日本の新左翼運動 長崎浩

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日本の新左翼運動ー二つのピークとその帰結

『情況』2008年9月(情況出版)
 
 
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日本の新左翼運動――二つのピークとその帰結
 
長崎 浩
 
 この二〇年余り、欧米諸国に比べても日本社会の平穏さは際立っている。問題がないのではない。冷戦体制が終結したにもかかわらず、むしろそれゆえに、世界の局地的な戦乱は増加して国際政治の重大案件として登場している。これに伴って日本にも応分の「国際貢献」が迫られることになり、その都度、「平和憲法」の拡大解釈がなされて自衛隊が戦乱の外縁部に派遣されるにいたった。しかし、かつてあれほど日本の戦後史を彩った「戦争反対」の運動が、これにたいして起こることはない。また、日本経済はこの十年余バブル経済崩壊による低迷から抜け出すのに苦労しており、その過程で失業率が五パーセント以上に上昇した。戦後の混乱期を除いて、かつて経験したことのない不完全一雇用の状態である。しかし、労働組合の反撃という話はどこにもない。総評(日本労働組合総評議会)といえば「昔軍隊今総評」といわれたほどに、かつては強力な労働組合のナショナルセンターだったが、組織自体がもう存在しない。
 第二次世界大戦の敗戦から半世紀の間に、日本社会の何が、どのように変貌したのだろうか。この間に日本の新左翼は大衆的な政治運動の二つのピークを作り上げる。戦後の日本社会の変貌はこの運動の歴史的帰結であった――とはいわぬまでも、新左翼運動が戦後史に特有のメルクマールを刻んだことはたしかである。本稿は新左翼運動の歴史的評価の試みである。
注、本稿は二〇〇二年にアメリカの読者を対象に書いたものである。
 
一、新左翼二つのピーク
 
六〇年安保闘争
 
 日本の新左翼運動第一のピークであり、新左翼の登場を告げ知らせることになった出来事は「六〇年安保闘争」と呼ばれる。第二次世界大戦の敗戦後の混乱が収まり、「もはや戦後ではない」(経済白書)と宣言されたのが一九五六年である。その戦後の終わりの時期に、政治運動の歴史上空前絶後の規模で展開された大衆運動が、一九六〇年の安保闘争である。安保とは日米安全保障条約(一九五一年締結)のことであり、この改定に反対する運動が安保闘争といわれる。当時の岸信介首相(自由民主党)が「日米新時代」を宣言して安保条約の改定を推し進めた。改定の狙いはこの条約の片務性(米軍は日本の防衛義務を負わない)を改めることにおかれたが、岸首相としてはこれを出発点にして戦後憲法を改め、日本の再軍備が公然と行えるようにする目論見を持っていた。
 安保条約改定に対する反対運動は、「安保条約改訂阻止国民会議」(一九五六年三月結成)の呼びかけによる街頭デモンストレーションと国会請願運動、そして労働組合のストライキという形で展開された。国民会議は社会党と総評が中心の「国民運動」の統一戦線組織であり、最盛期には一六三三団体がこれに加盟していた(共産党はオブザーバー参加)。国民会議は一年余にわたって第一次から第一九次までの統一行動を組織し、その日には安保改定について審議が進行中の国会への請願デモを中心に、全国主要都市で街頭デモが行われる。総評が組織する労働組合の賃上げ闘争などが、この日に合わせて行われることもあった。特に安保条約改定案が衆議院で強行採決された六〇年五月一九日以降は、連日のように国会へデモ行進が行われ、その数は五月二六日の第一六次統一行動では一七万五千人に達した。安保闘争全体のピークとなる六月一五日には、全国の統一行動参加者は五八〇万人に上った。
 安保改訂阻止国民会議による国民運動の展開は、「もはや戦後ではない」時期以降、日本左翼の大衆運動の典型的な形態と見ていい。社会党と総評という社会民主主義派が中心になり、しかし共産党まで含めた諸社会集団の統一戦線(国民運動)として運動が組織された。労働組合の独自の経済闘争がこれに組み込まれると同時に、組合を通じた政治的街頭デモへの動員が運動の主力となるが、労働者はあくまで「国民の一員として」政治運動へ参加するといわれた。学生運動も労働組合に次ぐ動員の主力となる。主要な全国紙の論調と大学教授たちの発言が国民運動を支持する。運動のこの形態は安保闘争の後も、ほぼ一九七〇年代まで続けられることになる。以降、これに代わる大衆の政治的動員の形態は、現在にいたるまで見出されていない。
 
