1968年の後遺症
『情況』2008年9月(情況出版)

世界革命
一九六八年の世界的な運動は歴史上はじめての成功した世界革命であり、何ら新しい政治体制を残さなかったとはいえ、革命の衝撃は現在にまで継続している。こういう見解がある(ウォーラースティン『アフター・リベラリズム』)。ここで一九六八年とはいわゆる「長い六〇年代」(1958-1974年)の中心をなす年であり、あるいは「歓喜と謎の五年間」(フーコー)の始まりであった。また、この運動が社会主義国や第三世界まで含めて世界的な広がりを見せたことは、たとえばカーランスキーの『一九六八 世界が揺れた年』にくわしい。一九六八年の運動はこのように多少の年代の幅を持ち、各地の特異性を抱え込みながらも世界で同時多発的に発生した運動の総称である。代名詞的に「六八年の運動」と呼ぶことにする。
ウォーラースティンによれば、「一九六八年の世界革命」は成功した革命である。その意味は、これが近代二〇〇年の歴史の分水嶺となる事件であり、「その後」(アフター六八)の歴史局面はいまに続いており後戻り不可能だということである。この運動を機にして、いわゆるポストモダン、あるいは近代と区別すべき「現代」の歴史が始まると見る研究者もいる(大嶽秀夫『新左翼の遺産』、森政稔『変貌する民主主義』)。とはいえ、この革命は何か希望の世界体制を創出したのではない。たんにアンシャンレジームを大規模破壊して、ポストモダンの現代という時代の堰を切る事件となった。六八年の運動は歴史的世界遺産である。遺産はもちろんいいことずくめではない。この革命によって、現代社会のパンドラの箱が開かれて「恐るべきバチルス」(三島由紀夫)もまた解放された。現代の諸問題は六八年の運動の後遺症であり、後遺障害に社会はいまも苦しめられている。この意味では、「一九六八年の世界革命」は人類の愚行であり、一個の犯罪であった。あれからすでに四〇年、六八年はそれとしてしっかりと「歴史」にすることが大切である。しかし同時に、今日の社会に革命がもたらした後遺症の数々を確認していくことが、逆に、六八年の経験の意味につながるであろう。
福祉国家を壊した
六八年の運動は福祉国家体制を壊した。福祉国家とは一般的にいえば、富者から累進課税および保険拠出金によって調達した財を、現金またはサービスとして貧者に再配分する体制である。しかしここでいう福祉国家はさらに歴史的に限定された存在である。つまり、所得の再配分を受ける「貧者」とは組織された労働者階級のことであり、福祉国家とは二大階級からなる社会体制である。米国では、三〇年代のニューディールを契機にこの体制が確立されたといわれる。典型的な成果として、社会保障制度(1935年)とともに強力な労働組合(AFL・CIO)が生まれた(1937年)。この政治的表現が、アメリカン・リベラルであった。
これにたいして、米国の六八年の運動のルーツのひとつ(SDS:民主社会を求める学生たち)が、民主党リベラルにたいするニューレフトとして形成されたことはよく知られている。他方、米国のニューレフトが六八年に過激化していく背景には、ベトナム戦争と共により根源的なストレスとして公民権運動があった。公民権運動は福祉国家体制の既得権益外にあった黒人の権利要求であり、六八年以降の米国の新しい運動のモデルともなった。実際、フェミニズム、障害者などのマイノリティー、そして環境の権利要求が続くのであって、これらが労働者階級の階級闘争の埒外にあって独自の利害を主張して福祉国家体制に割り込んできた。労働者の階級闘争が福祉国家体制の本来的な一翼であればこそ、米国の新しい「差異の政治」がこの体制を壊すように働いたというべきであろう。
