福祉の崩壊と介護労働 佐藤義夫

Common Ground
人々の共同性への希求は、これまでも常に『個人の孤独』がなかったかもしれない過去の記憶をたどりながら、『個人の孤独』がなくなるかもしれない未来(「この私は一人ではなかった」!)へと向けた社会変革の原動力となってきた

| HOME | LibraryFiles | 福祉の崩壊と介護労働 |  

福祉の崩壊と介護労働

「第三者評価」が評価しないものー(月刊『社会運動」314 2008年8月15日)
 
 
 kaigoroudou.pdf 
福祉の崩壊
 
 東京都の福祉サービス第三者評価事業「以下第三者評価」に参加して数年が経つ。高齢者だけでなく、障害や児童、女性の施設など様々な施設の現状を見る機会に恵まれている。
 第三者評価の目的は、福祉の市場化に伴い、「(福祉の)市場が成り立つルールづくりとゲームのプレイヤーの行動規範」を作り、同時に利用者への情報を提供する事だといわれてきた(『福祉サービス第三者評価の手引き』2003年)。
 しかし、第三者評価が「社会的なウエルフェアを高めて、効率性、効果をあげる」(栃本一三郎)前に、当の福祉や介護が文字通り壊れつつある。
 何よりも福祉の担い手がいなくなった。どこの施設でも慢性的な人材の不足に悩まされている。介護労働者の低賃金もさることながら、志を持った若い人たちが燃え尽き症候群の中で職場から去っていく。
 利用者もまたこれまでとはまったく違ってきたという話も聞く。児童養護施設ではほとんどのどの子どもの入所の理由は発達障害によるもので、よかれ悪しかれこれまでの施設の運営を規定していた集団の共同性というものが崩壊しつつある。高齢者施設では老人たちの様々な要求に応えることが物理的に不可能になってきている。にもかかわらず、社会は介護労働者にこれまで以上の倫理と自己犠牲を要求してやまない。
 どうして、福祉はこうも簡単に壊れていったのだろうか。果たして、今日のこうした事態は第三者評価にとっては想定外のことだったのだろうか。
 
倫理の強制
 
 介護労働は、その対象が一般的な消費者ではなく、弱者や老人といった特殊な存在性格を持つ人々であることによって特徴的づけられている。そして、そうした特徴から、介護労働は「感情労働」と呼ばれる。そこでは、利用者への態度や姿勢が特殊に強調され、肉体労働であると同時に、絶えず相手の気持ちを察しながら必要とされるケアを提供することが求められる。介護労働が「気づきの労働」といわれるゆえんである。
 そして、その代償は、金銭面での報酬ではなく、「『気づく』ことによって得られる利用者の笑顔、そして感謝の言葉が自分たちの仕事の最大にして唯一の報酬である」(『働きすぎる若者たち』阿部真大 生活人新書 2007年)と言われる。
 とりわけユニットケアなどの小集団での距離の近い関係の中で、介護労働者たちは自己放棄と自己犠牲の倫理的共同体を形成する。これがユニットケアなどの共同体の病理を説明する。しかし、相手への際限ない配慮と感受性の要求は、目の前の利用者によるものだけではなく、その背景に、ケアをめぐる世間の口当たりのいい理念があることを見逃してはならない。
 社会が介護労働に倫理の問題として感受性と共感の強制を行うことによって、若者たちを燃え尽き症候群へと追いやり、使い捨てにしているのである。
 
労働と〈生〉の分離
 
 このような、介護労働のあり方に対して、阿部真大氏はいくつかの処方箋を提案している。そのひとつは、生きがいややりがいを求めるならば、労働それ自体によってはなく労働の外部に出よという主張である。
 労働は「生きがい」であると同時に、市場労働において商品として交換される(労働の自己疎外)以上、また「苦痛」であり「労苦」でもある。ここから、欧米では労働を生活から切り離して単なる手段と見なす習慣が定着した。労働することに「意味」など問いえない。ヨーロッパにおいて、「働きがい」をもって時間外労働をするのは一部のワーカーホリックな幹部だけといわれた。労働力の商品化は労働者の〈生〉(生活、いのち)を、あたかも、市場がその外部に自然環境を残す(外部経済)ように、労働市場の外部へと押しやった。
 かくしてヨーロッパにおいては、労働(職場)の外に、プロレタリアートの文化と地域、相互扶助組織が形成された。その成果が労働組合と社会民主主義政権、あるいはアメリカにおけるニューディール政策であり、福祉国家の実現である。
 しかしその後、社会主義の崩壊や80年のレーガン・サッチャー政権による新自由主義の登場と共に福祉社会の再編が行われ、福祉主義の急速な解体が進んだ。
 
