オウム真理教の犯罪
(1995年5月 パンフレット)

オウム真理教の犯罪
咲谷 獏
「闇のX」の犯罪か
カラスの鳴かない日はあっても、オウム真理教の犯罪が報じられない日はない。もう一ヶ月以上も、国民はオウム真理教関連の情報を浴びて過ごしている。五月に入ると、オウムは「現代日本の鏡」という物わかりのいい論説が登場した。汚れた世の中から解脱しようとした若者の集団が数々の病理を露呈しているが、これらは今日の日本社会の諸問題の反映だ、と言うのである。
しかし、これは違う。この論評を含めて、オウム真理教に関する報道のあり方にこそ、世紀末のわが国の方向喪失が映し出されている。「現代日本の鏡」なのは論者たち自身である。オウム真理教団の犯罪が、何かしら「闇のX」の仕業だとする論調が多い。
たとえば公安警察。もと学生活動家だった某に導かれる形で、オウム真理教にはかなり早い時期から公安が取り付いた。そのほか、某新興宗教教団、暴力団等々、様々な憶測が飛び交っている。多少とも、その手のことはあったに違いない。だが、ことの本筋はあくまでもオウム真理教という集団の犯罪である。そのことを見逃しては、純粋な気持ちから教団に帰依した若者たちも浮かばれない。
世間を騒がせるような事件や集団に闇の手の介入を詮索するのは、今回に限ったことではない。たとえば、一九六〇年の安保全学連が田中清玄に操られていたと、大々的に喧伝されたことがあった。当時は、大新聞を初めとして全学連の行動は犯罪扱いだったことが想起されていい。全学連と田中氏の関係はこれに火をそそぐ暴露だった。
確かに全学連幹部の某が田中氏から、なにがしの金と忠告を受けたことがあったろう。だからといって全学連の安保闘争、あるいは共産主義者同盟(ブント)にとって、それがどんな重要性も持たなかったのは自明である。田中清玄の介入は氏の趣味とも言うべき事柄であったにすぎない。集団背後の陰謀はもとより、幹部の運動指導のコントロールもものかは、頭に血の上った若者たちが暴走した。世間を騒がせる集団の事件とはそういうものである。だからこそ期せずして、事件は時代を反映する。事件に参加した若者も、後にそれだけの報いを受けるのである。
いったいに、権力には闇がつきものである。闇のない権力というものはない。様々な仕方で、権力に刃向かった経験から人々はそのことを知っている。もとより情報公開は重要なことだが、その基本は事後的なものであり、歴史的な知恵の蓄積のために国民が必要とする事柄である。権力に情報の公開を要求することが、あたかも闇の部分のない権力があるかのような前提に基づくなら、それは欺まんである。
マスコミがこぞってオウム真理教事件の「闇の部分」を暴こうとしているように見える。この狂奔の背後にあるのは、誰もが何でも知り得る社会があるかのような、またそういう「民主社会」が一番いいのだという、平板な社会観である。自らを欺く悪宣伝であり、大衆社会のファシズムの宣伝につながることを、マスコミ人士は知るべきだ。
オウム真理教事件は、自己犠牲的な若者の一部のタイプがしでかした、集団的犯罪である。ここで犯罪とはサリンを用いたいくつかの無差別殺人である。また、拉致事件や信者の信条を裏切る組織内の制度とその運用である。あるいは、将来もしかしたら引き起こしたかもしれないところの、彼らの「戦争」であり「内乱」である。
オウム真理教団に最初の嫌疑をかけられた坂本弁護士拉致事件以降、民間では、日本共産党系の弁護士やジャーナリストがオウムに関する情報をもっとも蓄積している。テレビの報道に出ずっぱりなのもこの人々である。彼らの論調からも透けて見える共産党の立場は、オウム真理教団とその犯罪を「反社会的な」集団行為とするものである。
共産党が名実ともに社民的な、普通の政党として選挙に登場するために、この事件はいい材料である。オウム真理教の幹部たちはいかがわしく、反社会的なものたちだと印象づけることで、共産党もオウム真理教団の犯罪をただの犯罪として処理しようとする。社会観と革命路線の問題から事件を切り離すことが、彼らの利益なのである。