全学連と共産主義者同盟
 
 日本の新左翼運動は一九六〇年の国民運動において、その中の急進派として登場した。運動の主体は学生運動である。学生運動は全日本学生自治会総連合(全学連、一九四八年結成)という統一組織の指導のもとに展開された。全学連は各大学の学生自治会がその議決を経て加盟する連合組織であり、当時は全国の主要な国公私立大学を網羅していた。学生自治会は学部ごとに組織されており、自治会の決議に基づくストライキ(授業放棄)と街頭デモがその主要な運動形態であった。諸階層ごとにその構成集団を組織して、これが国民運動の統一戦線に参加するという、この時期の運動組織の典型を全学連もとっていた。
 全学連は結成当時から一貫して日本共産党の強力な指導のもとにあった。しかし安保闘争にいたる学生運動の中で、戦術の急進性をめぐって学生党員と党指導部との対立が深刻化していく。その結果、学生を中心とした若い党員たちは共産党と決別して、新しい、真の前衛党を目指して一九五八年に共産主義者同盟(ブント)を結成した。ブントは安保闘争において全学連の主導権を握り、その指導のもとに全学連は国民会議の統一行動に参加しつつも独自の、急進的な街頭行動を展開し続けることになる。全学連の急進的な運動は非難の集中砲火を浴びながらも国民運動の先端を形成して、六〇年安保闘争全体の帰趨を決定する役割を演じた。全学連は安保闘争が終わるまで形式的には統一組織の名目は保っており、国民会議の方針に忠実な共産党系の学生自治会と対比して、全学連主流派と呼ばれた。安保闘争は六〇年六月一八日、国会での安保条約改定の成立をもって急速に終結した。岸内閣は総辞職し、他方、ブントは内部分裂からこの年に解体した。
 このようにして、世界の革命派左翼を独占的に代表してきた共産党とは別のところに、「新しい前衛党」とその大衆的政治運動という新左翼の形が登場した。当時、共産党から離れた政治組織はブントだけではなかったが、安保闘争への影響力からいって、ブントと全学連が新左翼をほぼ独占的に代表する。なお、当時はまだ新左翼という言葉はなく、ブント自身は「真の前衛党を目指す」としていた。一般には反日共系、あるいは共産党に言わせれば極左トロツキスト、ジャーナリズムでは赤い雷族などと呼ばれていた。新左翼の名称が一般的になるのは、次の第二のピーク時になってからである。また、ブントの登場は日本共産党と決別するという事実上一国的な動向である。当時、韓国の学生運動やキューバの革命、アルジェリアの民族解放戦線の蜂起があり、ブントは世界の同時代史から鼓舞を受けてはいたが、それとの国際連帯はまだ重視されていない。これに比べて新左翼第二のピークは、ベトナム戦争反対の国際連帯のみならず、折からの世界的なスチューデントパワーの爆発の一環という意識を明確に持つことになる。
 