新自由主義の労働
 
 ポスト産業社会、大衆消費社会と呼ばれる時代に至って、大量生産・大量消費から消費主導の社会への転換の中で、労働もまた金を得るための「手段」と生のための消費という「目的」の分離が不分明になった。そして、そのことが労働力商品としての労働者という古典的労働論をも解体した。
 結果、古典的労働論に代わるものとして「感情労働」を軸とした労働の再定義が行なわれた。それが、「『新経営主義』と呼ばれる一連のテクノロジー」(『魂の労働』渋谷望 青土社 2003年)といわれる。
 「それは、『押し付けがましい管理や官僚主義的コントロール』を弱めながらも従業員を管理するために『消費者からのフィードバック』を用」い。「従来の経営者からの(『上からの』)指令をいわば消費者からの指令に置きかえるもの」である。
 新自由主義における労働は、労働者の〈生〉までを含めた二重の搾取と収奪の論理と機構の中に置かれた。福祉労働(感情労働)とは、決して福祉や介護に特殊なものではなく、今日の労働の性格の先鋭的な表現である。「お客様は神様」となったのである。
 
労働者階級の既得権
 
 かつて、QC活動などの「労働者の感情の管理のテクノロジー」に代表される日本的経営は、欧米からは日本的搾取と評価されたが、一方で、ヨーロッパでは労働の外部に形成された福祉社会を終身雇用と恵まれた企業内福祉という形で企業の内部に実現した。言いかえれば、わが国では、企業の外部に〈生〉を作り出すことに失敗した。
 そして皮肉なことに、福祉社会が世界的に解体される中で、日本において福祉社会は企業内に温存され、今や真の「労働者階級」は大企業労働組合員と公務員だけという奇妙な現象が起きている。派遣労働者や企業内での若者や女性、下請け企業の使い捨てなどに代表される日本的格差社会はこの裏面史である。
 こうした格差社会の日本的構造については城繁幸氏が、敵は既得権を持った労使アベック体制であると明確に規定している(『3年で辞めた若者たちはどこへ行ったのか』城繁幸 ちくま新書 2008年)。
 
貧しい主体性
 
 若者たちが、「やりがいのある労働」だと社会に鼓舞されて、福祉労働へと入る。しかし、そこには肉体と精神の過酷な搾取が待っている。あるいは、ネットカフェで暮らすワーキングプアの若者が、せっかく稼いだお金をメイド喫茶で蕩尽する。今日の若者たちをめぐる報告にはいつもやりきれなさと切なさがつきまとう。
 私は、彼らの中に、飢餓感の伴った共同性への希求を強く感じることがある。自分が誰であるかを所属によっては確証できず、主体性をはぎ取られた何者でもない自己。自己は他者との関係で確認されるはずなのに、他者もまた何者でもない自己だから、自己であることの不安は解消されない。社会の中での身の置き所のない違和感と自分の居場所探し、そして小さな共同体への希求。さもなければ一人になるしかない自己がそこにいる。
 しかし、同時に彼らの希求は、自分への忠実さや他人への配慮の尊重から自他の関係を集団形成へとつなげていく視点を持ちえないまま、癒しやスピリチュアル、弱者への共感、ナラティブストーリーといった物語的なアプローチのように、語る者と聞く者の関係の問題に内閉していく。さらにまた、今日のケアの思想は「貧しい主体性」に、周りの他人の関係の在り方、あるいは他人や弱者への共感を絶えず問いかけながら、一方で、セラピーとして感情の自己管理を要求する。そうしたことを聞くことはとてもつらいことだ。
 「この私とは何か」という自己意識は、所属する階層によって規定されるとヘーゲルは書いた。しかし、消費社会というベースに、福祉社会の解体が重なることによって、「労働者(階級)」という労働の主体性(社会的な自己規定性)が見事なまでに解体され、自分という存在が社会関係から剥離して孤立した。今日、人は皆、大衆、消費者、住民であるほかない「貧しい主体性」となった。
 ユニットケアが「老人の中」へと駆り立てるのはこうした「貧しい主体性」である。彼らは今日では格差と貧困により文字通りの「貧しい主体」となり、二重・三重の収奪に置かれている。そこにあるのは社会の自己欺瞞である。
 