共産党以外、旧左右の過激派は、今やオウム真理教団に言うべき言葉すら持たない。オウム真理教団の犯罪にたいする人道主義的な扱いは、一般信者を幹部とは別枠でリハビリしようとする論調となって現れている。それほどまでに子供扱いされては、オウム真理教団の若者たちも浮かばれない。まじめな全学生たちを、一部幹部や田中清玄の裏切りから分離しようとするのと同じである。
まじめな学生たちがのぼせ上がらなかったら、事件も犯罪もなかった。オウム真理教事件についても同様である。日本社会が今、事件をオウム真理教団の犯罪として裁くことができるかどうか。伝統の力と大人の見識を示せるかどうか。オウム真理教の若い信者たちがこのように裁かれ、その結果を実人生で反すうして行くことが、彼らの救済の道につながる。
コミューン主義の病理
オウム真理教がロシアの権力に結びつかなかったなら、事件はこんなところにまで至らなかったろうと言われている。ロシアは権力のルートをオウム真理教に金で売った。レーニンの国家の体たらくもここに極まったと言うべきである。ゴルバチョフにタガを外されて以降、ロシア社会の乱脈はとめどない。核兵器の海外流出までが取りざたされている。
事実、戦争のための大道具、小道具がロシアからオウム真理教団に渡っていたようである。今回の事件が、アメリカをはじめとする諸国の関心を引いたのも、ロシアの乱脈と日本社会の犯罪とのコネクションという事実であった。レーニンの作った国家の体たらくとオウム真理教団の結ぶつきには、もう一つ、象徴的な意味を認めなければならない。教団にマルクス主義の何か一派が巣くった形跡はない。
けれども、わが国におけるレーニンの末裔たちの系譜、そのしでかしてきたことの最後のパロディーのごとくに、オウム真理教団の犯罪を見る目が必要である。マルクス・レーニン主義であろうとなかろうと、革命主義的な運動は、その本質的で必然的な要素として、コミューン(理想共同体)への志向を持つ。コミューン主義である。コミューン主義は運動の燃料であり、エンジンである。だからこそ革命はこれ抜きには済まないのだが、革命の内的な病理もまたコミューン主義に淵源する。
革命運動の歴史の核心的な問題がここにあった。共同体主義にたいする見識を欠いては、オウム真理教団の企てを裁くことはできない。今日、ジャーナリズムの中堅に、かつて運動を経験したものは多い。オウム真理教を論評するときにさらけ出されるのは、運動経験の「総括」に他ならない。
(1)千年王国主義の民衆ほう起以来、終末思想に基づく世界最終戦争(ハルマゲドン)に向かって自滅するのは、コミューン主義の特徴である。オウム真理教の終末観が仏教思想の末裔にふさわしいかどうか、おそらくは本質的なことではないだろう。理想共同体、選ばれた神人による共同社会を求めて直進することは、あらゆる革命主義の原点である。
(2)個人の解説は、本来穏やかな断念の過程である。人生の後半に人はこのことに気付く。解説を求める出家は、親類縁者への執着を断って、親類縁者への迷惑を省みずに、林下に入ることだ。
ゼロ歳児を含むオウム真理教の出家は、こうした意味での出家者ではありえない。理想共同体の成員として選別、ないし強制された者たちである。共同体は成員の社会的自己を粉砕して、「信者」へと作りかえる。
(3)戦時共同体とその理想を実現すべく選ばれた成員を前提に、共同体の一枚岩の団結が強化される。各人が共同体の平等な仲間(信徒)であることは、裏腹に、組織内の歯止めのない専制を生み出す。
(4)近年わが国の過激派運動の末尾は、山岳アジトに篭った連合赤軍であった。コミューン主義の極端にまで走ったのは、伝統を欠くアメリカ社会の過激派であったが、この系列の端っこに生まれたのが、ジョーンズの人民寺院である。