全共闘運動
 
 日本の新左翼運動第二のピークは、一九六八年から一九七〇年にいたる学生運動「全共闘運動」が代表する。六〇年安保闘争から一〇年も経たない時期であるが、この間に日本社会は一変と言っていいほどの大きな変貌を見せる。対応して、新左翼とその運動もブントと全学連という構図から一変する。
 全共闘とはもともと各大学で学費値上げ反対など、個別の目的を実現するために結成された全学学生共闘会議の略称であった。一九六八年には全国の大学の八割に当たる一六五校にまで全共闘運動が拡大し、そのうち七〇校で全共闘による大学のバリケード封鎖が行われた。全共闘は個々の大学の学生組織というより一つの急進的学生運動の名称になった。運動として共通に見られることは、第一に全国的政治闘争というより、個別の大学で大学教授の思想とその管理体制に反逆したこと、第二に、安保全学連のように形式的であれ自治会組織の議決を経ないで、いわばやりたいものが勝手に大学で全共闘を名乗って行動したこと、第三に行動形態が大学のバリケード封鎖と大学当局との集団的交渉(団交)であったこと、第四にゲバ棒とヘルメットで「武装」したことが上げられる。こうしたことが一時に、集中して起こった点で、さらに世界同時的な学生反乱の一翼をなした点で、全共闘運動と呼ぶに値する。なお、共産党系の学生組織は初めから全共闘運動に反対してその圏外にいた。
 当時はベトナム戦争と日米安保条約の更新の時期に当たっており、これらに反対する反戦闘争が全共闘運動とともに展開された。これらはとりわけ新左翼の政治諸組織によって組織されたものである。これには労働者も参加したが、かつてと異なり労働組合としてでなく「反戦青年委員会」としてであり、反戦青年委員会の組織形態は基本的に全共闘と同じ性格のものであった。
 全共闘運動では第二次ブントなど、党派(セクト)と呼ばれる多くの新左翼政治組織(主なもので七つ)が登場するようになった。ただし、かつてのブント(安保ブント)はすでに解体していたから、第二次ブントとの組織的継承関係はほとんどない。総じて、第二のピークにおける新左翼は全共闘運動の中で新たに登場した。これら諸党派は全共闘運動に先立つ時期から、反戦闘争の連鎖を作り出し、全国的に全共闘運動を醸成しつつこの運動になだれ込んでいく。大学によっては全共闘は一つの新左翼党派の指導のもとにあることもあった。ただし、この時期には意識的にどの党派にも属さないノンセクトラジカルと呼ばれる急進派学生たちが増加して、東大全共闘や日大全共闘という全共闘運動を代表する運動体では、これらノンセクトが諸セクトの意向を調整しつつ全共闘を指導した。全共闘は全学連のような統一組織はもとより、全国的な協議機関をも持たなかった。
 同じ全学連の中でブントと共産党の方針が対立するというのが、六〇年安保闘争における学生運動であったが、全共闘運動では初めから新左翼諸党派が並び立っており、共産党に対する新左翼という政治的関係は事実上解消していた。新左翼は「過激派」であった。新左翼と共産党との関係も後者が全共闘運動に敵対する限り、しばしば暴力的な関係となった。全共闘運動は当時大きな社会的関心を引いたが、全国的な政治対立を反映したものでなく、政治過程に対する影響も希薄だった。かつての「国会デモ」という運動形態もまったく姿を消した。
 全共闘運動は全世界のスチューデントパワーと歩調を合わせるようにして、一九七〇年には終わる。ただし、これも世界的動向と同様に理解可能だが、新左翼の一部はこれ以降さらに過激化して武器による闘争や街頭テロを目指すようになる。第二次ブント内の過激派として日本赤軍が分離し、連合赤軍を形成する。こうした闘争は、日本の民衆の中にわずかに残っていた過激派に対する同情心を根こそぎ使い果たすかたちで、七〇年代に自滅した。
 
二、高度成長
 
 所得倍増計画
 
日本の新左翼による政治運動の二つのピークを、その組織と運動形態の面から対比した。私は彼らの自己主張の紹介は避けたが、この点は別にしても二つのピークの対照は著しい。両者を隔てる時期に、日本社会を大きく変えたのが「高度経済成長」であった。
 経済白書が一九五六年に「もはや戦後ではない」と宣言したことはすでに述べたが、これを受けて新しい経済計画が構想されていた。六〇年安保闘争が終わり岸内閣の後を継いだ池田勇人首相が早速これを実施に移し、新政権の政策の中心に位置付けた。これが「国民所得倍増計画」である。国民の生活向上の意欲をたくみに表現した政策だったが、当時みな半信半疑であり、まして左翼にとっては安保闘争で生じた世論の亀裂を埋めるためのごましの政策に思われた。しかし、後に日本の経済計画の「最高峰」と評価されたように、国民所得倍増計画はその後の一〇年間に目標以上に達成された。一九六〇年から七〇年の間、経済成長率は年平均一一パーセントを越え、GNPは一〇年間で二・七六倍になった。この経済成長は一九七三年の石油ショックまで続く。
 今から思えば、この経済計画のあまりの成功が官僚主導の日本経済の体質をいつまでも温存することになり、自民党の政治家までが自潮気味に「日本は社会主義国」と評するような惰性を生み出したのかもしれない。この時期の日本の経済成長は新古典派の経済開発理論の実証例とされ、一九七〇年代以降の韓国や台湾など新興工業諸国の開発路線のモデルにもなった。つまり、関税障壁のもとで外資を利用して輸入代替産業を育成する第一段階を、日本は一九六〇年までに終えた。以降は輸出工業への設備投資が活発化して国際収支の赤字基調を解消する。農村からの流出人口を吸収して完全雇用を実現する。事実、一九六〇年にはもう一つの計画、貿易為替自由化促進計画がスタートし、当時四〇パーセントだった自由化率は六七年に九七パーセントまで上昇した。
 