第三者評価が評価しないもの
 
 第三者評価には、福祉や介護の市場化を推進した新自由主義の思想のエッセンスがある。そのことは、第三者評価が評価しないものを通じてかえって鮮明なものとなる。
 東京都の第三者評価は、「顧客の視点から、自己変革を通じて新しい価値を創造し続けることのできる『経営の体質』づくり」をめざし、「世界60以上の国・地域で展開されている」「経営品質賞の考え方を取り入れ」ていると述べている(『福祉サービス第三者評価の手引き』2003年)。
 この第三者評価の特徴は、絶えず「気づき」を促しながら自己革新を求めるところにある。そして、自己革新へと事業所を駆り立てるエンジンは顧客満足度である。労働の変質にともなう「一連のテクノロジー」は、苦情処理システムや予防的なリスク管理などに典型的に見てとれる。そこでは、利用者の要求へのきめ細かい対応がよいサービス提供の条件とされ、職員が業務命令によってではなく、利用者によって指示されるしくみが作りだされる。さらに、リスク管理として、目の前の利用者のみならず未来の利用者をも予見しながら現在の労働を組み立てることが要請されている。
 しかし、そもそも経営できなければ撤退するのが市場主義のルールである以上、福祉や介護の置かれた矛盾に満ちた位置や状況の改善は本質的に問題たりえない。言いかえれば、第三者評価は、評価できるところしか評価しない。そして、そこで決定的に欠落しているものは、労働のあり方であり、それを規定している顧客あるいは顧客満足度というものの物神性である。
 「顧客満足のタイプも、あれもこれもというすべてのお客さまのすべての要望・期待にこたえるわけにはいきません。そんなことをしたら、高コストで参ってしまいます」(『経営品質向上活動入門コース』経営品質協議会 日本能率協会マネジメントセンター 2003年)。
 経営品質賞はあっさりと言うが、介護労働においては、理念や使命が社会から与えられている以上、「特定の顧客満足のタイプを選ぶ」ことはできない。ここでは、介護労働者を駆り立てるテクニックが巧妙に隠蔽されている。
 
「参加型福祉社会」とバイオポリティクス
 
 阿部真大氏は、労働に意味を求めずに労働の外部へ出て生きる意味を見いだせという。そして、目指すべきは、仕事以外にも多様な自己実現の場所を用意している「ふところの深い」社会であり、それは、中間集団(コミュニティ)を形成することによってなされるという。
 今日では、労働の外部での自己実現は「参加型福祉社会」の基本的なコンセプトであり、実際に多くの論者が、地域コミュニティづくり、助け合いの仲間づくり、社会的企業、NPO、協同組合、アソシェーションなどの様々な共同性の提案を行っている。
 今日の労働のあり方が、労働の外部にまで権力あるいは自己による管理(ガヴァナンス)を分散させることを通じて、〈生〉の領域での管理へまで拡張していることから、労働者と権力の攻防もかつてのように生産点をめぐる攻防ではなくなり、この〈生〉の諸領域で展開されることとなる。これを「生政治(バイオポリティクス)」(ミシェル・フーコー)と呼ぶ。今日では、生きがい、ボランティア、自己実現などをキーワードとした「参加型福祉社会」が、バイオポリティスの典型として理解される。
 こうした「参加型福祉社会」づくりの呼びかけは、どこか、ヨーロッパ的な福祉社会の再興のような響きがある。しかし、労働の外部に強固な福祉社会を形成したヨーロッパの経験を持たない日本にその基盤はあるだろうか。そしてまた、「参加型福祉社会」づくりの主体が「食い逃げ労働者階級」の主役である団塊の世代であることはどのような意味を持つのだろうか。
 
