情勢分析! 長崎浩

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情勢分析!

(2006年秋)



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情勢分析!

長崎 浩


 情勢分析とはまた懐かしい言葉である。もともと、党や労働組合や学生自治会などで、組織の行動方針を弁証する文言のことである。ただのこじつけ話や枕詞にすぎないこともしばしばのことだったが、組織の文書や集会の発言にまで情勢分析が先行すべきものとされていた。また、コミンテルンのテーゼを引き合いに出すまでもなく、党の情勢分析が学問の問題意識を決めることもかつてはあった。とはいえもとより、私はこのような情勢分析を復活させようというのではない。この四半世紀、私は時の世界を見渡すためのサーベーを時折繰り返してきた。いってみれば、余生の過ごし方に覚悟を決めるためである。際立って歴史意識にとらわれてきた古代の一民族が書き残している。「いまは悪い時代。賢者は沈黙する」(アモス書5:13)。愚者もまた生きるために時代の判断をしたい。私の性癖である。
 この四半世紀、つまり一九八〇年代以降現在に至るまで、世界にもっとも影響を与えた思想は「経済成長」だった。鄧小平がいみじくもいったように、豊かになれる者から先に豊かになれ。全世界がこの掛け声に狂奔してきたのである。しかし、地球全体ではサハラ以南のアフリカ諸国のように、また中国などでいえば内陸部農村で、貧者が先行する富者をやがてはキャッチアップできるかどうか。この問題にはいわば外部から、異常気象という地球環境問題が絡んでくる。以上が私の情勢分析の大まかな構想である。


経済成長モデル

 数年前、韓国を訪問して釜山の市場を歩いたことがある。釜山では西面駅周辺から東のリゾート海岸にかけて新たにこぎれいな街が開けている。以前は市の南側、龍頭山公園のふもとに広がる南浦洞の市場が町の中心だった。私が歩いたのはこの市場である。簡単にいえば庶民の群れで賑わっていた。政治の激動を伴いはしたが、八〇年代以降の韓国経済の高度成長は結局のところ庶民に幸せをもたらしたのである。国民の幸福の問題を底上げすることができた。何といっても、この趨勢の魅力は抗い難いように思われた。
 開発経済学のモデルはせんじ詰めれば一国の工業化と、工業化による農村過剰人口の吸引のことである(渡辺利夫『開発経済学入門』2001年)。第二次世界大戦の後に、モノカルチャー(単一栽培)経済のまま植民地から解放された国があるとする。工業化の第一段階は、国内に工業を育成して、従来輸入に頼ってきた生活用品を自給することである(輸入代替工業化)。これは同時に国内市場の形成と農村労働力の吸収になる。産業は手厚く保護される。ただし、保護は競争を阻害し、機械・部品などの無制約の輸入が貿易収支の赤字をもたらす。国内市場の形成も限界があり、したがって雇用の拡大にたいした貢献ができない。
 第二段階からが、経済成長につながる工業化である(輸出志向工業化)。製造業が工業化を牽引する。自由化により、海外からの直接投資が呼び込まれ、産業の淘汰が起こる。製造業が競争力を持つようになり、輸出が増加していく。製造業は農業に比べて高所得だから、農村から労働力が都市に流入する。第一次産業から第二次産業へと産業構造の転換が始まるのだが、これは製造業における労働力不足つまりは労賃上昇の局面まで継続する。技術革新が伴えば、この局面はさらに延長する。この時点で、農村には食料需給に必要な労働力だけが残り、農村は過剰人口と貧困から解放される。緑の革命など農業技術が農村の所得水準を押し上げる。
 見られるとおり以上は戦後日本、なかんずくNIES(韓国、台湾、香港、シンガポール)の経済発展をモデルとしたものである。NIESは輸出志向工業化の段階をすませて輸出競争力をつけていく。繊維産業をはじめとして、製造業ごとの競争力の年代的推移を各国別に描き、これを左から東南アジア、NIES、日本、そしてアメリカの順に並べれば、全体として逆U字型の曲線の上に乗る。つまり、先発国の競争力はやがて後発国によって追いつかれて低下に向かう。東南アジア(ASEAN)諸国はやがてNIESに追いつくだろう。これを重層的追跡というが、アジアの各国が経済成長の単線列車に乗ってキャッチアップに邁進するとはこのことである。豊かになれる国から豊かになる。
 NIESのうち国家とはいえない(農業を持たない)二国を除けば、開発経済学モデルは要するところ韓国と台湾のモデルということになろう。タブーであるが、両国が共に日本の植民地だったことが注目される。韓国も台湾も解放時に、西洋植民地の意味でモノカルチャーだったとはいえない。旧宗主国からのODAがここに集中的に投入された。ODAは円借款が主体であり、いわゆる自助努力を支援することにより両国の産業構造の高度化に大いに役立った。それになんといっても、人口圧力が両国ではほどほどであったことが幸いしただろう。
 開発経済学では、NIESを追って東南アジア諸国(ASEAN)が開発モデルを実現しつつあると主張される。これらの諸国には海外からの直接投資(合弁企業など)が集中して経済成長を押し上げている。たとえばタイなどはこの通りであろうが、他方で、インドネシアやフィリピンはどうなのか。判断が保留される。これ以外の国で、インドや中国はどうなのか。巨大な人口圧力が開発経済学のモデルの適用を拒んでいるように見える。中国のことは別途取り上げねばならないが、いずれにしても工業化による農村人口の吸収というにはあまりに大きな人口と貧困の蓄積なのではないか。
 私は一九七〇年代の末に、タイの地方都市で毎朝、バンコック行きの大型バスが満員の乗客を乗せて出発するのを見ている。かくて、上海、ジャカルタ、バンコックなどいわゆる東南アジア型の人口一〇〇〇万都市が沿岸デルタに膨張していった。都市流入人口は製造業の労働力として吸収されるばかりか、いわゆるインフォーマルセクターのサービス業に滞留している。ありていにいえば、スラム化である。世界銀行の報告(1999年)によれば、一日二ドル以下で暮らすアジアの絶対的貧困層の比率は、インドで九〇パーセント、パキスタン、インドネシア、中国で五〇パーセントを超えるという。経済成長はこれらの国では都市と農村、それに大都市内部で所得格差を作り出した。モデルに従って、豊かになれる者からまず豊かになることの第一歩なのかどうか、にわかには判断ができない。
 中国では鄧小平の改革解放路線が始まったのが一九七九年である。農村改革からまず手がつけられ、人民公社が瞬く間に解体され、一時期は万元戸の(請負耕作)農家が喧伝された。農村における格差は、近郊の郷鎮企業の労働力として吸収できる。事実、郷鎮企業の工業生産額は一九九五年に五〇パーセントを超え、改革解放以降二〇年間で一億人以上の雇用を創出したという。それにしては、大都市への出稼ぎ労働者(かつて亡流といわれ、いまは民工と呼ばれる)の奔流はどういうことか。加えて、現在では国有企業の合理化が急激に進んでいる。人民公社と国有企業は、もとよりただの経済組織ではない。人民の暮らし丸抱えの文字通りコミューンとして存在した。その人民がただの農民と労働力に解体される。解体された人民がわれ先に富者になろうと狂奔している。その途上の現象であろうか。中国の農村と都市、都市内部での巨大な流動はまさに壮絶といえるだろう。貧富の格差は将来逆U字型に緩和していきうるものなのか。中国は大きい。人口一三億人、その〇.一パーセントが天才だとして、一三〇万人も天才がいるのだと私は思うことがある。
 経済成長の思想とは、豊かになれる者(国)がまず豊かになる、貧者はやがてキャッチアップできるという期待である。期待は世界大に広がっていった。期待を維持し高めるべく、どの国でも経済政策が立案発動されてきた。この四半世紀を振り返ってこれがただの幻想だと、私は診断を下したいのではない。経済成長の思想を開発経済学のモデルでなぞってみるとき、アジアですらモデルが積み残している国々がなお存在している。モデルとはそもそもそういうものであり、経済現象のような不確かな場面ではことのほかだということを私は十分に認めている。そのうえで、日本およびNIESのようには、経済開発は理論通りにいかない。アジア以外の開発途上国についても同じことがいえる、政治が、この現実にどのように対処できるか。私は診断したいと思ってきた。


グローバルな経済成長思想

 米国では一九八〇年代はレーガン政権と共に始まる、この政権はニューディール以降確立された「現代アメリカ」の体制(革新主義)、つまり連邦政府の介入による福祉政策の実施という体制をもとに戻したもの(レーガン革命)と評価されている。「小さい政府」とレーガノミックスと呼ばれる経済政策は減税による産業と消費の創出、かたや社会福祉予算を中心とする財政支出の削減であった。今日にいたる格差社会の潮流を作り出したのだった。新保守主義(ネオコン)と呼ばれる思想潮流がこれを幅広く支えた。
 南北問題に対しても、当初は中南米諸国を対象にして、レーガン政権のODAには激しい条件が付けられるようになる。コンディショナリティーという。要するところ、国営公営企業の民営化をはじめとする経済改革と規制緩和がこれら諸国に条件づけられた。「良き統治」までが条件とあることもある。最近ベネゼラやボリヴィアなど中南米で、ポピュリズムの手法が色濃い左翼政権が誕生しているのはこれへの反動である。左翼政権は結局経済成長に失敗して、軍のクーデタを経て、再度市場経済派に権力が移行するだろうか。
 グローバリズムとは市場経済の論理の例外のない適用、そのための障害の除去(規制緩和)である。旧社会主義諸国がまた、いやむしろ典型的にこの奔流に巻き込まれた
 たとえば、モンゴル(旧モンゴル人民共和国)では、民主革命から一〇年余二〇〇三年に「土地所有法」が施行された。といってもいまのところ、牧地を中心とする公有地制が放棄されたわけではなく、この法律により国民の所有に帰せられる土地は宅地や農耕用に留まり、全国土面積の〇.九パーセントと見込まれているという。モンゴルといえば広大な草原と家畜の放牧地のイメージである。社会主義以前の時代から、個人の土地所有という概念はなかった。それが、初めての土地の所有権と処分権の導入である。
 この間モンゴルでは社会主義時代のソ連からの援助(国民総生産の三〇パーセントに当たる)と政策指導を埋め合わせる形で、アジア開発銀行をはじめとする国際機関と日本などから強力な介入が行われたという。そして「土地所有法」を推進する国際機関は、かつてアフリカで遊牧地の私有化を推進した(そして失敗した)際と同様に、「公有地の悲劇」(G.ハーディン)という論理を用いたようである。公有の牧草地が公有のゆえに過放牧を招き、環境破壊をもたらすという理屈である。土地の私有という西洋の伝統は環境を守る人類の知恵である。加えて、投資を刺激する。モンゴルでの土地私有化のこれからはまだ分からない。しかし、先発諸国とその国際機関の介入による、旧社会主義諸国の市場経済化の一例となろう。
 同じことは中東欧の旧社会主義国とEU(欧州共同体)との関係ではもっとはっきりしている。ソ連圏を離脱したこれら諸国は、社会主義の国内体制を解体してヨーロッパの市場圏に参入した。チェコ、ハンガリー、あるいはポーランドで見れば、EUへの輸出はそれ以外の国への輸出額の2倍を超えている。その帰結としてEU加盟が課題となった。EU側にとっても東欧の市場と安い労働力の利用が魅力であった。ただ、EUはこれら諸国に加盟を強制することはしない。加盟はあくまでハンガリーならハンガリーの国民の自主的判断である。ハンガリーでは国民投票で八〇パーセント以上が加盟賛成に票を投じた。
 けれども、EU加盟にはEU基準に基づく規制をクリアすることが条件となる。EUではこれまでに八〇〇項目に及ぶ膨大なEU法の体系を蓄積してきた。EU理事会では加盟申請国ごとにこの基準の達成度を生徒の通信簿よろしく評価して公表し、中東欧諸国には規制をクリアする自主的な改革を叱咤激励したのだという。その結果の加盟である。また、EUにはコペンハーゲン基準(一九九三年)があり、これは改革の実務的基準だけでなく、基本的人権、民主主義、法の支配、加えて「良き統治」という政治基準にもとづいて加盟申請国を評価し、その達成を迫る。EUは「規制帝国」だといわれるのもうなずける。コペンハーゲン基準はEUの開発援助政策の基準であり、旧植民地諸国のみならず一般に適用されて時に民主主義条項違反のかどで援助が停止されたりもするという。
 以上、モンゴルとEUの事例については、山下範久編『帝国論』(2006年)所収の論文、滝口良「〈帝国〉はどこにあるのか?」および鈴木一人「規制帝国としてのEU」を参照した。思えば、グローバリゼーションは世界規模での経済成長思想であり、それが各国民国家にいわゆる改革開放を強いていることがうかがわれる。レーガン政権以降の米国の路線とも機を一にしている。つい最近も、日本の新たな農業一律規制(ポジティブリスト)が中国からの輸入農産物の基準となり、現地の生産体系と中国政府の指導に少なからぬ影響を及ぼしていることが報道された(2006.8.25朝日新聞)