一変する国民生活
 
 いや日本の国民にとって、重大だったのは経済成長の計画や数字のことではなかった。安保闘争後の日常生活が、この間に一変した。一例としてテレビ(白黒)の普及率の推移を見ると、一九五七年に七・八パーセントだったのが六〇年には四四・六、六五年には早くも九〇・三パーセントに達して、以降はカラーテレビに置き換わっていくことになる。六〇年代を通じたこの普及率の急上昇は、他の耐久消費財にも当てはまる。テレビから乗用車までが急に市場にあふれ始め、所得が倍増した国民はどうやらこれらを自分のものにできるらしいのである。唖然とした驚きのような表情がそこに読み取れた。簡単にいってしまえば、大衆消費社会が日本でも始まったのである。
 日本の新左翼運動第一のピークはテレビの普及曲線が立ち上がる時期に当たる。そして曲線がプラトーヘと移行する時期に第二のピークがある。普及速度の鋭いピークが両方の時期を隔てている。当時全学連(ブント)の一員だった私の感想を引用してみる。
 「この年(一九六〇年)の六月から三ヶ月ほど、私は家に帰れない事情に置かれていた。岸内閣が倒れ代わって池田内閣が成立し、私がはじめて深夜家に帰ったとき、家にテレビが入っているのを発見した。それまでは私鉄の駅前広場にすえつけられたテレビの前で、黒山の人だかりにまじってプロレスなどを見ていたのである。だからこの私の帰宅の夜から、「高度消費社会」「所得倍増」の十年がまさに始まったのである。私には、自分たちが期せずして高度消費社会の水門を開いたのだという唖然たる思いが、その後長くつきまとった。」
 こうして、一九六〇年の未曾有の規模の国民運動は、国民が過ぐる戦争の終わりを確認し心置きなく「高度消費社会(ロストウ)」に突入していくための、政治的通過儀礼という意味を持った。安保条約の改定に反対する理由は再度「戦争に巻き込まれる」ことへの警戒だったし、岸内閣打倒というスローガンはこの首相が先に戦争を引き起こした政治世代の代表であることへの嫌悪感の表れだった。一見過去の方を向いた運動目標のもとに国民は立ち上がったのだが、岸内閣が倒れてその目的の半分を実現した後に、国民が運動から帰還した社会は見慣れぬ光学に照らされた社会だった。しかし国民は運動に参加したことなど忘れたかのように新しい社会の光学をすぐに受け入れ、高度経済成長の戦士として働くとともに大衆消費社会を喜んで享受するようになるだろう。それでいて、「平和」と「民主主義」といえばそれだけでいつも正しく、良いことだと受け取るような国民文化が、国民運動の記憶としてその後今に至るまで残ることになった。安保改定は許してしまったとしても、国民は国民運動に「勝利」したのである。
 この意味では安保闘争は「もはや戦後ではない」ことを確認する儀式に尽きない。はるかに、明治以降の日本の近代百年を総決算する意義を持ったのだった。
 
新左翼のジレンマ
 
 国民運動を闘った国民の歴史意識の折れ曲がりは、新左翼にとってとりわけ重大な意味を持った。日本共産党からのブントの分離に当たっては、スターリン主義に対するトロッキーの批判が大いに参考にされた。これは革命運動に対する党の指導のあり方と、ソ連社会主義国家への批判の二点に集約できる。加えて、労働の自己疎外論を中心としたマルクスの初期草稿が見直された。このような理論的模索から引き出されたのは、革命的マルクス主義とも名付けうる純粋なプロレタリア革命論であった。改良主義的な労働運動指導部のみならずソ連と世界の共産党は、この観点からしてプロレタリアートの解放事業を裏切っている。政治的カテゴリーとして、これは典型的に「左翼反対派」の別党コースの立場であった。
 しかしブントが参加した安保闘争は、プロレタリアートの決起とは似て非なる国民運動であった。もちろん、歴史的偶然がもたらした前段階の大衆運動とこれを位置付けて、そのうちで闘争戦術を過激にすることを通じて、労働運動の既成指導部や共産党に対して新左翼の旗幟を鮮明にすることができる。ブントが実際にしたことがこれだったが、しかしブントが直面したもっと重大なことは既成指導部の裏切りではなく、国民運動の「国民」そのものの気分であった。当時、全学連の跳ね上がりを国民運動の一部と認めこれに同情すら寄せていたのがこの気分であったが、しかしむろんそれはプロレタリアートの登場の前段階を意味するものなどではなかった。無意識にも高度消費社会への水門を開くための助走であった。期せずして安保ブントの急進主義がこの助走を加速させた。
 安保闘争でのブントの登場は、新たに「真の前衛党」を目指す史上初めての試みであったし、共産党以外に独立の革命派組織がありうることを内外に示す事件となった。しかし、新しいマルクス主義的革命の理念を目指す彼らの試みは、安保闘争を闘うことによって自らこの理念の墓穴を掘ることになった。登場したばかりの新左翼政治組織のジレンマがここにあったのであり、ジレンマを解ききれずにブントは解体した。これだけが安保ブントの真実である。
 実際、「世界は変わった!」(イタリア共産党トリアッチ書記長)という認識のもとに、高度消費社会に適応しようとする世界の共産党の理論的試みが当時すでに始まっていた。この動きはユーロコミュニズムを中継点として、大筋では一九九〇年の社会主義体制そのものの崩壊にまでつながっていく。六〇年安保闘争で登場した日本の「新しい前衛」も、ブントのように解体しないとしたら、その後は「左翼反対派の立場」をイデオロギー的に護持するセクトとして存続するほかなかったのである。逆に、理念が同時にその墓場となる体験を反葛する思想だけが、新左翼第二のピークにつながることができる。
 「高度成長」は日本の戦後最大の思想的事件であった。
 