ガヴァナンスの外部化
 
 現在では、第三者評価のような評価の制度やシステムは、今日流行の「ガヴァナンス」(管理・統制)の一つの在り方となっており、福祉や介護だけではなく、企業や行政あるいは、大学の教育研究体制の審査など、社会の末端にまで要請されている。
 今日のガヴァナンスは、市場化の進展に伴って、従来のような国家行政による管理や統制では不十分となったことから、これを様々な諸集団を通じて末端組織にまで分散するものであり、新自由主義の主張する「小さな政府」の帰結でもある。
 第三者評価もまた、こうした動向の例外ではない。第三者評価というガヴァナンスは、評価のテクノロジー(生権力)が、顧客満足度など、介護施設の評価の基底をなしていることから、労働者個人の自己管理、自己自身の「第三者評価」にまで分散し、社会貢献などといった言葉にまで射程を延ばすことになる。ここに、倫理的搾取のテクノロジーとしての「労働者の感情の管理のテクノロジー」の典型が見てとれる。
 あるいは、介護組織の内部崩壊の現実が、かえってガヴァナンスの外部化を促進する。自己をガヴァナンスしようにも、自己とは何かが自分にとっても他者にとっても失われている。介護労働者はいまや「貧しい主体性」としての個人であり、同僚など他者との関係で自己を発見確認する労働の場所にはいない。空虚な自己は自らを根拠付けることができずに、社会や顧客といった評価を外部に要請すること(ガヴァナンスの外部化)によって、逆に自己の空虚さを隠ぺいする。
 
労働の自己評価から社会の評価へ
 
 介護労働を倫理的搾取から防衛することは、労働の外部に自己と〈生〉の実現を求める事によって過酷な労働に耐えるということではなく、介護労働を私たちの労働として再確立することを通じてなされるはずである。そして、そのためには、労働の場で、労働評価の基準を自己自身から同僚、さらに利用者、そして施設という「共同体」に外部化して共有することが必要である。
 もとより、老人と介護労働者の作り出す共同体は、相互の心身の機能の差異を前提とした異質な共同体であり、この共同体は、外部評価から強制される滅私奉公型の共同体でなく、なによりも共同体において自己の労働が実現される、そのような共同体を目指さねばならない。
 チーム労働である介護労働を共同体の労働とし、労働の自己評価を施設という共同体の自己評価として実現すること、介護の専門性もまた共同体の技術として共有されることが必要である。
 そして今日では、こうした労働者の労働の自己評価は、同時にこの社会の在り方への批判的視点に裏打ちされなければ可能とはならないだろう。端的にいえば、この社会の縮図としての消費者・顧客への批判を避けては通れない。介護サービスのクライアント自身が労働共同体の一員へと自分を変えていく過程を歩むこと、この過程を介護の共同体が支援することが必要となる。ここに、介護労働の特異性と可能性があるだろう。そして、またそこにケアの倫理の持つ多様性と共感の力、「あなたの苦痛は何ですか?」と問いかけることができる力が改めて発見されることだろう。
 
   ******************************
 はたして日本の社会は、労働を通じて「貧しい主体性」を豊かにしていくことに理解を示すだろうか。日本の「労働者階級」は自らの既得権を温存するために、非正規労働者にありとあらゆる矛盾を押し付けたまま、現前する貧困問題や格差問題を「福祉問題」として扱おうとする。あるいは反戦や平和とからませながら「人類の課題」にまで抽象化することで、自らの階級性を絶えずはぐらかす。今後、介護労働の対象たる老人は、世間体に縛られ習慣や伝統を重んじる世代から、団塊の世代へ入れ替わっていく。彼らが、社会参加やボランティアをこれからの生きがいだと喧伝するのは自由だが、自由に節度はあるだろうか。団塊の世代は、食い逃げ労働者と若者=介護労働者の対決が潜在していることに対して自覚的でなければならない。介護において批判的に問われるのは、クライアント(団塊の世代)自体の生き方死に方でもあることを忘れてはならない。
 
 

inserted by FC2 system