政治の幼児化

 もっとも、誤解しないでほしい。私のここでの関心はグローバリゼーションという名の帝国主義的支配のことではない。グローバリゼーションに伴ってこの四半世紀に進行したところの、政治の世界の均質化のことである。つまり、豊かになれる者から豊かになる成長思想が世界に行き渡るとともに、この思想は各国へと内面化されて政治と政策にとっての強迫観念となった。その結果、政治的な関係がどの国民国家でも富者と貧者の関係という様相を呈している。改革開放、規制緩和、世界基準の採用が片方で唱えられると共に、格差社会、改革の痛みが指摘されるようになっている。いってみれば政治問題が全世界的に幼児化している。
 私は政治の幼児化といったが、いささかアナクロ的にこれに対置すれば、大人と政治とは伝統的に貴族の道楽として形成された。貴族制は当然それ以外の階層の存在を前提とする階級社会、身分社会の制度である。歴史的趨勢として、貴族以外の階級は貴族に反抗して覇を競う。反抗はそれぞれの階級に内面化されて、階級の分裂が起こる。この対抗関係のうちで政治が形成された。一般化していえば、異なる階層集団の間での政治的経済的な利害の対立、そして対立の内面化である階層集団内部での集団の分裂抗争、こうした関係を(貴族本位であれ、ブルジョア主導であれ)調整すること、あるいは調整に失敗して抗争が再燃することが政治である。
 たとえば、貴族制と民主主義の対立抗争。フランス革命を挟んでめまぐるしく変転する政治情勢のなかで育ったトクヴィルが、新世界アメリカに渡って目を見張ったのもそこに政治が存在しないという事実だった。「アメリカ人の大きな利点は、彼らが平等になったのではなく、生まれながらに平等であるということである。」(『アメリカの民主政治』)そしてトクヴィルを受けて、ルイス・ハーツが辛辣にこう書いている。
 「アメリカはヨーロッパ的な拠り所を排除したのである。しかも、そうすることによって、アメリカは哲学的栄光のための可能性をもすべて排除したのである。アメリカには、戦うべき貴族階級が存在せず、フェデラリスト党やホイッグ党のメンバー(註:独立革命期のブルジョア自由主義者)にとっては、貴族階級に対する反対運動を介して、人民を支配する機会が否定されていた。このことは、同盟を結ぶ貴族階級が存在せず、したがって、政治権力から人民を締め出すために彼らの助力を借りることが出来なかった。ここにはまた、対応すべきほんもののプロレタリアートによる暴動が存在せず、したがって、人々を震え上がらせることによって、プロレタリアートから逃げ出させることができなかった。」(『アメリカ自由主義の伝統』1955年、p.137)
 かくて、生まれたばかりのアメリカのブルジョアは、「制御しようにも制御しようのない新奇な巨人ともいうべき」アメリカン・デモクラットに敗北した。自由主義はアメリカではいわば絶対主義化された。トクヴィル―ハーツのアメリカ政治論は、現代アメリカを見る私の見方に影響している。そもそも私は、民衆暴動の中から政治が形成される全過程を追及すべく、『政治の現象学あるいはアジテーターの遍歴史』(1997年)を書いたのだった。
 米国の絶対主義的な自由主義は冷戦期だけでなく、今日も、対外政策を規定しているかもしれない。逆に、「生まれながらに平等」などとはとてもじゃないがいえない現実に、一九六〇年代の米国が深刻な反省を強いられたのも事実であろう。そして、レーガン政権以来のこの四半世紀は、米国内部でプアホワイトの問題がエスニックな問題へと拡大している。再度、政治の幼児化が米国国内で生じているのかもしれない。
 ここで話は飛ぶ。わが国では、バブル経済の崩壊が一九九七年の金融危機で頂点を迎えた(山一證券、北海道拓殖銀行などの経営破綻)。この年は奇しくもアジア経済危機が突発した年であり、韓国などの諸国はこれを契機に「IMF体制」という外圧の受け入れを余儀なくされると共に、国内の改革強制力が加速することになる。わが国では、バブル崩壊の「失われた十年」から回復すべく、小泉政治(小泉純一郎の政治手法)という珍しい現象が経験された(2001-6年)。高度成長期以来蓄積された政治経済の旧弊を破壊する。「ぶっこわす」、「改革にイエスかノーか」。バブル経済崩壊で疲弊感を深めていた国民は、こうした掛け声に熱狂したのである。小泉政治による改革の実態とは、これはかかわりのない現象である。
 そして皮肉なことに、改革は改革の痛みをもたらした。ことに労働市場で痛みが著しいのは事実である。バブル崩壊から脱却すべく、会社がリストラに走った結果、いまや労働力の三分の一が正社員ではないという。労働組合幹部が何といおうが、彼らを「未組織労働者」などと呼ぶことはできない。国際的現象とは逆フェーズながら、小泉改革は改革の痛みを受けるはずの国民を含めて支持された。世論調査では、改革の成果を支持する世論も七〇パーセントに上る(朝日新聞 06.08.29)。ポスト小泉政権の社会ではこの逆位相は正されていくことになるだろう。外国と同様に、豊かになれる者から豊かになれという改革開放路線内部での、リッチとプアの対立が政治の機軸をなしていくことになろう。(タイでも、タクシン政権を成立させた力は小泉政権への支持と同質であったかもしれないが、ポスト・タクシン政権の行方はなお混沌としている。註:2006年9月20日、三軍主導のクーデタが発した)。
 他方、中国では、なまじ共産党一党支配であるがために、政治のこうした構図は見やすい(そもそも、毛沢東の階級分析なるものが貧乏のレベルの区分だったことに、私はびっくりしたことがある)。大都市への流入人口はかつて亡流と呼ばれた。彼らは都市の戸籍を持たないために、戸籍を条件とする従来の社会主義的福祉を受けることができなかった。亡流の不満が行動につながるとき暴乱と呼ばれる。中国共産党が恐れるのはこの暴乱である。そして現在では、取り残された農村と都市民工の欲望が暴乱と化すことに、党は一層神経を尖らせねばならない。社会主義中国は人を人とも思わない横柄な役人を作り上げた。これら党官僚の腐敗が、経済動機とは別の方向から人民の欲望を刺激する。現在の中国共産党は性格上ポピュリズムの政治はできないし、改革開放の痛みを強調するポピュリストが、結局は経済成長に失敗して失脚する他国の歴史をよく研究してもいるだろう。自身、毛沢東も文化大革命の手痛い失敗を経験している。
 ここで、ポピュリズムの政治とことさらいうのも、たんに政治学用語としての大衆追従主義を持ち出しているのではない。ここでいう「大衆」とは経済成長思想の今日的な産物であり、先進資本主義国ばかりか発展途上国、旧社会主義諸国までがそれこそグローバルに対処しなければならない「大衆」である。その課題の切迫感に応じてポピュリズムの政治現象が生じることをいう。中南米のように社会が中程度に民主化された諸国では、いわゆる原住民の政治参加を基盤にして、ポピュリストの大統領がいまあちこちで誕生している。中南米では経済成長路線の痛みに押されて登場した政権が、成長に失敗して一層痛みを残し、成長路線の政権に再度交代するという政治過程を繰り返すのかもしれない。ポピュリスト政権でなくとも、経済成長路線への反動は世界共通の現象である。旧ソ連および東欧諸国では、旧共産党につながる政党がまだ繰り返し勢力を盛り返している。開発独裁という政権規定はいまではどこの国でも成り立たないだろう(インドネシアのスハルト、韓国の軍事政権などがすでに過去のものとなった。残っているのは、中央アジアの旧社会主義国の政権であろうか)。


