーニンの主張にもどってみよう。――「この組織」は、訓練をうけた職業的革命家からなり、そのメンバーの範囲をできるだけ「狭く」しなければならないという、悪名高いレーニンの「職業革命家集団」である。
 もとより、このような党組織の「必要性」は、直接には政治警察がこれを「とらえつくす」ことにたいする自己防衛として強調されている。だが、「防衛」の必要性はたんに警察にたいしてあるのではない。まさに、広範な大衆の決起を背景にした「非プロレタリア的分子の大量の〔党への〕流入」をも、党組織は防止せねばならない。組織成員の範囲を「狭くすればするほど」よいというのも、この意味での党の「純化」の主張だといってよい。それゆえ、これは党組織を労働者階級で構成せよなどということではなく、まさに――どの階級の出身であろうと――「職業革命家」に門戸を限定しようとするのだ。実際、一九○三年の党大会では、論争の勢いもあって、党組織の狭さということは、極端な一般的命題にまで定式化された。すなわち、「どのストライキ参加者」にまで党員資格を拡大しようとする反対派にたいして、レーニンは次のようにさえ主張したのだった。――
 
労働者階級全体(もしくはほとんど全体)は、党組織の「統制と指導のもとに」活動しこそすれ、その全体が「党」に所属するのではなく、また所属してもならない。(19)
 
 原理的には「労働者階級全体」の所属をめざす(「党勢拡大」!)、今日の日常的な「労働者階級の党」と対比するとき、このようなレーニンの党が、根本的に発想を異にしていることは明らかである。のちのレーニンの戦術――「大衆とともにあろうとしてはならない」という彼の呼びかけが、すでにこの断定のうちに聞きとれる。
 大衆の「自然発生性」ということも、後世誤解されたように、大衆の闘争が党の意識性にたいして「遅れている」とか、経済主義・改良主義にすぎないとかいうことではまったくない。事実、「科学的社会主義の意識性」をもとうがもつまいが、大衆の自然発生的行動が党を「乗り越えて」さきに進むことなどは、むしろ革命運動そのものの常道だといってよい。まして、いま私の政治集団がまさに革命の内的矛盾に駆動されているのであれば、次の瞬間に、私はそれこそ「極左主義的盲動」に走るかもしれないのだ。これは、私が逆に、改良主義に乗り移って革命過程から脱落する可能性と、まったく等価なことなのである。「あらゆる種類のデマゴーグが大衆の未熟な層をまどわす」とレーニンがいうのも、改良主義とは反対に、大衆が「暴発する」危険のほうをむしろ指しているのだと了解すべきなのだ。だから、もしもこのような「左右」に逸脱する私が、党の一員でもあったとしたら、私は端的に党の分裂――警察によるのではない党の解体――の危機をもたらす。あるいは私が党員ではないとしても、大衆たる私の志向を党(員)が直接に「反映」したならば、事態は同様だ。*
*レーニンとローザ・ルクセンブルクの間で交わされた党組織論の論争は、この点でまったく象徴的な事件だった。私の『結社と技術』を参照のこと。
 こうして結局、永続する革命過程を駆けぬけていく大衆の諸集団にたいして、それこそ「別種のもの」としてかかわる党には、この過程が展開する矛盾がまさに集中して反映されることになる。だから、革命自体の弁証法の全過程と相関しつつ、この過程に「何かをおしえこみ」「われわれの刻印をおす」べき党は、大衆集団のごとく、自らを発見的に形成していくものであっては断じてならない。でなければ、党は大衆の渦のうちに「埋没」したり、大衆集団の一つとして動転をくりかえすしかないのであり、要するに党は党でなくなってしまう。
 もしもたんに、自然発生的大衆の政治的雑多性にたいして党を「純化」することが必要なのであれば、それは「政治的意識性」や「高度の理論性」によっても可能である。ひとがレーニンの「外部注入論」によると称して、党の「意識性」を強調するように、だ。だがいまは、党が大衆を「代表」したり、大衆に「啓蒙・宣伝」をくりかえしてすませるようなときではない。とりわけ、反乱における大衆的諸集団の政治的分解・対立は、いまや固有の諸党間の死闘として表現されているのであり、革命過程は、反革命の党をも含めたこれらの諸党間の死闘に結着をつけずにはおかないであろう。反乱内面の矛盾は、ソヴェトにおいてそうだったように、「敵の弾圧」のみならず、当の「革命的民主主義派」に属する諸党の対立・抗争として端的に外化されるのである。それゆえ、党という存在がこの激烈な純政治的対立に耐えぬき、戦術の一貫性を貫徹すべきものならば、党は大衆集団の遍歴の終った地点から、逆に反乱へと出かけていかねばならない。党が(階級的政党)として歴史的に「すでに在る」ものだとさきにいわれたことが、ここにも想起されるであろう。
従来党が、理論的にも実践的にもその内面を「純化」することにあれほど腐心してきたのも、大衆集団の――したがって革命の――「過程的」(形成史的)性格と対比して、はじめてその意味がみえてくる。党の「純化」は、「高度の理論的一致」だとか「宗派的団結」だとか――要するに党自体の志向としてもたらされるものではけっしてないのである。幾度もいうように、「大衆の革命」――大衆が自らを革命する過程――にたいするものとしてしか、およそ党などはありえない。
 それゆえ、党の「純化」とは、まさに党が大衆とは本来「別種のもの」だというレーニンの組織思想の端的な表現なのである。革命の過程が広範かつ激烈なものであればあるほど、党組織はより「狭い」ものでなければならぬとされ、また党員が「職業革命家」として限定されるのも、こうした意味をもっている。十九世紀の永続革命で、「プロレタリア党」はつねに「少数者」とされたけれども、これをたんなる人数(量)のことでなく解釈すれば、党はその組織性格上、「労働者階級全体」にたいして少数者の共同性だといいうるであろう。
 すでにふれたように、一九○三年のレーニンの党組織論は、党が「さまざまな不満分子の避難所」となることを防止する必要を強調している。党規約第一条をめぐる第二回大会の論争でも、トロツキーにたいしてこう主張された――
 
肝心なことは、〔規約の〕条項の助けによって、日和見主義に対抗する多少とも鋭い武器をきたえあげる点にある。日和見主義の原因が深ければ深いほど、この武器はいっそう鋭くなければならない。(20)
 
 レーニンの党規約は、まさにこの組織をできるだけ「狭く」するものだったのであり、彼はこうして党を、文字どおり「遅れた部隊にたいする先進部隊の〝組織された不信〟」としてつくりあげようとした。したがって、一九○二年にレーニンが「何からはじめるべきか」と問い、党の骨格の組織化党からはじめるべきだと答えたとき、まず大衆運動(の組織)からはじめるべきだと主張する反対派の、「党組織の自然発生論」にたいする、明瞭な拒否が表明されていたのである。
 
 
三 党内闘争――「組織された不信」は党の中心部にもむけられる
 
 さて、以上のように、党創立期のレーニンの組織思想は、時の専制ロシアの事情にたいする対応策にとどまらず、はるかに遠く大衆の革命過程の本性を直観していたのだと了解することができる。ここで「大衆」とは、意識の低い遅れた俗衆の自然発生性ということだけではなかった。むしろ本当に重要なことは、大衆の革命過程――つまり革命が、本来ジグザグな試行錯誤による自己形成であり、それこそ「火傷してとびのくことで火の扱い方を学ぶ」ものでしかないという認識である。だからこそ、歴史的にいえば、革命の終った地点から新たな革命にでかけていき、これに戦術の一貫性を刻印しようとする党は、革命の大衆集団とははじめから「別種のもの」でなければならないのだと、レーニンは直観する。だから、そこには「当為」や「知的エリート主義」は本来何もない。逆に強く感じられるのは、大衆の革命という「自然の猛威」をかぶることにたいする恐怖の念であり、自己防衛の発想である。革命が実際にはジグザグな自己形成でしかありえないという現実認識が、革命への「不信」を党に組織させるのだといってもよいが、しかしこの「不信」には、道徳的あるいは知的な――すなわち「人間的な」――不信感というニュアンスは、本来何もないのである。
 こうした事情を端的に暴露するものこそ、逆説的にも、革命に出くわした党の内部に発生する党内闘争である。大衆の革命過程から幾重にも自己を区別し、「少数者」たることをいとわず「純化」された党が、革命に先だって意識的に用意されたにもかかわらず、かかる党ですら、「革命の党」であるかぎり、その心臓部で幾度も分裂と党内闘争がくりかえされるのを避けることができない。これこそ、党の「純化」が、本来自らの志向に由来するのではなく、根本的にこの私の革命から強制されるものであることを物語っているのである。
 事実、レーニンがその党を組織する過程が、そもそも党内闘争を意味していた。「党派闘争こそが、党に力と生命を与える。党があいまい模糊としており、はっきりした相違点がぼやけていることは、その党の弱さの最大の証拠である。党は、自身を純化することによってつよくなる。」――レーニンは『何をなすべきか』の扉に、このラッサールの言葉(マルクスあての手紙、一八五二年)を引いているけれども、彼が生涯解放されることのなかった党内闘争は、この時期、まだほんの始まったばかりであった。
 いま話を十月革命の八カ月間に限ってみても、革命の重要な転換点ごとに、ボリシェヴィキ党の中心部は、かならずといっていいほど党内闘争を経験している。臨時政府にたいする態度の問題(四月)、コルニロフ反乱後の「民主主義会議」あるいは「予備議会」にたいする態度(九月)、武装蜂起の決定をめぐって(九~十月)、他党派との連立政権問題(十一月)、などがめぼしいものだが、いずれも党あるいは革命の死活問題に関して党内闘争が発生している。
 これら党内闘争が、すべて「敵権力」との対立を直接的契機とするのではなく、当の「革命的民主主義派」=ソヴェト内部の対立をめぐって生起したことは、いまあげた諸事件を一見しただけで明らかであろう(「武装蜂起」問題についてはやや特殊だが、これについては後述する)。ここにも、大衆諸集団の分化・対立と、その外化としての味方の諸党派の抗争こそが党にとって与件であり、党内闘争は端的に、味方の分裂の再内面化を意味していることがはっきりと読みとれるのである。
 革命の数ヵ月に発生したボリシェヴィキ党の党内闘争の構図が、ほとんどいつも、レーニン対カーメネフ―ジノヴィエフの対立としてくりかえされた事実は、特徴的なことであった。まるでそう定まっているみたいに、いつもこの二人がレーニンに反対して登場し、よく知られているように、十月蜂起の大詰では二人は党外に反対論を公開し、レーニンは彼らの即時除名を提案するというところまでいった。こうした事実をみるとき、ボリシェヴィキ党の「純化」された中央部の二人、カーメネフ―ジノヴィエフのキャラクターは注目に値する。ことに二人は最初からのレーニン派であり、党内になにか「カーメネフ―ジノヴィエフ派」のごとき反対派フラクこの時期にあったとはみえないのだから、この二人の個性にくりかえし宿る革命の負の力は、象徴的に思えるのだ。
 
卓越した宣伝家であり、雄弁家であり、ジャーナリストであり、才気煥発ではなかったが慎重であったカーメネフは、他党との交渉とか、他の社会の偵察とかには、とくに貴重な人物であった――もっともこうした他所行きをするごとに、彼はいつも党とは無縁なる雰囲気を多少とももちかえったことは事実である。(21)
 
ジノヴィエフは煽動家であり、レーニンの言葉を引用すれば「煽動家以外の何者でもなかった。」内的訓練を欠いている彼の精神は、理論的活動は完全に不可能であり、彼の思想は煽動家の混沌たる直観に堕してしまう。異常に鋭敏な嗅覚のおかげで、一般の空気から彼に必要などんな公式をも――すなわち、大衆にたいしてもっとも有効な影響を与えられるものを――嗅ぎつける。ジノヴィエフは、煽動にかけては他のいかなるボルシェヴィキよりもはるかに大胆放恣であるが、革命的イニシアチブにたいしては、カーメネフ以上に無力である。フラクション的論議の領域から直接大衆闘争の領域に移ったジノヴィエフは、ほとんど無意識的に彼の師から分離したのである。(22)
 
 私がここに二人のキャラクターのことに注意したのも、いうまでもなく、党内闘争を人格的な権力争いに還元するためではない。まったく逆に、いつも人格的表現をとってあらわれるしかない党内闘争が、まさに革命内部の政治的・組織的抗争の端的な内面化であることを示すためにほかならない。いまあげたカーメネフ―ジノヴィエフの性格描写には、明らかに多少の悪意がこめられている。けれども、この「二人」が、党外の諸力が党に強いる緊張にことに鋭敏に反応するキャラクター――だからまた党に不可欠の人材――であったことははっきりしている。「他党派」との折衝役としてのカーメネフ、大衆の直接的闘争の気分に誰よりも鋭敏なアジテーター――「ボリシェヴィキ最大のデマゴーグ」――ジノヴィエフ。したがってこの「二人」こそ、いつも「党とは無縁な他所の雰囲気」「大衆闘争の領域の空気」を、党の「フラクション的論議の領域」にもちこんできた。このようにして、彼らは「無意識的に彼の師――すなわち党というもの――から分離した」のだった。
レーニンも「党の人」たる二人が革命の現場にでかけるたびに、あたかも「党」の顔を忘れてきたみたいに、今度は「革命」の顔つきをしてもどってくるのに気づいたであろう。だからこそ、彼ら党内反対派は、人格的または理論的相異として、どうでもいい存在どころではなかったのだ。そのつどレーニンが全力を傾けて対決せざるをえなかったのも、まさに彼らの顔にはりついてもどってきた「革命」というものだったのだから。
こうして、革命にとってすでに与えられたものとして「純化」された党――この党についてすら、「革命はその息子を喰いつくして前進する」ということが起るのだ。だからこそ、固有の党の「組織された不信」は、ほかならぬ党それ自体にたいしてもむけられねばならないものとなる。レーニンは党内の決定的反対派を次のように呪っているけれども、たしかに、将来の反対派が最初から「別の党」をつくってくれるものなら、どんなにか気のおけないことであろう!
 