三、左翼を解体する新左翼
 
戦後民主主義のスタイル
 
 マルクス主義の革命理念を再発掘してこれを新しい前衛党として組織化する試みは、当然ながら若い知識人エリートが担い手となった。一九六〇年当時はまだ大学生であることがエリートであることだった。全学連を指導した安保ブントも学生と学生上がりの元共産党員が組織した。私自身のことをいえば、東京で生まれて当時は東京大学理学部の学生だった。家柄もなく豊かでもない家庭に育った。ただ、母方は地方の地主で知識人の家系であり、幼時から学問に専念する知識人が世の中で一番えらいと聞いて育った。ここで知識人とは自分の出世のためでなく、世の中の人々に役立つために学問をする階級、「知識階級インテリゲンッィア」のことだった。これがこの家系のいわば家訓であった。いうまでもなく、レーニン主義的前衛党の理念にもっとも無防備なのが、このようなエリート予備軍である。六〇年安保闘争に登場した新左翼が、なお世界大戦以前の日本社会における地主制と知識人の構図を引きずっていたことを、私のケースは物語っている。私が教育を受けた時代は敗戦の混乱期であり、まだ「貧困」が国民生活にドンと居座っている時代だった。ただ幸いなことに、安保闘争後の社会の明るい光学のおかげで、革命の理念への献身が党への自己犠牲につながってしまうことが避けられた。
 けれども他方では、全学連の世代は戦後民主主義教育の第一期生である。占領軍を通じて米国流民主主義教育とおぼしきものが、初等教育から与えられた。戦争と軍国主義の時代から単純に寝返った教師たちと、教師たちを鼓舞した戦後知識人の言説が、こうした初等教育を強化した。ただ、この世代は戦後民主主義教育をただ押し付けられたのでも、教師から学んだのでもない。先生だって民主主義のことを知らないのである。多くの小学校では、教壇の脇に級長の席が生徒に向かって設けられていた。私たちの世代は、民主主義を先生からではなく、先生と一緒に学んだのである。物事は全員の討論により決すること、言説によって集団の多数派を獲得することが、そのエッセンスであったように思う。
 安保闘争の組織の仕方のうちにも、戦後民主主義というべきスタイルが刻印されていた。典型的なのは労働組合と学生自治会という組織である。当時はなお、労働者も学生もそれぞれが階層という形をなしていた。この階層の総意というものが仮定され、総意は階層組織の民主主義的多数派によって代表される。全学生あるいは代議員による学生大会が、学生自治会の決議機関であり決議には全員が拘束されるべきものだった。従って、たとえば安保改定に反対する授業放棄を決議するためには、全学連の活動家はクラスから始めて学生大会にいたる言論の舞台を一つ一つ積み上げていかねばならない。このようにして反対派に対して多数派を獲得するのである。初等教育の時代から学んできた戦後民主主義のスタイルの、実戦への応用である。このスタイルの中の急進派として、左翼あるいは新左翼も「左翼」でありえたのである。逆に、ブントの戦後派学生たちは無意識にもこの行動スタイルを、マルクス主義的党組織の枠内に持ち込むことになった。
 