一九八〇年という年

 かつての情勢分析の定石どおりに私は世界情勢の分析から始めているが、そこに経済成長路線とそれへの反動として政治を見てきた。ただし、この見方には一つの大きな例外がある。中近東のイスラム世界の存在である。冷戦末期には、低迷する社会主義諸国、とりわけソ連がカタストロフに陥らぬように買い支えることが、米国をはじめとする世界資本主義の焦眉の課題だったが、同様に現在、アラブ・イスラムの閉塞を買い支えることが国際政治の一大案件になっている。とはいえ、イスラム問題を見る前に、ここで年表的な整理をしておきたい。
 私は「情勢分析!」の対象期間を一九八〇年からの四半世紀としている。実際この年、続く四半世紀を画期たらしめる予兆に満ちた出来事が、国の内外で頻発した。期間を一九七九年から一九八一年に限定して、ここではまず国際政治を年表風に回顧しておく。
 第一に、一〇年後の社会主義体制の崩壊・冷戦終焉を予感させる出来事が重なった。鄧小平の改革開放路線に呼応して、米中の国交が回復した、文化大革命が公式に否定され、江青と張春橋に死刑が宣告された(1981年)。同時に、天安門事件を予感させる官僚体制批判大会が天安門広場で開催された。ベトナム軍がカンボジアに侵攻してポルポト政権を倒して、ヘン・サムリン政権によるカンボジア人民共和国の成立。これに対する膺懲と称して、中国軍がカンボジアに侵攻して中越戦争が行われた。前代未聞の社会主義国家同士の戦争である。以上は一九七九年の出来事である。
 一九八〇年には食肉値上げ反対のストライキが、ポーランドのグダニスク造船所に波及して、名高い統一労組連帯が名乗りを上げた。連帯の運動は翌年、ヤルゼルスキ首相の非常事態宣言と戒厳令布告により終息するが、一〇年を経ずして社会主義ポーランドの崩壊過程の主人公としてもう一度登場することになる。この間、ソ連では書記長ブレジネフの「停滞の二〇年間」になる。ブレジネフはポーランドに厳重な警告を発するが、かつてのように軍事介入はしない(できなかった)。ゴルバチョフの登場は一九八五年である。なお、一九八〇年にはユーゴのチトー大統領、そして「毛派の」サルトルが死去した。ヨーロッパでは共産党のユーロコミュニズムへの転進が始まる。第一五回イタリア共産党大会で宣言された「第三の道」、そしてフランス共産党のブレジネフ批判へと続く。
 こうしてみれば、一九八〇年—九〇年の社会主義体制の崩壊はすでに一九八〇年に始まっていたことがわかる。当時わが国を始めとして「連帯」に社会主義再生の証を期待する論者は多かったが、グダニスク造船所のストライキ記録を読むだけで見当違いは明らかなことだった。
 さて第二に、米国ではレーガン政権、英国ではサッチャー政権(1979年)が始まった。今日にいたる経済成長思想の始まりである。わが国では大平正芳から鈴木善幸政権の時期であり、日米経済摩擦が大きな懸案に浮上した。プラザ合意が一九八五年である。なお、米国のスリーマイル島原子力発電所で事故(1797年)。
 第三に、国際共産党による第三世界解放路線の事実上の放棄に対応して、今日にいたる南北問題が浮上してくる。六〇年代にはそれこそ雨後の竹の子のようにアフリカの旧植民地諸国が独立して、その多くが社会主義に未来を託した。しかし一九八〇年は、世界貿易の過半が先進国間の貿易へと逆転した年として記憶されている。NIESが離陸を開始するのと対照的に、第三世界の多くが経済成長から取り残されていく。私はもう委細を覚えていないが、一九七九—八一年の年表は後発諸国(ことにアフリカと中南米)でのクーデタ騒動をやたらと記録している。ウガンダ、ジンバブエ・ローデシア、ニカラグア、モーリタニア、モロッコ、中央アフリカ、エルサルバドル、ボリビア、コロンビア、リベリア、ギニア・ビザウ、アンゴラなど。これらのクーデタや軍事衝突に何か共通する要因を指摘できるのかどうか、今となっては私には分からないが、戦後世界が南北問題という大問題を抱え始めたという認識を持つようになったのが一九八〇年のことだった。中東アラブ諸国でも、マルクス主義的「人民闘争」が衰退していく。
 なお、これと対照的なNIES、たとえば韓国では釜山暴動、そしてパクチョンヒ大統領が暗殺された(1979年)。政情不安は翌年の光州蜂起、これを弾圧したチョンドファン政権へと継続して、ノテウ大統領による民主化宣言に至る。いまから見れば、これら一連の政変は韓国がNIESへといたる産みの苦しみだったといえるであろう。
そ して第四に、中東イスラム世界での一連の、大きな事件がこの期間に起こった。まず、イラン革命がパフレビ朝国王レザー・シャーを追放して、パリから帰還したホメイニのイスラム法政治が開始された。バース党サダム・フセインの独裁政権がイラクで始まり、革命イランとの間でイラン・イラク戦争を引き起こした。戦争は以降壱一九八八年まで続き、両国に測り知れない犠牲を強いることになる。サウジアラビアではイスラム教シーア派の武装集団がメッカのカーバ神殿を占拠して、政府軍との銃撃戦が開始された。そしてさらに、アフガニスタンでクーデタが発生して、ソ連の軍事介入が始まった。軍事介入は以降一〇年間、世界から参集したイスラム過激派による聖戦を引き起こすことになる。アフガニスタンを舞台にしたイスラム戦士による聖戦が、今日のグローバル・イスラムのテロ活動につながっていくことは周知のことである。以上は一九七九年のことだが、一九八一年にはエジプトのサダト大統領が軍事パレードの閲兵中に銃撃されて死亡、今日にいたるムバラク政権が誕生した。
 イラン革命の衝撃は、たんにイスラム少数派(イスラム人口の一割)シーア派の国家が誕生して、国内にシーア派を抱える隣国(ことにイラク)の警戒心を刺激したというに止まらない。アラブ諸国では政権の世俗化が進行し、イスラエルとの和平が成り立つかに見えたのがまさにこの時期に当たっていた。エジプトはイスラエルと平和条約を締結(1979年)して、国交が樹立された(1980年)。いわゆる「正常化」である。パレスチナでは第一五回パレスチナ民族評議会総会で、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の体制が確立された。これはイスラエル国家の承認と、パレスチナ国家の樹立路線につながるはずであった。ところがホメイニのイラン革命はイスラエル関係の正常化をぶち壊すものと受け取られた。世俗化を強める政権、いわゆる政治的イスラム(スンニ派)は国内のイスラム過激派の攻撃に再度直面することになる。エジプト、サウジアラビア、そしてイラクのフセイン政権など。米国をも巻き込んでこれらの諸国が、アフガニスタンの聖戦へ、そしてイランと戦うイラクへ物と金と人をつぎ込んでいくことになった。中東イスラム世界で80年代に始まるこのねじれた構造が、四半世紀にわたって中東情勢を規定していくことになろう。


中東アラブの袋小路

 現在の中東諸国は、第一次世界大戦にともなうオスマン帝国の解体過程で製造された。各国の成立事情も国どうしの関係も、歴史的に極めて複雑であったしいまも複雑である。トルコとイランをも含めて、今日ではイスラム世界と呼ばれることが多いが、イスラムの一語で括れるような世界ではない。イスラム世界という自己主張と、イスラム教徒を主体とする諸国家の実情とを区別してみる必要があるだろう。イスラエル国家の存在、さらに石油利権などをめぐる欧米諸国の利害もからんで、イスラム諸国の関係が複雑化を増しているのはいうまでもない。
 イランイスラム共和国やアフガニスタンのタリバン政権の性格を見て、イスラム世界がイスラム法にもとづく政治(イスラム主義)を執行している国々だと考えられがちだが、これも実情とは違う。近年の歴史は、むしろまったく逆に、イスラム諸国が注意深くイスラム主義の世俗化を図ってきたことを示している。政治的イスラムと仮に呼んでおく。そして、政治的イスラムが中東のそれぞれの国で歴史的に行き詰っていること、そこに中東問題やイスラム過激派問題を国際政治の一大イッシューに押し上げている要因もある。「貧困」がテロの原因ではない。現状では、アラブ・イスラム諸国は歴史的閉塞状況を深めている。あるいは、様々な理由で支配体制が打倒された。政治的イスラムの歴史を、ざっと振り返っておこう。
 アラブではないがトルコとイラン。オスマン帝国解体を受けてケマル・アタチュルクがトルコ共和国を建国して、以降、日本の明治維新ばりの近代国家を目指してきたのはよく知られている。第二次大戦後は西欧およびイスラエルとの関係を重視して、アラブ・ナショナリズムとは一線を画して近代化を進めようとしてきた。今日でもヨーロッパ共同体加盟が悲願となっているが、いまだに実現していない。その一方で、イスラム主義政党が台頭して、過日の総選挙では第一党になったが、政教分離の国是から非合法化された。またこれとは別に、イスラム過激派によるテロがユダヤ教シナゴーグ、あるいはイギリス大使館などに向けられるようになっている。
 イランでは、パフラビ王朝のレザー・シャー父子による王政が、イスラム主義革命によって打倒された(1979年)。レザー・シャーはかのペルシャ大帝国の復興を掲げて、政治・社会の脱イスラム化と近代化を強権的に進めた。これは一九二五年からであり、トルコと同様に比較的長い歴史を持つが、第二次大戦後にナショナリズム「国民戦線」のモサディク政権が石油の国有化を宣言した(1951年)。だが、エジプトのナセルの路線はここでは成功せず、やがてイスラム主義反米の革命に至った。革命が作り上げた新体制は古めかしいイスラムの神政であり、反米の熱が冷めるとともに国民の抑圧感を深めていった。こうした中で誕生したハタミ大統領の政治は、穏健な政治的イスラムの確立への歩みに見えたのだが、この方向がなお混迷している現状である。
 イラクでは、米英軍がしかけたイラク戦争によって、サダム・フセイン政権が崩壊した(2003年)。フセイン政権はバース党政権である。バース党内の政権交代で一九七九年にフセインが大統領になった。バース党はその名(アラブ復興社会主義党)の通り社会主義を掲げる政党であり、シリアバース党とは元は同じである(1947年にシリアで設立大会)。イラクではエジプトと同様に、アラブ・ナショナリスト軍人が中心になって王政を打倒したが(1985年)、これに参画したイラクバース党が一九六八年に権力を獲得した。
 バース党のイデオロギーはアラブ・ナショナリズムともイスラム主義とも違うが、ではどんな意味で社会主義政党なのか。注目すべきは、権力を取るまでバース党は一貫してイラク共産党をライバルとしてきたことである。地区細胞を積み上げて、この位階制を「政治局」(革命的指導評議会RCCないし地域指導部RC)が支配する党組織構造、党組織による大衆組織の指導と動員の仕方など、共産党に倣った点が大きいという。共産党といえばその実態はよく知られているが、バース党はそうではない。しかし、容易に類推できることはある。つまり、バース党はスターリン主義をまた骨の髄まで学んだに違いないのである(蒋介石の中国国民党の場合とよく似ている)。党内の権力闘争と粛清。党組織による支配体制を秘密警察と軍により不断に、暴力的に防衛する。一党独裁が個人独裁に収斂していく。こうして、イラクバース党あるいはフセイン政権が、三五年の長きにわたって民衆の権威主義体制、抑圧体制であり続けた。それに、エジプトなどと違って、石油と農業資源に恵まれたイラクでは、抑圧体制は民衆に福祉を散布することができた。経済開発には成功しなかったが、イラク国民は失うものを持つようになった。
 ただ、挑発したのか挑発されたのか、あの利口なフセインがイランと戦争を始め(イラン・イラク戦争1981−1988年)、次いでクエートに軍事侵攻して(1990年)、以降国際社会から制裁を受けることとなった。この時期には、フセイン「社会主義体制」は徐々に部族・地域対立と宗派対立を助長するようになり、イスラム主義を強調するようにもなったという。裏を返せば、フセインにノーサンキューという気分がイラク社会に蔓延する。イラク国民は米英軍によるフセイン追放を歓迎し、反米を叫びながら同時に新しいパトロンに過大な要求を突きつけるようになっている。宗派対立、イスラム教スンニ派とシーア派の殺し合いはその後の時期のことである。なお、フセイン打倒後のイラクにたいして、他のアラブ諸国の対応はいまのところ冷たいの一語に尽きる。(以上、酒井啓子『フセイン・イラク政権の支配構造』2003年を参照した。)