もとより、福祉国家体制が行き詰まるには経済的理由があった。財政赤字が膨らむだけでなく、八〇年代以降の情報金融革命によって、重税を嫌うマネーが瞬時に他国に逃避してしまう。累進課税は大衆課税に置き換えられ、格差が拡大すると同時に福祉給付が切り詰められ民営化される。しわ寄せはまず、階級に組織されていないワーキングプアにいく。要するところ、広く現代社会が苦しめられている病理がもたらされた。だが、たんに「資本の論理」だけで社会が変わるものではない。変化は経済主体の性格の変化によってもたらされ可能になる。労働者であることが労働組合の一員であるという主体性が、もはや働く者全般を代表できなくなった契機を、六八年の運動が作ったのである。実際、欧米では労働組合は六八年の運動に敵対するように動いたのだった。
いわゆる新自由主義はいうこととやることが矛盾していると批判されている。実際には、各国で福祉国家体制はしぶとく生き残って現在にいたっている。かつて勇名をはせたAFL・CIOが話題になることがなくなったが、貧民層を取り残しながら労働者中産階層の既得権益は揺らいでいない。ジョンソン大統領のプロジェクト「偉大な社会」は貧者やマイノリティーにまで福祉を拡張する政策だったろうが、その後の共和党反動によって潰えた。米国労働者階級の闘争の成果を体現する年金組合が、今日、いわゆる機関投資家としてマネーゲームの主役になっているのは皮肉な光景である。福祉国家の歴史が古い欧州では社会民主党あるいはキリスト教民主主義の政権が長く続いており、それぞれの労働組合はいまも有力である。これが若年の貧困層や移民労働者と対立している。わが国は労働組合の独自性が弱いが、いわゆる日本的経営(終身雇用と年功序列賃金)がこれに代わって福祉体制の役目を果たしてきた。六八年の運動が福祉国家体制を壊したとは、この体制がもはや社会を統合するに十分でないことを世界的に暴露したことである。実際、七〇年代の過度期をはさんで、福祉国家体制の再編が世界的に進行した。たとえばイギリスでは、サッチャー政権による改革、さらにその行きすぎを是正すべく、ブレア労働党政権の「第三の道」が提唱される。
日本型福祉国家体制は労働者の世代間対立をもたらしている。いうところの成果主義の導入は、中高年労働者の強力な抵抗にあって挫折している。これは優秀な若い人々には業績評価に関する不満を鬱積させ、他方では、ワーキングプアに訴えて既得権に居座る労働者(赤木智張によれば「安定労働者層」)への世代間戦争を唱える言辞を生んでいる(城繁幸『若者はなぜ三年で会社を辞めるのか』)。私自身も一九七〇年代の半ばに地方党運動を試みて、保革体制に代わる「第三勢力」の登場を訴えたことがある。当時、オイルショックによる不況と地方自治体財政の赤字が表面化して、労働組合と住民の衝突事件が各地で見られた。第三勢力地方党は「食い逃げ労働者」に対抗して登場すべきものであった。思えば、例によって早とちりもいいところであったろう。
六八年の運動は異議申し立て運動の主役の交代を世界に告げるものであった。労働者も組合つまり福祉国家体制内部の階級闘争でなく、二重の意味でその外部に出て闘った。わが国では労働者の「反戦委員会」がこれであった。闘争の場も職場でなく街頭であった。私は当時これら労働者を含めた若者の闘争を「大衆反乱」ととらえて、これが新しい政治思想と革命論を促すのだと考えた。だが、大衆反乱は何か新しい政治運動として継承されるどころか、これが最後の反乱となった。いまから振り返れば、六八年の運動の「切り開いた地平」ははるかにだだっ広い政治的廃墟であった。
知識人を壊した
六八年の世界革命は知識人を壊した。わが国ではマルクス主義と近代主義の独特のコンプレックス、いうところの戦後民主主義のイデオロギーを戦後知識人が担った。六〇年の安保闘争はその最終局面で、これら知識人と都市市民の連合が勝利することによって、高度経済成長社会へと傾れていく時代の気分を作り出すことに成功した。美濃部亮吉の東京都政など、六〇年代半ばの革新自治体の誕生は知識人と都市市民の勝利を確認するものだった。こうしてわが国の福祉国家体制、ひいては近代百年が完結するものと思われた(「明治百年」)。ところが、学生たちの全共闘運動が戦後知識人を一掃した。社会主義と近代主義への批判は、六〇年の全学連運動から始まっていたが、全共闘はまさに大学内部の運動だったがゆえに知識人批判という点で破壊的であった。