人民寺院は「亡命」先のガイアナの森の中で九〇〇人以上が集団自殺して壊滅する。キリスト教ファンダメンタリズムの説教師から出発したジョーンズは、晩年にマルクス主義者を名乗るようになり、ソ連大使館に接触して集団の再亡命を画策した。
(5)コミューン主義の共同体では政治が倫理と密通する。個人の「生き方」、「死に方」の問題が共同体の目的と癒合する。共同体は倫理主義集団となる。
(6)コミューン主義の共同体にとっては、集団の内部が無差別に善であり、集団の外は無差別に敵である。被害者意識が集団を団結させる。こうして、敵を殺す場合は無差別殺人になる。共同体の専制は集団の内部を警察国家に変える。
(7)共同体はそれ自体が目的であって、目的集団(組織)ではない。だから、共同体はその目的を実現するための政策展開(政治)や軍事を、その「実効性」や「効率性」の観点から判断、選択することができない。実効性の観点から集団内部を組織することができない。このため、政治や軍事はしばしば玉砕主義になり、それだけに内外にたいする迷惑を倍加する。
(8)コミューン主義の共同体は政治に性的な要素を持ち込む。簡単に言えば、「女子供」を巻き込んでしまう。性的なエネルギーが共同体の力に変換される。このことが集団の運営を面倒にする。宗教的集団の過激化であればなおのことである。
オウム真理教は汚れた世間からの出家を穏やかに説いていた。しかし反面で、被害者意識と反主流派意識が集団内部に繰り返し装墳され、集団に内攻する。この両極が信者の内面で、また共同体の内部できしみ声をあげる。
こうして、共同体はハルマゲドンの思想で武装するようになった。その現れが外にたいして無差別殺人の犯罪、内においては集団の病理として発現するのである。本来なら、政治や党というものは、自分と不可分の身内であるコミューン主義にたいして、頑固な見識を持つもととして定義される。今や既成の政党は、村山「貧乏くじ内閣」に問題を全部押しつけて姿をくらましている。日本の過激派から党というものの見識が消えて久しい。オウム真理教団の犯罪はこうした政治の廃虚から発生し、その現状に警告を告げる信号である。
技術としてのオカルト
コミューン主義共同体の多くは穏健な自然回帰の理想を掲げて出発し、やがて片田舎で風化していく。世間に特に迷惑をかけないケースも多い。初期のオウム真理教団にもこうした要素はあったであろう。それが集団的発狂状態にまで爆発する。過激派コミューン主義の遠い末裔と考えるだけでは不十分は要素が、そこにはあるように見える。
たとえば、著しい特徴としてオウム真理教団の先端科学技術への偏執があげられる。軍用ヘリや細菌培養、こうした軍事の大道具がまずは注目される。ウランの採鉱から核兵器の製造までを自前でやろうとしたといわれる。これら科学技術の準備はハルマゲドンに備える軍事であり、オウム真理教は軍団化しようとしていたのか。
だが、即物的な軍事や技術学からいえば、これらが児戯に等しいものなのは自明である。金に糸目を付けずに買い集めた高級玩具のがらくたである。サリン一つも、満足に作れたとは思えない。「狂人に刃物」が危険なのは無論であるが、そもそも、彼らの技術や軍事はテクノロジーという性格のものではない。むしろ注目すべきは、オウム真理教のハイテクへの偏愛そのものである。
そして、核兵器や毒ガスへの思い入れは、地震兵器の研究、そして怪しげなヘッドギアや血のイニシエーションにまで、教団の意識の内で切れ目なくつながっていたものに違いない。教祖の血を飲む儀式から核兵器まで切れ目なくつながる概念とは、技術である。ここで技術とはただちにテクノロジーでも機械でもない。
二通りの自然、すなわち自然世界(コスモス)と身体という自然(ミクロコスモス)にたいして、人々が演じる行為の形(スタイル)を技術という。得体のしれない「自然」を前にした演技、儀式、呪術、魔術、芸能、医術そして労働、こうした行為の形が技術というもののオリジナルであった、近代のテクノロジーとて、このような行為のあり方に特有の変換を施したものとして、技術なのである。