アラブ・イスラムの政治の終わり

 アラブ連盟は今日とりわけ対イスラエル問題で形骸化しているが、今も連盟の盟主の位置にあるのがエジプトである。そのエジプトでは、カイロに人口が集中すると同時に民情が極めて悪化しているという。公的私的を問わず、街路で一見意味もない暴力沙汰が頻発している。また、エジプト知識人の知的な閉塞感もきわまっているようだ。国内の社会と政治の問題点をそれ自体として追及することから目をそらして、すべての問題の根源をイスラエルとその背後にいる米国の陰謀のせいにする。責任をもっぱら外部に求める言論の背景には、メディアと民衆レベルでの広範な支持がある。陰謀の手先として国内のスケープゴートを駆り出す。イスラム教にもともとある終末論が、今日の状況に適用されて大はやりだという。コーランに出てくる「偽救済者」の登場とは、まさに今日の米国だ、と。政権はプラグマチズムと手練手管で強権的支配体制を維持しているが、半面、民衆レベルでのユダヤ陰謀説を支配に利用している。
 さらにエジプトは現在レント依存国家だといわれる。レントとは地代収入の意味だが、ここでは国の外からの資源獲得に政治経済体制が依存する国家のことである。エジプトでは、スエズ運河通行料(17億ドル)と石油収入(15億ドル)、観光収入(40億ドル)、出稼ぎ労働者からの送金(40億ドル)、そして主として米国からの援助(40億ドル)が国家歳入の五〇パーセント程度になるという。その分、国内で経済開発モデルが成功していない。これら外からの収入は中東の安定と不安定の両方を必要条件としている。世界経済の活況と中東の安定がスエズ運河の通行料、出稼ぎと観光収入を左右するのはいうまでもない。中東地域の安定性を左右する事件として、一九七〇年代以降、まず対イスラエルとの単独国交回復(正常化、1979年)、次いでイラクのクウェート侵攻と湾岸戦争(1990年)、九.一一事件(2001年)に引き続く米軍のアフガニスタン侵攻、そしてイラク戦争と続く。
 これらの事件を通じて、中東の安定化にエジプトだけが寄与するという構図を作り出すことによって、エジプトは中東アラブ諸国の中で外国からの援助を排他的に受けようとして外交を展開した。イスラエルとの関係正常化の後には、米国の安全保障支援事業費(対外援助予算全体の40パーセントを占める)をイスラエルと二国で分け合うまでになったという。
 以降の国際テロ問題では、テロ反対を掲げて欧米と他のアラブ世界とを仲介する役割を演じようとしている。エジプト外交がこうした役割を演じるためには、イラクが将来国家として復興することはエジプトの利害にそぐわない。イスラエルが中東政治秩序のうちで安定化することも同様である。中東の政治的不安定を必要条件として、その上で対米関係をにらみながらこの不安定をうまく泳ぎ抜けていくことがエジプト外交となる。逆に、米国としては中東の安定化のために、不断にエジプトとイスラエルの現体制を買い支え続けねばならない。サウジアラビアや湾岸産油国の体制と米国との関係についても、同様なことがいえるだろう。イラク戦争で唱えられたように、民主化するために暴力的に現体制を転覆することは、米国と以上の諸国との関係では難しい。国内の「民主的改革」もまた外交の道具になる。(エジプトの現状について、池内恵『アラブ政治の今を読む』2004年、中央公論新社、を参照した。)
 イスラエルとアラブ諸国との関係では、次のような視点が有益である(池田明史「オスロ合意、ロード・マップ、ジュネーブ提案」、酒井啓子・青山弘之編『中東・中央アジア諸国における権力構造』2005年、岩波書店)。人口国家イスラエルはユダヤ民族国家でありかつ民主主義国家となることを目指しているが、安定した中東秩序の構成員となるにはこれら二つの国是がジレンマになる。イスラエル国家には多数のパレスチナ人が住んでいる(ユダヤ系500万人、アラブ系120万人)。さらに、中東戦争による占領地には二七〇万人のアラブ系人口がある。また、建国により領土から排除したパレスチナ難民の帰国を許せば、非ユダヤ系人口はさらに増大する。これらパレスチナ人の出生率の高さを考慮すれば、近い将来人口比が逆転することが予想される。この状態で民族国家たらんとすれば、非ユダヤ系を二級市民扱いするアパルトヘイト社会となる。かといって現状で民主主義国家であるためには、マイノリティーの権利を保障しなければならず、民主主義は権力の交代すら許すかもしれない。パレスチナ人を力で支配するのでは、民主主義国家という国是が成り立たない。「非ユダヤ人問題を抱える限り、イスラエルがユダヤ人国家であると同時に民主的社会であろうとするのは不可能」ということになる。
 イスラエルにとって中東和平プロセスとは、以上のジレンマを抜け出す方途に他ならない。そこで、オスロ合意(1993年)以降、パレスチナ国家を独立させる事がイスラエルの和平方針となった。しかし、和平交渉が停滞する中で、イスラエルのシャロン政権は一部占領地からの一方的撤退を始めると同時に、分離壁の建設を進めてパレスチナ人一三〇万人を切り離しながら、ユダヤ人入植地の四〇万人を回収しようとしている。ユダヤ民族の物理的な隔離、人工的な一民族国家の再製造である。アラブ諸国と共に中東の安定した秩序を構成するという、イスラエル国家の安全保障がこれでは到底許容されえないであろう。


イスラム源泉回帰主義

 エジプトは中東の安全保障をめぐる外交の綱渡りだけで、中東アラブの構造的不安定を乗り切っていけるだろうか。むしろ、レント依存国家というこの四半世紀の状態が、逆に国内の政治体制と政治思想の閉塞を深めてきたことに注目すべきである。
 エジプトでは軍人のアラブ・ナショナリズムがナセルを権力に押し上げた。ナセルはスエズ運河国有化をめぐる英仏との戦争に勝利して、アラブ・ナショナリズムの英雄となった。ナセルは「アラブ統一」、ついでソ連よりに傾斜して「民族社会主義」を唱えて、「アラブの夢の象徴」として機能することができた。ところが、そのナセルがシリア・ヨルダンと共に起こした戦争、第三次中東戦争が、わずか六日間でイスラエルに撃破される(六日間戦争、1967年)。ナセル自身が一九七〇年に死去した。
 六日間戦争の敗北を契機として、ナセルが象徴していた大義が大きく二つの方向に分岐していく。ナショナリズムのマルクス主義化として、「人民戦争」。そして「イスラム的解決」を唱えるイスラム主義である。この二筋の運動とその行き詰まりの中から、今日のエジプトあるいはアラブの支配体制が形成され、同時に国際テロという現象が発生する。
 古典的なマルクス主義の労働者階級革命論が、同時期の第三世界の闘争を受けて人民革命論の装いを取ったことは、アラブのみならず世界的現象であった。世界的な学生運動の波、中国で文化大革命と中ソ対立、ベトナム戦争の勝利、パレスチナ人民の闘争。これらは六〇—七〇年代の現象である。これらを受けて、アラブ世界でもブルジョワジーにたいする人民闘争が始まっていると認識された。私はアラブ人の人民主義的マルクス主義の主張を断片的に知っているだけだが、ここにも世界同時的な動きがやはりあったのだという感慨を持つ。しかし、アラブでの人民闘争は、パレスチナでの闘争がアラブの地で封じ込められ、あるいは放逐されるとともに行き詰っていった。第三世界の人民闘争の衰退と機を一にした動きである。
 一方、人民闘争論と並行して、「イスラムが解決だ」というスローガンが浸透していった。『コーラン』(ムハンマドを通じた神の言葉)と『ハディース』(ムハンマドとその同行者の言行録)というイスラムの源泉に回帰して、ここに示されているはずの理想的なイスラム共同体をもとにして、現象の政治、社会、思想、倫理全般を弾劾し問題のイスラム的解決を掲げる。源泉回帰の思想はかつてマルクス主義左翼反対派の拠り所にもなったが、イスラム主義にはこれと共通点もあり、またむろん相違点がある。現体制が体制であるのにはそれなりの実際的な理由がある。しかし、マルクスの原典やコーランそのものを現実にストレートに適用すべきだと主張するから、両者はともに体制に対する過激な、しばしば倫理的な批判になりがちである。新約聖書のキリストの言葉が福音書記者による伝承であるのと違い、コーランは神自身の言葉とされ削除も付加も許されない。しかも、7世紀の文書である。たしかに、コーランには、あるべきイスラム共同体のあり方について、政治的でもあり宗教的倫理的でもある規定が細かいことまで記されている。しかしこれらは現在社会の実情に合わない、というより、そもそもこの社会の複雑なしくみについて何も書かれていないのは当然である。コーランを楯にされてはどんな政権であれたまらない。
 キリスト教では血なまぐさい宗派対立の幾世紀を経験して、聖書の言葉から政治というものを切り離す知恵を蓄積してきた。そしてたしかにイスラム教でも、こと主流のスンニ派の場合では、その時代に合ったコーランの適用解釈を積み重ねてきたし、その権威には無条件に従うことが決まりになっている。けれども、コーランの神の言葉自体は、共同体のあるべき姿を指し示すものとして今も絶対的に信じられているために、スンニ派の場合ですら既成の権威をはみ出す過激派が生まれる余地が常にあるのだという。過激派の批判は現政治体制にとって必然的に破壊的なものとなる。
 過激な行動に走らないとしたら、多方面での「イスラム運動」によって漸近的に社会全体を理想に向けて変えていく。これがイスラム主義穏健派の考え方である。エジプトのムスリム同胞団は歴史の古い(1928年設立)団体だが、現在でも、「イスラム的解決」を掲げて現体制への批判勢力として活動しているという。他方、「ジハード団」や「イスラム集団」など過激派は、サダト大統領の暗殺(1981年)やルクソールにおける観光客襲撃事件(1997年)を引き起こす方向に走っていく。
 現状では、エジプトのムバラク政権をはじめとして、政治的イスラムが国内のイスラム主義的反対勢力を力で抑え込んでいる状態であろう。過激派の残党は国外に厄介払いした。世界的な「テロとの戦い」の一環として、国家は特色あるひとつの政治体制というよりおしなべて「テロと治安」という対立構図を強いられている。といってもむろん、イスラム教が国是だから政治的二枚舌をいつも使い分けねばらない。これが政治的に健全な状態だとはとても思えない。イスラム政治は政治的にも思想的にも、袋小路にある。(以上は池内恵『現代アラブの政治思想』講談社現代新書、2002年を参照した。)