全共闘運動の嵐が吹きすぎた後では、大学は知的にもキャンパスとしても廃墟の観を呈した。大学の若い先生たちが哲学者まで含めて、七〇年代の早い時期に自分の専門分野を「業界」などと呼ぶのを私は聞いている。以降、彼らは業界の中で議論し業界誌に論文を発表することになる。イデオロギーからアカデミックな研究へ身を移したのではない。彼らの関心が業界内部に向けられ、ただ同業者だけを対象に定めてものを書くようになった。かつて戦後知識人の牙城であった総合雑誌でも、学者の論文が気にかけているのはまずは同業者(ピア)の評判(レヴュー)なのであった。業界外の論文は引用もされない。これでは言論は崩壊する。
競争社会の米国では、ポストモダンと新保守主義者が挟撃する形で、リベラル派から大学やメディアのポストを奪ったのだという。むしろ、六八年の運動の衝撃を逆手にとって保守派が反撃を仕掛けたのであって、ポストモダンは漁夫の利を得たのであったかもしれない。ここでポストモダンの知識人とは、六八年の運動の直接の流れをくむと同時に、フランスの六〇年代思想を輸入し左翼化した人々であり、かくして米国の講壇左翼を確立することになる。
八〇年代に登場するわが国のポストモダン思想はこの輸入である。私は横のものを縦にするという日本思想の持病を全共闘以降の学者が繰り返すのを残念に思うが、それだけではない。米国の七〇年代には左右入り乱れての論戦があったし、言論の百家争鳴はまたポストの競争でもあったのだろう。ところがわが国では、マルクス主義と近代主義のアマルガム(戦後知識人)の解体を全共闘の乱暴狼藉に押し付けたまま、知識人たちは論争なしにその成果を食い逃げし、その廃墟を輸入思想で埋めたのである。ポストモダン思想は近代合理主義あるいは科学の二〇〇年を批判する精神を六八年から受け継いだのだったが、これを新しいレトリックと文体の創出によって行った。レトリックは言い換えであり、ときがたつとともに陳腐化して現実を離れて浮遊していく。
全般に七〇年代から、それまでの時代と打って変わって、英米の哲学・社会学・政治学などがわが国のアカデミズム業界に深く浸透するようになった。いまさらヘーゲルとマルクスでもないのだから、それはそれでかまわない。だがいまでは、思想が輸入であるか土着であるかの意識すら消えてしまっており、それほどまでに思想も世界化したのである。日本の政治的現状に関する学者の分析や発言も、どこまでが米国政治学理論の応用なのか、どれが土着の切実さなのか、読者が見分けるには多少の勘とスキルが要る。思想の世界化も六八年の運動が世界革命であったことの遺産であろう。
チェコスロバキア、ハンガリー、そしてポーランドなど、東欧でも六八年の学生運動が闘われて、社会主義権力の弾圧で潰えたのだった。これら諸国の知識人にとって、社会主義の思想はすでにこの時点で終わっていたのだと推測できる。にもかかわらずその後も、ブレジネフの「停滞の二〇年」における消耗戦を彼らは我慢しなければならなかった。この時代の雰囲気はグンデラの小説『存在の耐えがたき軽さ』によく出ている。社会主義体制の瓦解とそれに伴う冷戦世界体制の終わりは、それにふさわしい大事件としてでなく、何かしらまたたくまの自然崩壊のように受け取られた。その理由の一半は、社会主義国家内部に金属疲労が蓄積されていたためだろう。冷戦体制の崩壊の時点でなく、何と六八年の革命がイデオロギー的にはポストモダン、現代のメルクマールになる。ウォーラースティンの「一九六八年世界革命」説がユニークなのもこの点にあるのだが、その後の世界システム論の学者たちができれば避けて通りたいのもここである。現代のメルクマールを冷戦の終焉に置いたほうが万事が丸く収まる。ウォーラースティン本人も含めて、「一九六八年の世界革命」はそのものとして、いまもなお正面からの研究対象になっていない。