ジノヴィエフ、カーメネフの諸君は、何十人かの途方にくれた連中やら、憲法制定議会の議員候補たちといっしょに、自分たちの党をつくるがよい。(23)
 
 のちになって、ひとはレーニンの党に「党内民主主義」が保証されていた証拠として、気軽にボリシェヴィキの党内闘争をひきあいにだす。たしかに今様にいえば、「分派の自由」を公然と掲げているか否かが、党の称する「党内民主主義」が本当かどうかを判断する基準だといってよい。だが、革命渦中のレーニンの党は、まだ「一枚岩の党」の内的荒廃を本当のところ知らなかった。だからむろん、「党内民主主義」が保証されていたがゆえにボリシェヴィキの党内闘争がくりかえされたのではない。党の内部がどうあろうと、革命過程の動揺を「反映」するというただ一点で、党内の動揺もまた、革命そのものに根拠をもっていた。できることなら、こんな「党内民主主義」など一刀両断したいおもいに、レーニンはかられたにちがいない。だが逆説的ながら、革命の動揺を戦術を通じて「反映」しないような党が、そもそも党といえないことも、彼にはよくわかっていたであろう。
 さて以上のような意味で固有の党は自らの組織性格を――「敵」の諸集団は別として――大衆の反乱諸集団にたいして三重に区別し限定する。すなわち、第一に反乱する大衆(「俗衆」)から、第二に大衆集団の政治的経験史から、そして最後に革命過程での集団力学の内面化として生起する党内闘争から、党は自己の組織を区別し防衛しようとするのである。そして、くりかえし注意するように、この「別種なもの」の組織性格の独自性は、なにか先験的な「党の立場」――党それ自体――にもとづくのではない。いやまったく逆に、党が大衆の革命過程へ意識的戦術としてかかわるとき、そのかぎりで、革命過程が――歴史的に――党に強制する経験の独自性なのだ。
 一見するところでは、荒だつ大衆が登場する革命の場面でこそ、こうした党組織の自己限定は捨てられるべきであり、まさに私の記述は、大衆が反乱へ登場して以降の事実に終始かかわっているのであれば、党経験の独自性はむしろ大衆蜂起を欠く時期の独自性にすぎない、といわれるかも知れない。けれども、レーニンの党を素材とした以上の記述は、党組織の独自の位置を、ただ革命過程のうちでだけ確保しようとしてきた。ルカーチがレーニンの党について述べた次の言葉もまた、「狭い」党の逆説を革命過程においてのみ承認している。「もし、メンシェヴィキがその歴史的見通しにおいて正しく、われわれが繁栄と民主主義の漸次的な拡大と安定した時代を迎えるのだとしたら、職業革命家の集団は必然的にセクト的なものにこり固まるか、あるいはたんに宣伝サークルにならざるをえなかったであろう。」(『レーニン』)
 また、ここで次の事実、すなわち、レーニンとローザ・ルクセンブルクとの対立のことを想起するのも、事態の把握に役立つであろう。同じく「革命の切迫性」という時代認識を共有し、党への「非プロレタリア的諸分子の大量の流入」という現象を、この時期のメルクマールとしてともに確認しながら、しかも党の組織性格の把握は両者で極端に二分したのだった。一方では、党が「さまざまの不満分子の避難所となり、現実に、支配ブルジョアジーの極少数者に対立する人民の党になる」(ローザ・ルクセンブルク)ことが、むしろ積極的に評価された。だが、他方でレーニンは、党への「さまざまな不満分子」の流入を防ぐ手だてを強調するだけでなく、はるかに、かかる「人民の党」の原理的否認にまでいきついたのだった。こうした対立が、論争の場の奥底で何を意味していたかは、やがて全面的に露呈されることになるであろう(本章第五節)。
 
 
四 私党――「ここに革命はない」からこそ党は革命へと促される
 
 しかしそれでは、このように幾重にも大衆の政治的経験から身を引き離そうとする党――この「パリサイ人」の集団――とはそもそも何者なのか。
 党という集団の共同性が、大衆の共同体にたいして幾重にも自己を閉ざすものであってみれば、当然のことながら、この集団の内的生活は「外部」の生活から切りはなされていく。とりわけ革命過程では、大衆集団はますます深く革命の「新しい生活」を組織化していき、また集団内外のコミュニケーションもますます強く公的で開かれた性格を帯びていくのだった。それゆえ、大衆権力のこうした公的な力と対比するとき、党組織それ自体は逆に、一層「私的」で「主観的」な存在性格をあらわにするのだといわねばならない。この意味で、党は本来的に私党なのである。
 
レーニンが鉛筆の先を噛み、四角にけいの引いてある子供の雑記帳からさいた一枚の紙切れに書いた決議文は、構文的におそろしく均斉を欠いたものであったが、それにもかかわらず反乱へのコースに確固たる支持を与えた。(24)
 
これは、ボリシェヴィキ党中央委員会が、国家権力奪取の武装蜂起を決議した、有名な会議――露歴十月十日――のひとこまである。ただ、私がこの一場面で注目するのは、武装蜂起のことではなく、もっとささいな事柄である。この会議は、その曰だけ借りた一私人のアパートの一室でおこなわれたのだが、レーニンは、ロシア革命の文字どおり死活を制する決議文を、たまたま部屋の片隅にあった子供の雑記帳の切れはしに鉛筆で書いたのだった。「会議の合間には、援兵として茶とパンとソーセージがでた。援兵は必要であった――かつてのツァーの帝国における権力奪取が問題だったからである」と、この場面の筆者は書いているが、まさに臨界点に達しつつあるロシアの革命を背景として、この日の会議は開かれたのだった。
けれども、この日の党会議が革命にとって重大なものであれば、それだけに、鉛筆を噛むレーニンの姿は、どうにも子供じみて非現実の幻のように思えるのだ。もしも背景を消し去ってしまえば、この場面は、暗い室内で一人の老人(?)が、気狂いじみた言葉をただちょっと紙切れに書いたというにすぎないであろう。「気狂いじみた」というのは比喩ではない――党の内外を問わず、レーニンの決意が文字どおりにこう受けとられたことは周知の事実である。
要するにこの場面の出来事は、革命の大衆的叫喚から遠い一室内の私事のように思われるのだが、党の存在は、それ自体ではこの場面が象徴するようなものではないか。一口に極言すれば、革命はここにはないのである。したがって、党の根拠が革命だとすれば、党はそれ自体のうちに存在の根拠をもってはいない――レーニンは、党組織を大衆にたいして「狭く」することに腐心してきたのだったが、しかしこの努力は、党の核心を私的なものとし、党の根拠を党内から追放する結果をもたらしたのだ!
当時、レーニンの党組織論にあびせられたさまざまの非難――閉鎖性、反民主主義、陰謀家組織そして家父長制等々――は、だからこの党にとって本来けっしていわれのない中傷ではなかったのである。レーニンは、こうした非難の一つ(党内民主主義の欠如)に反論していっている――
 
もっとも厳格な秘密活動、もっとも厳格な成員の選択、職業革命家の訓練……、これらの特質がそなわっているなら、「民主主義以上」のあるものが、すなわち革命家たちのあいだの完全な同志的信頼が、保証される。そして、この、より以上のあるものが、われわれにとって絶対に必要なものである。(25)
 
この有名なレーニンの言葉は、実際上は、「わがロシア」の専制から党を防衛するという文脈のうちでいわれている。しかし結局のところ、党の「反民主主義」的私性を正当化する根拠は、「同志的信頼――民主主義以上のあるもの」というように、一種苦しまぎれの「説明」が与えられているにすぎないのである。たしかに閉じた職業革命家の集団が「絶対に必要なもの」であることは、「わがロシア」の現実から帰納することはできよう。だが、この結果としての閉じた党内部の「同志的信頼」が、革命にとって美わしきもの――かの「将来社会の萌芽形態」――を意味するのかどうか、いまも昔もひとは誰も知らないのである。この美わしきものの存在を保証する根拠は、党集団内部の「あるもの」「同志的信頼」のうちにはなにもない。あると称する数多くの「前衛党論」は同義反復をしているにすぎない。
レーニンがいう党内の「完全な同志的信頼の保証」にしても、本当は、党の謳い文句とはわけがちがう。党は一つの革命にとって「すでに在る」存在だと、私はすでにくりかえしてきたが、同じことは「党の人間」についてもまったく同様にあてはまる。つまり、彼らはすでに歴史的に――体験としても知識としても――革命を経験してきたものたちであり、そのなかで党なるものの独自性を骨身にしみて知った人たちである。この体験が、かつて彼らに自分の党を形成させたのだといってもいい。だから、党がすでに在るということは、党的経験の共有を経て、自分たち相互に政治的作風の同一性と排他性を確認しえている者たちが、現に存在していることを意味している。逆にいえば、ただかかる者たちだけを一つの党に組織しようとするところに、レーニンのいう「完全な同志的信頼の保証」が成り立つのだ。「職業革命家」とはまさに彼らのことであって、政治でメシを食っているかどうかは、どうでもいいことなのである。――もっとも、「他所」で祿を得ていれば、この「下部構造」に規定されて、もはや「作風の同一性」が保証されなくなるということが起るけれども。
党組織のいう「同志的信頼」とは、以上のように、家族や伝統的共同体内部の人間的信頼関係とはわけがちがっている。「本当の意味の人間の信頼と繁りという夢」(三島由紀夫――次章参照)が、ここに実現されているかどうか、誰も知りはしない。信頼はただ各人の政治的スタイル(作風)への信頼であり、これこそ党の戦術の一貫性として、現に発動しているところのものなのだ。
 したがって逆にいえば、党内の信頼関係などは、その戦術の一貫性としてしか、この私には見えてこない。党の人間――彼――が本当は誰なのかすら、私にはわからない。いま公的に自己を形成している私に戦術を通じて同じく公的に現われてくる彼以外は、すべて党内の私事に属することなのである。
強くレーニンの名に結びつく「前衛党」の存在を含めて、およそ党なるものがそれ自体の根拠を欠き、本来的に「私党」であり「主観的なもの」だとことさらに強調することは、ひどく奇異のものに思えるかも知れない。しかしこの指摘は、もちろんのこと、党が革命過程と関係ない私的サークルや宗派的セクトであるといいたいのではない。むしろまったく逆だ。党組織の私性は、この集団の存在が本来的に他者に依存している対他存在であり、他者をおいてはおよそ党なるものは存在しないことを示すものなのである。ここで他者とは、いうまでもなく革命過程における大衆の政治的経験のことである。すでに戦術を通じた両者のかかわりが暴露していたように、党はこの他者に出会い、このうちに自己を実現する以外に、その私性を否定することができない。党が私党だということは、革命過程の大衆的ヘゲモニーヘとこの私性が転質されてはじめて、党が客観的に実現されうるということを意味している。
 逆にいえば、革命過程が党に強制した党の私性こそが、じつはこの党を大衆への能動的働きかけへと促すのだ。党が本来的に「主観的」存在であることによってかえって、自らを公的・客観的力として実現する実践がまさに主体的・意志的な努力としてしかありえなくなる。自己(私性)の否定として他者のうちにしか自己を実現しえぬという党の本性こそが、あらゆる「寝て待て」式の客観主義をこの党から剥奪し、文字どおりこの党を、革命の全過程を疾駆するものへとかりたてるのだ。
私はこれまで、党が私の政治的経験とかかわる場面をひとまず離れ、党という集団そのものの経験に視点をしぼってきた。しかし党組織の独自の経験を経たいま、かえって、党はこの私の政治的経験へとふたたびさしむけられることになった。
ひるがえってみれば、党組織がその私性のゆえに革命過程へと自己を投企するという、以上の構造は、まさに党の戦術的実践の重要性を、再度明るみにだすものにほかならない。党とこの私との戦術を通じた関係には、もともと両者が「別種のもの」であることが前提となっている、とさきにはいわれたのだが、どのように「別種」なのかをたずねる経験が、ふたたび両者の本来的な関係を露呈する。
これは別にどうどうめぐりではない。党組織からみたとき、党の戦術行使は、革命にとって私的な党が革命に自己を実現するさいの基本的な媒介である。レーニンは、党の戦術行使にあたって、「大衆とともにあろうと」望んではならないといったのだったが、大衆の「外」にある党のこの位置は、偶然のことでも事実上のことでもない、まさに党組織(戦術の主体)自体が、すでにこのような性格のものとして存在していたのだ。文字どおり「労働者階級の全体」が「所属してはならない」ような党は、逆にいえば、本来「外」から――すなわち戦術として――革命過程にかかわる以外にないのである。革命渦中のこの私は、党とのこうした戦術的関係の一端を前節で経験したのだったが、次節では再度この関係にもどっていくことになるであろう。
しかしそれにしてもなお、ひとは奇異に思うかもしれない。私の記述は、とくにレーニンの党に限定していないとはいえ、やはり党という集団を内的に根拠づけるのは、その政治思想や目的ではないのか、と。
けれども、党の政治思想やその掲げる目的――広い意味での「党綱領」――の性格についても、さきに党組織の「歴史」について指摘した事柄があてはまる。つまり、党組織が反乱の現場で形成されるものではなかったように、党の集団意志(綱領)も反乱にとっては「すでに在る」性格のものなのである。
くりかえすまでもなく、前章までの経験史の展開は、なによりも私たちの共同観念が集団意志に形成されていく過程だった。そこで私は、集団意志を媒介として、そのつどあたかも「新たなもののごとく」に私自身を発見するのである。たしかに党的集団といえども、かつて形成されたものである以上、集団形成にとっての共同意志の位置は、反乱の集団の場合と変るところはないであろう。大衆の集団が綱領をもつ――明文化されるか否かは別として――のと形式的にはまったく同様に、党には党の綱領があり、党員はこのもとに結集するのだといってもよい。
けれども、さきに党組織について述べたことにすでに含まれていたように、党綱領は反乱の現場で形成され発見される性質のものではない。反乱以前に、党はそれこそ「高度の意識性」をもって綱領を練りあげているというだけではなく、党の政治思想には、それまでの政治の全歴史が一定の仕方で蓄積され総括されているのである。史上、射程の長いすべての革命が展開し蓄積してきた、大衆の政治経験と新しい生活の試み――洋の東西を問わず、こうした政治思想の歴史――から党綱領は自由ではありえない。党はもともと私党だといわれたように、たしかに党とは根本的に一つの仮構なのだから、私たちはいまでは、革命史がどのように奇想天外な形の党的集団を出現させても、すこしもおどろくことはないであろう。しかし、どのような党であろうと、その政治思想が、根本的に政治世界の歴史の「外」にあることは、もはや――この「近代」では――ありえようもない。
このような意味で、党の政治思想は一つの反乱にとってすでに形成されたものとして存在する。それゆえ、大衆の形成する政治思想との相異点は、もともと思想内容の精粗の差にあるのではない。普通、党綱領は、大衆集団のそれより――いわんや大衆の「生活思想」よりは――知的水準が高いことをもって定義されているのだが、政治の経験史における両者の相異はそんなところにあるのではない。反乱のうちで大衆が懐胎する思想の射程が、党綱領を超えることは事実としていくらもあることであり、いわゆる「意識性」のレベルの差で党を大衆から区別するのは、いつもくだらない啓蒙主義によるのである。
けれども、党綱領の性格が、このように反乱にとって「別種のもの」として「すでにある」のであれば、この綱領もまた、本来党の私事に属するといわねばならないであろう。早い話が、党綱領は大衆のうちで実現されてはじめて政治的意味をもつのだ。レーニンではないが、思想は大衆をとらえたときに力となる。これにくらべるならば、反乱集団の政治思想は、まさに政治的経験の現場で形成されるのだから、形成された政治思想は文字どおりに政治的なものの範疇に属するのであり、集団としてすでに一つの力である。だが党綱領は、この意味では、もともと政治的経験の範疇には属さないのだ。この相異は、みかけほど小さなものではない。
レーニンの党の戦術は、いうまでもなく革命に「われわれの刻印をおす」こと――すなわち、党綱領の実現のために行使されたことだった。そして、ソヴェトにこの戦術を「もちこむ」やり方として、「ブランキ主義」ではなく「忍耐づよく、系統的に、根気よく、とくに大衆の実践的必要に適応したやり方で……説明すること」を、四月に彼は採用したのだった。一見するところでは、これは党の思想の宣伝・啓蒙のごとくにも思われよう。けれども、革命に「なにかを教えこむ」ことは、すでに幾度かふれたように、党の啓蒙活動とは根本的にちがう仕事である。「四月テーゼ」のいうところでは、「これは宣伝活動に『すぎない』ようにみえる。が、実際には、これはもっとも実践的な革命的活動である」、と。
この指摘が、彼の党の戦術行使に関していわれたことは特徴的なことだ。これは、たんに党にとっての「実践」の重要性を教訓しているのではない。党を実現へと媒介する戦術の位置が、ここにもはっきりと発言されているのである。いいかえれば、党活動の独自性にとっては、党綱領も戦術の言葉とスタイルに具体化されてはじめて、たんに理論に「すぎない」ものではなくなるのだ。党の理論は、レーニンのいう「戦術思想」として革命の場に投入されてはじめて、政治的経験の範疇に属するものとなる。ここで「戦術思想」とは、綱領が革命における敵対的闘争の時間に投入され、「時間の命令」にしたがって具体化されることを指すのである。
党の政治理論の実現についてはのちにふたたびふれることになるけれども、逆にこの実現の場からみたとき、党の綱領は――政治にではなく――本来私事に属するというのである。日常的な党活動でいつも「党綱領」が棚ざらしにされている有様はとりあげるまでもないが、党の政治思想が実際に試される革命の場でも、事態はそんなに変るわけではない。成文化された党綱領と革命における党の言葉とのズレは、いつもある種の悲喜劇の様相を呈してきたのである。レーニンの党はその綱領をメンシェヴィキと共有していたのであり、プレハノフの起草したこの綱領を破棄しえたのは、ようやく党が、プレハノフやメンシェヴィキの反対をおしきって、革命に勝利したのちのことだった。
ここにも、同じ綱領をもつ二つの集団が、革命にたいして正反対の態度をとる事例がある。一つの党集団をとってみても、革命過程で不可避的にこの党を襲う党内闘争という事実があるのであり、このように、党綱領と党の「戦術思想」とは、一義的な結合を本来欠いているものなのだ。革命の具体的進行過程など前もってわかりっこないといったことではない。党綱領は性格上革命過程の具体的規定ではないのであり、いわんや革命過程の予想などではない。反乱にとって「すでに在る」ものとしての党綱領が、党の戦術の実際を規定しえないとしても、なんら理論的能力の低さのせいなどではない。革命過程が集団的(階級的)分裂を展開する事実を、綱領が経験していないからにすぎない。この集団的分裂過程に応ずるものこそは党の戦術であり、党綱領が前もって戦術対応を規定しえぬことは当然だといわねばならない。逆にいえば、ここにこそ、対象的実践としての戦術の独自性があるのである。
かつてローザ・ルクセンブルクが、ドイツ社会民主党内の綱領的論戦(「社会改良か革命か」)に長い努力を傾けたとき、この理論的差異は、むろん実際の革命にたいしても異なる結果をもたらしたのだが、しかし党の戦術――したがって固有の党組織――への配慮の欠如こそが、現実に彼女に悲劇をもたらしたのだった。もしも、綱領が戦術(思想)として具体化されて、はじめて政治的なものとなるという事情が存在しなければ、党は本質的に宣伝・啓蒙の集団にとどまるであろう。とどまりえない、というところに、固有の党の党たるゆえんが存するのだ。
ところで、党の政治思想(綱領)をめぐる以上の記述は、党綱領を「戦術思想」へ限定することを通じて、ここでも党を戦術の場へさしもどすことになった。党の組織といい理論といい、大衆の革命過程からこれらを切り離して追跡する試みが、かえって再び党なるものを革命過程へと促してしまう。してみればこれは、党を大衆的集団の経験へ解消することではないか――すくなくとも、ある種のどうどうめぐりにおちいっているのではないだろうか。
しかし実は、党という集団の存在が、まったくのところ一つの矛盾であることが以上の経験のうちで物語られているのである。党は革命にかかわるために大衆集団から「分離」し、しかも分離することがかえって党を革命へと駆りたてる。昔レーニンについて芥川龍之介がこういった――「誰よりも民衆を愛した君は、誰よりも民衆を軽蔑した君だ」、と。この芥川流にいえば、党は誰よりも大衆に「近く」、また誰よりも大衆から「遠い」存在なのである。「遠方から」レーニンが帰還した象徴的場面が、ここでも想起されるであろう。
 