普遍的戦争

 中東のアラブ諸国家は貧困国家ではなく経済的には中進国に属するが、経済開発は停滞している。経済発展と民主主義体制が共に進展するというモデルに反して、各国は治安国家として内閉を深めている。一方、中東ではイスラム世界としての一体性がいまや機能せず、イスラム諸国が相互にすくみ合いの状態にある。この四半世紀に進行したこのような情勢が、イスラム過激派の活動をテロとして、国外へ、さらには中東から世界へと追放/開放することになった。アルカイダをはじめとするイスラム主義の「国際テロ」がこれである。
 国内の改革運動に挫折して、イスラム過激派がアフガニスタンに根拠地を見つけたことはよく知られている。ソ連のアフガンへの軍事介入にたいする聖戦である(1970−88年)。いまだ冷戦期、西側とアラブとパキスタンが聖戦を援助した。ソ連軍の撤退後、アフガニスタンでは内戦が始まるが、タリバンがこれを最終的に制圧した。このタリバン支配地域で、聖戦戦士たちは訓練基地を持ち、ここを根拠地にして聖戦の世界的ネットワークが錯綜して張られ、増殖するようになった。ネットワークの結び目のひとつがアルカイダである。アルカイダとは基地あるいは前衛を意味する普通名詞だという。
 アルカイダは国際テロの唯一の指導組織でもなければ、最強の指導部であるともいえない。オサマ・ビンラディンは陰謀組織の頭目ではない。世界各地でテロが起きると、自動的にアルカイダとの関連がとりざたされるが、これが国際的な過激派ネットワークの結び目のひとつにすぎないことは今では知られていることだろう。アルカイダは国際テロを名指す便利な代名詞となっている。アフガニスタン戦争によってタリバンが解体されて後には、一層このようにいえる。かつてアフガニスタンの聖戦戦士と彼らの基地を中核として発生しながら、聖戦の新規参加グループのネットが世界各地で自然発生的に増殖してきたのである。
 とはいえ、オサマ・ビンラディンらの理論が、世界に散らばるイスラム過激派に「何をなすべきか」を教唆したのは看過しえない事実である。インターネットや衛星回線のテレビを通じて、ビンラディンの扇動演説が繰り返し流れている。中東アラブ諸国でのイスラム過激派の理論が、世界大に拡張された。それによれば、いまや世界は来るべきイスラム共同体と米国との普遍的戦争の過程にある。ちょうと、ムハンマドが異教の都メッカを追われてメディナに逃れた(ヒジュラ)ように、われわれはいま世界各地でビジュラを経験している。かつてのように、やがてメッカに凱旋する時が来る。それまでは聖戦の殉教者となって、「アッラーのほかに神はなし。ムハンマドは神の預言者」という信仰を証しなければならない。さすれば来世の審判において有利な報償を受ける。見よ、世界各国で小さな群れが強力な軍を打ち破っている。小さな殉教が大衆の覚醒を引き起こし、われわれは米国との普遍戦争に勝利するだろう。真のイスラム共同体を打ち立てるだろう。イスラム戦士になることはアルカイダの組織に属することではない。それは各人の世界観の確立と何をなすべきかの実践である。
 今日の中東アラブ諸国の閉塞状況を反面教師と見立てれば、ビンラディンのこうしたアジテーションが、西欧世界に逼塞する普通のアラブ青年に訴えるところがあるのだと想像される。世界貿易センターへの航空機による自爆テロ(九.一一)に際して、ブッシュ大統領の反応がビンラディンの訴えを裏書するかに受け取られた。これは犯罪でなく、善と悪とのイデオロギー闘争である。はては十字軍だとまでブッシュは述べたという。こうして、世界大の「テロとの戦い」が開始された。ビンラディンにいわせれば、まさしく世界観戦争、普遍戦争ということになるだろう。ブッシュはビンラディンの罠にはまったのである。
 世界的な善と悪との闘争、聖戦vs.十字軍という対立構図が幾分とも有効である限り、国際テロの芽は当分なくなることはないと予想される。同時に、イスラム過激派を普遍戦争へと疎外したアラブ諸国の閉塞状態が、逆にアラブに今一度の構造変動を引き起こすのではないかと危惧される。問題は政治的イスラム国家の今後の展望にかかっている。(アルカイダについて、ジェイソン・バーグ『アルカイダと国際テロ・ネットワーク』、坂井定雄・伊藤力司訳、講談社2004年、を参照した。)


テロと治安という政治

 私の政治の概念に照らせば、利害対立がテロと治安の対立構図を取ることは、典型的な政治の疎外形態である。民衆と国家権力が直接に対峙しており、そこに文字通り介在集団の存在がない。むしろ、この関係が破壊される。イスラム過激派といえども、もとより集団形成を成し遂げているだろう。自爆テロは結果であって、自爆に至るまでの相克は自己一人の内部にだけあるのではないだろう。相克を他集団との関係の中で自分たちの集団へと内面化していくことなしに、テロの誘惑から青年を防衛する道はないと思われる。
 何事にもよらず争いごとが嫌いだと書いたのはルソーである。だが、争いのない契約はない。そのこともまたルソーは知っていた。何事によらず、争いを経由したものでなければ政治的ではありえない。言葉も知識も公の論争を重ねた末にしか、政治的真理たりえない。ここで争いとは、個人と個人あるいは個人と権力との紛争のことではない。国家であれ階級であれ、あるいは民族や宗教団体であれ、集団の間の対立と妥協の中で、政治的なものがいわば析出する。友と敵との区別そのものが政治的なのではなく、敵対のうちに友と敵を超えて政治が現れ出る。最近の思潮ではこれと少し違った意味で、政治(ポリティクス)や権力という言葉が使われる、それは承知しているが、政治的なものは私の中でいまでも、集団的利害の集団的決裁のことを離れてはありえない。
 世紀が改まっても、世界から争いが消えない、政治的には、個人の利害を集団のそれに移転して押し通そうとする欲望と性癖。人類から政治が消えない、すると、個々の紛争や戦争の当事者集団の内部に、容易に想像できることがある。欲望と正義を集団の意思に形成しようとして、個人は徒党を組み論争を戦わせ、論敵を排除して多数派を構成しようとして争うだろう。現に、少なからずの個人が、活動の全情熱とエネルギーをこの争いに注ぎ込んでいるだろう。何故こんなことが、人間の欲望の首座を占めるにいたるのだろう。政治的動物、つまりポリス的に生きることが人間の人間たるゆえんだからと、古代ギリシャの人なら答えるだろうか。こんなことに奔走して使い果たす膨大な情熱のことを、私自身の記憶が容易に呼び出すことができる。
 むしろ、各人が情熱を傾けてかく争う中から、集団の意志なるものが析出してくる。相手の集団でもこれと同じことが生じるのだから、争いは集団の敵対に転化していく。国家も他の集団もこうした過程を経て政治的に形象され、それとして自他共に知られるようになる。
 世界の紛争を見聞きしながら、敵味方の双方の自己形成に注がれた人間の欲望を思って、私はたじろぐ。この欲望のことを私個人はもう忘れてしまっている。無論幸いなことに、いまは紛争の当事者でもでない。それなのに、今日の紛争の成否や正邪を、世界の出来事として分析し判断し、論評することが直ちにはできない。想像の上だとしても、当事者の政治的欲望をくぐることはそれだけのエネルギーがいる。かの地の個人の政治的欲望を思い知らずして、紛争の成否正邪の判断が的中するはずがない。それが私をたじろがせる。


ミクロな場所へ

 この四半世紀に先立つ一〇年、つまり一九七〇年代は、わが国では全共闘運動とこれに伴う七〇年安保闘争の始末の時代であった。振り返れば、全共闘運動とはそれ以降に学生運動というものが途絶えることになる学生運動だと定義できる。加えて七〇年代は、内ゲバによる殺し合い、連合赤軍のリンチ殺人、そして無差別爆弾テロなどを通じて、わが国の新左翼運動の遺産を食いつぶしてしまうことになった。他方、いわゆるサブカルチャーが七〇年代に萌芽を持ち、バブル経済に沸いた次の一〇年に全面開花する。こうして「ポストモダン」の八〇年代が始まった。
 わが国のこの四半世紀における「私」というものの存在様式を、政治行動の「主体」という観点から見ていこう。
 ミクロな場面になるが、医師の診療場面を想定する。医師は患者の話を聞く。診断を付けるために訴えを聞くのが通常の臨床場面である。ところが、末期の臨床や慢性疾患では、患者が堰を切ったように自分の話をはじめて止まらないことがある。治療者の側に患者の話を聞き取る態度があり、聞く力がある限りでのことだが、そのとき、専門知識を用いて患者にアドバイスするという医師の立場性が無に帰するように思えるだろう。患者の話はたんに診断の手段という定型に乗らないばかりか、場合によっては、他に置き換えができない個別性と独自性を主張することがある。文字通り、共約不可能な語りである。医師はもっぱら聞き役となるばかりか、患者の語りに巻き込まれて共犯者のごとくに患者の物語の展開に与するようになる。ならば、サイコセラピーなどで、治療者が患者の物語に組み込まれながら物語の転轍を誘導できれば、患者の自己は翻身を経験してまったく別様な自己の物語をつぎみだすかもしれない。誘導するといっても、両者にとって物語の行く先があらかじめ分ってはいない。このようにして。セラピストとクライアントとが同じ地平で共同して、思いがけないことに、新しい「物語(ナラティブ)としての自己」を構成していく。たとえばナラティブ・セラピーという技法が注目されるようになる。
 これらの話は狭い臨床場面から容易に拡張できる。自分とはもともと自己についての語り、すなわち「物語としての自己」のことである。内省による内語の語りではない。世間のうちで会話することを通じて、自分が探し出され語られ、自己というものが構成されてきたのである。自分とはかけがえのない、それこそ他と共約不可能な自分についての語りである。しかし同時に、この語りは会話としてあるために、家族における関係と、この関係の中を通した社会とが自己の構成に避けがたく浸透している。自己—家族—社会の循環関係のなかで自己は社会的に構成され、かつ閉じ込められる。だからこそ、社会や家族の規範に拘束されてきた自己の物語(ドミナント・ストーリー)が、ときに別の物語(オルタナティブ・ストーリー)へと思いもかけず転轍されることがある。自己の翻身である。以上が、自己についての社会構成主義の見方である。
 私は、世紀末のころにこのような話を見聞きして、ここでもやはりそうかという感慨を禁じえなかった。社会構成主義がいわゆるポストモダンの代表的思潮として、米国で多岐にわたり隆盛を極めており、わが国にも余波が及んでいることは承知していた。だが、気がついて見ればほとんどあらゆる思潮の領域に、ポストモダンは浸透し言説のスタイルを占拠しているのだった。これにはやはり少々驚かされた。今では、領域を個々に踏破することが必要であり、ポストモダンの思潮をまとめて論評するなどできそうにない。ポストモダン思想は一九六〇年代のフランスに端を発して、それが米国に渡って広く深く浸透するようになった。わが国には八〇年代からその余波が及ぶようになる。私はこの四半世紀の始まりの時期に、余波に遭遇している。ただ、私自身はこの時期の言論から身を引いてしまったために、新思潮に正面から対面する機会を放棄してしまった。若い人たちがまたもや外国の新思潮に事寄せて書き始めたことを見聞きして、言論は外国の説の引用を「禁じるべきだ」などと思っただけである。振り返れば、あの時私はやはりバスに乗り遅れた、乗る努力を放棄したのだろう。