世界的学生反乱の一翼
 
 全共闘運動の時期になると、学生自治会という運動組織のスタイルが「ポツダム自治会」の「ポツダム民主主義」として批判され、破棄されることになる(日本に無条件降伏を求めた連合国のポツダム宣言にちなんで戦後=ポツダムと呼んだ〉。その結果、全共闘運動は組織範囲を自ら狭くすることになったが(労働者の反戦青年委員会の場合はいうまでもない)、一方で各人の思想を行動に直結することが容易になった。全共闘は組織の規約を欠き、成員の資格も決められていない。その分、形式的な約束と束縛がなく、ルーズで自由な組織であることが積極的に評価された。古い政治世代にいわせれば、全共闘はだらしない。
 全学連と全共闘運動の間の時期に、大学の数と学生数が大きく増加した。学生であることそのことがエリートである時代は終わっていた。地主制社会における知識人とマルクス主義の関係などは、関係自体がすでに忘れられていた。マルクス主義は全共闘、なかんずく新左翼諸党派にはなお大きな影響力を持っていたが、解釈の多様がマルクス主義を事実上相対化してしまっていた。左翼反対派的なマルクス主義の立場、ブランキズム、毛沢東主義、あるいは構造改革路線などがそれぞれにセクトを名乗った。全共闘運動にとってはむしろ、既成のマルクス主義を含めて近代的、科学主義的な知性への反逆ということがスローガンとなった。全学連が戦争による疲弊や貧困の克服、民主主義と科学的思考の獲得などの国民的課題を背景にしていたとすれば、むしろこうした課題の欠如という事実が全共闘運動を駆動していた。高度消費社会の理念の欠如が理念的に告発された。一九六〇年代末の世界的な学生反乱に共通する特徴である。全共闘運動を外国に紹介する場合も、多くの部分で共通の理解を前提にすることができるだろ。
 全共闘運動はある程度まで米国の新左翼と対比して理解が可能だろう。米国では民主党リベラル派から出現した急進派が新左翼と呼ばれた。共産党に対する新左翼という日本や欧州の経緯とは大いに異なっていた。米国の政治思想の伝統についてのTocqueville-L.Hartz的な見方に従えば、「生まれながらに平等である」米国は、民主主義革命の労苦を知らぬままにすでにして自由主義的民主主義の社会であった。保守主義も、民主主義革命の急進派として誕生する社会主義的左翼も、従って政治カテゴリーとして存在しえない。米国の新左翼が自由主義左翼との確執というより、公民権運動からブラックパンサーヘと急進化する黒人の運動から、より大きなストレスを受けて過激化したのもこの点から理解できる。生まれながらの平等に黒人は含まれていなかったからである。さらにその後一九八〇年代には、かつての黒人と同様に権利を奪われている「自然」を同様に解放すべきだと主張して、生命圏平等主義的な環境主義が急進化した。逆にいえば、日本や欧州と違って、社会民主主義が独自の存在として保守派と革命派の妥協を推進しえないために、これら過激派の過激な行動には政治的な歯止めがかからない。新左翼運動がコミューン運動へ、コミューンがガイアナでの人民寺院事件にまで行き着く。
 日本の新左翼の政治的位置も、全共闘時代になれば幾分米国の新左翼に似てくるといえるかもしれない。もう共産党に対する新左翼という性格を持たなくなる。安保ブントはとうに解体しているから、旧・新左翼に反対する新左翼でもありえない。さらに、六〇年安保の国民運動と高度成長の後には、社会党や総評など民主主義派の政治的重要性は大きく後退していた。ここにいたって全共闘運動は、折から日本社会を覆っていく勢いの近代社会、大衆消費社会の現象そのものへの異議申し立て運動として急進化していかざるをえなかった。大学に残る戦後知識人もこの現象の一つと見なされた。政治組織でなくコミューン主義的集団への傾斜は、米国ほどでないにしても全共闘運動でも明らかに事実だった。
 全共闘運動は従って、左翼として独自の政治的カテゴリーたりえなかった。六〇年の新左翼に比べて、全共闘運動ははるかに思想的な直接行動の色彩が強く、その点でも時の世界的学生反乱の一翼に位置したのである。
 