 
五 ここに革命はないという場所に耐えることが党の意識性である
 
さて、ひるがえってみれば、反乱の政治的経験史のうちではじめて党に出会う一人の私にとっては知るよしもない「党の歴史」が、この節では描かれてきた。ということは、ほとんどもっぱら党の人間が発言しているということである。党が自分とは誰なのかと間うているのである。それゆえ党の存在が結局のところ一つの矛盾であることを知ること――これ自体が党に固有の経験的知に属するのである。いいかえれば、この知こそが党に固有の意識性を意味している。
たしかに通常の党形態になじんだ曰からすれば、党がここに描く自分の肖像はひどく奇異におもえるかも知れない。レーニンの「社会主義的意識性」をとりあげるまでもなく、党の意識性とは、普通、大衆との理論的道徳的レベルの差のことだと受けとられている。だがこの差異は、すでにふれたようにたんに連続的なものにすぎず、両者を前後で区別するメルクマールなどはない。もしこの区別が本当だとすれば、大衆が党に入り党員と成る以外に革命などはありえないであろう。この場合は、党が革命をするのである。
だがこれまでの党の証言は、これとまったく逆に、「ここに革命はない」と発言しつづけてきたのだ。党を大衆組織とは「別種のもの」として単独で扱うかぎり、党について党が語るべき最後の言葉は、「ここに革命はない」ということなのだ。「ない」と断言するところに、くりかえすが党の意識性がある。この意識性は、あらゆる意味で大衆とのレベルの差などではなく、ただ党だけがたじろがずに直視せねばならない党の本性なのだ。まして、通常の党が、「意識性」の厚化粧で大衆の前に立つのであれば、党が自分自身を知ることはつねに一つの困難としてあるのである。だが、すくなくとも、党が――この党に寄せる「大衆」の思いいれにまどわされずに――自己欺瞞から醒めることができなければ、このような党がどうして「スターリン的党」や「ブルジョアの党」などの論理を撃つことができよう。
党の存在が結局のところ一つの矛盾であること――この事実に党の意識が醒めていること――が困難なものであればこそ、通常、党はこの矛盾から逃れたいと願うようになる。党を大衆集団(革命過程)へ解消する試みについてはいうまでもないが、その対極で、自分の存在根拠を党がそれ自体で正当化しようとするのももっともありふれた党の自己欺瞞となっている。実際、自分の党を先験的に正当化し、あるいは内在的に根拠づけようとする誘惑に、党の理論が屈しなかったためしはほとんどないのだ。レーニンの死後すぐに、「党はプロレタリアートの階級的諸組織の最高形態だ」という主張が現われたのだった(スターリン『レーニン主義の諸問題』一九二四年)。こうした理論への誘惑がいかに断ちがたいものであるかは、スターリン的と反スターリン的とをまったく問わず、通常の党経験が雄弁に物語ってきたところである。たとえば――
 
前衛としての自覚、革命への献身、忍耐、自己犠牲などの資質をかねそなえた、共産主義的人間への自己革命をなしとげた、プロレタリア的人間を構成実体とする強固な「共同体」――これは革命的人間への変革の場であるとともに、実現されるべき将来社会の萌芽形態であり、共産主義的人間にとっては〝永遠の今〟として意義をもつ――としての前衛組織こそは、プロレタリア的目的を革命的実践へ適用し、プロレタリアートを一階級として組織しつつ革命をなしとげるために不可欠な手段である。(26)
 
また――
 
私が党へはいったとき、まず驚き、つぎには苦しみ、そして最後には陰熱のように深い底に沈んだ暗い問いかけとなってその後の私のなかに長く棲みついてしまった二つの事柄があった。その一つは、階級廃絶の自己革命をすでになしとげたつもりではいっていった私に、すぐ容易には理解しがたかったところの巨大な、根強い、決定的な差別感であった。あえて極端化していえば、そこではすべての非党員はすべての党員から人間扱いされていなかったのである。(27)
 
第一の引例は、たんに党についての哲学的講釈ではなく、党の人間による党の組織思想として主張されている。レーニンの党の「革命技術主義的なかたより」に反対し、党は戦術レベルで規定されるだけの「たんなる政治組織につきる」のではなく、労働者が「プロレタリア的人間」へ自己形成をなしとげていく「場」なのだと、この党の理論はいうのである。それゆえ、現実の革命過程やまた他の「革命的諸党」と対比してではなく、「プロレタリア的人間の共同体」「将来社会の萌芽形態」だと、して、この理論が党の内部を正当化しようと欲しているのは明らかである。なぜなら、すくなくとも「プロレタリア革命」をめざす党派の領域では、「プロレタリア的人間の共同体」云々の言葉は本来相対的な意味づけを許さないものとしてあるからだ。もしもこの言葉に「解釈の差」がありうることを一たび認めてしまえば、「プロレタリア的人間」や「将来社会」のいわば判定基準をめぐって、一つの党の内在的正当化の根拠はただちに相対化されてしまうほかない。共産主義的綱領をもつ党が、すべてその成員を「自己犠牲」云々の共産主義的人間だと主張するのは自然であり、こうした「他党派」にたいしてなお自分の党自体の「優位性」を求めるならば、党の自分自身についての理論はどのみち先験的あるいは科学的な唯一性を僣称せざるをえないであろう。そしてかのスターリン主義的党は、組織論のみならずおよそ理論一般の絶対性に仮託して自らの党の存在をも絶対化したのだった。
こうした通常の党経験の諸事実に欺瞞なく直面しようとするならば、ひとは次のことを認めねばならないであろう。すなわち、党あるいはその党員が「プロレタリア的人間形成」のためにどのように苦労してきたとしても、また、この党の内部がどのように立派な「将来社会の萌芽形態」だとしても、その事実は、大衆(運動)との政治的関係からみるときに、あくまで「私事」であり「党内事情」にすぎないのである。党存在そのものは、大衆にとって善でも悪でもないのであり、「共産主義的人間の集団」等々によってあえて自らを「善」と主張する党組織は、すべてスターリン的党のレベルに属するのだ。党の「正しさ」に大衆が従うか裏切るかは、まったくのところ大衆の自由な権利に属するのであり、この大衆の自由以外に党を根拠づけるものは存在しない。
たしかにスターリン党が自分の内面を問おうとしないのは事実なのだが、これに反対する「反スタ」の理論が、党の「組織本質論」を経由しながらやはり再度党の絶対化に到達する光景は、なんともうっとうしい限りだ。革命過程への「革命技術主義的かたより」を排除して、もし欺瞞なく党そのものを追跡するならば、そこには「無」しかないのだから、この光景は当然のこととはいえ、党が党自身にとって悪戦の場であるという宿命はこのように根深いのだ。レーニン以降、この悪戦の事実はすでに充分に重ねられているのに、なおチャラチャラした言葉で飾られて、党について本当に大切な事柄は語られない。
さきにあげた第二の報告は、党のこの暗い内面の一点に光のスポットを合わせている。じつのところ、党組織内での「巨大な、根づよい、決定的な差別感」は、それこそ「あえて極端化していえば」、「革命」も「人間」もここにはないという想いなのだが、しかし通常はこの証言がいうように、「人間」も――いわんや「革命」も――ただここだけにしかなく、党の外には存在しないとみなされるのだ。「プロレタリア的人間」や「将来社会の萌芽形態」を党の「共同体」内部に独占する第一の例が、ここでも再度浮び上ってくる。本当はまったく逆に、「プロレタリア的人間」云々を形成する「場」は、反乱から大衆権力への政治的経験の場であり、この形成の課題は大衆集団における大衆自身の仕事であり、党はこの事業を援けるものにすぎないにもかかわらず、だ。
なるほど、スターリンの党から反スタの党にいたるまで自分は革命の「手段」「道具」だといいつづけてきた。さきの反スタ党組織論も党は手段であることを傍点つきで強調しているが、おそらく党道具説を最初に露骨にいいだしたのはスターリンその人だったろう(『レーニン主義の基礎』)。だがいずれにしても、党は革命の「道具」だとすれば、当然「ここには革命はない」という事実に、党は欺瞞なく直面しなければならないはずだ。しかし他方で党は「将来社会の萌芽形態」だというのであれば、この党が力を増大することが「将来社会」に近づく道となるのは当然の帰結である。にもかかわらず自分を「手段」だといいはるのは、笑止というほかないのである。
ここにも、党の意識性が本来いかに耐えがたいものであるかが暴露されている。党は「プロレタリアートの立場」等々からするさまざまな自己倫理化の誘惑に屈するのである。「共産主義者の共同体」から「プロレタリアートの戦闘司令部」にいたるまで党の自己規定はいつも政治的というよりはるかに倫理的な性格のものなのだ。しかしもしも、党がこうした倫理的自己欺瞞を破りうるとしたら、党は文字どおりに革命の手段という宿命に耐えねばならない。これは党に課せられた唯一の――逆説的な――「倫理」であり、大衆の革命的放埒沙汰にたいする、いわば「禁欲の倫理」なのだ。だから、かつて私は、こうした党を「大衆にたいしてストイックな党」と呼んだのである。
以上のような「禁欲的」な党のありかたは、革命過程で自己形成する大衆集団の性格とすこしでも対比するとき、その特異性がめだってくるであろう。たとえば反乱の共同観念――神話――が、いつも倫理的に羽目をはずす事実を想起するとよい。大衆にとって政治は一つの具体的要求と戦闘にとどまらずに、はるかに新しい自分と新しい生活とを正当化するものとして受けとられる。いつも大衆のこうした「全人格的」要求が、激しく政治を呼ぶのである。党が自らを倫理的に正当化するのも、むろんこのような大衆の要求に屈するからなのだが、しかも固有の党の意識性は大衆的要求に反して、一つの目的集団たることに強く自分を限定しようとするのだ。
まえに私は、大衆の政治的組織は形式的にいえば目的集団だが、その共同性の構造は強く目的集団の性格をはみでるのだと書いた。この組織は、たしかに卑近な具体的目的(「七項目要求」)のために形成される。だが、その共同観念は、目的の卑近さとまさに対照的に世界観にまで肥大化するものであった(「反大学」、「反権力」)。こうした大衆集団と対極的なことが、党集団の内部では生起する。
党はたとえば「世界革命」の目的を綱領として結成されるのだが、この目的観念の気宇広大さとはまさに裏腹に、集団成員の結集軸は狭く具体的な(戦術的)目的実現に意識的にきびしく限定される。共同性自体に価値はおかれず、組織とは集団の目的実現のための抽象的な媒介というにすぎない。革命にとってだけでなく、党は党にとって手段である。内的にみれば党組織はザハリッヒに目的集団であり、各人の「能力」と「役割」に従った分業関係でしかなく、ある場合には端的に命令-服従の関係にすぎなくなる。史上、党が自らに軍隊組織の比喩を与えることをあのように好んだのも、理由のないことではない。
さきにみたように(本章第二節)、党の戦術的実践は、なによりも、革命過程が客観的なもの――政治的なもの――を析出する事実に根拠づけられていた。だからこそ逆に、党には政治における客観的なものの宿命が集中するのだった。それゆえ、党派闘争や政治力学がこの宿命の外在化だとすれば、ザハリッヒな目的集団という党組織の内部は、まさにこの内面化を意味している。
したがって、「党とは何か」と問うとき、もしも党をその本来的対象から切断して扱うならば、そこには宿命としての政治以外に何も見えてはこないであろう。日常の政治世界が日々生産し、政治家が手をかえ品をかえて、とらえようとしてきたものがこれだ。また、「革命党」のさまざまの「疎外現象」と呼ばれるものを想起するまでもないであろう。一つ目的にたいする盲目的服従、集団のスタイルの画一化等々、というようにだ。こうした政治形態は、要するに革命が実現すべき事柄の否定である。
だが、党の政治の頽廃を防ごうとする当然の努力は、党の負う客観的なものの宿命まで消し去ることはできない。革命への生成が根拠づけ、革命の成就が端的に廃絶しなければならぬものこそが党だからだ。「ここには革命はない」という党の矛盾をいいくるめようとする努力が、通常はかえって、革命そのものを否定する政治形態を生みだしているのだ。
もとより、革命における党組織は気宇広大な目的などどうでもいいなどというのではない。通常の「政治屋」の集団にすぎないのであれば、党は沸騰する反乱大衆の共同観念と交通しうるはずもなく、だからまた、戦術的実践も根源的力を欠くものとなろう。だがそれにもかかわらず、革命過程における党組織は、その固有の共同性を「職業政治家」の「職業倫理」に限定せねばならない。大衆的集団の政治的経験をこのように疎外することは、党的集団独自の宿命である。
もちろん、目的集団としての党の性格は、党の私的な本性からする一つの機能的な帰結というにすぎない。もしも「職業革命家」の目的集団――「革命のテクニシャンの集団」――という党規定から出発するならば、ここでもまた、一つの目的への組織成員の盲目的自己犠牲とか、この目的による集団行為の聖化とか、要するにふたたび党を自体的に正当化しようとする悪循環がはじまってしまうのだ。くりかえすが大切なことは、党を目的集団等々として機能させるこの党の本性を知ることなのである。そして党自体がそうであったように、この党内部のさまざまの頽廃――「党生活」の荒廃――を根絶しうる基準も、いかなる党であろうとそれ自体のうちにはないのだというここ党自らが意識化しなければならない。党はその根拠なき私性に耐えねばならないが、しかし党生活の美しさも荒廃も、ともに戦術的実践を通じて党に逆流してくる大衆権力の力に根本的に依存していることを党は知らねばならない。
さて、党の領域にもぐりこんでなされた以上の経験は、いずれの場合にも党をふたたび大衆的革命過程との戦術的相関のレベルへさしもどすことになった。しかし今度は、党はたんに事実上大衆集団とは「別種のもの」なのではなく、党を党として革命過程へと促す、独自の「歴史」を経て登場するのである。私の記述もまた、両者の関係のレベルへもどっていくことにしよう。
 