セラピーの時代

 というわけで、私はここでの関心はポストモダン思潮一般のことではない。私という存在様式のことである。その点で、ナラティブ・セラピーなど「サイコセラピーのポストモダン」の捉える自己は、社会構成主義の自己論には収まりきらないものがある。もう一度、語りの個別性と独自性、共約不可能性のことになるが、言い換えればここで自己とは共約不可能な私である。語りが独自であるように、自己もまた世界でただ一人、この私として存在する。そしてこのような自己主張がポストモダンな思潮の中に位置付けられる。すると、自己の物語に社会的関係が浸透するという論点よりも既成の自己をオルタナティブ・ストーリーへと転轍しうる、自己の語りの独自性が再度強調されることになるだろう。セラピーの世界だけのことではない。「自分探し」や「癒し」や「ケア」が流行語になっている。言説は押しなべて、このような他者一人ひとりの物語を聞き取る態度、その意味での他者への感受性と敏感さとが要求される。そのように書くこと語ることが、書き手に強いられることにもなる。ポストモダンの言説が、逆に、物語としての自己を発明し、発掘することに寄与したともいえるだろう。私自身も、私が会話する他者も、押しなべてセラピーのクライアントと同じである。セラピーの時代。
 私の言わんとすることは、新しい自己のあり方がポストモダンの発明品にすぎないとういうのではない。セラピーの時代という認識が社会のあり方を新たに照射したこと、社会的弱者に新たに目を向けることに寄与したことを否定する者ではない。ただ、政治はもう少し肌目の粗いものであり、そうあらざるをえないと思うだけだ。そう思わなければ、世界の「情勢分析!」などできはしないだろう。
 わが国でも一九六〇年代に、乖離や多重人格という現象に注目が集まった。これも米国の流行の余波である。驚くべきケースがいくつも報告されたなかに、こういう事例があったと記憶している。米国の例だが、コンピューター技師として普通に暮らす若い男がいた。ある時、趣味のダイビングをしながら水面を下から見たことがある。表面から眺めるのと違って、見上げる水面は水銀のように鈍く輝いて、重くうねっていた。水中から浮上するときに誰もが目にすることである。しかしこの時、忘れていた記憶が突然洪水のようい青年を襲ったのだった。子供のころに母親から折檻されて、たびたび水に漬けられた。そのときに見上げた水銀の水面が、自分を閉じ込めてしまう恐怖を思い出したのだという。こうして、長いこと抑圧してきた記憶をたどり直し、語り直すことから、青年のもうひとつの物語が始まる。
 関連して、ヴァージニア・ウルフが子供のときに兄から性的虐待を受けており、彼女の小説はこの事実から新たに読むことができるという話を聞いた。私はヴァージニア・ウルフの生涯について、多くを知るものではない。確かに、たとえば小説『燈台へ』はなんでもない日常の一日を描きながら、何かしらの異様な雰囲気が出ている。だが普通は、読者は彼女の文学の独自性としてこれを読み取るのである。過激な文学的感受性も文学的不幸の範囲内にあるものと考えて、性的虐待という出来事を知らなくても済ますことができる。文学にそのような約束があるはずである。百人の患者のそれぞれの物語が、百篇の文学を産むのでないことを当たり前としてきたのである。ひとには文学的不幸の範囲内と認める不幸の幅がある。何も観念小説や一大叙事詩が文学だというのではない。物語としての自己の水準に比べるなら、文学の捉える人間の肌目はいってもればもう少し粗い。
 人間関係つまり他者との会話が、「物語としての自己」の共約不可能性にとことん付き合うべきものだとしたら、どうであろうか。ビジネスに忙しくてそこまではできない、臨床場面ですら医療制度に縛られていて時間が取れない、ということではない。自己と他者がそれぞれ独自の物語として会話するべきだとすれば、対人関係は一種の神経症を呈する他ないであろう。他者という存在に敏感であるべきだとポストモダンの思潮は主張するが、そのようにまで注意して会話することにひとは耐えられない。結果としての大混乱にどう対処できるだろうか。社会とは他者に対するある程度の鈍感さを前提にして成り立っている。対人関係、家族関係から制度に至るまでマナーというものを発明して、社会はその存立を防衛してきたのである。マナーとは対人関係が神経症に陥らないための社会の知恵であり技能である。つまりは、自己についてのドミナント・ストーリーの形成である。近代市民社会は人びとをかけがえのない個人(人格)に分割した上で、再結集するのだという。しかし、近代社会では、人格というものの孤独(萩原朔太郎の詩にある「淋しい人格」)が隠れた前提になっている。淋しい人格があたかも何もないかのごとくに振舞って、社会を構成する。隠れたものを掘り返す結果は、パンドラの箱を開くに等しい。
 おそらく現代日本では、家族から地域社会に至るまで共同体というものが解体の極にあり、マナーや習俗が失効している。このことが他者に極度に敏感であらねばならない、少なくともそのような脅迫観念のある、社会状況を生み出しているのであろう。そうだとすれば、ドミナント・ストーリーに閉じ込められた自己の閉塞状況というより、前者の解体がもたらした法外な「自分」の発明と解放に、人びとはいまたじろいでいる。伝統主義者は勘違いして、国家や民族文化から個人の度外れの解放(自分勝手)だと事態を解釈するが、いまは身分社会から市民社会への移行期ではない。社会思想が、淋しい人格の一つ一つにまで、手を突っ込もうとしているのである。
 そもそも社会思想には自己の法外さを無視する蛮勇、肌目の粗さが要求される。自己のオルタナティブ、ストーリーの発明でなく、本当はドミナント・ストーリーの再建のほうが、人格の確立と防衛のために必要とされている。「大きな物語」が失効して「小さな物語」に席をゆずったといわれるが、大きな物語の抑圧がないために、小さな物語もただの自堕落な話になる。だがこんな物言いがいま、従来の社会思想は強者の思想だと批判にさらされているのである。私自身は、私個人の物語など何の意味もないといったスタンスでものを考えてきたと思うが、一人の社会的「強者」の幸運と特権が許したことというほかないであろう。


バイオな自己

 自己の形成には個人、対他関係、そして社会が循環して関与しており、どれも特権的原因と見なすことはできない。三者は弁証法的相互関係にあると、社会構成主義者は主張する。とすれば、自己という存在は、それ自体としてでなく、社会関係の不断の浸透のもとに捉えねばならない。弁証法的関係が文字通り循環して、私を内閉・拘束することになっているのではないか。しかしだからこそ、ドミナント・ストーリーの浸透抑圧から、自己の生を開放しなければならない。これが政治(ポリティクス)と呼ばれる。政治は超越的権力による社会の操作のことでなく、自己における個人-関係-社会の循環のうちに絶え間なく浸透している。であれば、政治は従来の政治学や革命学の領域でなく、個人生活のあらゆる領域に個人の自己形成を通じて現象している。かくて、ポリティクスがあらゆる領域の名を冠して登場するようになる。記憶ポリティクス、セラピー・ポリティクス、バイオポリティクス。
 ポストモダン思潮によるこのようなポリティクスの氾濫が、ミシェル・フーコーの提唱する権力論、つまり生政治―バイオポリティクスに端を発することはよく知られている。実際、一九八〇年代に入って、政治と権力についての言説が一変した。そのように記憶している。(フーコーの権力論、政治論については、付論1を参照されたい。)
 政治とはフーコーによれば、身体的存在である個々の人びとを通じた権力の布置のことである。王権が倒された近代では、権力は臣民に対する超越的な支配として作用するのではない。人びとの行動が自ら作り上げ、逆に個々の振舞い方が社会的に拘束されるような仕掛けが、権力の新しい布置として浸透した。フーコーのいう「規律—訓練(デシプリン)」という仕掛けである。この仕掛けを通じて、個々人は臣民でなく主体となると共に、仕掛けに従属するようになる(主体subjectは服従という意味でもある)。規律—訓練のルールは、監獄、工場、兵営、学校、医療施設、矯正施設、家庭など、およそ同時期に成立した近代の諸集団に行き渡った。たとえば、工場は生産を組織しそのために規律・訓練の貫徹を必要とするし、逆に、後者は近代的大工場での生産を飛躍させた。なぜ、ここに監獄の例が取り上げられるのか。なるほど監獄は特異な施設であるが、これとて規律訓練社会の形式的な頂点というべきである。逆に、監獄は非行(前科)の概念を作り出して社会に送り出し、社会における規律訓練を絶え間なく強化するように機能している。監獄はもとより権力の縮図だとすれば、この権力とは近代社会において「常に緊迫しつねに活動中の諸関連がつくる網目」そのものというべきである。
 近代の権力はまた言説の権力であるといわれる。個々の身体に作用する規律訓練の仕掛けの内部で、仕掛けは身体と直接に、絶え間なく闘争しつつそれ自身を一つの「戦略」(プログラム)として形成した。戦略の客体として服従(主体化)する人間についての学問として、近代の知(人間諸科学)が成立した。まさしく、「権力と知は相互に直接含み合う」。身体の知と身体の統御とが、「身体の政治技術論」を構成する。身体の技術論を記述し解き明かすのは「権力の微視的物理学」である。
 簡単な例でいえば、昨今の健康ブームが上げられる。健康であれという強迫観念が作られる。このことを通じて、医療政策が貫徹し、また強化される。だから、国の医療政策の解明とは、健康の言説が権力の布置の一つであることを明らかにして、これへの抵抗を組織していく闘いに寄与するものでなければならない。これが健康ポリティクスである。権力という「常に緊迫しつねに活動中の諸関連がつくる網目」のいたるところで、この網目をほぐし組みかえるものとして、ポリティクスはあらゆるところで闘われている。
 わが国でも雑誌の特集(『思想』2000年2月号)で、「生命圏の政治学」の在庫目録が細かく列挙されたことがある(栗原彬「市民政治のアジェンダ—生命政治の方へ—」)。市民政治の三つの圏、すなわち生活政治、アイデンティティ政治、そして生命政治の在庫目録である。そしてこういわれた。
 「政治システムと市場システムによる生活世界の領有ということがあってこそ、そこに市民政治の出番もある。生の諸項目の湧出と更新、すなわち生活政治の生成と再生のための条件設定、政治システムとの交渉による分水嶺の設定、更には政治システム自体の転換ということが、市民政治の中心的課題となるだろう。制度表象を内破して、生の諸項目を生活世界に奪回してくること。生活世界の中に、それこそが生の根拠、生の歓びの源泉である非支配・非領有の場を確保し、また再生すること。」
 まあ、著者の美辞麗句には目くじらは立てまい。政治と市場のシステムがあたかも所与のごとくにここで前提にされていることについても、揚げ足取りはしない。私の関心は、住民運動であれなんであれ、そこで経験されるはずの政治が新たなポリティクスとして概括されている点である。フーコーは生活とか生命とかいわずに、「生」をわざわざ生物学的意味でバイオと呼んだ。解剖学的であり機能的でもある身体ということである。権力の介入調整がこのレベルで行き渡ること、従ってまた権力にたいする抗争も生(身体)の権利要求として発生すること。権力と権利のコンセプトが従来の法概念では理解しがたいものに変容したと、フーコーはいいたいのである。だからバイオに依拠して闘えと、フーコーは主張しているだろうか。あるいは「生の諸項目の湧出と更新」を政治は課題とすべきだろうか。私はむしろ、政治がバイオに微分化され疎外されること、いってみれば「小さなもの」への間違った注意深さから、政治の概念を旧に復したい(!?)のである。