わが国でも、マルクス主義・社会主義に見切りをつけたことが六八年の新左翼の一つの特徴であった。しかしそれにしても、わが国は世界に冠たるマルクス主義研究を誇った国である。それかあらぬか、見当違いにも、ポーランドの労組連帯の運動や引き続く東欧革命に社会主義の再生の証を見た左翼は多い。この意味ではわが国こそは社会主義体制崩壊の年を、現代のメルクマールとして特筆大書して論争すべきはずであった。ところが、社会主義の終焉を誰がまともに論じただろうか。わが国の知識人はこの点でも、六八年の乱暴狼藉をいいことにして、マルクス主義の言い逃れもしなかったのである。
労働を壊した
六八年の運動はまた労働を壊した。そもそも福祉国家は労働の体制であり、これに歯向った六八年の運動は当然にも労働者階級の運動ではなかった。今日では労働の意義どころか、まともに働く機会が失われている。しかしそれだけではない。労働は近代のブルジョア的イデオロギーの根幹をなすコンセプトであった。労働の条件がどうあろうと、本心では労働は聖化されていた。労働することが人間の「主体」を意味した。これにたいして、逆に、近代主義批判を軸とした六八年の運動では「労働の廃絶」が底流をなす意識となったのである。
労働の解体は、マルクス主義の文脈でいえば、錯綜したふた筋の流れをたどって顕在化した。第一に、労働の自己疎外論の急進的な俗流化の方向である。若いマルクスの労働論によれば、生産労働は自然を人間化し、自然の認識と技術を可能にし、そして人間の類的本質を確認する活動であった。労働の能産的な意義づけであり、マルクスの労働論自体はブルジョア的な世界像の端的な表現であった。しかし現実には、労働は私有財産制のもとで疎外されている。労働の自己疎外は三重である。すなわち労働の生産物の私有化、労働という活動自体の喜びの喪失、そして共同存在としての人間本質の譲り渡しであり、労働の現実は資本主義的な労働であるほかない。このような見方から、「化体」としての賃労働者において本来の「主体」、つまり労働の類的本質を取り戻そうという、労働疎外革命論が生まれる。疎外革命論は無意識にも労働者革命の原イメージになってきたといっていいが、同時に、労働者階級の左翼反対派の運動論と組織論の根源にもなってきたところである。
ところが、高度成長と大衆消費社会の時代になれば、現実の労働が喜ばしき労働の仮の姿だと思うのはいかにも現実にそぐわない。労働者であるというより、人びとはいまや大衆の一人であり消費者である。ここから、ニヒリズム、というよりアナルコ・ニヒリズムの気分が大衆的に醸成されるようになる。労働の聖化こそまさしくブルジョア的イデオロギーの根幹であり、むしろまっすぐに労働の廃絶をこそ展望しなければならない。そこで、六八年の革命では、労働の自己疎外論から「労働」を取り外して、ただの疎外論革命をスローガンとすることになった。疎外論はその名義人の手から離れて俗流化するとともに急進化した。職場ではなく労働の外部で、福祉国家という二大階級体制の外で、大衆はそれぞれの主体(自己実現)の否定的な条件を取り払おうと決起した。これがまた、労働者階級の左翼反対派の「プロレタリアートの立場」、つまり「党の立場」(ルカーチや黒田寛一)を根本から危うくすることにもなったのである。