第四節 党の実現
 
 
一 党は私たちを指導するのではなく私と対象的実践の関係を結ぶ
 
すでに本章第二章で、党と革命過程との戦術的関係が、この私の経験に減少してくるかぎりで記載されたのだった。ここで党の戦術とは、党がその目的を反乱の大衆権力のうちに実現するためにこれに働きかける実践だと、一口にいっていいであろう。たしかにこの用語法は、レーニンの「四月テーゼ」にならって、主として反乱内部の党の戦術に限定されており、「敵」にたいする戦争用語としての戦術の定義からすれば、やや奇異な感を与えるであろう。けれどもくりかえしいうように、私の政治記述は政治力学の直接的分析ではないのであり、党にしても、革命渦中のこの私に経験される政治としてのみ関心をもたれているのである。だからこの点からすれば、「四月テーゼ」のような戦術の定義は、革命史のうえで別に特異なことではない。
実際、反乱に対する諸党の戦術的介入は――その方向がどうであれ、また戦術が成功するにしろ失敗するにしろ――近代の反乱における著しい経験的事実となっている。とりわけ、革命の自己形成にまさに密着してこの私が自分を発見し形成しつつあるときに、私の集団とは「別種」の党が、私につけ入ってくる戦術は――それが私と革命の飛躍を助けるものであれ妨害するものであれ――、いつももっとめざましく政治というものをこの私に感じさせるのだ。
反乱の大衆的権力が団結して「敵」との二元的闘争を闘いつづけ、ついには自ら「新社会」を形成するという反政治派の夢に反して、革命の歴史は、どの場合にも、党の――しかも諸党の――戦術で「汚染」されたものとしてしか見出しえない。くりかえすが、反乱を出発点として新たな自己形成に熱中しているこの私にとって、党はなによりも戦術行使として現象してくるのだ。それはある種の「敵」が不意に出現してくるのに似ている!
もちろん、党の戦術的介入といっても、それがたんに外的で暴力的な私への強制であれば、なんら戦術などというに値しない。「人民」内外の「敵」の集団にたいする私の闘争として、こうした介入・敵対ならすでに私はくりかえして経験してきているからである。それゆえ、党の戦術の著しさは、党という「別種の」集団が私の「外」に存在し、この集団が私を対象に介入してくるそのこと自体にあるのではないのだ。むしろ、政治的に分化・転成をとげつつある反乱が、その内部に党的集団との対象的実践の関係を生みだすという事実こそ、私にとって党経験の著しさを意味している。私は、あたかも内心の呼び声のごとくに一つの党の呼びかけを聞きとり、この党と呼応の関係を結ぶ。あるいは、他の私にとっては、この党の呼びかけはたんに雑音や無責任なデマゴギーとして反撥されることとなるかも知れない。こうしたプロセスは、党の呼びかけを介して、私たちの集団が自己を知り、あるいは内的分岐をはじめていくことを意味しているのだが、いずれにしても、この私に党が経験されるとは、党との戦術的関係が経験されるということである。党の存在それ自体や、あるいはこの私が党組織に加盟するとかいうことは、くりかえすが革命にとっては私事に属することだからだ。
逆に党の側からいえば、党は大衆の革命過程が産みだすものではないのだから、大衆の「外」に「すでに在る」党が、革命過程で経験されうるとしたら、ただ大衆集団との実践的関係をつくりだす努力としてしかありえないのだ。私にとっては党の戦術が党の現象形態となるのだが、党の側からすれば、私は戦術行使の対象を意味しているのである。
党と大衆集団の戦術的関係だけが、ここでことさらに強調されるのはほかでもない。通常の党現象が、一方では大衆を党に「投票」あるいは「加入」させることをもって大衆との結合を証明し、他方では大衆の「上」に立つ「指導部」や「司令部」として大衆に外在的に関係する――このような政治形態で党をみる考えを拒否したいからだ。こうした現象は、党が力をつけたということであって、大衆とその革命が強力となった証左にはならないのだ。のちに私は、大衆の「加入」や「指導」をこととする別の党――大衆政党――の姿をとりあげるけれども、いまはただ固有の党――私党――の現象形態だけが記述されているのである。
このような党は、すでに前節で十分に明らかとなったように、ただ自分を大衆の権力に外化することによって、対象的に自己を実現=否定する以外にない存在だ。それゆえ、私党の客観的な「実現」とは、本来自己の「同心円的」拡大――「党勢拡大」――によってはなしうるものではない。党の組織拡大は私党の拡大にすぎないのであって、それが党の私性を否定しえないのは当然である。この党がその私性ゆえに自己の「否定」へと駆りたてるのだと、前節でいわれたことを、ここに想起しよう。
それゆえまた、この党は、本来大衆の指導者や指導機関たりえないのである。党はその成り立ちからして、大衆的諸組織の指導者たちの集団でもなければ、大衆組織のいかなるヒエラルキーをも占めるものではないからだ。指導とは私党としての党の本性の否定であり、たしかに党は結果的には、指導という形態で大衆と合体することを望むものではあるけれども、しかしそのときには、指導もまた大衆内部の大衆自らによる仕事へと転化されているのである。
以前、秩父自由党における政治的指導の位置が経験されたことをふたたび想起しよう。秩父の困民にとって、政治指導とは、「中央」あるいは既成の自由党によるヒエラルキーの構造ではなく、かえってこうしたものの否定を通じた実現によって、大衆集団自らのうちに再生する何かであったのだ。「大衆の指導」については、いまもかつて自由党の場合に記されたこと以上にいうべきことは何もない。政治的な常識のみせかけに反して、党とはもともと大衆を指導するものではないのだから。
このように考えれば、革命過程における党と大衆の関係というのは、まったくのところ危ういものといわねばならないだろう。ロシア革命の十カ月ほどを、レーニンの党がペトログラードの大衆とともに疾駆していった道筋は、ほとんど綱渡りのように思えるのだ。この党の経験は、大衆の革命における党なるものに人びとをひきつける源泉となったのだが、その後、人びとが党にとらわれた長い歴史は、この源泉以上の実例をつくりだしえただろうか。こうした長い歴史を思えばこそ、党の危うさは、わざわざ党をそのようなものに確定して把握したからなのではなく、まったく大衆の革命そのものの危うさに由来するのだといっていいであろう。党の私性やこの党と大衆との戦術的関係を、ことさらにとりだして記述するのも、ここを回避しては革命の歴史の絶望に回答することができないからなのだ。
しかしもちろん、党の戦術行使が大衆集団と結ぶ関係が危ういものであるといっても、この関係を結びうる客観的な根拠がないのではない。党の戦術的働きかけが、たんに恣意的暴力的介入にすぎず、大衆の革命過程にその内在的根拠をもたないのであれば、反乱史上著しい党の戦術的介入の事実からして了解不可能となるであろう。けれども私はすでに本章第二節で、革命の大衆集団がどのような意味で党の呼びかけを聞きとり、また党の介入を呼ぶのかについて、くわしく記述したのだった。革命の大衆的形成史は、政治的にみればいわばつけ入られるスキだらけであり、スキをみせるたびごとに諸党の介入をまねくのである。とりわけ、反乱が諸集団へとその政治的性格の差異を分化していくとき、このような反乱の「階級的」分裂こそは、すでにその階級的性格を自覚して存在する諸党のそれぞれの介入を呼ぶのである。
この分裂を――レーニンのように――促進するにしろ阻止するにしろ、党の戦術行使が大衆諸集団の運動と現実的に相関しうる地平が、こうして確保されるのである。それとともに、党の戦術(政治)が全面展開しうるかどうかも、反乱がその内部矛盾を駆動力として永続する全過程に、直接的に制約されている。大衆の反乱とあいまみえる「好運」あるいは「不幸」に恵まれずに、それこそ私党が私党のままで滅びていく例は、実際にはいくらでもあるのだから。いまにいたるも、このような無数の党的組織が、内部ではそれなりの悲喜劇を経験しながらも、反乱の歴史や大衆の記憶に残ることなく、私党のままに絶えていくのである。
 
 
二 党は戦術的経験の蓄積を戦略として客観化し党の作風をつくる
 
だがそれにしても、ある一つの党の特定の戦術が「成功する」――つまり時の反乱集団と政治的関係を結び、しかもこの集団の権力として戦術内容を実現する――とはどのようなことだろうか。特定の戦術は、「成功」するための客観的あるいは必然的な根拠までももっているものだろうか。明らかにそのような根拠は――どの党のどのような戦術であろうと――先験的には何もないのだ。党の戦術は、戦術経験を呼ぶ大衆権力の本性から、もともと諸党の相競う戦術としてしか現実にはありえないのだから、或る特定の党だけが大衆との結合を先験的に保証されているはずもない。どの戦術も、すべて実現のためには、大衆権力、つまり革命の現実的力を必要とする。
いいかえれば、真の対象的実践と同じように、戦術は本来的に党の賭けである。すでにレーニンの「四月テーゼ」は、その実現を「実生活の一歩一歩」に委ねていたことを想起しよう。 ひとは通常、党の振舞いを――党の存在そのものと同様――なんとか「科学的」ないし「倫理的」に根拠づけたいという欲求を見慣れている。「唯一の党」や党の「無謬」神話をおもいだすまでもないであろう。だが、歴史上止み難いこのような党の欲求こそ、逆に、戦術的実践が本来賭けであることを雄弁に物語っているのであり、これは賭けの不安が党に強いる意識なのである。
もちろん、特定の状況における「より有効な」戦術を定形化しようとする努力は成り立ちうる。いわゆる「客観情勢に合致した戦術」がこれである。党の戦術が、まさに時の大衆権力の矛盾を与件とするものであるかぎり、戦術が賭けであるといっても、この与件に規定された形態をとるのは当然である。くりかえすまでもなく、戦術という「主観的」行為の客観性のレベルがここに確保されるのだ。しかしにもかかわらず、「情勢の客観的・科学的認識」が、一義的に戦術形態を特定しうるものではない。この戦術を選び実行することはあくまで賭けであり、これが実現されるか否かは――党にとってよかれあしかれ――大衆の定めることである。だから大衆は、つねに党を裏切る可能性も権利ももっている。そして、戦術の実現の保証の欠如こそが、逆に党の政治をして、まさに能動的な行為たらしめるのである。
戦術行使のこの本来的性格を陰蔽するのであれば、党の行為は文字どおり「戦術の客観主義」ということになろうし、これに比べれば、悪名高い「情勢分析の客観主義――戦術の主観主義」という命題のほうが、はるかに戦術の本性をいい当てている。くりかえすけれども、戦術が「どんなに正しいかは、実生活の一歩一歩が示してくれる」以外にない。
しかしもちろん、戦術が根本的に賭けだといっても、党の戦術行使が、場当り的なそのつどの「直観」に委ねられるのだという意味ではない。実際上、党が戦術の「主観性」をいくぶんでも克服し、戦術行使の一貫性を保証しようとするのは当然である。もとより、一貫した革命の戦術もあれば反革命の戦術もあるように、一つの党の政治的性格は、その党の戦術の基本的なパターンを規定する。だが、ここでいう戦術の一貫性とは、そのように別種の党との比較上のことではない。ある革命過程で一つの党が、その戦術行使をいくぶんでも「客観的」なものとするための努力を、私は問題にしているのである。これこそ、従来党の戦略という形で意識化されてきたものにほかならない。
党の戦略は、戦略プログラムといわれるように、いつもある客観性を主張して政治に登場する。実際は革命過程のたんなる観念的な図式にすぎないものから、それこそ「科学的必然性」を主張する戦略にいたるまで戦略の「客観的」という自己主張は変らない。いいかえれば、戦略のこの「客観性」こそは、逆に、これが戦術の主観的性格を克服する努力の一つであることを証明している。だがいうまでもなく、どのように「客観的に正しい」戦略といえども、党の実践がもつ本来的な主観性までも消しさることはできない。この事実を忘れたとき、党の理論はその根拠の危うさを離れて、あたかも自体的に存在しうるかのような「戦略体系」などをでっちあげることになるのだ。
 実際、革命理論――戦略理論――がその客観性の衣裳とはまったく裏腹に、そのじつ、天下り的な恣意とデマゴギーの体系にすぎない場合を、私たちはすでにあまりに多く経験してきた。政治的事象における、知の客観性のきわどさがここにも露呈されているのであり、私たちはついには、政治的言語体系のデマゴギーを嗅ぎ分け、これに対抗しうる知をもつ可能性に絶望せざるをえないほどに思うのである。
それゆえ、もしも戦略理論ということが、なにほどか政治的経験の範疇に属するべきものだとしたら、それは世界についての合理的知識からの演繹などではないとしなければならない。逆に、党の戦略理論は、一連の戦術経験から帰納される――すなわち、ただ戦術の性格から規定されるものと考えねばならない。戦術行使の経験が、一つの革命過程で――あるいは広く歴史的に――党のうちで蓄積されるとき、党は将来の戦術的投企をもこの蓄積にもとづいて整えるようになる。
こうして、戦術の対象(敵や大衆の諸集団)と戦術の使い手たる諸党(自らの党をも含めて)の位置や性格を、客観的歴史的に見定め、ここから党の戦術を定形化する努力が戦略である。党は、一連の戦術上の経験を、戦略的形態として意識化(言語化)してはじめて、戦術対象と諸党の位置は構造的に見えるものとなり、したがってまた、将来の戦術行使の一貫性(目的意識性)をも予定しうるようになる。社会の階級関係や支配構造の分析(情勢分析)、すなわち、世界についての知識が採用されうるのも、この戦略理論のレベルにおいてである。
しかし、ここでとりわけ強調されるべきは、戦略の定義ではない。戦略理論の客観性が、ただ戦術的経験から根拠づけられるということであり、およそ党の戦略なるものが、たんに党の恣意にもとづくものではない理由もここにある。戦術が対象的諸集団と党との実践的関係であるからこそ、反乱をめぐる諸集団の構造的位置と矛盾とは、一連の戦術的経験を通じて知りうるものとなり、逆にここから、将来の戦術的投企を戦略的に整えることも可能となってくる。党の戦略理論が「何々理論」にもとづくなどということは、定義上馬鹿げたことであって、諸科学やマルクス主義に「もとづく」と称する場合といえど、この例外ではありえない。
 だからまた、党の戦略理論は、定義上戦術的経験に先だって与えられているものではない。反乱の一定段階で、戦術上の諸問題が戦略問題となる、ということが起るのだ。たとえば毛沢東は、抗日戦のさなかに、次のように問題を提出する。「抗日戦争では、正規の戦争が主であり、遊撃戦は補助的である。……それならば、遊撃戦には、戦術の問題しかないはずであるのに、どうして戦略問題をとりあげるのか?」そして、抗日戦における敵味方の客観的特徴を数えあげたうえで、彼はこの設問にこう解答する――
 