近代ではテクノロジーが自然にたいする労働の形になり、生活のスタイルとなった。王に真理教が偏執したのはこうした意味での技術であり、それがオカルトということの原義である。オカルト的な宗教集団はかくて「技術の結社」である。そして、オウム真理教を極端な例として、かような技術の集団は今日の大衆社会の中に多彩なスペクトルを展開している。民間技術、民間療法そして民間宗教の世界である。医療技術を含めた現代のテクノロジーにたいする、根深い不信感がここに露呈している。
というのも、テクノロジーが方法的に避けてきた事柄が二つある。第一には気象の異常や地震の予知など、科学的にいってももっとも難しい「予測問題」であり、そして第二に、個々人の個々の場合の運命に関する言説である。こうした問題を避けたおかげで、テクノロジーはまれにみる成功をおさめてきたのだった。
ところが、予測できない天変地異の到来にたいする不安は現実のものになっている。過日の阪神大地震が呼び覚ましたのもこのことだった。地球温暖化の直接の帰結である気象の異常は不可避である。慢性疾患からアレルギー症状まで、病態にも大きな変化が起こっている。現代の「医学モデル」はこれら新しい病には基本的に無力である。
見放された人々は個々人で、個々の場合に対処療法を求める以外にない。腰痛、交通事故などの後遺障害アトピー性の皮膚炎、ガンやエイズ、こうした運命に個々人が耐えている。自分の運命に言及してくれる「教祖」や集団を、人々は求めている。多くのオウム真理教信徒も、ちょっとした運命の変転をきっかけに入信した。
こうして、今日の大衆社会の底に膨大なオカルト予備軍が生まれている。民間医療から民間宗教にいたる集団のスタイルが発生している。スタイルを集団の言説にみるなら、素朴自然主義的で迷信じみたことがそこで交わされているだけではない。
「大物物理学者ディラックが予言した宇宙で最も小さな粒子、ビレンキン(磁気単極子)。これを特殊な磁石によって集め体内に取り入れて治癒力を高める。」こうした文句は自然食や自然医学の雑誌の広告で頻繁に読むことができる。神秘主義と科学主義が極端な形で同居することが、オカルトの特徴である。そして神秘主義と科学主義を通低するものこそ、技術の概念である。民間医療も民間宗教も、「民間技術」の流派であり集団であるのだ。
オウム真理教が偏執し、理系のエリートが従事したとされるハイテクも、かかる意味での技術だった。何かを目的とする技術や軍事でなく、むしろそれ自身が目的であった。ハイテクへの偏執の裏には、むしろテクノロジーへの根深い不信がある。理系の若者たちはこのことに気付くべきである。怪しげなヘッドギアから原子兵器の研究まで、これらはオウム真理教団もまた技術の結社であったことを証明している。
少なからずの信徒がここに集まるのも時勢である。だからといってオウム真理教団の犯罪が、ただちに現実のものとなるとは限らない。怪しげな水薬を無許可で販売する程度で済んでいたかもしれない。そうであってよかったのである。
してみれば、ハルマゲドンに勝利して千年王国を築こうとする強迫観念が、オウム真理教団の分かれ目となった。なぜなら、オカルト的な集団が過激なコミューン主義的団結に走るかどうかは、彼らが作る敵の観念次第だからだ。
かつて連合赤軍や人民寺院にしても、六〇年代の過激派の反乱に直接つながるものだった。敵の観念を過激派からひきついで、強迫観念を肥大化していったのである。 これにたいして、オウム真理教団は日本の過激派の系譜が途絶えたところで発生し、独自にコミューン主義の原理を宿していたように見える。
平和な社会ではこの現象は狂気に映る。だが、オカルトに引き寄せられかねない不安が、世紀末の若者を据えている。学生運動もなく、不安を発散させる道がない。オウム真理教団をコミューン主義に駆り立てたのも、この不安からくる無形の圧迫感であったかもしれない。オカルト的な儀式から戦争の小道具、大道具に至る道は、技術(「民間技術」)という観念の導管で自在につながっているからだ。