第二に、労働の自己疎外論とは別の系譜として、資本論の「標準労働日をめぐる闘争」、つまりマルクスの階級闘争論がある。この闘争を通じて、大工場の労働者は自己を陶冶して階級に形成し、ゆくゆくは労働者階級の政権獲得を展望できるようになる。はしょっていうが、工場労働者の権利がこうして徐々に確立されるとともに、西欧の社会民主主義政権の成立を迎えることになる。労働者階級の階級闘争についてのマルクスの展望は、ヨーロッパで実現したのである。階級闘争の脅威はまたブルジョア階級に「社会政策」を強要する力にもなった。マルクスの展望は同時に福祉国家体制の成立と不可分な形で実現していく。世の中が二大階級だけで構成されるなら、そして、近代国民国家一国だけのことなら、これで何ら問題がないかに思われた。労働者階級内部のもう一つの左翼反対派(わが国ではたとえば宇野学派の資本論欄外の革命論、前衛党論)は、階級闘争のガス抜きになる。
ところが、大衆消費社会とグローバリゼーションの時代には、労働のうちで生産労働の特権的位置が失われるとともに、二大階級の利益共同体の外側に一般大衆、移民労働者、マイノリティーの存在が問題になる。そこに、格差と怨嗟の声と権利要求が生まれる。六八年の革命とは、ときに労働者階級の敵対を受けながら発生した、こうした大衆の反乱であった。したがって、この時点を契機に労働が壊れたとは、「労働の廃絶」の意識が生まれただけでなく、革命の主体としての労働者階級と階級闘争が見失われたことであった。
以上のような事情は六八年の政治思想が既に認識していた事実にすぎない。そこで当時、私自身はこう考えた。大衆の反乱から出発して、これが独自の権力を形成する政治的な道筋を明らかにすること。さらに、大衆の反乱が政治的自己形成に失敗するならば、これは閉鎖的なコミューン共同体に頽落していき、特有の病理をも露呈するだろう。コミューン型の党と国家をも同一の病理が汚染するだろう。政治がテロと治安の対立に疎外される社会になるだろう。
けれども、一九七〇年代という移行期を経て八〇年代にもなると、コミューンの自己権力あるいは病理を心配することは、明らかに後ろ向きの思考であり、思想のアクチュアリティーを失う。ポストモダンのバスに乗り遅れたにすぎない。ところが皮肉なことに、六八年が労働を壊したことは、むしろいまここの時点で、一種陰惨な後遺症を露呈している。もしかしたら、現状はかの資本の原始的蓄積の時代であるかもしれない。私は六八年の大衆反乱と政治思想がいまこそリバイバルすると予測してはいない。それでも、今日の労働の解体の起源を、バブル経済とその崩壊の時期をさらに遡って、六八年の革命に見たい気がする。
私を壊した
六八年の運動が壊したのはまた、この私だった。労働の解体はたんに本源的労働のコンセプトと労働者階級の革命路線の問題につきない。労働の「主体」としての私を壊したのである。壊れたのは労働疎外論の主体のみならず、現実の(物象化論の)主体でもあった。
労働者にとって日々の労働は自己の肯定でなく否定、幸福でなく不幸、エネルギーの発揮でなく消耗、自由でなく退廃である。自己疎外論時代のマルクスがこう断定した。だから、労働者は労働の中では自己の外にあり、労働の外ではじめて自己のもとにあると感じる。今日ではますます、働くことは生きるための手段だと割り切り、生きる目的と喜びは労働の外部に探すことが当たり前のことであるかもしれない。六八年における自己疎外論の俗流的急進化は、労働の主体として私の本質を回復せんとする問いを無効にした。「自己実現」は労働の外部で探すべきである。事実、フィーリングとライフスタイルを共有する小集団が族生しており、ボランティアや地域コミュニティーやNPOが生まれる。これらを奨励する「日本型福祉社会」のイデオロギーもある。
たしかに、労働は我慢すべき苦痛であるというのは、古くからある西洋の労働観であろう。自己疎外論はこれを労働の化体であり、あるべき主体にあらずと見なしたにすぎない。しかし、主体自己とはそもそも他人との関係や間柄のうちでしか定義されえないし、形成できない。もともと、私なるものは存在しない。私は家族や友人仲間との関係で私であるのだし、さらに、世間の匿名の他人との関係で私は社会的対他存在である。私とは「社会的関係の総体」である。とすれば、生活の手段であれ他の何であれ、協業としての労働がなお枢要な活動である社会では、労働において社会的に対他存在であることが主体私の意味になる。私は「誰か」(固有名詞の私)であるとともに「何か」(所属する私)である。