抗日遊撃戦争は、主として、内線で正規軍の戦役的作戦に協力するのではなく、外線での単独作戦である。そのうえ、共産党の指導する強い軍隊と広範な人民大衆とが存在することによって、抗日遊撃戦争は小規模なものではなくて、大規模なものである。そこで戦略的防禦や戦略的進攻などという一連の問題がおきてくる。戦争の長期性、したがってまた、その苛烈性によって、遊撃戦が普通とはちがった多くのことをしなければならないことになり、ここに、根拠地の問題や運動戦への発展の問題などもおこってくる。そこで、中国の抗日遊撃戦争は、戦術の範囲からでて、戦略の門をたたくことになり、遊撃戦の問題を戦略の見地から考えるよう要求されてくる。(28)
 
遊撃戦とは、とりわけ個別的で特殊的な戦術であり、それ自体としては孤立したばらばらの戦闘以上のものではない。だが毛沢東は、この戦術形態が、党の指導のもとに多数かつ広範に行使されていることをもって、遊撃戦の戦術を抗日戦(すなわち革命過程)の戦略問題にまで意識化しようとしている。だから逆に、戦略問題として位置づけられた個々の遊撃戦は、それ自体どのように孤立したものであろうとも、たんに特殊な集団同士の戦い(私戦)ではなくなってくる。この戦術の一つ一つが、いまや、中国という国士での敵集団と味方との構造的関係――すなわち抗日戦争の全体――を、客観的に開示するものとみなしうるようになる。個々の戦術的経験が重ねられたとき、そのときにのみ、戦術的経験は「戦略の見地」を「要求」してくるのだ。
ことわるまでもなく、毛沢東のいう「戦術」とは、ここではもっぱら敵軍にたいする革命戦争の戦術であり、彼の党も厳密な意味では私のいう党の範疇には入らない。だが、いまは戦術と戦略の関連が形式的に問われているのであり、戦術対象の異同の問題にこだわらないことが許されるであろう。
ところで、もし戦略を以上のようにとらえるとすれば、党の戦術形態の蓄積――戦略――もまた、革命過程における政治的経験の射程に根本的に依存することになるだろう。つまり、大衆の諸集団が一連の闘争を積み重ねていき、この闘争がなにほどか一般的で客観的な性格を呈していく――谷あいの一つの戦闘が同時に全国的ゲリラ戦の一環となる――とき、この客観性が党の戦略としてとらえられるのである。
たしかにひとは、レーニンの戦術行使が荒唐無稽な代行や介入ではなく、実際まさに「当った」という事実から、逆に、この戦術形態を客観的「戦略」として絶対化するようになる。ロシア革命のレーニンの戦術が与える過度の印象が、逆に戦術の本性をくらましてしまったのだ。「四月テーゼ」が「当った」ことは、むろん客観的根拠をもつとしても、この特定の根拠は一回かぎりのものとしてロシア革命の事実的過程にもとづいてしか説明しえないのであり、一口にいって歴史学の仕事なのだ。歴史学的説明や、あるいは、「勝てば官軍」式の政治世界の強いバイアスをとりのぞいて、戦術という経験事象そのものへ接近するとき、ここにも党の私性と、この私性を他者において否定しようとする党の実践の本性がみえてくるであろう。
 
 
三 私の経験が党を実現しそのつど党は私の経験史へと解消される
 
しかしそれでは、逆に考えて、党の戦術が「当る」こと――つまり、戦術行使を介して党が実現されるというのはどういうことか。すでにこれまでにも、私は党の実現という言葉をつかってきたのだが、党と革命との実践的関係が十分に知られたいま、このやや奇異な概念にも全面的に接近することができるであろう。たとえば、ソヴェトヘの戦術提起以降のレーニンの党をみてみよう。
 
なぜ、この自由の時代に、どこからかこの黒い手がのびてきて、ロシア民主主義のロボットをつき動かすのであろうか? レーニンだ! ……だが、彼は無数にいる。どの十字路でも、レーニンが飛びだしてくる。そして、ここでは力はレーニン自身のうちにあるのではなくて、土壌が無政府と狂気との種子を受けいれやすくなっていることにある。(29)
 
また――
 
兵士たちはブルジョア新聞を読んだあとで、ボリシェヴィキと称するある未知の生物に罵倒をあびせ、それからただちに戦争停止、地主からの土地没収等々の必要に関する討論にうつることがしばしばあった。(30)
 
「全権力をソヴェトヘ」を中心スローガンとするレーニンの戦術は、四月一ぱいかけて党内に定着し、革命の現実的諸条件とまさに実践的に相関を結びつつ、各地のソヴェトが党のスローガンを採用するという形で、大衆の集団意志に転化していく。この時期にレーニンの反対派が述べた証言が、右の第一の例である。レーニンの戦術が、その「土壌」と確かな関係を結びはじめた事実が、ここによく示されている。そしていまや、「土壌」――大衆の集団意志――自体が、「無数のレーニン」として語りはじめたのである。
「党の実現」とは、このように大衆の集団意志が党の目的を表現し、大衆の行動が党の意図を実行する事態をさすのだと考えてよいであろう。通常、党の方針が大衆に貫徹する形として、いわゆる指導—被指導や命令—服従の関係の確立がとりあげられるけれども、ここに掲げるレーニンの例は、こうした関係とはおよそ異なっている。とりわけ第二の例は、党の実現の逆説的なあり方を典型的に示している。反対党の戦術によってボリシェヴィキを自分たちの敵とみなしている兵士たちが、事実は、この党の戦術(「戦争停止」の要求など)を実現しているのである。戦争停止等のスローガンは、すっかりその名義人の手を放れてしまったが、にもかかわらず、どの党のものとも知れぬこのスローガンが、風のように全国に伝播し定着していくのである。
ここには、もはや通常の意味での指導の貫徹などはない――いわんや、党員を増やす(「多数派」を形成する)ことをもって党が大衆のものとなるというスタイルなどなにも見出しえないのだ。前節で、私党の実現について書かれたことをくりかえせば、大衆(の革命)こそが党を文字どおり実現するのである。また、政治結社自由党の実現の仕方を想起しよう。
それゆえ、党の実現とは、結局、大衆の革命過程、すなわち私の政治的経験史の展開にほかならない。私の経験史は、その節ごとに一つの党の戦術を実現し、あるいは他の党を挫折させつつ展開されていくのだと、いまや了解することができる。おそらくさきの兵士たちの例のように、私は新たな自己形成のつど党という「未知の生物」を生かしたり殺したりしていることなど、気づきすらしないだろう。私はつねに新たなもののごとくに自分を生みだすからだ。しかし、党の実現にとっては、まさにこれでいいのだ。せんじつめていえば、党の実現とは、私の政治的経験史そのもののことである。
党の目的や思想が大衆のものとなること、すなわち党の思想の実現という観点からみても、事態はまったく同様である。すでに第四章で集中して経験されたように、私の政治的経験史の展開は、そのつど私の集団がその政治的意識の飛躍をとげることを意味した。そしてさきには、この集団意識の飛躍は、「革命になにかを教えこむ」党の仕事から慎重に区別して取扱われたのだった。しかしいまとなってみれば、私の意識変化の背後で、沈黙の事件――党の思想の実現と挫折の劇――が同時進行していたのだといってもよい。もちろんかつて私は、このことに気づきもしなかったし、ひょっとしてこんな事件はまるで起らなかったのかもしれぬ。しかし、くりかえすが党にとってはこれでいいのだ。党の思想は、戦術を介してまさに大衆の集団意志となるのである。党の思想の実現とは大衆の集団意志の飛躍のことだといっても、いまや同じことなのである。
どだい、党が革命に「なにかを教えこむ」こと自体、啓蒙や宣伝とはまるでちがう仕事なのであった。ひとはいつも、レーニンの「外部注入論」をまったくのところ啓蒙主義的に解釈したうえでこれをあげつらっている。「教養あるブルジョア・インテリゲンッィアによって仕上げられた社会主義イデオロギー」は、労働者が自ら獲得しうるものではなく、党が外から教え込まねばならない、というふうにだ。こうして労働者は、党の教義(知識)を身につけて党に入る。
だが、「外部注入論」がいまなお注目しうる唯一の点は、党と大衆のあいだにある政治的意識の断絶の強調などではまったくなく、もともと党というものが、大衆と革命にたいして「外部」からかかわるものだという主張なのだ。だいたい、レーニンの「外部注入論」の公式は、『何をなすべきか』ではカウツキーの文章の文字どおりのひき写しであり、今口それがそっくりレーニンの言葉として通用しているのは奇怪な話ではないだろうか。戦術を通じた党の実現が、一つの危うい運動だといわれたことは、党の政治思想の実現についても一層あてはまるであろう。すでに前節でふれたように、党がそれ自体で根拠をもっといいはる党は、同じくその政治思想をも、党が実現すると主張する。啓蒙や宣伝のサークルは別としても、かのスターリンの党が、およそ政治思想というものを大衆の革命から剥奪してしまったことを想起するとよい。またこのような党に反対する党も、大衆が共産主義的思想を実現することに絶望して、この思想がただ党の内部(党に入ること)でだけ実現する(している)のだという、まったくの倒錯におちいるのだった。この党は、党の政治思想を「戦術思想」に限定していくレーニンの「革命技術主義的かたより」を排し、広く政治思想を尊重すると称しながら、実のところこのていたらくであった。
問題は、党の思想などどうでもいいか否かなどということにあるのではない。問題はただ一点、この思想を大衆が実現することにかかっている。もちろん、「労働者階級の歴史的使命」等々、党は白己の思想と大衆意識との径庭を理屈で埋めることはできる。だが、党の思想の実現が、この理屈を解説することでなく、終始実践的問題だとしたらどうなるのか。まさに、大衆の長い政治的形成の道程を、同時に党の実現過程として、党が独自にたどるしかないのである。党の経験は、ここでもくりかえしくりかえし、この私の経験史へとさしもどされるのだ。
もう一つ、別の例をあげよう――党の政治思想など、どうでもよいと公言する党のことだ。
 
われわれの綱領はたいそう簡単である。つまり、われわれはイタリアを統治したいのである。人びとはいつもわれわれに われわれの 綱領のことをたずねる。われわれは もう綱領をたくさんもちすぎている。イタリアを救済するために必要なものは、綱領ではなくて、むしろ人間と意志力である。(31)
 
これは一ファシストの演説である。もしも、ファシストの党が政治を政治力学に疎外するものとすれば、党の実現もここではまったくのところ、党の権力の実現と考えられているのは明らかである。党は文字どおり国を「統治したい」のである。
しかし、「革命とは国家権力の問題だ」というレーニンの言葉をとりちがえたスターリンの亜流たちも、じつは別のことをいってはいない。党による「国家権力の奪取」に革命の全問題があり、権力を取りさえすればあとはどうにでもなるというのが、この者たちの暗黙の前提である。ひいきめにいっても、彼らは大衆が自らを変えること(階級形成)に絶望して、とりあえず党の代行によって「奪取」した権力を大衆に「つきつけ」ようとするのだが、こんな権力など、大衆にとっては、それこそ有難迷惑だとは思いいたらないのである。
党の実現を党の権力の実現に疎外するファシスト党の例は、この種の党が本来的に大衆の革命――正確にいえば、大衆の革命的諸集団――を欠いていることにもとづいている。ヒトラーの「指導者原理」ではないが、すべてを「群集」(衆愚)にたいする「指導者」(党)の、大衆心理学的・政治力学的関係に解消するのだ。また、この党の政治が、政治集団(階級)の解体状況という現実をそのまま物質的基盤としたものであったことは、著しい歴史的事実である。綱領などどうにでもなるという、この党の理論ニヒリズムこそは、党の戦術を没思想的に実効へと疎外するのだが、このように端的なニヒリズムが現実に可能だったのも、戦術の本性を実現する大衆的諸集団の欠如のゆえだったのである。ここに、党の綱領は戦術を介して大衆の集団意志としてしか実現しえぬという事実とともに、逆に、大衆集団(論)の欠落は、大衆の生活との交通基盤を党から奪い、党の実践を力学的操作主義に疎外することがはっきりと露呈されるのだ。
かくしてたとえばヒトラーも、こう語ることになる――
 