アナルコ・ニヒリズム
 
 全共闘運動を通じて、日本の思想的言説は初めて世界のそれと同時で同一の課題に直面したということができる。だから、たとえばフランスの五月革命とその表現であるポストモダン思想が紹介されても、従来のような西洋思想の輸入ではなく、日本の新左翼運動の経験において受容されまた批判されるべきものであった。米国から急進的なコミューン運動や環境主義が紹介される場合も同様である。日本の近代が一貫して課題としてきた「思想の土着」ということが、ここから始まるべきはずであった。全共闘運動の学生たちがそこまでの自覚に達しえないとしても、高度成長の一〇年をくぐってきた戦後の知性、とりわけ革命の理念の発見が理念の終わりであることを経験した知識人の知的営みは、この点を基準に吟味されるべきである。高度成長の速度の鋭いピークを間に挟んで、全共闘運動は全学連とまったく異なるスタイルをとったとしても、思想の隠れた継承性がここにあった。
 たしかに、世界的な学生反乱の一翼という全共闘運動の性格は、その基底にあったはずの文化的な独自性を見えにくくしている。これに比べれば六〇年安保闘争のナショナリズムの性格がかえってはっきりする。安保条約の改定によって「日米新時代」を実現することが、とりもなおさずアメリカに対等性を要求することだった。安保闘争の国民運動が「戦後」を終えるための通過儀礼だったとすれば、これは占領時代から続く圧倒的なアメリカの影響力を、国民の気分が多少なりとも「卒業する」ことを意味した。安保闘争は「戦後憲法」体制を受肉することによって「国民」を再形成する運動だったのであり、振り返れば、これは戦後日本唯一のナショナリズムの運動だった。
 全共闘運動の文化的基底は、この運動が採用した「暴力」を通じて経験されたことである。直接民主主義的な意思決定と闘争戦術の行使、たとえばプリミティブな武装、大学のバリケード占拠、バリケードの中のゼミナール、共産党や他の新左翼諸党派との暴力的な抗争などは、とりたてて日本の全共闘に独自のものではない。歴史的には西洋のアナーキスト運動の中で、正統マルクス派の闘争形態に抗して行われたものと異ならない。けれども、革命運動の文献からアナーキズムの思想を知るのと、アナーキーな闘争戦術を実践するのとは違う。全共闘運動はマルクス主義的言辞のもとで無自覚にも、アナーキストの戦術を大衆的に復活させた。これは戦後の運動の中で初めての経験だった。この経験によって、戦後に確立された左翼政治運動のスタイルが広範囲にわたって解体された。政治的スタイルの喪失は、それ自体が大衆社会の現象である。
 全共闘運動はアナーキーであっても、歴史上のアナーキズムを思想として復活させたのと違う。アナーキーであることは、運動がその国の政治的風土に直接に接触することを意味する。実際、全共闘運動は暴力の経験を通してマルクス派以外の日本の過激派を再発見する。戦前の超国家主義の歴史的な事例の発掘だけではない。この時期には民族派を名乗る右翼の全共闘運動も台頭した。三島由紀夫と楯の会によるクーデター事件もその一つの帰結であった。三島を招いての大衆的な討論会が全共闘により企画されて、「天皇」の一語さえ受け入れれば君たちとは共に闘えると三島は言明した。戦術的共闘のために左翼が右翼に近づいたのではない。旧左翼と新左翼の区別を超えて、およそ左翼の政治的基準そのものが全共闘運動を通じて解消した。
 
 アナーキーであることはまた、たんに文化的な伝統につながることではない。むしろ、大衆社会を背景とした「ヨーロッパのニヒリズム」(ニーチェ)もまた、日本社会で初めて大衆的に経験される。能動的ニヒリズム、あるいはニヒリズム革命の気分を全共闘運動は知った。この気分は日本に伝統的な虚無思想ともう実際上は区別できない類のものであったが、全共闘運動が高度成長の後の運動であることを如実に示すことである。私は当時全共闘のことをアナルコ・ニヒリズムの運動と呼んだことがある。
 振り返れば、六〇年安保闘争における新左翼の運動の中に、すでに萌芽があったのだった。ブント自体は日本共産党に対する左翼反対派という明確な政治性格を持っていたが、全学連の運動が高揚するとともに共産党のことなど知らない戦後派の若者たちがこれに参加して、国民運動の延長線上に過激化していった。安保闘争の後に高度消費社会へと傾れていく社会の気分が、無意識にもそこに孕まれていた。ブントの革命家たちが革命の理念とその墓場を同時に見たのも、こうした性格の大衆運動を体現したからに他ならない。その後いくばくもなく始まった全共闘運動は、安保ブントがためらいがちに垣間見たはずの政治思想の諸断片を、さながら床にぶちまけるみたいに明るみに出したのだった。この意味で、全共闘運動がなければ、六〇年ブントの経験も完結しえなかった。完結とは新左翼のみならず、およそ日本における左翼政治運動というカテゴリーそのものの散逸を意味した。
 