バーチャル・リアリティーのなかの戦争
テレビの会見などで勢ぞろいするオウム真理教の教団幹部は、独特の「希薄さ」の印象を与える。狐付きの顔でもなく、サラリーマンなどの職業人の様子でもない。まじめな若者というより、若者の抜け殻の印象である。世間を超脱した「出家」というべきかもしれないが、その出家者たちがサリンの材料と疑われる薬剤のリストを、在庫調べのような口調で報告している。
兵器であるかもしれない機械や乗り物のことを、トラックの調達かなにかのように説明している。いわゆるブツのリアリティーがそこに感じられない。出家がブツの話をするユーモアのかけらもない。犯罪者が白々しく言い抜けるのとは別の何かがここにはある。そして、幹部も信徒もみな若い。
「君たちは若いから駄目なんだ、過激派と同じだ。」大島渚が彼らに向かっていこう叫んでいた。むろん大島の論評は間違っていない。しかし、昔の若者とは違う若者の何かがそこにかいま見える。
おそらく、急速に時代が変わっており、リアリティーというものに転換が起こっているだろう。技術がすでに、ブツそのものとしての自然のリアリティーから、人間活動を疎外するものだった。そのような人間活動が文明を作った。だれがそれにしても、人間は今も自然の法則性から逃れることはできない。野を駆けた子供時代から、自然は落差があれば落下することを教えた。むろんニュートン力学の知識からではなく、落下すれば怪我をし、場合によっては命を落とす経験から学んだのである。
その後ニュートン物理学を勉強しようとしまいと、これらは実践知として人間の成長に欠かせない類の知識となる。動物の生態学的な知恵と、これは同じものである。ところが、劇画やバーチャル・リアリティーの映像では、自ら落下することなく落下を経験することが実現する。動物にとっても人類にとっても、自ら動き回り手に触れることで変容する外界が、世界のリアリティーを教えた。それが逆に、外界のほうがそれらしく変形しつつ不動の自己に迫ってくる。それが野を駆けることであり、落下することとなる。実世界では落下すれば怪我をするが、ここでは衝突の感覚がしても血を流すことはない。
落下の法則はかくて実践知のリストから削除される。バーチャル・リアリティーとはこのようなものである。格闘や戦争は自らが移動し、自らが動くことで成り立つ活動の典型である。だが、ごく幼いときからテレビの前で活動を浴びて育ったとすればどうなるか。いつも世界のほうが勝手に近づいてきて、それとの相対感覚で行動が擬似的に体験される。こうした経験が重なって今に至れば、リアリティーというものが微妙に実践知からずれてくるであろう。
戦争とて同じである。戦争はバーチャル・リアリティーのなかの戦争であり、それが戦争のリアリティーとなる。「戦争を忘れるな」と、今でも左翼良識派が繰り返している。事態はしかし、過去の戦争体験が風化したということではない。戦争はもう実践的な知識の範疇にはないのである。ハルマゲドンを語りハルマゲドンの勝利を構想することが、実践知とは別のリアリティーのレベルで行われている。
にもかかわらず、毒ガスも戦争の小道具もブツそのものであり、それらを使用すれば血が流れる。オウム真理教団の犯罪にたまげたのは世間だけではない。オウム真理教の若い幹部たち自ら、驚いてきょとんとしていた表情を見せている。彼らには自分たちのしでかしたことが理解できない。彼らの様子が独特の希薄さの印象を与えるのもこのために違いない。