大集会では、思考は排除される。私がこの状態を必要とするために、この状態が私の演説の最大の効果を保証してくれるために、私は、皆をこの集会に送りこむ。ここでは、皆が好むと好まざるとにかかわらず大衆になる。〝インテリ〟も市民も、労働者と同様、大衆になる。私は国民を混ぜ合せる。私は大衆としての国民に語りかける。
いいかね諸君、大衆が大きくなればなるほど、一層、操縦しやすくなるのだ。そして、農民・労働者・官吏など、人間が混じれば混じるほど、大衆の典型的な性格が現われてくる。インテリの会合や、利益団体などとかかわりあってもだめだ。(32)
 
もう一つ対極的な事例をとりあげれば、事態は一層はっきりする。それはアナキスト党の例である。アナキストのその教義にたいする奇怪なまでの固執は、しばしば喫緊な政治的任務をもあえて放棄させるほどに著しい。教義の命令にそむき、内乱の政府を組織したスペイン・アナキストにたいしては、「戦争のために彼らはすべてを犠牲に供した」という非難が投ぜられたのだった。ファシスト党のごとき理論ニヒリズムの、いわば対極(「理論崇拝」)がここにある。アナキストは、教義を実現するに際して、党の政治による代行を厳しく非難するだけでなく、アナキストの思想は、およそ政治という媒介を原理的に拒否している。ここでも、党の戦術の本性が欠落していることは明らかである。
もとをただせば、ファシスト党と同様に、アナキストもまた反乱の集団論を欠いている。これでは結局「衆愚」—「指導者」という二元論が支配する。もちろんファシスト党とは対照的に、アナキストは衆の側にのみ依拠せんとするわけであり、ファシストの「指導者原理」の対極に、アナキスト党の「大衆崇拝」が存するのである。彼らといえども、いうまでもなく、政治的経験を拒否することは事実上まれであり――そうでなければおよそ大衆の運動は生れない――、しかし、にもかかわらず、党の政治の行使は理論的にも現実的にも拒むのである。党の政治思想は、いわばそのままで政治の現場に現象し、かつ実現されるべきことを彼らは主張する。
さて党の実現ということを以上のようにとらえるならば、まさに実現とは否定――すなわち党の独自性の解消――と同じことを意味するのだ。党が実現される形態は、ほかならぬ大衆の政治的経験の展開として経験し記述することが可能だからだ。すでに第二節の末尾でこのことは示唆されていた。しかし固有の党の本性――これこそが党を実現へと促したのだが――を知ったうえで展開された本節の経験によって、いわゆる「党と大衆の関係」の諸前提はいまや十分に明らかにされたのである。
そこで一つの大衆集団(権力)が党の特定の戦術を実現することを、あらためて、この集団にたいする党のヘゲモニーの形成と名づけよう。通常のヘゲモニー、つまり指導とか主導権とかのニュアンスとちがい、ここで党のヘゲモニーの形成とは、かえって党を大衆によるヘゲモニーヘと解消することである。党の戦術がヘゲモニーに解消された時点では、政治は党においても大衆権力においても、本質的には同質の経験となるからだ。
たしかに、私党としての党は、この自己否定を願って戦術的に自己を投企してきたのだから、これは党にとって幸福な瞬間にはちがいない。けれども党はまたただちに、この現段階での大衆的ヘゲモニーから身をひきはがし、大衆の革命過程から「分離」する権利(義務)――すなわち新たな戦術の行使へと促されていく。
実際、盆地の「外」から浸透してきた自由党が困民党に根づいたとき、これも一つのプリミティブな党の実現であった。大衆の幹部と大衆の神話のうちに党の「外部」性は解消したのである。だが、こうして実現された大衆の蜂起は、おもいもかけず――だが政治的経験史のもっと先のレベルで――ふたたび党の独自の領分を発見させるのだった。「板垣の自由党」から「幻の自由党」への秩父困民党の歩みがこれだ。
だから党にとっては、反乱からコミューンにいたる革命の物語は、その変曲点ごとに党を実現し、かつ突きはなす、はてしないプロセスのように思えるのだ。党に値する党の経験は、いつも――革命の党であろうと反動の党であろうと――、大衆の革命過程との乗るかそるかのかけ合いなのである。そして、たえまなくこうしたかけ合いへと党を促すものこそ、固有の党の本性であり、この本性そのものは、いかに党の戦術の実現がくりかえされても解消しうるものではない。固有の党の本性がなけれぱ党の戦術もまたないからだ。
 
さて、党という政治形態をまって、いまや私たちは、革命過程と革命の物語のトータルなイメージをつくりあげることができるようになっている。革命における私の政治的経験史は、いまや随所で党を発見する。そして発見された党を媒介として、私がさらに新しい自分を発見し、形成するという両者の関係が展開する。だから、本書第一章からのアジテーターの遍歴史も、党の戦術的介入を随所で許すものとしてふりかえることができるであろう。
また党の側からすれは、革命とは、党が大衆のもとへ出てき、この大衆を獲得するために――大衆が自己権力へ接近することを助けるにしろ妨害するにしろ――諸党と抗争・競合する過程として了解することができる。反乱の最初の集団形成から自己権力へと、長い道筋をたどってきた私の政治的経験の全史も、党にとっては、戦術的対象(与件)であり、かつ自己実現の場だとして、いまや再把握することができるであろう。
 
 
第五節 大衆の党
 
 
一 大衆政党は革命にさいしかえって固有の党の宿命を露呈させる
 
そうだ、ボリシェヴィキはたしかに熱狂的に、不断に活動していた。彼らはくる日もくる日も、つねに大衆の問に、工場の中にいた。彼らはつねに大衆の間にあって、大事についても小事についても、工場や兵営の全生活を指導しつつあった。だから、大衆の党となったのである。大衆はボリシェヴィキとともに生き、ボリシェヴィキとともに呼吸していた。(33)
 
これは、レーニンの党がソヴェトの大衆と「ともに生き」、大衆を「指導」し、要するに「大衆の党となった」時期の党の描写である。これこそまさに大衆のうちで党が実現された姿だが、私は前節で、固有の党がどのような意味で「実現」されるのかを記述したのだった。党は、その戦術が大衆集団のヘゲモニーとして実現するたびに、いわばそのつど「大衆の党」となるのだった。そしてこうした事実が歴史的に蓄積されたとき、党は大衆政党という存在様式をとるようになる。
けれども、大衆政党としての党の定在は、これも前節で扱ったように、固有の党が革命の経験史へと否定・解消されることを意味するのだから、この政党を記述することは本書の興味の外にある。だが、「党とは何か」という問いのレベルを、スコラ的な思考が踏みはずすことを可能なかぎり防ぐために、党からみた大衆政党の位置をはっきりさせておくことにしよう。これは、固有の党とその戦術を抽象した本章の記述が、そのみかけに反して、理論が党というものの「リアリティー」に接近しうる、ぎりぎりの道であることを証明する助けになるであろう。
大衆政党の歴史的な位置は、いわゆる永続革命論の脈絡のうちで明瞭に把握することができる。問題はやや「革命政党」の領分に限定されるけれども、通常近代民主制の成立などから議論される政党論とは別種の真実を、「永続革命論」の歴史は明るみにだすはずである。ざっとでもこの歴史をふりかえってみよう。
 
プロレタリアートは、ますます、革命的社会主義、すなわち、ブルジョア自身が、それにたいしてブランキなる名称を考えだした共産主義の周囲に結集しつつある。この革命的社会主義の主張するところは、革命の永続の宣言であり、……(34)
 
十九世紀ヨーロッパの革命に起源をもつ「永続革命論」は、このように、若いマルクスとエンゲルスが、なによりもオーギュスト・ブランキの名に結びつけて自らのものとした立場であった。けれども、この革命論のもつ問題性は、当のエンゲルスがこれを否定したときにはじめて、全面的に露呈されたということができるだろう。いまではよく知られていることだが、一八四~五〇年当時の自らの革命論が、「革命の永続宣言」の立場であったことを明瞭に認めた、老エンゲルスの有名な「序文」(『フランスにおける階級闘争』序文、一八九五年)は、同時にこの立場を自己批判的に破棄することの表明ともなった。この老エンゲルスの「自己批判的総括」にしたがえば、永続革命論の定式は大略以下のようなものとなる。――「革命の最初の大きな成功ののち、勝利した少数者は分裂するのがつね」であり、これは、それまでの獲得物に満足する部分と、「もっと前進しようと欲して新しい要求を掲げる」部分との分裂である。ここに、「『人民』のなかに隠されている対立的要素のあいだの長期の闘争」が開始され、革命を「前へ前へとおしすすめる少数者」によって、「多数者の本来の利益のための革命」、すなわち「プロレタリアートの究極の勝利」が達成される。この究極の勝利を達成する「少数者」が、かつては「プロレタリア党」と呼ばれたものにほかならない。
このような「プロレタリア党」の運命が、「ブランキズム」として否定されていくとき、その反対に前景にせりだしてきたのが、まさに労働者階級の「大衆政党」という党のあり方であった。マルクスとエンゲルスの育てた、ドイツ社会民主党の成長がこれである。エンゲルスの観点では、若きプロレタリア党の夢がこの党の否定を通じて、ここドイツの「階級政党」に実現したのだといってよいであろう。いや、それはたんに一階級の政党ではない。彼はさきにふれた「序文」のなかで、ドイツ社会民主党の得票数の増加を評価してこう述べている——
 
この勢いですすめば、われわれは、今世紀のおわりまでには社会の中間層、小ブルジョア小農民の大多数を獲得して、国内の決定的な勢力に成長し、他のすべての勢力は、欲すると欲しないとにかかわらず、これに屈しなければならなくなる。この成長を不断に進行させて、ついにはおのずから今日の統治制度の手におえないまでにすること、この日々増強する強力部隊を前哨戦で消耗しないで決戦の日まで無傷のまま保っておくこと、これがわれわれの主要任務である。(35)
 
このような「人民の党」が、「日々増強する国内の決定的勢力」に、現実的根拠を確保しえていることは明らかである。この党は、その「指導し」「代表する」勢力の名において自らを正当化し、また党組織の内部をも、これに見合った形で整えることができる。党組織の拡大が得票数などで客観化しうるとともに、内部構造としても選挙制等の公開の「党内民主主義」を採用することができるであろう。また、こうした「人民の党」の成長こそ「科学的社会主義」の実現過程だとして、党はイデオロギー的にもその唯一性を正当づけることになる。
かくして、まさに「この勢いですすめば」、党は国民の「大多数を獲得」し、「国内の決定的な勢力に成長」するものと期待された。これこそ、ブランキと若きマルクスーエンゲルス時代の、少数派としての「プロレタリア党」の否定を意味することはことわるまでもない。しかし同時に、私のこれまでの文脈でいえば、老エンゲルスの楽観は、たんに「時代遅れ」の党の否定ではなく、およそ「固有の党」の宿命までも解消しうるのだという期待を意味していたであろう。実際、このような「人民の党」の存在が、今日では日常的に親しい政治形態となっていることは、ひとも知るとおりである。そしてこれが固有の党の私性を否定し、この否定を定形化する努力となっていることも明らかである。
だが悲劇的にも、エンゲルスの死後まもなくのこと、ほかならぬ彼のドイツ社会民主党において、「大衆政党」はけっして固有の党経験に代位しえぬことが、全面的に暴露されたのだった。
世紀の変り目から第一次大戦にかけて、ヨーロッパ左翼のほとんどすべてをまきこんだ論戦のことはここではふれない。だが実際、一九一八年のドイツ革命に出くわしたとき、当の社会民主党が経験せずにはすまなかった混乱と組織の分解は、大衆政党の「日々増強する強力部隊」を「決戦の日まで無傷のまま保っておくこと」などが、そもそも「決戦の日」に対処しえぬことを暴露したのである。どだい、革命に際してドイツの大衆が見出した集団は、党の指導する労働者組織などではなく、ソヴェトと同様のレーテ(評議会)だったのだ。
この革命までは、大衆政党としてのドイツ社会民主党の成功は、この党の現状維持派のみならず、ローザ・ルクセンブルクのような革命派をも幻惑してきたのだった。「社会民主党は、労働者階級の組織と結合されているのではなく、労働者階級それ自身の運動なのだ」とまで主張する彼女は、まさにこのような大衆政党の名のもとに、「ブランキズム」を論難してやまなかった。だが、実際にドイツ革命に出くわし、社会民主党の分裂を経験するや、このローザ・ルクセンブルク白身が、当の「ブランキズム」の妖怪を呼びよせざるをえなかったことは、真に逆説的なことであった。
彼女が、革命渦中のドイツ共産党創立大会でおこなった演説(「綱領について」)を聴こう。彼女は、エンゲルス晩年の立場を名ざしで「誤謬」ときめつけ、「かつてマルクスとエンゲルスが一八四八年に立っていた地盤の上に、ふたたびわれわれの綱領を据える」と宣言したのだった。くりかえすまでもなく、「一八四八年の地盤」とは、なによりもブランキの名に結びつけられた「革命の永続宣言」の立場であった。事実、彼女のこの演説は、勝利したドイツ革命の段階的な究極の発展へむけて、彼女の党の戦術をととのえることに集中している。十月革命のレニンヘの接近は明らかである。「ドイツについでいかなる国にプロレタリア革命が突発しようとも、革命の最初の動きは、労働者・兵士評議会の形成だろう」と、「われわれは確信をもって言い切ることができる」――このようにまで彼女は同じ演説で断言している。
それではドイツ社会民主党――かつての「大衆政党」――は、革命に出会ってどうなってしまったのか。レーニンではないが、革命では労働者が「たんなる普通の組織ではない、まったく別の組織」を発見するということが、ここドイツでも起ったのだ。かつての「労働者階級それ自身の運動」は、まさに革命過程へと政治的に溶解したのである。その結果発見された「まったく別の組織」――レーテ(ソヴェト)という大衆権力機関——が、旧社民党となおどのようにつながっていようと、革命の政治的経験史を歩む大衆の新たな自己形成を、ここレーテに明瞭に読みとることができるであろう。
だから、この大衆集団の自己形成と実践的に相関する固有の党もまた、あたかも新たなもののごとくに経験の場に登場してくるのである。旧大衆政党が革命の大衆権力へと溶解することによって――組織的にこの党が分解しつくすかどうかは別にしても――、この大衆政党がかえって固有の、戦術としての党を露骨に明るみにだすのだ。実際、「革命を蛇蜴のごとく憎」んだ「エーベルト—シャィデマン一派」から、永続革命論に復帰した「スパルタクス団」にいたる諸党へと、エンゲルスの大衆政党は分裂したのだった。大衆政党はしたがって、革命へと政治的に分解することによって、そのうちにかえって大衆権力から自らを区別する固有の諸党の経験をきわだたすのだといっていいであろう。前節までに、大衆政党との組織形態の差異ではなく経験の独自性として、ことさら「固有の党」が扱われたのも、こうした事実経過を背後にもってのことであった。
一九一七年十月のレーニンの党も、まったくのところ以上のような歴史的脈絡のうえで、その党の独自性を展開したのだった。それゆえにまた、レーニンの十月は死にぎわのローザ・ルクセンブルクと同様に、永続革命論のある意味の復権をもたらしたということができる。
ひるがえってみれば、ブランキの時代の永続革命論は、雑多で広範な革命的「人民」によって「自然力」のように展開される、十九世紀の革命事情に明らかに規定されていた。大衆の政治的諸集団の客観的な力学過程としてではなく、たんに「自然発生的」な破壊力として進行する十九世紀の革命にだ。今日のように、「人民」一般などは存在せず、革命の前も後も、大衆がさまざまの性格で組織化されている(される)のとは、大きく事情を異にしていたであろう。そうであればこそ、旧権力を一挙的に転覆した革命的「人民」と少数の「プロレタリア党」とのあいだが、大衆の政治的諸組織に媒介されることはなく、したがって「プロレタリア党」はまさに戦術行使の根拠を欠き、「人民」にいわば直接的に訴える以外にはなかったであろう。したがって、党による革命の永続化は、戦術を媒介にするのではなく、端的に思想上、行動上「人民」を代行する形をとった。ブランキの秘密結社による武装蜂起と「プロレタリア独裁」は、こうした事情の直接的表現だったと考えられる。
ただブランキ以降も同じような事情のもとで、人民への「警鐘の乱打」や「前段階蜂起」等々の悪名高い少数派「ブランキスト」の行動が、跡を断つことはなかったのだから、ブランキ的永続革命論が歴史上過去のものだとするわけにはけっしていかない。それはいまも変らず、反乱初期に固有の理論と行動の形だといってよい。それゆえ、以上は、「ブランキの(時代の)永続革命論」ではなく、いわば永続革命論の「ブランキ的形態」とでも名づけるべきものであろう。
ブランキ的永続革命論がこのような客観的事情にもとづいていたとすれば、老エンゲルス以降の社会民主党が、なによりも「大衆政党を欠く」というかどでブランキズムを論難するのは当然であった。けれども、こうした大衆政党は、すでにみたように、永続革命そのものを廃絶し、革命をこの政党の「日々増強」に閉じこめることはできなかったのだから、ここにかえって、新たな永続革命論と固有の党思想とが発見されることになったのである。
しかしくりかえすまでもなく、この場合は、ブランキ的形態のごとく、革命を駆動させる内部の力が「人民」の「諸傾向」や「対立的要素」のように抽象的な対立ではなく、明確な諸集団の政治的へゲモニーの闘争として表現されるのである。だから、レーニンが革命の渦中で、自らの党の戦術をくりかえし「ブランキズム」から区別したとしても、これを文字どおりに受けとってはならない。レーニンは、いわば永続革命論のブランキ的形態とレーニン的形態との差異を明るみにだしたにすぎないのだ。
こうしていま、永続革命論のレーニン的形態から、党をめぐる歴史的事情をふりかえってみるとき、大衆政党という党の形が「プロレタリア党」の否定として形成されながら、およそ革命を問題とするかぎり、固有の党的経験にとって代り、その宿命までも「克服」することなどできないことがはっきりする。革命に臨んで、人民の強大な大衆政党が、身のうちからかえって固有の党の宿命を露呈することは、この二つの党が、「時代遅れ」と「歴史的進歩」として区別されるべきものではなく、まさに政治のカテゴリー的な区別であることを意味している。レーニンの組織思想の形成期に、ローザ・ルクセンブルクがボリシェヴィキ党を次のように非難するのを聞くとき、時の歴史的事情を超えて、この異なるカテゴリーの対立こそがすでに二人をとらえているのだと、私は思いいたるのだ。すなわち――
 