ドイツでは、労働者であるとは労働組合の一員であることであり、組合はドイツ社会民主党の組合である。かつて老エンゲルスがこのように書いたが、その組合が最も強力であった一時期(一九二〇年代)の労働者の意識調査はこの点で印象的である(今村仁司『近代の労働観』)。「労働の喜び」を尋ねられても、かつて職人が感じていたかもしれないように、労働自体に達成感や意義があると答える労働者は、実は全くいない。代わって、労働の意義は同僚や上司の評価次第というのが彼らの回答である。ひとかどの仕事を果たしたと評価されることが、労働の喜びになる。逆に、労働自体の苦痛よりも、評価されないことのダメージが大きい。マルクスではないが、労働を通じて個人は類として自己を実現する。むろん彼らも、労働の外部でこそ生きる意義を見いだすと感じることがある。これが組合活動あるいは宗教活動であるのは時代と地域の特徴であるが、労働の外部でも社会的な自己が意義づけされていることに変わりはない。
要するところ、労働が主要な人間活動である社会では、私であることは協業としての労働のうちで「社会的関係の総体」として存在することだ。これが物象化された私の事実である。労働者が福祉国家で階級として組織されている社会では、組合員あるいは社会民主党員であることが私の主体性を確保する。これに学生運動を加えれば、(ポツダム)自治会の一員であることが学生の主体性になる。そのような意味での階級的主体性が六八年に解体された。というより、主体性の喪失が反乱のエネルギーとなった。こうしてさまよい出した主体ならぬ主体(貧しい主体性)が、その後、私を探して群れを募る。米国では、歴史は浅いとはいえ、とりわけて共和主義と宗教とが伝統的活動だといわれる。組合の役割が低下した後でも、これが個人主義の暴走と孤独とを担保した。しかし、八〇年代の(白人の)個人主義にはもうこの二つのよりどころは失われている。代わって、同好会的なサークル(ライフスタイルの飛び地)かセラピー文化に、個人は自己実現つまり主体性を求めるのだという(ベラー他『心の習慣』)。わが国では現在、まともな労働の機会、労働のうちで社会的関係の総体であることそのものが失われているのかもしれない。
この事態は奇妙なものである。ひとは私の喪失に耐えがたい。いま私であることの不安に駆られて、私は他人を求める。しかし他人も、何か固有の宗教や階級の役割を体現するものでなく、他人に見出すのは実は私であるにすぎない。私であることの不安は解消できない。主体性に確信が持てないのは、いまや個人ばかりではない。大小を問わず組織はそのガヴァナンスの評価を外部に求めるようになっている。大学までが外部評価だという。そして結局、外部とはお客様であり世論だということになる。だが、お客様も世論も本当は外部ではなく、この私たち自身なのである。六八年が労働を解体したことの付けは、後遺症を広げている。福祉国家体制の再編過程で、失業者やワーキングプアが社会保障を受ける条件として就労訓練への参加が義務付けられている(たとえば、ブレア政権の第三の道)。これをワークフェア(働くための福祉)と称しているが、福祉給付を梃子にして労働者の主体性を再構築する試みであるかもしれない。あるいは遠く、一八世紀のヨーロッパの都市で、怠惰で堕落した貧民を施設に収容するとともに労働を強要した歴史が思い起こされる。
政治を壊した