バーチャル・リアリティーのなかの戦争を、本当の意味で砕いたものこそ過日の天災だった。神戸の地に現出した風景が全国の若者たちを震撼させた。年輩の者にはあれは戦災の風景と同じだった。だが若い世代にとっては、ガラス板にそれらしく動いていた戦争が天災の一撃で粉砕されたのである。そして現出したのは、文字どおりにブツとしての人間身体であり、瓦礫の町だった。実践的な知識しか役に立たない世界である。それに手で触れるために、数万の若者が全国から駆けつけてボランティアを志願した。この者たちがオウム真理教の予備軍でも有り得たのは疑えない。
世紀末の国土
今年に入って事件が相次ぎ、わが国の世紀末はにわかにそれらしく妖しげな様相を呈しはじめた。関係者の今や一致した予測によれば、世界の食糧事情の逼迫が2010年のピークに向けて進行している。地球温暖化の帰結として、異常気象のさきぶれがすでに経験されており、これが食糧事情の悪化を増幅するのは明らかである。世界の人口爆発が背後にある以上、こうした近未来は今からではもう避けることができない。
食糧と環境の悪化をめぐり、世界各地で民族の移動と衝突が多発すると予測できる。わが国の国民は食糧など輸入すればいいと高をくくっているが、幻想が破れる日は近い。人口、食糧、そして気象と重ねてみれば、これらが文明化された人類と、大文字の「自然」の接点に起こる現象であるのは明らかである。神戸の地を襲った「天災」はいうまでもない。
健康にたいする国民的な不安も、身体というミクロコスモスに生じた「自然」の反乱を反映するものである。オウム真理教団の犯罪には、自然主義的なコミューン主義共同体が内部から発するきしみ声が聞こえる。自然を離れ自然を搾り取ってきた人類が、今や「自然」の逆襲に直面している。「自然の反乱」がオウム真理教団を内部から駆り立てた力である。
自然主義的な共同体がこのように大文字の「自然」に直面したとき、それが「技術」のスタイルをとるのは不思議ではない。技術とはもともとそういうものだからだ。そして技術が、神秘主義的自然主義を地震兵器やサリンにまで追い立てた。技術の共同体の犯罪である。
大文字の自然の脅威を「現実」と呼ぶならば、技術は本来的に「バーチャル・リアリティー」の世界である。神戸の天災が若者を震撼し、日をおかず、オウム真理教の若い信者の犯罪が露呈したことには、象徴的な意味を認めねばならない。バーチャル・リアリティーの世界が「現実」へと粉砕されたのである。
レーニンではないが、同志諸君、うろたえるなと言わねばならない。うろたえているのはむろん子供たちだけではない。過日の地方選挙では「無党派層」の登場がもてはやされた。選挙運動をせずに座したままで青島氏が東京都知事に当選した。自転車で駆け回って大阪府知事となった横山氏も基本は同じである。「無党派層」が彼らを選んだと言われている。だが無党派で官僚出身でない知事候補なら、他にもいた。彼らはそれなりに金もかけ、ひとしなみに宣伝車の屋根で演説して選挙戦に参加した。青島・横山両氏はこうした政治の儀式を愚弄し、否定する形で当選したのである。
ここに起こったことは、選挙という政治の制度を否定する無政府主義である。下らない街頭選挙戦につきあってそれなりに金も使えば、時間も使う。それが今日の政治の約束ごとである。それが丸ごと否定されたのに、無党派層の登場をもてはやすとは暢気にすぎる。
無党派層や青島氏らを支持するのはいい。しかしそれなら、無政府主義を支持するのだと自覚すべきである。そうでないとしたら、言論は二枚舌であり、自己欺まんの謗りをまぬがれがたい。このような無政府主義、広くいえば「規制緩和」は、政治が自らを否定しているに等しい。規制のない社会はない。どんな規制が望ましいのか、国民の合意を組織していくのが政治である。
国民各人の言動は、今日すでに十分に、規制緩和されてしまっている。規制緩和、自然状態を前提にすればこそ、オウム真理教団のようなコミューン的団結の呼びかけに、耳をかす子供たちも生まれるのだ。
早急に総選挙を繰り返して、政党の廃虚のなかから多様な新政党が乱立する過程を踏まねばならない。無政府主義を踏み越えて何が残るのか、それに賭けるべきである。