四、知識人
 
文化権力の獲得
 
 六〇年安保闘争当時、福田恒存が次のように警告した。「私とは全く反対の立場にありながら、私が最も好意をもつ[全学連]主流派諸君に忠告する、先生とは手を切りたまえ」。ここで「先生」とは大学教授を中心とした左翼的文化人たち、当時「文化人」と呼ばれ後の全共闘時代には「進歩的文化人」と揶揄されることになる知識人を指している。全学連は国民運動の功労者であるが同時に邪魔者でもあり、同行者の暴行は否定しながらその成果だけは貰い受けたいというのが、「文化人の日頃の流儀である」からと福田は書いた。
 戦後の日本の知識人は、軍部が始めた大東亜戦争に対する全面否定の風潮の中でその主役として形成された。平和と民主主義の実現は戦後知識人が一致して唱えるスローガンになった。「世界に冠たる」と評すべきマルクス主義研究者たちもこれに含めていい。「戦後史学」と呼ばれる左翼の歴史観がまた一世を風塵して国民文化に根付いていった。一般に丸山眞男(東大法学部教授)がその代表者と見なされているこのような戦後知識人たちの言動が、学生を教育し、教師と官吏を作り、言論界に人材を送り込んで世論を形成する。
 まだ国民に根強く残っていた戦争体験への嫌悪感をくみ上げて、「平和と民主主義」をスローガンにした六〇年安保の国民運動は、だから彼らの言論活動に格好の舞台となった。安保闘争において国民は国民運動に勝利したのであり、この意味で安保闘争は「戦後革命」の総決算をなすものだとしたら、戦後知識人の確立もまたこの革命の成果であった。安保闘争を通じて彼らは戦後の文化的権力を獲得したのである。しかも都合のいいことに、彼らによれば政治権力は常に「平和と民主主義」を反故にすべく狙っている反動であり、反動の被害者を代弁する位置にあると自己規定することができた。権力が被害者を装うことができる自己欺瞞もまた、権力の紛れもない特徴である。
 戦後知識人たちの圧倒的な勝利のもとでは、右翼、国家主義、保守主義の政治思想は生き残ることができずに根絶やしにされた。その結果、優秀な若い人材はすべて(右派でなく)左翼がリクルートするという、戦後の特異な体制が出来上がった。さらに、六〇年安保闘争における新左翼の登場の結果、日本共産党が左翼革命派の学生をリクルートするというシステムが崩壊した。以降、共産党は政治的のみならず、思想的文化的権威をも手放すことになった。ちなみに全共闘運動以降は、左翼の人材のリクルートシステムそのものが解体する。
 かくて、「先生とは手を切りたまえ」と全学連に忠告した福田恒存は、戦後の言論界ではただ一人の保守派というべき存在だった。福田のような存在は才能もさることながら、言論の戦略が巧みでなければ戦後の論壇に生き残ることができなかった。福田の場合はその幅広い評論活動が文学(シェークスピアの翻訳と演出)をベースにしていたことも生き残りに与っていただろう。文学のほうが政治評論よりは市場が広いからである。日本には現在でも、政治思想は文芸評論家が代表するものと考える奇妙な風習があるのも、市場を別に確保しておかなければ、戦後知識人が占拠する論壇に対する先鋭な政治批評は(右であれ左であれ)生き残れないためである。
 以上のような戦後日本の知的機構は今も基本的に変わっていない。
 
一九八〇年代へ
 
 他方、安保闘争における新左翼は、忘れられたマルクス主義革命派の理念を復興することによって戦後知識人の体制に歯向かおうとした。いわば彼らは先生方を間において、福田恒存とちょうど反対側に位置していた。しかし、すでに述べた理由によって、革命的マルクス主義を武器とする知識人批判は不可能なことだったし、不可能はじきに自覚された。安保闘争の後の日本社会にこの不可能性を向き合わせて、それぞれに理念の始末をつけることを通じてしか思想が生き延びる道はなかった。高度成長が戦後最大の思想的事件だったと先に書いたのはこの意味である。
 高度成長の後に、全共闘運動がその中で闘い、批判の対象にしたのが大学である。「大学解体」という有名なスローガンが掲げられた。そして当時この大学とは、かつて福田恒存が「手を切りたまえ」と全学連に忠告した先生方の牙城であった。全共闘の大学批判の内容に、今見るべき点はない。だが結果として、全共闘運動は先生と手を切るだけでなく、先生という文化的権力を解体することができたろうか。
 たしかに教育の場としてのキャンパスは、一九七〇年代を通じて荒廃を極めた。「大学改革」という名の教育研究体制の変化は今に続いている。けれども、左翼的文化権力の主体であり、その再生産の担い手であるという知識人の性格は今も大学を支配している。全共闘以降大学の先生もサラリーマン化し、戦後民主主義の理念が表向き影をひそめたというだけである。それだけに、戦後に二つの大衆運動のピークを作った新左翼の解体を待って、左翼的であることがもはやそれと気付かぬほどに知識人と国民に根付いたと見ることができる。
 思うに、日本の国民が六〇年安保の国民運動から反省もなく大衆消費社会へ雪崩を打って移行したこと、この雪崩の中で日本の知識人が踏みとどまって思考できなかったこと、全共闘運動はこうした動向を本能的に察知してこれに歯向かおうとしたのである。全共闘運動自身も、おのれのこの歴史的性格を自覚しえぬままに自壊していった。
 一九八〇年以降の日本社会がこうして始まる。