最後に、六八年の革命は政治を壊した。わが国では全共闘運動が最後の学生運動となったが、いま思えばこれが大きな社会的損失を招いている。いつの社会でも若者のガス抜きが必要だという意味ではない。学生は社会的な役割を未だ持たない階層であり、まさに社会的に対他存在になるべく人生の練習期間を過す存在である。この過程を集団として、手っ取り早く、社会的事件として経験するのが学生運動である。自分を階級として形成する労働運動と対比すれば、学生運動とは初めから自己を政治的に形成する場所である。ここで政治的自己形成とは、個人が集団的な敵対関係に投げ込まれ、敵対的な関係を自分の集団に内面化して自己を発見する過程である。自己は集団の一員だから私の発見はわれわれの発見を意味する。私をわれわれとして発見し損なえば私の集団は分裂して、今度はかつての仲間を敵対的な鏡として自己を再形成する。この過程は初めから暴力ではなく、何よりも言葉の交換を通じて行われる。学生運動はそれこそ大衆的にこのプロセスの進行を可能にする。若者がライフスタイルとフィーリングの合致を基準に仲間を作る場合とは違う。対他存在の生産効率が両者で違うことは別にしても、そもそも後者の仲間では他人とは私にすぎない。
近代社会はこのようなものとして、学生運動を繰り返してきたのである。俗にいう若気の至り、ハシカの流行であるが、社会秩序の形成のために社会がこれを必要としたからである。この社会的習慣が全共闘運動以降途絶えて久しい。六八年の運動を経験した先進諸国がすべてこの状態だとはいえないのだから、わが国の場合は特殊な歴史的事情があったのだろうか。あるいは、七〇年代のテロや内ゲバ殺人が、学生運動の遺産と新左翼への国民の同情を蕩尽してしまったことが関係するかもしれない。ともかくも、七〇年代を移行期間として、バブルとポストモダンの八〇年代が開幕する。六八年革命の敗北を確定するのが一九八〇年であった。
けれども、もともと六八年の運動が若者の反乱である限り、反乱はそもそも政治的存在ではない。どこの国でも、六八年の運動が既成の政治参加と政治的自己形成の様式を破壊したことは著しい事実である。それ以降、新しい政治形成のパターンが発見されていないというべきかもしれない。私自身は反乱がそこから出発した後にたどるべき「長い」政治的経験の道筋を構想したが、これが「マルクスレーニン主義の最後のチャンス」だという自覚はあった。フロイドは晩年になってロシア革命に遭遇した。これを契機に意識の心理学を集団の心理学に拡張する必要を感じ取ったであろう。「巨大な文化的実験」としてのロシア革命は、民衆が無意識に抱いてきた文化への不満を解き放ってしまった。本来、自己の欲望を各自勝手に追及する自由が人間の幸福であるが、人類社会は文化を発明して欲望を抑圧する知恵を学んだ。幸福の追求を大衆に諦めさせた。結果として、原初の欲望は深く各人の無意識に内攻しそこに住まうようになった。これが大衆的な不満として爆発したのがおそらくロシア革命であり、であれば欧米社会とて無縁ではいられない。これがフロイドの感想であった(『文化への不満』)。大衆の反乱という形をまとって噴出するのは、政治的要求というより、直接的に自然状態の欲望である。反乱が自然発生的であるというのはまた、無意識に閉じ込められてきた自然の氾濫を意味する。従来の文化の様式は、これをもう抑止できないかもしれない。こう考えれば、総括的にいって、六八年の運動が壊したのは文化である。その後遺障害に今日の社会はなお苦しんでいる。多文化主義などと称して目を塞いでいるだけなのである。
犯人はどこに?
ところで、「一九六八年の世界革命」が今日の社会に大きな後遺症を残した一個の犯罪であったとしたら、犯人はその後どこへ姿をくらましたのだろうか。老人になったのである。この社会の第一階級としての老人である。そして老人として、六八年革命の付けを払わされている若い世代から、世話と介護を受けなければならない。若い人びとから、六八年世代として、見識が問い質されることとなろう。
(本稿は二〇〇八年七月の情況社株主総会の記念講演のために用意した原稿である。)