ブランキズムは、労働者大衆の直接的階級行動を考慮におかず、従ってまた、それは大衆政党を必要としない。それどころか、広汎な人民大衆は革命の瞬間になってはじめて戦闘場裡に登場するものとされ、しかも事前の行動といえば、ごく少数者による革命的奇襲攻撃の準備というに尽きた。
それゆえ、この一定の任務を託された人々を人民大衆から鋭く分離することが、彼らの任務達成のために、まず要求された。しかし、そうした行動が可能であり、実行されたのは、ブランキスト的組織の陰謀的活動と人民大衆の日常生活とのあいだに、まったく何一つ内的連関が存在しなかったためである。(36)
 
「大衆政党」ではなく「ごく少数者」であり、「人民大衆から鋭く分離」され、また「人民大衆の日常生活との内的連関」を欠く組織! ――組織形態としてではなく経験の独自性としてこれを読むならば、まさにこれこそ固有の党の性格にほかならない。
だがローザ・ルクセンブルクの場合、なぜこの組織が「ブランキスト的組織」であり、大衆政党を「必要とせず」、たんに「革命的奇襲攻撃の準備」に尽きるのだといわれるのか。明らかに、この組織が戦術的媒介を欠いているからなのであって、人民大衆から「鋭く分離」された組織のゆえではないのだ。彼女がここでいうブランキスト的組織とは、もちろんレーニンの党を指しているのであり、結果的にいえば、大衆権力にたいするレーニンの戦術の本質を、まさに彼女は見落していたのである。次節に述べるように、「革命的奇襲攻撃の準備」は、レーニンの党にとっては戦術の実現の帰結であり、しかも戦術の本性の疎外態(国家権力奪取の「クーデタの技術」)にすぎないのである。戦術的媒介を欠いた「革命的奇襲攻撃」は、ブランキの二度の武装蜂起がそうであったように、いわば私的な組織の私性のままの登場である。しかしこれとても――成功するにしろ失敗するにしろ――党的集団の私性を露呈するとともに、能動的な実践という党の政治の本質を開示しているのである。
 
 
二 大衆政党は固有の党を否定するが党の宿命までは解消しえない
 
さてそれでは、いま私のまえに存在する大衆政党とは何か。私は、固有の党を否定する努力が大衆政党の形成を促したとさきに書いたけれども、いまではどこから見ても、固有の党の宿命などをこの政党からうかがうことはできないかもしれない。「少数者の党」を否定する大衆政党の歴史的経験の蓄積が、それを私の目からすっかり見えなくしているのである。
けれども実のところ、大衆政党とは、固有の党の経験がその実現の形態の一つとして形成したものなのである。前節で、「党の実現」の形とは、まさに私の政治的経験史の展開そのものだといわれたことを、ここにおもいだしてほしい。だから同じことを組織的にいい直せば、党が実現される組織形態こそまさに私の集団とそのヘゲモニーなのである。通常革命の大衆諸集団が、「党の大衆組織」とか「党がヘゲモニーを握る組織」とか、党の観点で意義づけられる事実は、このことをよく示している。だからこの意味で大衆政党は、党がそのうちに自らを実現する大衆組織の、いわば「最高形態」だといってよい。したがって当然、この政治形態は私の政治的経験のカテゴリーに属するのだ。
いま、党の戦術に対応する組織的媒介の形成を党の組織戦術と呼ぶならば、党はこの組織戦術の最高の成果として大衆政党を意義づける。してみれば、大衆政党が歴史的に党の否定の努力として形成された事実も、同時に、カテゴリー的な意味をもっていたというべきである。なぜなら、党の実現とは、すでにみたように固有の党的経験の否定・解消にほかならないからだ。だからまた、党の戦術の実現がどのように重ねられても、党の本性までも解消することはできないように、大衆政党の実現も、固有の党的経験を廃絶することなどできないのである。
もともと、なにか「固有の党」なるもの(組織)があり、これがそのままで反乱の戦術として機能すると考えるのは、現実問題として馬鹿げているだけでなく、党的経験の定義にも反することだ。党は組織としてではなく固有の経験としてのみ扱われているのであり、組織としては、党は大衆諸組織のヘゲモニーとしてしか見えてはこないのである。「党の大衆組織」から大衆政党にいたる、党の組織的実現形態がこれである。
したがって、党の戦術一般についてと同様、その組織戦術の具体的形態に関しても、私の記述はふれる必要はない。大衆政党の形成をも含めて、こうしたことは固有の党的経験には属さないからだ。それは、革命の大衆集団の経験として経験することができることであり、したがって、必要なことはすでにこれまでのこの私の長い政治的経験史のうちに、すべて書きこまれているのである。
ただ、大衆政党と党とのカテゴリー的な区別の問題を簡単に総括するために、一つだけ例をあげよう。ふたたびレーニンのことだ。ひとは、『何をなすべきか』を書いた当人が、その舌の根も乾かぬうちに、一九〇五年の革命に際会して、まるで正反対のことをいうのを聞いてびっくりするであろうか。すなわち――
 
労働者党の新しい組織形態、より正しくは、その基本的な組織上の細胞の新しい形態は、旧サークルと比較すれば、絶対にいっそう広範なものでなければならない。さらに、おそらく、新しい細胞はあまり厳重な定形をもたない、いっそう「自由な」、「ルーズな」組織でなければならないであろう。(37)
 
「いっそう広範」で「ルーズな」党組織(細胞)というのは、文字どおりに受けとるならば、まさに一九〇三年の党組織論の正反対である。実際、レーニンのこの「変節」は反対派の嘲笑をまねいたばかりでなく、かつての組織思想に忠実な党員をもすくなからず困惑させたのだった。一九〇五年のロシアの革命が、はじめてソヴェトという大衆権力を生みだしたとき、彼らボリシェヴィキはかつての師の言葉を墨守して、「党かソヴェトか」という二者択一的な選択を大衆に迫ったのである。党とその実現形態とのカテゴリー的区別が、彼らにもできていなかったのだと、今様にいうこともできよう。外国にいるレーニンが、遠方から手さぐりするようにこうつぶやくのも、まさに同じ時期のことである。
 
〔ロシア在住の同志たちが〕労働者代表ソヴェトか、党かという問題を出しているのは、私には正しくないようにおもわれる。解答は無条件に労働者代表ソヴェトも、党も、というのでなければならない。(38)
 
たしかに、ここでのレーニンの発言は、革命が実際に「結社の自由」を実現した時期のものであり、これに反し『何をなすべきか』は、なによりも専制ロシアでの非合法党の結成を念頭においたものだった。だから、大衆的革命のただなかでも「狭い党」組織に固執するのは、実際問題として馬鹿げたことであり、「現実家」レーニンが「党の再組織」を提起するのはあたりまえだといわれるかもしれない。だがそれでは、一九一七年の革命が起きたとき、今度はソヴェトと合体することを選んだボリシェヴィキにたいして、レーニンはどうして困難な党内闘争をいどまねばならなかったのか。くりかえすまでもなく、このレーニンの闘争は、まさに固有の党的経験を明るみにだす努力を意味していたのだった。
だから、もしも『何をなすべきか』の党組織論と、一九〇五年――そして一九一七年――の党の「再組織」の提起とを、同じく党の組織戦術のレベルでしかみないのであれば、レーニンは明らかに、その場その場で一貫性を欠いた庇理屈をこねていることになる。あるいは情況に応じた組織形態をという政治家のプラグマチズムしか、レーニンからはでてこないであろう。このようなレーニン批判もレーニン教条主義も、ともに、固有の党と大衆的ヘゲモニーとしての党とを、政治的経験のカテゴリーとして区別することをしていないのだ。固有の党の経験からすれば、職業革命家の非合法党も「広範でルーズな」党も、ともに、党というものの現象形態を意味していたのである。
たしかに、現実の党活動にとっては、党の組織戦術を実際にどう展開するかは、常に最重要の戦術課題である。というよりは、注目に値する党派間(内)の論戦は、昔もいまも、いつもこのような「組織問題」をめぐって起るのだといってよい。「改良か革命か」の綱領問題のレベルを抜けだしえなかったところに、ローザ・ルクセンブルクの悲劇もあった。
しかし、くりかえすがこうした問題は私の記述の範囲外にある。これは、ただ特定の党集団の具体的な政策問題として、事実的ないし歴史的にしか議論してはならないからだ。ここで強調すべきは、ただ、解消しえない党的経験の宿命だけである。党が「いっそう広範な」組織や大衆政党として実現されても、この宿命までも解消されるものではない。党はその場合、大衆的集団の政治的ヘゲモニーとしてしか見えてはこない、というだけのことである。
それが証拠に、党の長い歴史は、いわゆるフラクション組織論を生みだしてきたのである。党の組織戦術というものの本性をもっともよくあらわしているのがこれである。私はここでもその実際にふれることはできないが、大衆組織も大衆政党も、ただそのうちのフラクション組織の形成としてのみ、党に固有の組織問題に属するのだといってよいと思う。
 
 
第六節 エピローグ――国家へ
 
 
一 党はその実現のはてに党による国家権力奪取の課題に直面する
 
ボリシェヴィキは国家権力を掌握せねばならぬ。(39)
 