私の貧しい主体性

 かつて「小さなものに真理は宿る」という言葉があった-こういう書き出しで始まるエッセイを読んだ(市村弘正『小さなものの諸形態』)。そこに、たとえば次のような文章がある。
 「『小さなもの』の救出、それが始まりにあった。そしてそれは、真なるものに対する危機的な関心とともにあった。したがって、その関心が衰弱しさらに放棄されるならば、小さなものはいわば誤った注意深さを惹き起こすだけのものとなる。小さなものや細部の収奪と大量消費は、様々な意匠のもとに私たちの周囲に氾濫しているだろう。」(平凡社ライブラリー版、46-47ページ)
 エッセイの初出は一九九二年、社会主義世界体制の崩壊という事件を背景として書かれている。ひとつの大きなものが瓦解していき、それとともに「小さなもの」に宿っていたはずの真理が、切迫した構図を離れて彷徨い出した。小さなものというだけでは、小さなものにおける真理の存在を保証しない。小さなものの諸形態に対する、それこそ危機的な関心を、このエッセイは今日の状況の中で表明しようとしている。
 小さなものに宿るはずの真理が切迫した構図を離れて彷徨い出したならば、それはまた政治論が危機的な関心ともども衰弱することである。かつて、政治論は「小さなもの」からくる衝迫を忘れたことはなかった。思い出せば私もまた、長い政治の物語を次のように締めくくったことがある。「ひとは徹底的に政治的であるとき、かえって大衆の生の世界—倫理の世界を去らねばならない。・・・いつも、政治や生活は現実の内で生起するしかないが、その著しさを自らのうちで無化しようとする努力が、政治をも個をも、それぞれの極北へと追いやるのだ。」(『政治の現象学とアジテーターの遍歴史』)
 しかし、「情勢分析!」などを書こうとするときどうしても必要な手続きとして、「小さなもの」への視線のことにあらためて触れざるをえなかった。それが現下のわが国の「情勢」だからだ。その上で、もう一度もともとの情勢分析に戻る。
 かつて、この四半世紀のはじめに、私は近代における大衆の存在様式を、「階級」から「貧しい主体性」への歴史的変遷として追ってみたことがある(『革命の問いとマルク主義』1984年)。近代社会は人びとを社会の無色の構成原子、個人に分解したといわれるが、個々人はそれぞれ階層的な集団に属する者として市民社会を構成するとヘーゲルは考えた。この観点はマルクス主義に強く引き継がれて、産業資本主義は階級と階級闘争によって構成されると主張された。そしてこうした見方は、大筋でわが国の戦後社会の規定としても当てはまると私は考えた。労働組合や学生自治会、農協や社団法人などの圧力団体。それらの錯綜した利害関係が戦後の政治過程を決める要因だった。ただわが国では、「労働者階級の大衆政党」が当時の民社党という形しかとれなかった、つまり、社会党が共産党に引寄せられてしまっていた。マルクス・エンゲルスの後継者であるドイツ社会民主党が、わが国では形成されなかった。そして他方、農協などの雑多な利害集団がおしなべて自民党の集票機構に組織され、自民党は資本家の党、農民の党その他であることができずに、一種国民政党という形を取るしかなかった。以上の政治的表現が、保革対立であり五五年体制と呼ばれるものである。
 では、「階級」という名の大衆の存在様式は、その後はどう展開しただろうか。高度経済成長と六〇年代の大衆闘争を経て、ただの住民、市民へと解体されていった。識者は日本社会もこれで本物の市民社会になったのだと評価したのだったが、そうではない。市民政治の個々人へと「主体化」が行われたのではない。かえって逆に、個々人は階級的自己規定から放逐されて、市民とは名ばかりの「貧しい主体性」として存在するほかない。六〇年代末の政治闘争の結果はこの事実を極端に露呈したものだった。自己規定を失った個々人が反乱の中から政治的何者かに形成されていくこと、つまりそれぞれに集団(自己権力)を形成していくことが見失われていった。かえって、共同体の病理を周知させることとなった。結果として政治も政治家も、以降は利害集団の介在なしにただの住民、市民に直接的に関係するしかないものとなった。遅れすぎたことではあったが、保革を代表した自民党と社会党が実質的に解体した。小泉政治とは、多分こうした過程の総仕上げを意味するものであろう。
 私は以上で集団といったが、集団は特定の営利を目的とするような「組織」のことではない。また、特定の利害対立を離れた理念の共同体のことではない。前者は会社を典型例としていまだに存在する。後者、共同体は七〇年代に病理を露呈して潰えたが、その後も「オウム真理教団」の事例に見られるように、共同体の芽はなくなっていない。(付論二「オウム真理教団の犯罪」を参照されたい。)以上に対比して私が集団というのは、特定の利害対立を通じて政治的に形成される政治的集団のことである。集団の政治的対立はそれぞれの集団に内面化されて、集団は政治的集団として自己形成されていく。あるいは、集団は離散集合する。集団は時の社会の潜在的対立関係に規定されて、また逆に集団的対立は社会全体に投影されて、対立する複数の大衆政党を生み出すことになるだろう。
 政治的関係をこのように見ることができれるとすれば、わが国のこの四半世紀はよくもまあ徹底的に、集団を解体してくれたものだと感心してしまう。個人は階層的な集団のうちに自己を見つけるとヘーゲルは書いたが、個人はいま共約不可能にばらばらにされた。というより、個人は押しなべてセラピーの対象のごとくに見なされるとすれば、そんなセラピーは病者以外には適用不可能だから、個人の「貧しい主体性」はただ放置される。その結果、グローバリゼーションのもとに、政治を介在する集団はいまや唯一、つまり国家であるかのようである。国家をこうしたものとして世界に押し出していく力がナショナリズムだとしたら、ナショナリズムを支えているのは貧しい主体性である。


民衆像はどこへ

 知が非知あるいは被知を仮構する。それがしばしば民衆とか、大衆とか庶民とか呼ばれてきた。知識人と大衆という構図があった。歴史学では彼らこそが歴史を作る、歴史の主役だなどといわれた。いまや死語であろうか。
 「マルクス主義歴史理論をよりどころとうする戦後日本の歴史学を、狭義の戦後歴史学と呼ぶとすれば、一九七〇年代なかば、社会史の台頭以降の歴史学の新しい動向を、現代歴史学と呼ぶことができよう。二つの歴史学のあいだには、その歴史意識と問題設定、方法、研究素材などにおいて、決定的な転換があった。」安丸良夫がこのように振り返っている(『現在日本思想論』2004年131ページ)。民衆の概念もこの転換の目立った事例であろう。安丸がまず指摘するところでは、民衆を階級概念に置き換えるべきだとするマルクス主義と並んで、戦後啓蒙派の民衆像と柳田国男などの常民のイメージがあった。後者はそれぞれモダニズムと土俗の民衆像であるが、これに対しては周知の吉本隆明の批判があった(『自立の思想的拠点』1965年)。そしてそれから、市民あるいは大衆社会の大衆という言葉が一般的に使われるようになる。安丸は民衆像の戦後の変転を概略このように跡付けている。安丸良夫といえば、私自身一九七〇年代にその民衆思想史の著作から学んだことがあった。
 さて、この四半世紀に、わが国の民衆像はどこへ行ったのか、かろうじて、市民という言葉が、便宜的な呼び名として残っているだけのように見える。安丸が対比的に社会史の台頭を指摘しているように、同じく民衆史といってもこの場合は戦後思想の中の概念とはまるで違った民衆の捉え方がある。だが、と安丸はいうのだが、民衆とか大衆とかは同時代の世界の全体性を眺め渡す際の方法概念である。「そうした方法概念とそこに固有の立場性なしには、私たちは有意味な認識ができない。・・・・そうした大問題に言及しないのが知的により繊細で洗練されているとか誠実だとかいうわけではない。私たちが私たちの生きる世界に向き合って生きようとする限り、この世界の全体性を民衆の生活を介して表象しようとする努力を止められるはずがない、と私は思う。」(96-97)ここでいう民衆をあえて定義するとすれば、「生活者」ということになると安丸はいう。
 歴史学における民衆という方法概念をめぐる安丸良夫のレヴューには、この概念の喪失感が漂っている。近頃公刊された丸山眞男の講義録が民衆思想の原型、伝統あるいは古層への回帰を色濃くしている点にも、安丸の違和感は強い。アカデミズムのこととしてではないが、私の関心も民衆像の喪失のこと、この四半世紀の出来事についてである。それ以前、私もまた「大衆」という言葉を一つのキーワードのように使っていた。高度大衆消費社会における「大衆の叛乱」というように(『叛乱論』1969年)。この使い方が、たとえば西部邁の著書『大衆への反逆』(1980年)によって文字通り逆転されたときに、事態はすでに十分に明らかなことだった。
 民衆という概念が世界を眺め渡す知の立場性を含意するのだとしたら、これは広い意味で政治的な概念である。事実、民衆にしても大衆にしても70年代までの戦後には、それぞれに政治的な意味づけがなされていた。ナロードニキの系譜を踏んだ言葉なのである。戦後史学の民衆もモダニストの近代市民も当時論者の立場性を表していた、なるほど、生活者の生活世界などといわれれば、これは直接的な実在のことを指しているように受け取られる。社会学者が人口動態や世論調査を研究対象にするときのようにである。だが、生活者が政治に登場して自己を二重化することがなければ、民衆という形象はつかみ難い。民衆というとき生活者は二重に形象化されている。かつて、労働者をプロレタリアートとして形成する、などといわれたのがいい例である。
 逆にいえば、政治がそれとして見えなくなる時期には、民衆像が見失われるのは当然である。「民衆のために」というような知の立場性は成り立たないし、その必要もないと見るべきなのである。知識人を含めて、ひとはみなただの生活者であればいい。一九八〇年以降は、おそらくわが国の近代ではじめて、こうした社会が訪れたのである。生活者に苦労がないというのではない。苦労を政治集団へ二重化することが不要に、あるいは阻まれるようになったのである。


自由主義の十字軍

 米国のブッシュ大統領は、世界の権威主義的国家を外から、片っ端から民主化しなければならないと思っているようである。善と悪との十字軍(テロとの戦い)はまた、民主化の十字軍である。豊かになれる者から豊かになれば、貧者はやがて富者をキャッチアップできる。これが経済成長思想の確信だとすれば、貧者はまた民主主義体制の自由の恩恵に与ることができるようになる。影に陽に、こう信じられている。民主化の十字軍とは、歴史の若い国、「生まれながらに平等」と信じられている国が、久しぶりに振るう蛮勇であるかもしれない。
 欧米の民主主義体制は自由主義の思想に支えられて成立したとされる。他者に危害を加えない限り、個人の振る舞いは自由だという思想である。自由に選択して自由に行動する権利がある。「生まれながらに平等」のスタートラインから出発して、米国ほどこの思想を純粋培養した国はないであろう。ただ現在の米国では、リベラルとは民主党が確立した革新主義、つまり福祉国家を支持する言動を意味するからややこしい。そこでリベラリズムの急進派は更に極端に、自由至上主義(リバータリアニズム)あるいは無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)の主張になる。個人は自由で平等だから、そのキャリアが成功するも失敗するも自分の責任である。かつて私も、「自業自得の潔さ」だとして、リバータリアンの思想に引かれたことがある。経済成長の思想を純粋培養すれば、今日のいわゆるネオ・リベラリズムになる。
 自由主義の自由な個人。しかしこれはもともと、封建社会の解体から生まれた産業人であり、アダム・スミス的な商人を意味した。ドイツ人のマックス・ウェーバーにいわせれば、ピューリタン的な資本主義の振舞い方である。「万人は経済人」という古典派経済学の仮定は、個人の規定としてはあまりに貧しいと批判されることが多いが、そうではない。現世での神の支えを失いながらも、独立不羈、自分の利害の実現に向けて活発に抜け目なく振舞う個人が、自由主義の仮定する自由な個人である。エンゲルスのいう「鳥のように自由な」労働者の成立も、自由な個人に参入するものと自由主義は考える。一言でいって、自由主義の考えた個人は無色透明なただのアトムではなく、人間の特有な存在様式つまりアイデンティティを賦与されていあったのである。これが本来の「市民社会の市民」である。
 だから、自由主義は自由で公平な、いわゆる市場の成立と機を一にしている。かつては異なる共同体の境界に成立していた市を解体あるいは拡張して、市場が共同体に内部化される。内部化できない共同体は駆逐された。今日のグローバル市場までも視野に入れて見るならば、市場の世界支配の裏面史はだからグロテスクな様相を呈することになる。「商人」なることに失敗して市場の公平な競争から脱落し、地域や国による救貧政策の対象になることが、かつても市場の成立に付随する現象だった。今日のグローバル市場が、異邦人たちの共同体を解体して、異邦人を異邦人のままに国際福祉事業の対象にしているのも、自由市場本来の裏面史である。そして、かつて西欧諸国の市場が福祉政策をミニマムに縮小できた先例に倣って、すなわち自由主義が純粋培養できた事実にかんがみて、国際福祉事業もやがてはここの自由民主主義の享受に席をゆずるだろう。これが経済成長の思想である。
 市場の裏面史がかようなものであったとすれば、自由主義の純粋培養がその成立の当初から激しい論争にさらされてきたのも当然である。つい先日、社会主義体制の崩壊が自由主義の勝利と謳われたときに、自由主義論争があった。今日では、先にあげたブッシュ大統領の民主主義の十字軍に関連して、論争が再燃するのは当然である。ことに米国では、アメリカ人になることを目標とはしないエスニックな勢力が台頭している。自由主義論争は移民社会、多文化社会の米国でもっぱら行われてきたのだから、かの地では論争の種が尽きない。加えて、グローバル市場主義とその反対世界としてイスラムが論争の種になる。経済成長思想を言論戦のレベルで見るとき、様相はやけに複雑である。ただし、わが国の思潮は外国からの余波という通例にもれず、自由主義を論じているといっても、チリで起きた津波が太平洋を渡ってきたのと似ているから、付き合うのに注意が要る。
 私のここでの関心は、しかし、国内あるいは国際市場の裏面史のことではない。この「情勢分析!」の初めから、そうことわっている。裏面史の数々はもううんざりするほど見てきたことであり、分かったことである。人間の欲望は限りなく、地球を食いつぶすまで止まらない。欲望を世界的に強制停止できない以上、市場の裏面史は必然である。だいたい、リベラリズムは個人は自由で平等だというが、実体はかねてより巨大組織とその管理システムを生み出してきたのである。本来、狂信とアナーキーにたいする対抗馬であることに目をふさぐのが、自由主義の自己欺瞞である。上品にいえば、自由主義のジレンマである。