ロシア革命の九月十二日、突然、レーニンは彼の党にこう呼びかけはじめる。
四月に遠方から帰還して以降、ここにいたるまでの党の歩みは、政治的経験のレベルで象徴的にいえば、反乱以来の私の政治的経験史を、党の独自の観点が再度たどりなおすことを意味していた。そして「国家権力を掌握せよ」というレーニンの呼びかけとともに総体としての革命過程――党とこの私の政治的経験史――も、いまやまさに終局に近づいている。
四月には、ソヴェトを階級的に「分裂させる」ことであったレーニンの戦術は、いま九月には、当のソヴェトの「ボリシェヴィキ化」として、端的な実現をみることになった。そしてボリシェヴィキ化した「革命派ソヴェト」が、片や「協調派ソヴェト」に支持された「連立政権」と対時するという二重権力状況が、いまやこの状況の決定的解決を要求している。私の政治的経験史をひるがえってみれば、私は、自己を形成することによって「他者」――ある場合には「敵」――を挑発的に定立するという、「二重権力」のからみ合いを不断に展開してきたのであり、これはいまや、時の政治世界を載然と二分する二つの権力の対決を生みおとしたのだ。しかも、ここで二つの権力の対立は、同時に、それぞれ大衆権力に根をもつ二つの党の対立として表現されているのである。
実際、ソヴェトという大衆権力の「ボリシェヴィキ化」とは、ソヴェトがこの党のスローガンを採用するとともに、党がソヴェト代議員の多数派を獲得した事実をさしていた。いいかえれば、ソヴェ卜という大衆の「独裁」が、ここでは同時に、ボリシェヴィキ党の独裁に転化したのである。党の戦術が、「大衆権力=大衆の党」という独裁へと、最終的に実現したのだといってもよい。
ひるがえってみれば、党は、まさにこのような党の実現を願って戦術を行使してきたのである。革命は大衆自身の事業であり、党はただこれを援助するにすぎないという命題を、このように実践してきたのだ。だが、大衆権力=党という独裁の実現は、逆説的にも固有の党の最終的解消を意味するのだから、いまここに響いてくる冒頭のレーニンの呼び声は、なにかひどく唐突のものに思えよう。なぜいまさらふたたび「党が――」なのか。
 「全権力をソヴェトヘ」というボリシェヴィキのスローガンは、当然、「全権力」、つまり国家権力の掌握の問題を論理的には含んでいた。また、このスローガンはボリシェヴィキの党派的スローガンだったのだから、この実現が、ソヴェト=党による「全権力」の獲得を結果することもまた、論理的には自明にみえる。だがそうであればこそ、この独裁が実現したいま、なぜことさらに党が国家権力を掌握すべきだといわれるのか。
事実、九月にいたるまでは、党による奪権の主張はあらわれていない(全ロシア労兵ソヴェト第一回大会における有名な演説があるが、これは「決意表明」であり、なお党の政策とされているのではない)。レーニンは、国家権力の掌握をソヴェトに勧めているのであり、その意味はかならずしも明らかではないが、ソヴェ卜多数派が自ら政府を組織すること――ドィッチャーのいう「ソヴェ卜立憲主義」の路線――であったろう。したがってこの段階では、国家権力の掌握は、ソヴェト権力自らの課題として提起されていたということができる。最初から、ソヴェト権力を「新しい国家の型」といいつづけてきたレーニンの、自然の帰結であったろう。だから、「全権力をソヴェトヘ」といいうスローガンは、ソヴェト自体の政策として実現されるべき事柄であり、国家権力の掌握の問題は、なおソヴェトにたいする党の戦術の問題と考えられていたのである。いいかえれば、この課題を、党がソヴェトに代って実現するという、およそ党の戦術の範疇を超えた問題は、いまだ経験の領野に登場してはいなかったのだ。
けれども、党の最終的な実現が、逆に、かえってふたたび固有の党経験を生起させるのだと、レーニンの呼びかけはいっている。これこそは、国家権力獲得のための党の武装蜂起といわれる経験である。九月に「国家権力を掌握する」ことは、レーニンにとって、もっぱら党が武装蜂起を準備することとして提起される。党はすでにソヴェトの「大多数の意志」を体現している。けれども、「国家権力の獲得」のためにはそれだけでは「不十分」だと彼は主張する。
 
革命では敵階級を打ちやぶらなければならず、この階級を擁護している国家権力をたおさなければならないが、それには、「人民の大多数の意志」だけでは不十分であり、戦う意志と能力をもっている革命的諸階級の力が、しかも決定的な瞬間に決定的な場所で敵の勢力を粉砕できる力が必要である。(40)
 
ここで、敵国家権力を打倒しうる「革命的諸階級の力」が、「人民の大多数」ではなく、事実上、党をさしていることは明白である。革命で国家権力を倒すためには、大衆権力=党独裁を国家独裁に転化しなければならないのであり、しかも「決定的な瞬間に決定的な場所で」、この仕事(武装蜂起)を決行するのはただ党によるしかない――このようにレーニンは主張している。
たしかにいまは、党とはいっても事実上は大衆権力を代表しているのだから、党は、その武装蜂起にソヴェトの武装蜂起という格好をつけることができよう。だが、このような実際上のこととしてではなく、大衆の政治的ヘゲモニーからふたたびしいて身を離す点で、武装蜂起の経験は党にとって新しい。「ソヴェト立憲主義」が、多数派代表としてボリシェヴィキの政権を選ぶという過程――それが可能だとして――と対比するときこの過程になお武装蜂起として介入しようとする、党の決意性は著しいのだ。だから、ここでもふたたび、大衆の革命過程にたいする党的実践の独自性が強調される。「あらゆる革命で、労働者と農民の大多数の意志は民主主義に味方していたにもかかわらず、圧倒的多数の革命は民主主義派の敗北におわった」のであり、これに反して、いま党は、「全国での投票のきっちり半数プラス一票を獲得するという保障」などを無視して、武装蜂起を決行しなければならないのだ、と。(41)
一見するところでは、武装蜂起もまた、大衆に国家権力をとらせるという意味で、党の戦術の範疇に属するようにも思えよう。事実、トロツキーなどの現場の党は、このようにとらえていただろうし、事実の経過は「とる」といっても「とらせる」といっても、大きな差は生じなかったにちがいない。だが、党的経験の独自性を追ってきた記述の文脈でいえば、党の戦術はこの党の最終的実現のうちに解消しているのだから、ふたたび見出された独自の党の機能は、すでに戦術ですらないのだ。端的にいって、党はここではじめて「直接の権力」として発動し、大衆権力に代って、国家権力奪取の仕事をひきうけ、これを党の蜂起として実行する。これまで党の実践――戦術――は、まさに大衆にやらせるという点で、大衆を「代表する」とか「代行する」とかから遠かったのだが、このような戦術の性格と対比するとき、党が自ら武装蜂起を実行するという経験は、党自体にとって新しいのである。
「蜂起を戦闘術として扱わねばならない」と、この場所で、レーニンはくりかえし強調する。この発言は、党の武装蜂起が、四月以来の戦術的実践の連鎖から、いかに離れたものであるかを物語っている。あらゆる「革命」や「大衆」の名辞を離れて、党の実践はここでは「戦闘術」、すなわち、ザハリッヒに「戦争の技術」という形をとるのだから。
ボリシェヴィキ党の心臓部で、やっかいな党内闘争が再燃するのも、まさしく、この国家権力の掌握・党の武装蜂起をめぐってであった。かつて四月には、党の戦術の採用にかんして、レーニンの党内闘争がおこなわれたのだが、こんどは、戦術という固有の党経験からの逸脱をめぐって、また分派闘争が発生する!
党の蜂起と戦術との相異は、クーデタか民主主義的手段かとか、武装か非武装かとかいう、形態上のちがいにあるのではない。ただ大衆権力にたいする党の位置が、二つの行為ではちがうのである。それゆえ、党の戦術の実現がこれまでに著しければ著しいほど、このように「大衆的な」党にとってこそ、国家権力の掌握行為を代行するという決意が、新たな事件を意味するものとなるのだ。この不安の決意性において、四月のときに倍加して党内闘争が再現されたのは、ボリシェヴィキにとって当然といえば当然であったろう。
一般的にいえば、党の武装蜂起は、もちろん、国家権力の奪取をいつも現実的課題とするわけではない。地方的な権力の奪取や、あるいは潰えた荒唐無稽の蜂起の例は、党を主体とする場合に限定したとしてもたくさんある。だがロシアの例は、国家権力の掌握――全国的な二重権力状態の解決――として、党の武装蜂起があっただけでなく、党の大衆的権力への実現を前提にして、はじめてこれが提起されたところに、きわだった特色をもっている。大衆的経験の半ばで、なにか武装反革命などが発生し、外部から、党が蜂起へと強制されたのではなく、ソヴェト自体の展開のなかで、この問題が発生したのだと考えていいであろう。ここから私は、戦術的実践の代りに決行される「ブランキズム的」行為ではなく、まさに戦術の実現によってはじめて現実化する党の経験として、党の武装蜂起を抽象したのである。
 
 
二 国家権力を奪取した党と私はあらためて国家へさしむけられる
 
 党の武装蜂起は、以上のような意味で、党の戦術的実践の本性を逆に照射している。しかし、それだけではない。いやむしろ、ここにはじめて、国家という政治形態の問題が全面的に登場することを、党の武装蜂起は告げているのである。戦術を通じた党の実現が、最終的に、「大衆権力=党」という「人民内部」の独裁をもたらすことは、すでに戦術の定義のうちに含まれていたといってよい。だがこの独裁を、さらに国家独裁へと転化することは、戦術の定義を超える問題であり、実際上はともかく、理論上はすこしも自明の問題ではないのである。この理由は、まさに党の武装蜂起が課題とする、「国家」という政治形態の特異性にもとづいている。
たしかに、大衆の自己権力の組織化にいたる長い闘争の過程は、そのつど、自らの共同性を「新しい生活」として組織する経験であった。ここで「新しい生活」とは、いうまでもなく、従来の政治的・社会的観念の否定として組織されるのであり、通常一国家のテリトリー内部に、この国家の観念を否定する共同性が息づきはじめることを意味している。それゆえ、この新しい共同性が、一つの大衆権力として、旧支配者と政治世界を二分する力にまで成長したとき、レーニンですら、この権力を、従来の「法律に基礎をおかない」、「新興階級」の「新しい型の国家」とみなしたのだった。
ここから、たとえばアナキストのように、人民の「新しい生活」の闘いが、旧秩序の全面的で長期にわたる混乱をつくりだすことによって、旧国家をも無化しうるという幻想が生れてくる。このように革命的混乱を通じてにせよ、あるいは漸進的秩序を保ちつつにせよ、新しい生活の生産が、いわば国家の内から国家を解消するのだという政治思想は、いまにいたるもたえず再生産されていることはいうまでもない。だが、これまでの私の政治的経験史は、私による新しい生活の生産をも、つねに政治的事件として展開してきたのであり、くりかえすまでもなくこの過程は、同時に、政治的な敵の挑発的な形成史を、その裏面史として生みだすものであった。私の、この政治的双生児の形成史が、私の経験史となにか根本的に異なる性格をもつ――一方の生成史は他方の衰亡史だというように――と主張する根拠は、じつは政治的には何もないのである。
たしかに、近代のブルジョア革命では、数百年を生きてきた旧国家権力の打倒は――この機会が遅れれば遅れるほど、たとえばドイツ革命のように――革命というよりはむしろ「崩壊」ともいうべき現象を呈した。「革命の一撃」が、すでに国家権力を解消してしまったのだとも、うけとられるかもしれない。しかしじつは、政治革命に値する革命の問題は、まさにこの旧国家権力の解消の瞬間から、スタートするのである。そして、たとえばこの瞬間から始動する私の政治的経験史は、ついには国家をも端的な政治集団=近代の政治権力として挑発的に再発見させるのだと、これまでもいわれてきたのである。
こうして、いまや私の政治集団が端的に政治権力であることに対応して、私が敵対する国家もまたそうである。厳密な意味での二重権力状態が、私の経験史のこのような産物(成果)をさすことはいうまでもない。
国家権力の奪取をめざす党の武装蜂起の問題が、こうした背景のうえで、ある必然性をもって登場する。「一つの国家に二つの権力は存在しない。そのうち一方は消滅しなければならない」とレーニンがいうとき、まさに自己を権力として形成してきた二つの政治集団の対立が、その解決を要求しているのであって、旧国家と「新しい型の国家」との対立などではないのだ。国家はここでは権力――もっといえば端的にゲバルト――とみなされ、これに対応して、武装蜂起の主体もまた軍隊のごときものへと疎外される。そして、蜂起はまさにこの二つのゲバルト間の戦争という結着を意味するようになる。レーニンの命題ではないが、「蜂起は技術として扱わねばならない。」
たしかに、これまでの私と党の政治的経験史に対比するとき、党の武装蜂起による二重権力の結着は、政治をゲバルトへと疎外することにほかならない。だからそのかぎり、党の蜂起は、政治力学として自明の結果であり、それゆえに、党の戦術的働きに比べればとるに足りない出来事だということもできる。革命とは「国家権力を奪取する」ことだとする政治的思考によって、ひとはいつも、党の武装蜂起という事件を過大に考えるけれども、武装蜂起そのものは、アナキスト的幻想にたいして、政治力学的に自明だというにすぎないのだ。むしろ、これが、彼我の政治的形成史の決定的な帰結だという点に、武装蜂起の重大な意味がある。反乱からいまにいたる私の歩みは、政治における客観的なものを析出し、これを身にこうむる過程だったのだが、二つの権力の対立状況は、この過程の、あるぎりぎりの成果なのだ。だから、この意味からすれば、蜂起という端的に客観的な事態の結着には、じつは、ここにいたる政治の形成史――政治における客観的なものの全形成史――がこめられていると了解しなければならない。 
ひとは、レーニンの「国家論」が、きわめて一面的な国家ゲバルト論だといって非難する。だが、四月の戦術提起以降、いまや党の武装蜂起を目前にひかえて、彼の『国家と革命』(八月)にとって、ほかにどのような国家論がありえたろうか。くりかえしいうように革命にあっては、私が自らを権力に形成するように、国家もまた自己を国家権力へと再形成するものだからだ。私も国家も、その日常の存在とはそれこそわけがちがうのである。たしかに、『国家と革命』の国家観は一面的なものだけれども、この一面性は、レーニンのせいなどというより、はるかに政治的形成というものの一面性ではないか。
とはいってももちろん、革命過程では、国家や権力がたんにゲバルトなのだというのではない。これまで、あらゆる政治集団の形成が、「たんなるゲバルト」などの対極で経験されてきたことを想起するまでもないであろう。どだい、いつの世でも、革命に値する革命は、およそあらゆる分野の事柄にとってなにかであった。しかし、この革命を、もっぱら政治的出来事として経験するところに、私の政治的遍歴史ははじまったのだから、政治は、あらゆる「なにか」としての革命に対比するとき、やはり一面性をまぬがれることができないのである。
反乱の共同性が「新しい生活」の生産として、しばしば政治的枠組をあふれ出るように、反乱や革命の全体性にたいして、政治的形成はすでに出発点からして一つの自己限定であった。まして一国家の領分内でこの国家観念を否認する――「法律に基礎をおかない」――共同性が根づいていくときここでの国家や反国家の観念に比べれば、武装蜂起が掌握しようとする「国家権力」などは、政治的に「狭い」概念なのである。国家権力とは、それゆえ国家そのものにとっても一面的な存在なのだ。
こうして、党の武装蜂起による国家権力の掌握は、国家の問題にけりをつけるのでもなければ、ここから国家が「解消」にむかうことを意味しているのでもない。むしろ、国家の問題がこの瞬間からはじまる。掌握した国家権力を運営せねばならない、という実際上のことではなく、政治は、国家権力にまで自己疎外した、政治的形成の一面性を破壊する仕事に、いまからとりくまねばならないのだ。かつて、この一面性を容認することを拒否した反政治の主張をしりぞけて、私は政治的なものの宿命の生成を追ってきたのだから、この一面性を破壊する仕事は、もはやたんに政治的な経験ではありえないであろう。国家権力の掌握は、党を――そして私を――国家というはるかに途方もないものへと、いまやさしむけるのだ。その結果、私や党に今度は何が起るのか――
しかし、私たちの歴史は、これが本当に何であるかを、なお明示することに成功してはいない。「共産主義国家」とか「無階級社会」とかのあらゆるふれこみに反して、私はいまも、くりかえし、私の政治的遍歴の歩みへとさしもどされることになるであろう。
〔付記〕本書に収録できなかったが、レーニンの「党」をその「言語」の面から論じた「言語の永久革命――レーニンにおける政治言語の構造」(『現代の眼』一九七六年六月号)を本章の補論として参照されたい。