政治的形成の堂々巡りから始める

 さて、自由主義の自由な個人とは、もともと抜け目のない経済人(商人、資本家、労働者)のことであった。ところが今日、自由主義の前提にするような個人はどこに存在するか。純粋培養型でなくともいい。自由主義が基盤とする個人のアイデンティティ、つまりは民主主義社会で育てられた個人、「市民社会の市民」はどこにいるか。経済成長思想が成功した社会は、リベラリズムの自由人とは以て非なる、大衆消費社会の大衆を作り出した。抜け目なく振舞う(ことができる)経済人と対比的に、私は大衆消費社会の大衆をかつて「貧しい主体性」と呼んだ。むろん、豊かな個性とかけがえのない私とかに比べて、価値の上で「貧しい」と評価したのではない。
 自由主義では、政治的・文化的な集団が集団自身の善を主張することは、正当化できないといわれる。むろん、組織はもとより、政治集団が社会に存在すべきでないと主張はしない。組織はただ自由の侵害から個人を守る限りで存在すべきであり、個人がおのれの生を集団の生に預けこれと統合すべきだという主張は正当化できない。米国ではこうしたリベラリズムにたいする批判が、ときに共同体主義と呼ばれる。共同体(コミュニティ)として、社会主流とは異なる文化的あるいはエスニックな集団が具体的に想定されている。いわゆる多文化主義的共生の論理であり、今日ではたとえばイスラム世界との対話の論理として引き合いに出されることもある。とはいえ、わが国のように共同体の解体が著しい社会では、以上の意味で多元的社会を前提にして集団の問題を論じることがむつかしい。存在するのは貧しい主体性である。あるいは、「共約不可能な物語的自己」というイデオロギーが、個人の個別化に拍車をかけている。あるいは、市民とはいまやバイオな存在である。
 大衆消費社会の大衆に格差がないというのではない。地域の具体性を越えた若者のネットコミュニティが育っているのかもしれない。これらはしかし、どのような意味で集団あるいは政治の形成途上にあるといえるのか。大衆の「貧しい」主体性、あるいは事実的な格差や差異性の存在を考えるとしても、政治形成自体に価値があるかどうかではなく、政治的形成がまた政治的にしか可能でない。一種堂々巡りの状態に、政治が置かれている。
 ここで政治的形成とは、何らかの意味と程度で、あるべき自由はあるべき共同だと信じて個人が集団形成をすることを指している。権利がまた義務である。かつて全共闘運動の時代には、個人をあくまで出発点にして、なお、個でありながら私ではなく公でありうる原理は何かと問われていた。だが、その後の経験に照らしてみれば、個人をベースにして個人の課題としてこの原理を問うことは、どだい無理なことというべきである。個人の存在様式はもはや利己主義的なミーイズムの自己ですらなく、遥に抽象的な、貧しい主体性でしかない。すると、個でありながら公であれといわれても、個人はますます共約不可能な自己の針の一点に追い込まれていく。でなければ、この針の一点に「文明史的課題」のごとき棒大がつなげられる。個人の原理が公共を構想するのでなく、逆に、集団が個人の問題を顕在化させるという、政治的にはごくありふれた回路をくぐる他はないのである。
 ここで集団が政治的集団であるためには、つまり集団の価値を基準にして個人の生をも評価するためには、同好会や孤立集団では駄目であって、集団は他の集団との抗争(お望みなら対話といってもいい)の中で集団であることが必要だ。なぜなら、抗争の内面化としてしか、集団の生は自己形成されないからである。自己があってその上で他者との関係ができるのではなく、他者との関係があるから自己が発見されるのと同じことであろう。
 自由主義は自由な行動の権利主張であるとともに、個人の特有の存在様式に基礎付けられていた。ところが、この人間存在というものが一筋縄ではいかない。米国の自由主義急進派(リバータリアン)は、人間の存在様式を問わぬまま個人の行動の自由を主張するから、しばしば個人的無政府主義に近づく。「なぜアナーキーにしておかないのか」。だが、米国の一九六〇年代、若者たちは自由の暴力的な主張に走ったが、結果として自由の専制を産み落とすことになった。アナーキーから出発して、その逆転にいたる集産主義的なコミューンである。たくさんのコミューンが生まれた、むろん一過性で無害なヒッピーのコミューンも多かった、他方ではしかし、ウェザーマンなどの武装組織、あるいは人民寺院などの共同体を産み落とした。自由の主張が内部に専制を生む共同体を作り出した。自由主義論争でいう共同体(コミュニティ)でなく、コミューン共同体である。コミューンは大衆的行動の体調とともにいきなり国家権力の治安対策の対象にされてしまい、この対立の内面化として内部に専制を、外部的にテロを結果して潰えていったのだった。
 これらコミューンを逆にたどるとき、これを作り出した自由な個人の存在様式がかの産業人ではないのはもとよりのこと、「市民社会の市民」からも大きく逸脱していたことに気付かざるをえない。市民社会の市民の自己解体、自己のドミナント・ストーリーからの脱出を契機として、自由な行動が生まれた。マルクーゼのようなフロイド左派の言説が大きな影響を与えたゆえんである。アナーキーな行動へと脱皮した若者は、従来の社会的規定性を棄ててそれ自体は無というしかない。あるいは行動の「貧しい主体性」と私ならいうであろう。
 わが国の一九七〇年代も例外ではなかった。「大衆の反乱」がコミューン思想を育み。コミューンはその病理を露呈して潰えた。そこでかつて私は、大衆反乱が政治的な集団形成の道につくことを通じて、コミューンの病理を回避する理路を構想した。けれども、この四半世紀、コミューンの病理と政治的集団形成と、その両者の契機としての大衆の行動自体が見失われた。確かに、オウム心理教団のようなコミューンの専制を産み出す契機は、この大衆社会に依然としてくすぶっているであろう。だが、大衆行動という契機から出発して政治形成を考えることは、今では政治の思考放棄になるであろう。自由主義的なこの社会で、集団形成自体の芽を育てねばならない。初めから集団が政治的である必要はない。同好会でも特定の利害集団でもいい。テロと治安の構図にはまり込むはるか以前の段階から、この構図を回避しながら、集団が相互の関係史を見つけていくしかないだろう。
 今日の社会での個人のあり方を考えるとき、「公共の哲学」の必要が叫ばれて当然であろう。そのときしかし、かならずハンナ・アレントの政治論が引き合いに出されるのも不思議なことである。アレントの政治は、祖形としての古代ギリシァのポリスは別としても、現代の事例ではまさしく「革命的コミューン」のあり方のことなのである。「普通の市民の政治参加」とか「民主的コミュニケーション」とかの口に、とうてい合うものではない。むしろ、アレントの政治はアナクロニズムであり、革命的コミューンなどどこにあるかといっておけばいい。アナクロニズムであるがゆえに、革命的コミューンの行方について、つまり、政治(とその病理)はコミューンにではなくその還り道で顕現することに、彼女の政治論は決して触れようとしない。無知だからではない。ハンナ・アレントの政治=コミューンとは、もともと彼女にとって、「ただ記憶と回想として残るほかない、奇妙で悲しい物語」なのである。(付論三「ハンナ・アレントとコミューン主義」参照)


地球の影の下で

 私は「情勢分析!」を経済成長思想のことから始めた。全世界が等しく経済成長を続けるとして、地球システムが許容できる成長の限界とはどの程度であろうか。全人口がアメリカ的生活を達成したとき、地球はなお人類の欲望にたいして寛容であろうか。地球は中国をあといくつ養えるか。誰にも分らない。ただ、地球システムの変調が直接的に経済成長思想とぶつかる現象がある。異常気象である。(『思想としての地球』2001年)
 人類社会が敏感になっているせいもあるだろうが、平年という概念が危うくなるほど気象の触れ幅が全世界的に顕著になっている昨今である。気象異常は地球温暖化が原因であるかもしれないが、温暖化自体は(従ってその原因かもしれない温室効果ガスの過剰排出は)気象異常として現れることによって自己を隠蔽する。温暖化によって生態系に変化が現れ、北極圏の氷が溶けている。それが何だというのか。経済成長路線を直接に脅かすのは、気象異常という現象そのものである。
 地球温暖化は今世紀の数値として予測されることが多いが、本来的に不確かなものである。ただ、今世紀の初めの四半世紀については予測の精度が上がる。一週間先の天気予報は外れるが、明日の天気はよく当たるのと同じでことである。温暖化には惰性があるから、今後人類世界がこれにどう対処しようが関わりなく、現在のトレンドとして温暖化が統計的に予測できる。そして、温暖化による気候変動の地域分布についても、数多くの気候変動モデルが大まかな一致をみている。すなわち、北半球高緯度地帯の冬の異常な温暖化、中緯度内陸部の渇水、多雨と台風。亜熱帯の乾燥化である。
 アメリカ的生活をはじめとして、北半球中緯度は経済成長思想がことに栄えている地帯に当たる。人口の急増がなお予想される国々も多い、異常気象は水と食料の問題を通じて、これらの国々の経済成長に目に見えた影響を与えるようになるだろうか。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第三次報告が二〇〇一年にあり、今世紀は異常気象の議論から始まった。ところが同じ年、九月一一日のテロ事件が起こる、テロと戦争に全世界の議論が集中して、地球温暖化の関心が遠のいて今日にいたっている。現金なもので、気候変動の予測をする研究の数も激減したように見える。しかし、来年にはIPCCの次の報告が予定されている。そろそろふたたび、地球環境という人類社会にとって「外部の問題」が政治世界に登場することになるであろう。経済成長思想と地球環境問題と、そしてその狭間におかれた個人の行動と存在様式とが、「情勢分析」の主題であり続けていくだろう。

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